北村さんちの遺跡めぐり
更新日2020/11/14

宝達志水町の企画展
「探検!宝達志水の古墳」


夫婦塚古墳(志賀町)

    

「探検!宝達志水の古墳」
見学報告
宝達志水町小川
埋蔵文化財センター
撮影日2020/10/6

七尾市・羽咋市・宝達志水町・中能登町が連携して企画した「能登の古墳」を見学した。

9月には、羽咋市歴史民俗資料館の夏季企画展「探検!羽咋の古墳」へ行った。
10月は、この「探検!宝達志水の古墳」だ。
宝達志水町には、埋蔵文化財センターがある。

入口の看板の写真は
  国史跡「散田金谷古墳



展示の様子をご覧ください。


床に敷かれた遺跡の航空写真

遺跡地図

   

 宿東山古墳群 宝達志水町宿


宝達山地から派生した末森山(標高136m)の西麓、
 標高約40m前後の見晴らしの良い丘陵尾根に
 築かれた古墳時代前期の古墳群

2つのまとまりに分かれ、
 東支群は前方後円墳1基、円墳2基

 西支群は前方後方墳2基、方墳3基、円墳数基
 確認されている。
 宿東山1号墳を含む東支群は、 押水バイパスの通り道になり消滅した。
 
 宿東山古墳のページ


 竹生野天皇山(タコノテンノウヤマ)古墳 宝達志水町竹生野

竹生野神明社の境内にある
 古墳時代後期の前方後円墳

同時代では能登地方で最大級の大きさ
 明治時代の調査で、ヒスイの管玉、金環、鉄刀、須恵器片などが出土している。
 
 竹生野天皇山古墳のページ

   

 河原三つ子塚古墳群 宝達志水町川原

宝達川流域の丘陵に
 10基の円墳が南北に並ぶように位置している
 中央の1〜3号墳は周りのものよりかなり大きく、
名前の由来になっている。
 河原三つ子塚古墳のページ

墳丘全体の測量図

2号墳は円筒埴輪や葺石が確認されていて、
冬野大塚古墳とほぼ同時期に築かれたと考えられている。

2号墳は、大型円墳3基の真ん中の古墳


  

 冬野大塚古墳 宝達志水町森本


前田川流域の丘陵に独立して
 築かれた大型円墳。
 発掘調査によると、斜面全体には葺石が敷き詰められていたと判明。
 また墳頂部では円筒埴輪の破片が確認されていて、
  埴輪が並べられて置かれていたと考えられている。

 冬野大塚古墳のページ

墳丘測量全体の測量図

墳丘に敷き詰められた葺石

    

 石坂鍋山古墳群 宝達志水町散田


子浦(シオ)川と向瀬(ムカセ)川の合流点にある
 尾根に立地する6基の円墳からなる。

 発掘調査により、1号墳からガラス玉、鉄刀、馬具、須恵器などが出土。
 国史跡の散田金谷古墳と同じグループに属すると考えられていて、
  志雄谷をはじめとする羽咋地域を支配した 集団の古墳群と考えられている。
 現在は史跡の古墳公園となっていて、古墳の湯や桜の名所として親しまれている。

 石坂鍋山古墳群のページ

墳丘全体の測量図

石坂鍋山1号墳出土 鐙(あぶみ)
町指定文化財

     

 散田金谷古墳(サンデンカナヤコフン) 宝達志水町散田

散田金谷古墳は、
旧志雄町の谷平野にそそぐ子浦川と向瀬川が
 合流する台地上にあり、
長径21m、短径18.5m、高さ3.5mの円墳
北陸地方では最大級に属する、
 全長10mの横穴式石室があり、
 国史跡に指定されている。
 金環・銀環、須恵器、馬具などが出土したほか、
  玄室内には、 能登では唯一の屋根に千木を載せたような形状を持つ
  特異な形態の「家形石棺」が置かれている。
 能登の古墳時代後期では、他に例のない貴重な古墳だ。
 散田金谷古墳の出土品は、町指定文化財となっている。

 散田金谷古墳のページ

散田金谷古墳石室実測図

散田金谷古墳の最初の学術調査は、
 上田三平氏によって実施されて、
 大正12年(1923)の「石川県史蹟名勝調査報告書」
に報告されている。

 その後、志雄町史編さんに伴い、金沢大学考古学研究会を主体として、
  昭和48年から49年にかけて測量調査が実施された。
 その調査成果は、「石川県志雄町史}(1974)に報告されている。

散田金谷古墳の家形石棺

長さ2.3m・幅1.1m・高さ1.27mの
 凝灰岩を用いた家形石棺

 昭和45年(1960)に

 「金谷の石棺」という名称で
 石川県有形文化財に指定されている。

散田金谷古墳の出土品
 
  

散田金谷古墳の出土品
上段 太刀・刀子、鍔
下段 銀環 鉄鏃

 

 子浦小谷屋(シオコタンニャ)横穴古墳群
 聖川寺山(ヒジリカワテラヤマ)横穴古墳群
      
宝達志水町子浦
宝達志水町聖川
 
子浦小谷屋横穴古墳群
 ・聖川寺山横穴古墳群

 6世紀後半から7世紀前半にかけて
 子浦川に面した丘陵上に
築造された横穴古墳群。

 聖川寺山横穴古墳群は、調査された12基のほかに十数基の横穴が確認されている
 子浦小谷屋横穴古墳群は、
  聖川寺山横穴古墳群から北に所在する丘陵を隔てた東側の斜面に造られていて、
  調査された15基を含む約30基の横穴が確認されている
 須恵器・土師器のほか、金環や玉類などの装飾品、刀、鉄鏃などの金属製品が出土している。

子浦川流域の古墳

聖川寺山横穴古墳群 写真
 子浦小谷屋・聖川寺山横穴古墳群出土品

銀環・金環
管玉・切子玉・勾玉


鉄鏃
   

   

    

   

子浦小谷屋6号横穴墓出土の大型甕
(いずれも企画展から)

古墳以外の遺跡の説明や出土品も展示されている。
 上田うまばち遺跡(縄文時代)出土の 土偶、土器 石器
 北川尻諏訪山遺跡(縄文時代)出土の 深鉢(町指定文化財)
 坪山かわだ遺跡(縄文時代)出土の 勾玉
 坂手山縄文遺跡(縄文時代)出土の 浅鉢(町指定文化財) 石器
 
 上田出西山遺跡(弥生時代)出土の 土器

装飾が素晴らしい土器が今浜A遺跡で出土している。

今浜A遺跡(弥生時代後期)の出土品
下段中央は、装飾器台
「透かし彫り」がある。



二口かみあれた遺跡(古墳時代前期)出土の 土器

杉野屋専光寺遺跡(奈良〜平安時代)出土の 土器や食器 瓦、燈明具

 末森城跡 宝達志水町宿・麦生・南吉田


末森山(標高138.8m)にある
 中世から近世初期の山城。


 通称「本丸」、「二の丸」、「三の丸」、「若宮丸」などと呼ばれる平坦地が
  尾根上に連続して造り出され、空堀が設けられている。
 昭和60年〜63年に発掘調査が行われ、
  越前焼や碁石など場内での生活を示す遺物と共に、合戦を物語る鉄砲玉も出土した。
 加賀・能登・越中三ヶ国の国境に近い要衝に位置するため、しばしば合戦の舞台となった。
 特に末森城の名を有名にしたのは、
  前田利家と越中の佐々成政の間で行われた天正12年(1584)の「末森合戦」で、
  加賀百万石があるのは、この戦いで勝利したことによるとされている。
 県内を代表する戦国時代の山城として、平成3年に県指定史跡になった。
 
 末森城跡のページ

末森城跡と、末森城と同じような時代の「御舘館跡」の説明もある。
「御舘館跡」は、16世紀の守護クラスの居館跡と推定されているが、城主を含め何も記録に残っていないそうだ。

紹介できなかった展示もあるので、皆様、一度、宝達志水町埋蔵文化財センターへ行ってみてください!

矢田遍照ヶ嶽夫婦塚古墳 羽咋郡志賀町印内
撮影日2020/10/6

志賀町に夫婦塚という古墳があるときいていた。
いしかわ文化財ナビで、場所がわかったので、見学に行く。

地図g

「志賀町史」に説明が書かれていたので、引用させてもらう。

山道の脇にあるが、現地はジャングルで、まともな写真は撮れなかった。
人の目で見ると、石室が確認できる。

 印内集落の北方、通称遍照ヶ嶽(標高146.7m)の頂上付近から
  南に派生した丘陵斜面(標高130m前後)に立地する。
 夫婦塚と呼ばれてきた2基の円墳は、古くから地元の人々に存在が知られていた。
 明治末ごろ発掘されて、
  直刀1、勾玉1などの副葬品が出土したといわれているが、所在は不明。
 昭和29年に学術的な調査がなされた。
 古墳に面して右側のものが1号墳、左側のものが2号墳と命名されている。
 いずれも楕円形に近い円墳で 
  築造当時は、高さは少なくとも3m以上はあったと考えられている。
 南に開口する横穴式石室がある
 石室は盗掘により著しく破壊されているが、
  玄室と羨道の明確な区別はなく、入口に近くやや幅を狭めるだけの型式と考えられている。
  間仕切り石など特別な施設も検出されていない。
 昭和29年の調査では、出土品は全くなかったが、
  石室の規模や構造は、比較的旧状をとどめていて、この構造から、
  6世紀終末ごろ〜7世紀前半の築造と推定されている。

夫婦塚図 

1号墳  長径(南北)12.2m・短径10.4mの円墳 
   現高1.3m
 石室全長5.3m
 側壁高さ1.2m 羨門部幅0.8m
  奥壁幅0.9m
2号墳  長径(南北)12m・短径10.7mの円墳
   現高1.5m
 石室全長5.8m
 側壁高さ0.82m 羨門部幅0.64m
  奥壁幅0.82m

(志賀町史から引用)


このジャングルの中に、
 石室がかなり破壊された状態で
 残っているようだ。
墳丘自体は確認できない

石材その1

石材その2

石材その3
2号墳の天井石は、
400kgの巨石が1枚使われているという。

中央が奥壁なのだが、見えない…

写真を見ても、何がなんだかわからない…。

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