北村さんちの遺跡めぐり
更新日
15/05/1

市民考古楽講座
「遺跡探訪・古墳を見つける山歩き(江沼編」
小松市埋蔵文化財センターの講座から
撮影日2015/3/24
2015/4/2
 

昨年(2014年・平成26年)3月に、
小松市埋蔵文化財センターの市民考古楽講座「古墳をみつける山歩き(能美編)」に参加したが、
今年は、「古墳をみつける山歩き(江沼編)」に参加。
今までに一度は行ったことのある古墳ばかりだったが、資料も頂いたので、その報告です。
このページは、参加した時の資料をもとに作成しています。

2015年3月24日   昨年同様、天気がよくないし、寒い。
小松市埋蔵文化センター(小松市原町ト77-8)に、9時30分集合。
埋文センターは山あいにあるので、説明を聞いている間に、雪が積もった・・・・・
樫田センター長は、予定通り見学しますと、断言してましたが・・・・
総勢19名で、小松市のバスで出発。

@ 
分校マエ山古墳群と分校チャカ山古墳群
A 
二子塚狐山古墳
B 
法皇山横穴古墳
昼食 「道の駅 ゆけむり健康村」にて     弁当持参なので、バスの中で昼食
C 
六呂瀬山古墳群  詳細は福井県の「神奈備山古墳とその系譜」のページの六呂瀬山古墳群の項をご覧ください
丸岡町 竹田水車メロディパークで トイレ休憩
D 
吸坂古墳群
E 
臼のほぞ古墳

とても寒いけど、見学の時になると、雨が小ぶりとなり、そのうちに雨がやんできたりして、
    予定通り見学を終えることができた。
4時少し前に、小松埋文まで、帰ってきた。バスの中でアンケートに記入してすぐ解散。
充実した1日を過ごした。

加賀市の地図g 
 

@ 分校マエ山古墳群と    
         分校チャカ山古墳群

加賀市分校町
(撮影日2015/3/24・4/2)


分校チャカ山古墳群とマエ山古墳群の間にある現地案内板

左・分校チャカ山古墳群
右・分校マエ山古墳群

この案内板には
チャカ山は「チハカ山」
マエ山は「カンザン前山」と書かれている

分校・松山地区の古墳群は、柴山潟の平野と那谷寺川の谷にはさまれた帯状丘陵の南半部にある。
丘陵を縁取るように、複数の古墳が存在しているが、もっとも密集する古墳群がマエ山とチャカ山。
地元住民によって、きれいに手入れされている。(当日資料から)
分校マエ山古墳群
確認のため、後日(4月2日)にもう一度見学に来たので、その時の写真も紹介する。

前回(2012/4/12)の見学時は、1号墳から西へ、8号墳まで案内板が立てられていたが、
今回はその東側の古墳にも案内板が立てられていた。


分校マエ山古墳群配置図



    (当日資料から)




  マエ山1号墳
  1号墳は全長36.7mの前方後円墳。 埋葬施設は木棺直葬。
  加賀地方の最古級の前方後円墳とされる。



マエ山1号墳実測図

 後円部はほとんど消滅。

左が1号墳   右は2号墳


昭和53年度の調査には、調査員の一員として、樫田埋文センター長も参加したそうだ。

マエ山1号墳出土品の図     (当日資料から)
棺内から、銅鏡1・管玉7・槍1・斧1・やりがんな1などが出土
銅鏡は、径16.4cm、
 「波文縁方格規矩四神鏡」といわれるもので、
  文字が書かれている。
よく似た鏡は、宿東山1号墳で出土している。


北から見たマエ山1号墳
左・前方部 右・後円部
奥は崖

後円部の右に29号墳がある。
(配置図には書かれていない)

南側の麓から見上げるマエ山1号墳
地層に筋が入っていて
  地山と盛土の区別ができる!


マエ山29号墳 
1号墳後円部のそばにある。

マエ山古墳群 
手前から3号墳、4号墳 右奥6号墳

マエ山2号墳(方墳)

マエ山2号墳 方向を変えて見る

マエ山5号墳(方墳)     4号墳から見る

マエ山6号墳(前方後円墳) 後円部

マエ山6号墳 後円部から前方部を見る

マエ山6号墳
 前方部斜め前より後円部を見る

マエ山7号墳 (方墳)

マエ山8号墳(前方後円墳) 後円部

マエ山8号墳 後円部から前方部を見る
中央奥は10号墳

マエ山8号墳
 前方部斜め前から後円部を見る

マエ山10号墳   ( 円墳 直径20m)

マエ山11号墳   (方墳 13m×13m)

マエ山12号墳   (方墳 18m×18m)

マエ山13号墳後円部
 (
全長35mの前方後円墳  後円部径28m)

10号墳の北側の斜面に並ぶ
   奥・マエ山22号墳
(方墳)
左・マエ山21号
(方墳)
    右手前・前山20号墳
(円墳)

手前に10号墳がある。
22号墳が一番低い所にある。
           
実際の古墳の配置は、配置図とちょっと違うような気もするが、・・・・
案内板のある墳丘だけ、紹介した。


分校マエ山1号墳からチャカ山古墳群を望む

中央の丘に、チャカ山古墳群がある。

分校チャカ山古墳群
東側から登り、東半分だけ見学。(時間の関係だと思う)



分校チャカ山古墳群配置図

  (当日資料から)

チャカ山17号墳

チャカ山14号墳

チャカ山10号墳

チャカ山9号墳

分校チャカ山・マエ山古墳群のページ

A 二子塚狐山古墳
     (二子塚古墳群)

加賀市二子塚町8
(撮影日2015/3/24)


加賀市教育委員会の田嶋さんという方が、
 普段は施錠されていて見学できない収蔵庫と石棺保存庫を開けて待っていてくれた。

狐山には、名前の通り、昭和6年まで狐の夫婦が住んでいたが、翌年その狐が忽然と姿を消した。
おきつねさまがいなくなったので、動橋川の改修のための土取りを始めたところ、石棺が発見された。


収蔵庫内の様子1  甲冑の複製

九谷焼の職人が、石膏で造った。

本物より分厚くなっているが、表面は本物そっくり!
県立博物館の展示用の複製を作る時は、
  本物はボロボロで参考にならず、
   この作品を元に複製を作った。 




収蔵庫内の様子2  土器類

収蔵庫内の様子3 鏡・銅鈴・管玉・勾玉など


忠魂碑

墳丘そばには忠魂碑があるが、
 その中には、出土した骨が、
 ガラスの容器に入れられて埋められている。    


姿を現した石棺

石棺内部 赤く塗られている
 二子塚狐山古墳は  全長54mの前方後円墳といわれているが
   実は63mほどあると考えられるようになってきた。
  2段築成
  土取りの際に組合式石棺が発見され、
   人骨とともに、武器や甲冑や鏡、銀製帯金具、鈴、玉類など大量の豪華副葬品が出土した。
  
5世紀後葉の築造と推定されている。
  石棺は地元の凝灰岩を使った最も古い例と考えられている。

墳丘実測図
後円部が石棺のところまで削られ、
     前方部も土が流れて変形している。

 石棺実測図と副葬品配置図
二子塚古墳群分布図
狐山古墳の東側に
 小さな前方後円墳1基の周りに
  密集する円墳群が発見されていて、
 西側にもいくつかの円墳が知られているので、
 周辺には墳丘の削られた古墳が
 相当埋もれていると考えられている。
      (100基以上か)
 この古墳は平地につくられていて、大きな労働力を必要としている。専制的な首長の誕生か?

以上、田嶋さんのお話も交えながら、狐山古墳を紹介した。
初めて石棺が見学できた!銅鈴の音色を聴かせてもらった!勾玉に触らせてもらった!
感動です!
二子塚狐山古墳のページ

B 法皇山横穴古墳

加賀市勅使町
(撮影日2015/3/24)


法皇山横穴古墳の資料館も、加賀市教育委員会の田嶋さんが鍵を開けて待っていて下さった。
 
資料館内の様子
 資料を一つだけさわれるという決まりがあって、
   今回は広口双耳壺が選ばれたが、残念ながら、写真はない。



法皇山横穴古墳群配置図


 横穴古墳は 斜面に横穴を掘って埋葬施設としたもの。
 江沼では月津台地で小規模円墳の新たな造営が停止するのと入れ替わるように、登場した。
 追葬が可能で、家族墓的な性格を持つ。
 
約80基確認されているが、実際には200基を超えると考えられている。



法皇山Aグループ全測図

Aグループの様子

Bグループの様子

横穴いろいろ


埋葬する部屋は、家をイメージした形で、
 排水溝や、棺台が作られているものもある。
全国的にも珍しい特徴として、
 小さな前室を持っていることが挙げられる。
山では墳丘を持たないので、発見はむずかしく、
 落盤や開口で確認されている




見学中も、遊歩道が陥没しそうな場所や、斜面が陥没しているところなどがあり、
    新しい横穴の発見か?と思われる場面に遭遇した。
 Dグループ21号横穴

入口

奥室

側壁の穴

奥室から外を見る



Dグループ
22号墳の内部
 Cグループ 
 Cグループの凝灰岩は大変もろいため、
    横穴も開放したままでは崩落の可能性があるので、発掘調査後封鎖した。
 封鎖方法は当時行われていた方法を再現する形で、河原石を積み上げている。
 Cグループの横穴の形は、前室がなく、アーチ形のものが多く造られている。
 年代は出土品からみると、ほかのグループよりも新しいようだ
                           (説明板から)

Cグループの保存の様子

Cグループ 塞がれた横穴

法皇山横穴古墳のページ

D 吸坂古墳群
吸坂D13号墳

加賀市吸坂
(撮影日2015/3/24)


吸坂丸山支群の北にある南郷小学校に、バスを駐車させてもらって、徒歩で吸坂イカリ山古墳群(支群)のD13号墳に向かう。


吸坂古墳群配置図

黒瀬から吸坂、南郷にかけての丘陵縁辺部に古墳群が連なる。

南郷B古墳群が分校マエ山と同じくらい古く、
    黒瀬古墳群は、後期で新しいと考えられている。
この地域の累代の墓域と考えられている。



吸坂A3号墳は全長61mの前方後方墳で、
4世紀後葉の築造と推定されている。





吸坂丸山(C)古墳群と 吸坂イカリ山(D)古墳群 拡大図

   (当日資料から)

今回の見学は図の左下の吸坂D13号墳

連続する右側の吸坂イカリ山古墳群と吸坂丸山古墳群は、
 個人所有の敷地内で庭園になっていて見学できない・・・・・。





 吸坂D13号墳全長67mの前方後円墳5世紀前葉の築造と推定されている。


吸坂D13号墳実測図
 前方部端の右(北側)にD7号墳、D8号墳が続く

江沼最大の古墳。

南側が大きく崩れ、後円部に鉄塔が建っている。

2段築成の可能性
がある。

吸坂D13号墳 前方部から後円部を見る

吸坂D13号墳 後円部から前方部を見る


吸坂D8号墳

前回来た時は、違っていたようなので撮り直し。

吸坂古墳群のページ

E 臼のほぞ古墳
三湖台古墳群

小松市串町
(撮影日2015/3/24)


月津台地では、5世紀後半の御幸塚古墳を最初に、6世紀代に爆発的に古墳群が誕生した。
総数は100基を超えると考えられていて、臼のほぞ古墳は、その中で最大の古墳と考えられている。


小松市の地図g



臼のほぞ古墳実測図

全長52mの前方後円墳


古墳の周囲を取り巻く周溝が、現在も確認できる。

くびれ部登り口の通路と、
後円部頂上の四角い高まりは、後世に盛ったもの。
 前方部を削って、後円部の四角い高まりを作ったと思われる。

もとは、前方部が後円部に近い高さだったと推定されている
前方部の発達は後期古墳の特徴。



南から見た臼のほぞ
左 前方部  右後円部

後円部側から見た臼のほぞ
この奥に前方部がある。

工場地帯となった額見町遺跡
臼のほぞ古墳の北側
  臼のほぞ古墳の北側は崖になって、工場があるが、そこは額見町遺跡だ。
  オンドルをもつ渡来系集落として全国に知られている。
 
額見町遺跡とは
  産業団地建設にともない約38000uが発掘調査され、
          
竪穴住居119基、掘立柱建物330基などが確認された。
  集落の始まりは
7世紀初めで、以後12世紀まで長きにわたって営まれた
  額見遺跡で注目すべきは、
竪穴住居に設けられた特殊な構造をもつカマド
  これはカマドの煙道を住居の壁に沿ってL字形に取り付けたもので、
           煙道を伝わる熱で住居内を暖めようとした施設と考えられている。

  中国東北部や朝鮮半島北部の竪穴住居に見られる「オンドル」と呼ばれる床暖房施設によく似ている。
  額見町遺跡の竪穴住居では23基でこの施設が見られ、いずれも7世紀代につくられたものである。
  同様の施設は、北部九州や近畿に分布していて、
      北陸では、月津台地の額見遺跡、矢田野遺跡、薬師遺跡に集中して存在する。

臼のほぞ古墳は、大本教の施設の敷地内にあるので、許可をもらってから見学してほしいとのことである。
ここは、3回目の訪問だったので、今回は額見町遺跡に注目してみました。

臼のほぞ古墳のページ



小松市埋蔵文化センターでは
「木木(モクモク)考古学」という展示をしている。

玄関入ってすぐの所には、
2015年3月27日の北陸中日新聞の記事
「小松の碧玉 弥生日本彩る」で紹介された
      碧玉の原石の展示や、八日市地方遺跡で出土した管玉の首飾りの展示がある。



八日市地方遺跡で出土した
       管玉の首飾り




新聞記事の内容 (2015/3/27 北陸中日新聞から)
 小松の碧玉 弥生日本彩る
 弥生時代に石川県小松市の菩提、那谷、滝ヶ原各町周辺で産出した緑色の鉱物「碧玉」が、
   西日本を中心に各地に流通し、装飾品の「管玉」の材料に
使われていた可能性が高いことが、
     遺物材料研究所(大阪府泉佐野市)の研究で分かってきた。
小松から関西や山陰地方に送られ製品化されたとみられ、古代日本の玉造の一大原産地としての姿が浮かぶ。

 全国各地の遺跡から出土した管玉や碧玉のうち「女代南B遺物群」と呼ばれる遺物については
     長い間産地が分からなかった。

 岩石の成分組成や含有イオンを調べる分析方法から、
     菩提周辺で採取された碧玉の一部と女代南B群の成分が一致することを発見。
約400種類に上がる全国の女代南B群以外の碧玉の成分データとも合わないため、
     「女代南B群は菩提周辺が原産地とみて間違いない」としている。

 女代南B遺物群とは・・・・・
 兵庫県豊岡市の女代神社南遺跡から出土している産地不明の
     碧玉や管玉、及び成分が一致する各地の遺跡で見つかった遺物群の総称。
 関西や山陰の遺跡を中心に全国から成分が一致する碧玉が数多く見つかっており、
     遠く北海道や九州まで広がっている。

 女代南B遺物群が検出された遺跡の一例
  茂別遺跡(北海道北斗市)  宿下遺跡(埼玉県蓮田市)  大ノ木遺跡(愛知県新城市)  
  日吉ヶ丘遺跡(京都府与謝野町)  玉津田中遺跡(神戸市)  青谷上寺地遺跡(鳥取市) 
  宇木汲田遺跡・中原遺跡(佐賀県唐津市)
  女代神社南遺跡(兵庫県豊岡市)  八日市地方遺跡(石川県小松市)   ほか多数
         (新聞記事から抜粋)


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