北村さんちの遺跡めぐり
更新日2012/5/5
加賀へ | 訪問日 2012/3/8 2012/4/12 |
以前行った加賀の遺跡の写真の撮り直しに行こうと出かける。
もちろん新しい遺跡もありますよ!
冨田少彦名神社の石祠 |
能美郡川北町橘新324 |
図書館にある「ふるさと石川の遺跡」という本に載っていた。
冨田少彦名神社
冨田村は、度重なる手取川の洪水により荒廃したが、
20年かけて耕地を復旧し、1581年に神社も新築された。
境内に保存してある石祠は御神体を入れてあったものと云い伝えられている。
(神社の由来から)
冨田少彦名神社の石祠
しっかり周りを保護されていて、よく見えない。
軒裏垂木が2段になっている『二軒(ふたのき)』という桃山時代の建築様式。
長押に刻まれた松竹梅も、大胆な画風が主流だった桃山時代の名残を残している。
昭和54年の調査でこの二軒祠は関ヶ原合戦の1600年ころ作られたものと推定され、言い伝えが史実だと証明された。
桃山時代の名残をとどめている二軒は全国でも数少なく、県内では最初の発見であり、貴重な存在と鑑定された。
矢田野エジリ古墳 |
小松市春日町 |
現在は説明板だけがある。跡地付近は春日会館(集会所)や公園となっている。
矢田野エジリ古墳跡地
説明板が見えている。
三湖台古墳群のひとつである矢田野エジリ古墳は、
全長30mの前方後円墳。6世紀前半の築造と推定されている。
1988年の発掘調査の時には、すでに墳丘・埋葬施設ともに削平されていたが、
周溝が残っていて、周溝から人物・馬を含む大量の埴輪が発見された。
埴輪はすべて破片の状態で出土し、総数7000点を越える。
現在の地表の1m下には周溝が残されている。(説明板から)
出土した埴輪(説明板から)
出土した埴輪を接合した結果、
人物埴輪11・馬形埴輪2・円筒埴輪15・朝顔形埴輪2が
ほぼ完全な形で復元された。
矢田野エジリ古墳出土の埴輪は、埴輪としては珍しい須惠質焼成という特徴を持ち、
製作技術の面においても特色ある技法が駆使されている。
平成9年、破片を含む全出土埴輪が一括で国の重要文化財に指定された。
臼のほぞ古墳・再訪 |
小松市串町字臼の臍1番地 |
大本教の公園になっている。公園の整理をする男性以外はだれもいない。
「牛のほぞ」といわれていたこともあった。
周辺が土取りをされていく中で、臼のほぞ古墳は現在の所有者の宗教法人大本教が、
古墳の存在を認識して、この場所を聖地としたため奇跡的に残った古墳といえる。
臼のほぞに続く小道 | |
2005年10月 |
2012年3月 |
石碑が目印 入口の石碑は「前方後圓墳臼の」のあたりで地面に埋もれている。 |
臼のほぞ古墳全景 南側から見る。
左前方部 右後円部
前方部の手前には周溝のような窪みが残っている。
古墳の向こう側は削られて崖となる。
臼のほぞ後円部
前方部から見る
後円部の方形の盛り上がりは一辺9〜10m・高さ2.2mで、
戦後に四角く盛土されたらしい。
元は穴があいていて、戦時中は戦闘の訓練に使われた。
臼のほぞ前方部 後円部から見る
前方部にも一辺7〜8m高さ約0.4mの盛り上がりがあるが、
これは三角点設置にかかわるものと考えられる。
前方部先端近くにある石碑には「前方後円式大古墳」と刻まれている。
臼のほぞ古墳は 全長約52mの前方後円墳。
後円部径約29m・くびれ部幅約19m 前方部長約26m・前方部前端幅約29m
周溝は幅7〜8m
4ヶ所の渡り土堤がある。
月津台地の一番高いところに築かれている。
5世紀後半の築造とみるか6世紀の築造とみるか特定できていない。
満留山古墳・再訪 |
小松市矢田新町 |
3回目の訪問。
矢田新満留山古墳のページも合わせてご覧ください。
満留山神社鳥居
墳丘は鳥居をくぐった階段の上にある。
直径30m・高さ5m・周囲80mの円墳
高松古墳(?)の造りと同じとされている。
(説明板から)
満留山古墳墳丘
満留山神社は古墳の上に建つ
墳裾は削られ、主体部は破壊されている。
墳頂の小さな社殿の横に
2040年発掘予定のタイムカプセルが埋められている。
満留山古墳の墳丘にある石材
石室の石か?
墳裾にも石がころがっている。
横穴式石室に家形石棺が安置されていて、
子持勾玉が出土したという。
満留山古墳組合式石棺の石材か? 墳頂に飾られている。キレイに整形された一枚岩だが・・・・ |
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2005年には きれいな石材があったが… |
今回(2012年3月)、 割れてしまっている・・・・ |
大事な文化財が・・・・・ 泣きたい気分です・・・・・・。 |
吸坂古墳群・再訪 |
加賀市黒瀬町 |
いずれは公園として整備されるという「吸坂古墳群」だが・・・・前回の2004年からあまり変わっていない。
吸坂古墳群のページも合わせてご覧ください。
吸坂・南郷・黒瀬古墳群配置図
吸坂D3号墳 |
お城のようなお菓子屋さんの別荘の中にある。 ガードが固くて写真撮るのも一苦労 いくつか古墳が並んでいる。 この別荘の中に、 いくつもの古墳が取り込まれているようだが、 なかなか見れない。 |
吸坂D13号墳 全長67mの前方後円墳 後円部径40m 前方部28m 後円部頂は鉄塔が立つ。 |
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吸坂D13号墳 前方部から後円部を見る |
吸坂D13号墳 後円部から前方部を見る |
吸坂D13号墳の前方部の北側にある二つの方墳 D7号墳・D8号墳 | |
吸坂D7号墳 D13号墳のすぐ北にある。 墳丘がはっきりしない。 |
吸坂D8号墳 D7号墳の北にある。 墳丘がはっきりしている。 |
吸坂A古墳群 吸坂A古墳群に行ってみようと、脇道に入り山を登ってみる。 そこには水道施設があり、その東側に半分になったA2号墳が残っている。 水道施設を乗り越え西側に行くとA3号墳の墳丘が残っていた! 雑木に加えて、竹が繁茂しはじめていて、写真を撮るのは難しいが、きれいな墳丘が残っている。 |
A2号墳 半壊した円墳 |
吸坂A3号墳 後方部 横長の立派な後方部を見ることができる。 全長61mの前方後方墳 後方部26.3m・前方部23m |
今日はこれで終わりにしようと、帰り道、分校古墳群のあたりを通る。
チハカ山古墳群は前から整備されている。
分校古墳群のチハカ山古墳を北から見る。
尾根上に、ポコンポコンと古墳が見える。
チハカ古墳群については
分校古墳群のページをご覧ください
チハカ山の東側のカン山古墳群の前方後円墳を見たいと何度か挑戦していたが、上り口がわからず断念していた。
ところが、カン山古墳群のあたりを見ると、何やら遊歩道ができているように見える・・・・・・。
分校カン山古墳群を北側から見る。
遊歩道と、墳丘が見える。
白いのは説明板か?
今度はカン山古墳を見学だ・・・・・。
1ヶ月後。花見も兼ねて、分校カン山古墳群にやって来た。
カン山(カンザン前山)古墳群 |
加賀市分校町 |
名称が「カンザン」「前山」「カン山」「カンザン前山」などいろいろで案内板も統一されていないようだ。
ここでは「カン山」と記す。
カン山のふもとで農作業をしている男性に尋ねたところ、3年ほど前に整備したそうである。
気が付かなかった・・・。
大池の前にある案内板
カン山古墳群は、チハカ山古墳群の東の丘陵にある古墳群。
前方後円墳4基を含む約30基が確認されている。
分校古墳群では一番先に作られた古墳群と考えられている。
チハカ山登り口付近から カン山古墳群を見る
茶色い崖の上が1号墳で、半分が破壊されている。
手前の池は大池。
桜もほぼ満開。
カン山古墳群登り口
「前山風土記の杜」という碑が立っている。
1号墳の南側の崖から少し東にある。
「登山口」とも書かれていて、かなりきつい上り坂だ。
カン山頂上にある8号墳は、標高約50m。
分校カン山古墳群配置図
現在、1〜8号墳あたりまでが整備されている。
各墳丘に、古墳番号と形と大きさが書かれた立て札が立てられている。
1号墳 前方後円墳 全長36.7m・後円部高さ5m
昭和46年、土取りのため、破壊されそうになり、大聖寺高校郷土研究部が発掘、 昭和53年市教育委員会が再調査した。 加賀地方の最古級の前方後円墳とされている。 |
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2号墳 方墳 13.2m×15.4m・高さ2.1m |
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3号墳 方墳 13.2×6m・高さ1.5m 手前が3号墳 その奥が2号墳 そのまた奥が1号墳 |
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4号墳 方墳 11.8×13.2m・高さ2.3m |
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5号墳 15.5×16.3m・高さ4.7m 方墳 |
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6号墳 前方後円墳 軸長35m・後円部高さ4.5m
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7号墳 円墳 径10.8m・高さ0.8m 墳丘は低い。 |
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8号墳 前方後円墳 軸長32m・高さ4m
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9号墳? 8号墳の東にある大きな円墳だが、 まだ立て札が設置されていない。 |
これより東はまだ整備がされていない。
カン山古墳群を北麓から見上げる。
左側 8号墳ー右側 1号墳
「分校地区史跡保存会」は、数人で発足したが、現在は50人以上の会員がいるそうだ。
これからの活躍、ますます期待いたします。
河田山古墳公園・再訪 |
小松市河田山国府台1-5 |
ここには何度も来ている。
河田山古墳群は前方後方墳2基、前方後円墳2基、方墳が35基、円墳が21基、不明2基の計62基の古墳が確認されている。
古墳時代の前期(4世紀)から終末期にかけて築造されたと推定されている。
そのうち9基が保存された。
1・2・4・5・9・12号墳は保存(2・4・5号墳は台地縁部に残っているようだ。)
公園案内図
公園内には、
河田山古墳群の中でも最初に造られたグループに属する1号墳(前方後方墳)と
終末期に属する切石積横穴式石室を持つ9号墳と12号墳(移築)が保存されている。
資料館内では34号墳の石室が復元されている。
資料館の職員の方が、「今日は天気がいいので、12号墳の石室の扉を開けました。」と
おっしゃったので、急いで見に行く。
石室の中にはいるのは初めてだ。
河田山12号墳 移築して復元された古墳。 1辺15mの方墳。 墳丘後ろ側にコの字状の周濠をめぐらし、前面は墳丘を囲むように外護列石が設けられている。 7世紀中頃の築造 凝灰岩製切石積横穴式石室は 羨道をとおり羨門をくぐると小さな前室があり、前室と玄門をへだてた奥が玄室となる。 玄室は奥行き5m、幅2.25m |
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12号墳 墳丘 |
12号墳 石室入口 羨道をとおり羨門をくぐると小さな前室がある。 |
12号墳 石室内部 両側の柱は玄門 柱の手前が前室 奥が玄室 |
12号墳 玄室から入口を見る。 側壁の3段目の石がカーブを描いて 整形されている。 アーチ型の天井があったのだろうと推測できる。 |
河田山1号墳 河田山12号墳の隣りの尾根に現状保存された前方後方墳。 全長約25m、前方部約14m、後方部約15m。 前方部が三味線の撥形に開く前期古墳の特徴を持つ。 |
河田山1号墳 墳丘の上に立っても、 古墳の形を思い描くのは、なかなかむずかしい。 |
1号墳のそばの斜面に
横穴式石室を持つ9号墳が保存されているというが、墳丘の確認はむずかしい。
とても横穴式石室があるとは思えない。 (ムムム・・・・)
荒屋古墳群・再訪 |
辰口町松が岡 |
荒屋古墳群は地図で見ると、下開発茶臼山の隣という位置にある。
荒屋古墳群は、能美平野を望む標高47m前後の辰口丘陵上に分布している。
昭和62年に、土地区画整理事業に伴い発掘調査が行われ、
A支群では径26mの8号墳を最大として、8基の円墳6基の方墳の計14基が、
B支群では 古墳時代後半(5世紀後半)の径10m前後の円墳8基と、弥生時代後期(3世紀後半)の住居跡などが確認されたが、
区画整理事業に伴い記録保存調査が実施され消滅(住宅地となる)したが、
A支群は史跡公園として保存されている。
荒屋古墳公園配置図
荒屋古墳群A支群が保存されている。
一般の地図では「松が岡2号公園」と名付けられている。
A支群は、丘陵頂部の平坦部に方墳と円墳がコの字状に配置され築かれている。
円墳の周溝から須恵器、土師器が出土、
その特徴から5世紀後半〜6世紀前半の築造と推定されている。
一方、方墳群は出土遺物は無いが、
墳形から古墳時代前期の4世紀代の築造と推定されている。
方墳が集中する古墳群は市内でも荒屋古墳群のみで、
墳形、時期の異なる古墳群が隣接してい築かれている点も注目されている。
(説明板から)
下開発茶臼山古墳群と荒屋古墳群は大きい意味で能美古墳群に含まれると思われるが、
階級的には一段下の首長達の墓として認識されている。
1号墳 | 方墳 | 18m×14.5m・高さ2.5m | ||
2号墳 | 方墳 | 一辺10m・高さ0.5m | ||
3号墳 | 墳丘がよく分からない。 |
方墳 | 一辺14.5m・高さ1.7m | |
4号墳 | 方墳 | 一辺15.5m・高さ2.5m | ||
5号墳 | 藪の中 |
方墳 | 17m×14m・高さ1.5m | |
6号墳 | 円墳 周溝あり |
径13m・高さ1.5m | ||
7号墳 | 周溝が確認できる。 |
円墳 | 径11m・高さ2.5m | |
8号墳 | 群中最大の規模だが、60%削平されている。 向こう側は崖となっている。 |
円墳 墳頂は広い。 |
径30m・高さ3m | |
9号墳 | 円墳 | |||
10号墳 | 円墳 | |||
11号墳 | 墳丘がよく分からない |
円墳 | ||
12号墳 | 円墳 | |||
13号墳 | 高まりが見えない |
円墳 | ||
14号墳 | 円墳 |
荒屋古墳群の詳しいデータを探しに能美市立博物館に行く。
前回来たときは、秋常古墳群の整備完成記念の展示があったが、それは終了し
山近 剛さんの「ハニワ展」が催されていた。
重要文化財になっているようなハニワを写真などを参考に、本物そっくりに造られたものの展示で、楽しいものだった。
二階には考古資料の展示があり、和田山古墳群・下開発茶臼山古墳群・西山古墳群などの出土品を見ることができた。
荒屋古墳群については、昭和の終わりごろに刊行された辰口町史の中にすこし記載されている以降、報告書は出ていないそうだ。
この辰口町史には、荒屋古墳群A支群は8号墳までしか記載されていないので、9〜14号墳の大きさなどはわからなかった。
おわり