北村さんちの遺跡めぐり

小松市  地図g 

臼のほぞ古墳
うすのほぞこふん

(三湖台古墳群)

小松市串町字臼の臍1番地
(撮影日2005/10/9
2012/3/8
2015/3/24)

大本教の公園になっている。「牛のほぞ」といわれていたこともあった。

臼のほぞ古墳実測図
全長約52mの前方後円墳
後円部径約29m・くびれ部幅約19m
前方部長約26m・前方部前端幅約29m
周溝は幅7〜8m
4ヶ所の渡り土堤がある。(水色の部分)
後円部の方形の盛り上がりは一辺9〜10m・高さ2.2mで、戦後に四角く盛土されたらしい。
元は穴があいていて、戦時中は戦闘の訓練に使われた。


前方部にも一辺7〜8m高さ約0.4mの盛り上がりがあるが、これは三角点設置にかかわるものと考えられる。

月津台地の一番高いところに築かれている。
5世紀後半の築造とみるか6世紀の築造とみるか特定できていない。


周辺が土取りをされていく中で、臼のほぞ古墳は現在の所有者の宗教法人大本教が、
古墳の存在を認識して、この場所を聖地としたため奇跡的に残った古墳といえる。

臼のほぞに続く小道

   2005年10月
        撮影日2005/10/9

   2012年3月       撮影日2012/3/8
石碑が目印 入口の石碑は「前方後圓墳臼の」のあたりで地面に埋もれている。


臼のほぞ古墳全景 東南側から見る。
左前方部 右後円部

前方部の手前には周溝のような窪みが残っている。

古墳の向こう側は削られて崖となる。
撮影日2012/3/8


臼のほぞ後円部
  前方部から見る
ずいぶん昔から後円部には大きな穴があいていて、
それが臼のほぞという名称のもとになっている。
戦時中は戦闘の訓練に使われた。
今現在の方形の盛り上がりは一辺9〜10m・高さ2.2mで、
戦後に四角く盛土されたらしい。
     撮影日2012/3/8
 


  臼のほぞ前方部 後円部から見る
         撮影日2012/3/8

  臼のほぞ前方部の四角い土壇 (三角点)
         撮影日2005/10/9
前方部にも一辺7〜8m高さ約0.4mの盛り上がりがあるが、これは三角点設置にかかわるものと考えられる。
前方部先端近くにある石碑には「前方後円式大古墳」と刻まれている。

   

2015年の臼のほぞ古墳 撮影日2015/3/24

市民考古楽講座「古墳をみつける山歩き(江沼編)」に参加。

月津台地では、5世紀後半の御幸塚古墳を最初に、6世紀代に爆発的に古墳群が誕生した。
総数は100基を超えると考えられていて、臼のほぞ古墳は、その中で最大の古墳と考えられている。


臼のほぞ古墳実測図

全長52mの前方後円墳


古墳の周囲を取り巻く周溝が、現在も確認できる。

くびれ部登り口の通路と、
後円部頂上の四角い高まりは、後世に盛ったもの。
 前方部を削って、後円部の四角い高まりを作ったと思われる。

もとは、前方部が後円部に近い高さだったと推定されている
前方部の発達は後期古墳の特徴。



南から見た臼のほぞ
左 前方部  右後円部

後円部側から見た臼のほぞ
この奥に前方部がある。

工場地帯となった額見町遺跡
臼のほぞ古墳の北側
  臼のほぞ古墳の北側は崖になって、工場があるが、そこは額見町遺跡だ。
  オンドルをもつ渡来系集落として全国に知られている。
 
額見町遺跡とは
  産業団地建設にともない約38000uが発掘調査され、
          
竪穴住居119基、掘立柱建物330基などが確認された。
  集落の始まりは
7世紀初めで、以後12世紀まで長きにわたって営まれた
  額見遺跡で注目すべきは、
竪穴住居に設けられた特殊な構造をもつカマド
  これはカマドの煙道を住居の壁に沿ってL字形に取り付けたもので、
           煙道を伝わる熱で住居内を暖めようとした施設と考えられている。

  中国東北部や朝鮮半島北部の竪穴住居に見られる「オンドル」と呼ばれる床暖房施設によく似ている。
  額見町遺跡の竪穴住居では23基でこの施設が見られ、いずれも7世紀代につくられたものである。
  同様の施設は、北部九州や近畿に分布していて、
      北陸では、月津台地の額見遺跡、矢田野遺跡、薬師遺跡に集中して存在する。

臼のほぞ古墳は、大本教の施設の敷地内にあるので、許可をもらってから見学してほしいとのことである。

加賀の遺跡のトップ

トップページへ