北村さんちの遺跡めぐり

 加賀市 地図g  

分校古墳群
ブンギョウコフングン

加賀市分校町
撮影日2004/4/30
2005/4/10
2007/4/26)

小松方向から国道8号線で吸坂古墳群へ行く途中、分校町という集落を通る。
このあたりには分校古墳群がある。

分校古墳群地図

分校古墳群データ

分校カン山古墳群 前方後円墳4基を含む約30基
分校チハカ山古墳群 計18基
分校西麓古墳群 円墳3基
松山古墳群 円墳5基
松山東古墳群 方墳4基
分校古墳群 円墳7基
分校ブドウ山古墳  
分校高山古墳 前方後円墳 全長36m 消滅 5世紀後半
分校山王古墳群 円墳2基 消滅 6世紀後葉




    

分校チャカ山古墳群
(分校古墳群)
撮影日2004/4/30
2005/4/10
2007/4/26
2015/3/24

     

2004年4月30日の
分校チャカ山古墳群
撮影日2004/4/30

分校高山古墳・分校山王古墳を探したが見つからず、あきらめて国道に戻ったときに国道の南側の山頂付近に古墳らしい小山を発見。
そこが分校古墳群の中の分校チハカ山古墳群だった。初めて見る分校古墳群の姿に感動。
民家の裏から山に登ってみる。
10基余りの古墳(10〜25m
がずらっと並んでいる。
そこで木を切っているおじさんに尋ねたところ、いずれは遊歩道をつけて整備するという。
整備できたらゆっくりと見に行きたい。

分校チャカ山古墳群イロイロ


9号墳 径20m 高さ6m

12号墳 径24m 高さ4m

9号墳頂より12号墳を望む

方墳

2005年4月10日現在、チャーカ山古墳群は、まだ整備中でした。

2005年4月10日の分校チャカ山古墳群 2005/4/10

2005年4月10日、福井県三国へ古墳めぐりに行った帰りに、チャカ山古墳群の説明板を見つける


見つけた案内板


加賀クレー射撃場近くの池のそばに建っている。
案内板のナンバーがAなので、他にも案内板があると思われる。



説明文の内容は

チャーカ山古墳群は、分校古墳群の中では東方約200mにあるカンザン前山古墳群に準ずる古墳群で、
 前山と同じく独立した丘陵の尾根上に方墳・円墳が18基存在する。
全て未発掘で細かいことは不明だが、
高さ4m・直径20m以上の比較的大型の円墳が4基ある。
5世紀後半頃の築造と考えられている。
又この古墳群に連続してチャカ山西麓支群(3基)、松山古墳群(5基)があり、
分校古墳群は、丘陵の尾根に沿って、東方から西方へと移行して築造された。

調査報告書によれば、
この古墳の築造年代は5世紀後半ごろと推定され、
マエ山の前方後円墳(3基)が4世紀代に古代江沼の全地域を支配した広域大首長墓とすれば、
チャカ山古墳の築造時期には既に大首長墓は南郷地域圏の族長へと移行しており、
その後にこの近辺を支配した小首長や同族の古墳群とされている。

チャーカ山とは血墓山がなまったものと考えられている。
中世、戦場となり多くの血が流れたところから、この名前がついたと考えられている。

2007年4月26日の分校チャカ山古墳群 撮影日2007/4/26

2007/4/19付の北陸中日新聞にこんな記事が掲載された。

血墓山(チハカヤマ)古墳群の紹介看板を設置
(石川県加賀市・分校の保存会)
加賀市分校町の血墓山古墳群が「里山植生観察園」として活用されることになり、五年がかりで古墳群周辺を整備してきた分校地区史跡保存会のメンバーらが18日、古墳の場所などを示した看板を設置した。
 看板の表側には「チハカ山古墳と里山植生観察園」と書かれ、裏側には前方後円墳や円墳、方墳の位置がわかる地図を示した。
 加賀市教委の調査などで、古墳群は5世紀前半に豪族が造ったとされる。
長年の放置で荒れ放題になっていた史跡を守ろうと、2002年に地元有志が保存会をつくり、間伐や遊歩道の整備、桜の植樹などに取り組んできた。
 保存会の新家さんは「この場所を多くの人に見てもらうことが、史跡の保存につながっていく」と期待している。
 保存会は植物の採取、ゴミのポイ捨てなど自然を荒らす行為を禁止する看板も設置し、訪れる人にマナー順守を呼びかけている。

この記事を見てさっそくチハカ山古墳群を見に行ってきた。

国道8号線から墳丘が見えている。
案内板は大池の前に立つ。

チハカ山古墳群の案内板・表(道路側)
チハカ山古墳群の案内板・裏

チハカ山古墳群は分校古墳群の中では、東方200mにあるカンザン前山古墳群に準ずる古墳群で、
独立した丘陵の尾根上に方・円墳ばかり18基の古墳が確認されている。
すべて未発掘で詳細は不明。
直径20m以上の比較的大きな円墳が4基含まれている。

分校チャカ山古墳群登り口
上は18号墳

2012年4月 登り口には杖が準備されている。



分校チャカ山古墳群配置図

古墳の上に形と大きさを表す看板が建つ。

分校チャカ山古墳

1号墳

墳頂に三角点がある。
円墳 直径20m・高さ4m
2号墳
円墳 直径23m・高さ7m
3号墳 方墳 一辺10.5m・高さ2〜3m
4号墳 円墳 直径9m・高さ3m
5号墳 方墳 一辺11m・高さ2m
6号墳
円墳 直径12.5m・高さ2m
7号墳
方墳 一辺12.5m・高さ1m
8号墳
円墳 直径16.5m・高さ4m
9号墳
円墳 直径22m・高さ4m
10号墳
円墳 直径25m・高さ4m
11号墳 方墳 一辺10m・高さ2m
12号墳 方墳 一辺12.5m・高さ2m
13号墳 円墳 直径9m・高さ1m
14号墳 円墳 直径16.5m・高さ4m
15号墳 円墳 直径13m・高さ1m
16号墳 円墳 直径10m・高さ1m
17号墳 方墳 一辺13m・高さ3m
18号墳 方墳 一辺8.5m・高さ2m

分校地区史跡保存会というものがつくられ、地元の人たちが守る史跡公園だ。
「笹ユリ」の群生地としても、大事に守っていってほしいと思う。
すばらしい!

2007年6月14日の北陸中日新聞に、チハカ山古墳群の「ササユリ」が満開という記事が載った。
大事な群生地。絶対に盗採取しないようにしてほしい!

分校古墳群のチハカ山古墳を北から見る。
撮影日2012/3/
尾根上に、ポコンポコンと古墳が見える。





2015年3月24日の分校チャカ山古墳群 撮影日2015/3/24

市民考古楽講座「古墳をみつける山歩き(江沼編)」に参加。


分校チャカ山古墳群配置図


      (当日資料から)

チャカ山17号墳

チャカ山14号墳

チャカ山10号墳

チャカ山9号墳

    

マエ山古墳群
カン山 または カンザン前山古墳群ともいう
(分校古墳群)

加賀市分校町
撮影日2007/4/26
2012/4/12
2015/3/24・4/2

チハカ山古墳群の東の丘陵にある古墳群。
前方後円墳4基を含む約30基が確認されている。
分校古墳群では一番先に作られた古墳群。

2007年4月26日の分校マエ山古墳群 撮影日2007/4/26

こちらは整備されていない。

チャカ山登り口付近から
マエ山古墳群を見る

頂上が1号墳。
崖になっていて、半分が破壊されている。
手前の池は大池。
昭和46年、1号墳が土取りのため、破壊されそうになり、大聖寺高校郷土研究部が発掘、
昭和53年市教育委員会が再調査。

カン山1号墳は全長36.7mの前方後円墳
加賀地方の最古級の前方後円墳とされる。
埋葬施設は木棺直葬。
棺内から、銅鏡1・管玉7・槍1・斧1・やりがんな1などが出土
銅鏡は、径16.4cmで「波文縁方格規矩四神鏡」といわれるもので、文字が書かれている。
よく似た鏡は、宿東山1号墳で出土している。宿東山1号墳のページ

分校カン山古墳群配置図

6号墳は、全長35mの前方後円墳
8号墳は 全長32mの前方後円墳
13号墳、全長?mの前方後円墳 
   

2012年4月12日の分校マエ山古墳群 撮影日2012/4/12

2012年3月、カン山古墳群のあたりを見ると、何やら遊歩道ができているように見える・・・・・・。


分校カン山古墳群を北側から見る。

 
遊歩道と、墳丘が見える。
白いのは説明板か?

撮影日2012/3/8

1ヶ月後。花見も兼ねて、分校カン山古墳群にやって来た。

名称が「カンザン」「マエ山」「カン山」「カンザン前山」などいろいろで案内板も統一されていないようだ。
ここでは「カン山」と記す。

カン山のふもとで農作業をしている男性に尋ねたところ、3年ほど前に整備したそうである。
気が付かなかった・・・。


大池の前にある案内板




カン山古墳群は、チハカ山古墳群の東の丘陵にある古墳群。
前方後円墳4基を含む約30基が確認されている。
分校古墳群では一番先に作られた古墳群と考えられている。

チハカ山登り口付近から カン山古墳群を見る



茶色い崖の上が1号墳で、半分が破壊されている。
手前の池は大池。

桜もほぼ満開。
 


カン山古墳群登り口
「前山風土記の杜」という碑が立っている。

1号墳の南側の崖から少し東にある。

「登山口」とも書かれていて、かなりきつい上り坂だ。

カン山頂上にある8号墳は、標高約50m。

 

分校カン山古墳群配置図

現在、1〜8号墳あたりまでが整備されている。

各墳丘に、古墳番号と形と大きさが書かれた立て札が立てられている。

  

 1号墳   前方後円墳  全長36.7m・後円部高さ5m

  1号墳 手前前方部 右奥後円部

  1号墳 後円部横から前方部を見る


上の写真の向こうは崖

1号墳は、
ほとんど消滅しているといっても間違いはない。
  1号墳は、
  昭和46年、土取りのため、破壊されそうになり、大聖寺高校郷土研究部が発掘、
  昭和53年市教育委員会が再調査した。

  加賀地方の最古級の前方後円墳とされている。
  埋葬施設は木棺直葬
  棺内から、銅鏡1・管玉7・槍1・斧1・やりがんな1などが出土
  銅鏡は、径16.4cmで「波文縁方格規矩四神鏡」といわれるもので、文字が書かれている。
  よく似た鏡は、宿東山1号墳で出土している。   宿東山1号墳のページ 

  軸長37m・後円部高さ5mの前方後円墳(跡)・・・現地立て札には、このように書かれている。

  2号墳  方墳  13.2m×15.4m・高さ2.1m
  
  3号墳  方墳  13.2×6m・高さ1.5m   


 手前が3号墳
    その奥が2号墳 そのまた奥が1号墳  
  4号墳   方墳  11.8×13.2m・高さ2.3m  
  
  5号墳   15.5×16.3m・高さ4.7m  方墳
  
  6号墳  前方後円墳  軸長35m・後円部高さ4.5m    

6号墳

左奥が前方部 

前方部は低くて、
見ただけでは
よくわからなかった。


  6号墳後円部から前方部を見る

  6号墳前方部脇から後円部を見る
 7号墳   円墳  径10.8m・高さ0.8m   

墳丘は低い。  
 8号墳   前方後円墳  軸長32m・高さ4m    


8号墳
左・前方部  右・後円部 


 8号墳 後円部から前方部を見る

 8号墳 前方部から後円部を見る
9号墳?
 
8号墳の東にある大きな円墳だが、
   まだ立て札が設置されていない。

これより東はまだ整備がされていない。


カン山古墳群を北麓から見上げる。

左側 8号墳ー右側 1号墳




「分校地区史跡保存会」は、数人で発足したが、現在は50人以上の会員がいるそうだ。
これからの活躍、ますます期待いたします。

2015年3月24日の分校マエ山古墳群 撮影日2015/3/24・4/2

市民考古楽講座「古墳をみつける山歩き(江沼編)」に参加。(2015/3/24)
確認のため、後日(4月2日)にもう一度見学に来たので、その時の写真も紹介する。

前回(2012/4/12)の見学時は、1号墳から西へ、8号墳まで案内板が立てられていたが、
今回はその東側の古墳にも案内板が立てられていた



分校マエ山古墳群配置図



    (当日資料から)




  マエ山1号墳
  1号墳は全長36.7mの前方後円墳。 埋葬施設は木棺直葬。
  加賀地方の最古級の前方後円墳とされる。


マエ山1号墳実測図
 後円部はほとんど消滅。

左が1号墳   右は2号墳


昭和53年度の調査には、調査員の一員として、樫田埋文センター長も参加したそうだ。

マエ山1号墳出土品の図     (当日資料から)

棺内から、銅鏡1・管玉7・槍1・斧1・やりがんな1などが出土
銅鏡は、径16.4cm、
 「波文縁方格規矩四神鏡」といわれるもので、文字が書かれている。

よく似た鏡は、宿東山1号墳で出土している。


北から見たマエ山1号墳
左・前方部 右・後円部
奥は崖


後円部の右に29号墳がある。
(配置図には書かれていない)

南側の麓から見上げるマエ山1号墳

地層に筋が入っていて
  地山と盛土の区別ができる!


マエ山29号墳 
1号墳後円部のそばにある。

マエ山古墳群 
手前から3号墳、4号墳 右奥6号墳

マエ山2号墳(方墳)

マエ山2号墳 方向を変えて見る

マエ山5号墳(方墳)     4号墳から見る

マエ山6号墳(前方後円墳) 後円部

マエ山6号墳 後円部から前方部を見る

マエ山6号墳
 前方部斜め前より後円部を見る

マエ山7号墳 (方墳)

マエ山8号墳(前方後円墳) 後円部

マエ山8号墳 後円部から前方部を見る
中央奥は10号墳

マエ山8号墳
 前方部斜め前から後円部を見る

マエ山10号墳   ( 円墳 直径20m)

マエ山11号墳   (方墳 13m×13m)

マエ山12号墳   (方墳 18m×18m)

マエ山13号墳後円部
 (
全長35mの前方後円墳  後円部径28m)

10号墳の北側の斜面に並ぶ
   奥・マエ山22号墳
(方墳)
左・マエ山21号
(方墳)
    右手前・前山20号墳
(円墳)

手前に10号墳がある。
22号墳が一番低い所にある。
           

実際の古墳の配置は、配置図とちょっと違うような気もするが、・・・・
案内板のある墳丘だけ、紹介した。


分校マエ山1号墳からチャカ山古墳群を望む

中央の丘に、チャカ山古墳群がある。




加賀市分校地区には、
分校高山古墳・分校山王古墳もあったが、消滅している。

分校高山古墳
(分校古墳群)

加賀市分校町
(撮影日2007/4/26)

全長36mの前方後円墳。埋葬施設は木棺直葬。
大正5(1916)年、土砂採掘中に発見。消滅。
銅鏡片(内行花文鏡)・勾玉2・管玉27・ガラス小玉24・切子玉1が出土した。
太身管玉や大粒濃紺色のガラス玉や切子玉などから
5世紀後半の築造と推定されている。

分校山王古墳群
(分校古墳群)

加賀市分校町
(撮影日2007/4/26)

昭和36(1961)年、開田の前に発掘された。消滅。
円墳2基。割石を敷いた長方形の礫床上から、
直刀1・鉄鏃14・刀子3・ガラス小玉9・須恵器20・土師器2が出土。
6世紀後葉の築造と推定されている。

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