北村さんちの遺跡めぐり
加賀市 地図g
二子塚狐山古墳(国史跡) |
加賀市二子塚町 |
小松方面から国道8号線の加賀市津波倉町の交差点を左に曲がったところに二子塚という町がある。
一面農地となっているが、その中のこんもりした林が狐山だ。
昭和7年、土取り工事で石棺の一部が露出して調査された。
2015年の市民考古楽講座「古墳をみつける山歩き(江沼編)」資料から 二子塚狐山古墳は 全長54mの前方後円墳といわれているが、実は63mほどあると考えられるようになってきた。 2段築成 土取りの際に組合式石棺が発見され、 人骨とともに、武器や甲冑や鏡、銀製帯金具、鈴、玉類など大量の豪華副葬品が出土した。 5世紀後葉の築造と推定されている。 石棺は地元の凝灰岩を使った最も古い例と考えられている。 |
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墳丘実測図 後円部が石棺のところまで削られ、 前方部も土が流れて変形している。 |
石棺実測図と副葬品配置図 |
二子塚古墳群分布図 狐山古墳の東側に 小さな前方後円墳1基の周りに密集する円墳群が 発見されていて、 西側にもいくつかの円墳が知られているので、 周辺には墳丘の削られた古墳が 相当埋もれていると考えられている。 (100基以上か) この古墳は平地につくられていて、 大きな労働力を必要としている。 専制的な首長の誕生か? |
2002年の狐山古墳 撮影日2002/9/21
狐山古墳実測図 (パンフから)
昭和48年の調査時
点線は周溝外周端を示す
全長56mの前方後円墳 (元は63m)
後円部径30m・高さ5.5m 前方部幅25m。
周溝がある。
石棺は、厚さ15cmの凝灰岩の板石を組み合わせた箱式石棺で、
内法は、幅75cm・長さ280cm・高さ55cm
石棺の内面は、全面に朱が塗られている。
石棺の中から20個以上の歯を残した壮年男子の遺骸が副葬品とともに埋葬されていた。
画文帯神獣鏡、銀製帯金具や金銅製空玉、銅鈴、玉類、刀子、鉄鏃、冑、短甲、朱粉末約20kgなどが出土した。
出土した画文帯神獣鏡は、中国鏡で名古屋市大須二子山古墳と同じ鋳型で作られている。
5世紀後半の築造と推定されている。
昭和49年の周溝調査で、盾形の周溝があったと確認されている。
周辺には前方後円墳2基を含む37基の古墳が確認されて、二子塚古墳群と名づけられている。
(狐山古墳以外はほとんど破壊された)
狐山古墳全景 |
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石室の覆い屋 石室は傷みがひどいらしく綿に包まれて覆い屋の中に納められている。 小さな窓からは僅かに石棺の朱色が見えた。 |
訪れたのは9月21日だったが、彼岸花がもうすぐ満開になりそうだった。
後一週間ほど後だったら、とってもきれいだっただろう。最近は彼岸花の名所としても有名らしい。
2013年の狐山古墳 撮影日2013/10/21
大江戸温泉物語「山下家」の帰り道。いい天気なので、ちょっと寄ってみた。
南から見た狐山古墳 |
北から見た狐山古墳 |
北東から見た墳丘 右手前が前方部 |
覆い屋の中の石棺は、これだけしか見えない |
2015年の二子塚狐山古墳 撮影日2015/3/24
市民考古楽講座「古墳をみつける山歩き(江沼編)」に参加。
加賀市教育委員会の田嶋さんという方が、
普段は施錠されていて見学できない収蔵庫と石棺保存庫を開けて待っていてくれた。
狐山には、名前の通り、昭和6年まで狐の夫婦が住んでいたが、翌年その狐が忽然と姿を消した。
おきつねさまがいなくなったので、動橋川の改修のための土取りを始めたところ、石棺が発見された。
収蔵庫内の様子1 甲冑の複製 九谷焼の職人が、石膏で造った。 本物より分厚くなっているが、表面は本物そっくり! 県立博物館の展示用の複製を作る時は、 本物はボロボロで参考にならず、 この作品を元に複製を作った。 |
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収蔵庫内の様子2 土器類 |
収蔵庫内の様子3 鏡・銅鈴・管玉・勾玉など |
忠魂碑 墳丘そばには忠魂碑があるが、その中には、 出土した骨が、ガラスの容器に入れられて埋められている。 |
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姿を現した石棺 |
石棺内部 赤く塗られている |
2016年の二子塚狐山古墳 撮影日2016/9/22
以前、この狐山古墳に行ったとき、彼岸花がきれいだったので、時期的にちょうどいいなと思い訪れてみる。
コスプレ(卑弥呼?)での撮影会をしている二人連れの先客があり、思ったように写真が撮れなかった・・・・。
彼岸花は咲いているが、それほどでもない。
後円部脇から前方部を見る |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
前方部前面 右奥に後円部がある。 |
天気が悪くて、写真が暗い・・・。
おまけ・・・・・・
手塚屋敷跡
狐山古墳の北約800mにある。
墓地となっているが、古墳のような高まり?!
撮影日2013/10/21