北村さんちの遺跡めぐり
更新日2026/2/7
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2025年秋の旅・その1
大阪府豊中市の古墳2025/11/22
大阪に住む孫二人の所属する中学校吹奏楽部が、全国マーチングコンテストで近畿代表になったので
大阪城ホールで開かれた全国大会を鑑賞しに大阪に行く。.
| 大阪城ホール | |
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| 本番の演奏は撮影禁止。 審査の結果「金賞」頂きました。 帰って午後9時過ぎから、家族でささやかに祝勝会です ![]() |
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マチカネワニ 国天然記念物 |
大阪府豊中市待兼町 |
2025年9月に国の天然記念物に指定された「マチカネワニ化石」は、
豊中市待兼山町の大阪大学総合学術博物館(大阪大学豊中キャンパス内)に展示されている。
![]() 大阪大学総合学術博物館 |
![]() マチカネワニ原寸大模型 学名 トヨタマヒメイア・マチカネンシス 生息 45万年前 全長 約6.9m〜7.7m 体重 約1.3t 特徴 頭骨の長さが約1mある。 ほぼ全ての骨が発見されたが、 しっぽの骨が見つからなかったので、 骨の数が同じ今のワニにヒントをもらって、 全長を推測している。 |
![]() 本物のマチカネワニ化石 1964年に 大阪大学理学部棟の建設現場で発見された。 付近を調べてもこの一体しか出てこなかった。 この化石は「タイプ標本(ホロタイプ)」で、 新種の学名の基準となる唯一の骨格標本となる。 |
![]() 大阪大学総合学術博物館 マチカネワニ想像図 |
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待兼山古墳群 |
大阪府豊中市待兼山町 |
マチカネワニが展示されている大阪大学総合学術博物館には
待兼山古墳群から出土した埴輪などが展示されていたが、
ワニは撮影してもいいが、埴輪は撮影禁止と言われた。
インターネット上に
「待兼山遺跡現地説明会資料(2005/10/15)」が公開されているので参考にさせていただいた。
この現説は、待兼山古墳群の5号墳の調査の時のものだ。
| 大阪大学豊中キャンパス)に所在する待兼山遺跡は、 千里丘陵の西端をなす待兼山丘陵上に位置する。 待兼山古墳群があったと確認されているが、 早くから開発されて、しっかり残っているものは少ない。 キャンパス整備工事などの際に発掘調査が行われ 弥生土器、須恵器、埴輪古代土器棺などの考古資料が相次いで発見されている。 |
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待兼山古墳群でこれまで確認された古墳の位置![]() (現説資料に加筆)
豊中市・待兼山古墳群付近の地図g |
待兼山5号墳が発掘調査された。
待兼山5号墳は、現在駐輪場になっていて、現地では、古墳の範囲が石張りで表示されている。
| 待兼山5号墳 | |||||||||
| 直径 15mの円墳 墓前に供えられたとみられる須恵器や土師器、 墳丘上に並べられていた馬形埴輪や家形埴輪をはじめとする形象埴輪 円筒埴輪が周溝内から多数出土 埋葬施設はすでになかった。 5世紀後半の築造と推定されている 1998年に発見され、2005年に調査された |
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![]() 扇形の石張りが古墳の範囲 |
![]() 駐輪場の一角に5号墳の説明板がある。 |
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左端に石張りがある。 中央の説明板は 「待兼山遺跡でみつかった中世の火葬墓」 |
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駐輪場の一角に待兼山5号墳の説明板がある
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| その裏側には 「待兼山遺跡でみつかった中世の火葬墓」の説明板がある。
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待兼山古墳群は、5号墳以外に5基が確認されている。
| 待兼山1号墳(柴原待兼山古墳)は、前方後円墳で、 5世紀の築造と推定されているが、大正年間に消滅している。 |
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| 待兼山2号墳は 5号墳の北の待兼山山頂近くにある。 円墳か 未調査。1987年に墳丘測量
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| 待兼山3号墳は、現在のテニスコートのあたりにあった。 墳形不明 1987年に古墳跡が確認されている 埴輪が出土。5世紀中ごろの築造と推定されている ![]() テニスコート用地となる。 |
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| 石塚古墳 阪大正門西側の大高の森内 墳形不明 かつて円筒埴輪が出土。 5世紀代の築造か
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待兼山庭園には 「旧制浪速高等学校学生像」がある。

旧制浪速高等学校学生像
「友よ我らぞ光よと」
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麻田御神山古墳 |
大阪府豊中市蛍池南町二丁目 |
阪急宝塚線の蛍池駅の南約300m、阪急宝塚線と大阪モノレールの間にある林は古墳だ。
個人宅で、見学はできない。
御神山の読み方は、「ゴシンザン」、「オカミヤマ」の両方の表記があるようだ。ともいう
| 麻田御神山古墳は 全長200mの前方後円墳と考えられている。 前方部を北東に向けている 刀根山丘陵南西端の御神山とよばれた小支丘頂部に築造されている。 現在は、阪急宝塚線により分断されていて原形をとどめていない。 鉄道工事中に、三角縁三神三獣鏡・車輪石が出土し、 現在は京都国立博物館で保管されている。 古墳時代前期後半(4世紀)の遺物。 (長く個人蔵であったが、近年博物館に寄贈されたものだそうだ) |
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![]() 麻田御神山古墳 個人宅に行くだけの踏切がある。 個人宅は後円部にあるという。 周りに残る池は周濠の跡だといわれている。 |
明治年間の地形図では、全長200m前後の前方後円墳であったとわかるらしい……
昔の地形図がないかと探したら、図書館に「郷土学習資料集おおいけ」という冊子があって、
明治18年の地形図が載っていた。

赤の□で囲まれたところが
麻田御神山古墳
(「郷土学習資料集おおいけ」から)
この資料では
「二つの溜池は周濠跡ではなく、
用水池と考えられる」
と書かれている
「郷土学習資料集おおいけ」(1986年発行)は、豊中市立大池小学校で作られたものらしく、
豊中市の他の古墳についても記載があるので、ここに記しておく。
| 原田神社 豊中市は南部低湿地(沖積層)と中部の豊中台地(洪積層) および北部の千里丘陵(古期洪積層)からできている。 原田神社は、豊中台地のほぼ中央にあり、昔は広い境内でそのほとんどは山林だった。 1910年(明治43年)阪急電車が通るようになって境内は西と東に分けられ、 神社の建物は線路の東側となる。 1781年、枯れ松の根元から2つの銅鐸が掘り出されて、 その一つが原田神社の宝物として保存されている。 表面には3本ののこぎり歯の帯と、 流水文といわれる水の流れるような模様がつけられている。 銅鐸の大きさ 高さ32.1cm・長径19.1m・短径12.4cm・重さ2kg |
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大塚・小塚古墳
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| 御獅子塚古墳 南桜塚小学校の東にある前方後円墳 東西40m・南北55m・後円部高さ4m 昭和12年に区画整理されるまでは周濠の跡が残っていた。 昭和29年南桜塚小学校体育館を建てるとき、後円部の一部が削り取られて、 その時に出土した円筒埴輪の一部が同校に保管されている 御獅子塚古墳の東に、円墳または前方後円墳の狐塚古墳があったが、昭和40年消滅。 |
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大石塚・小石塚古墳
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| 陶棺が出土した古墳 野畑岸本塚古墳と新免宮山北塚古墳 ・野畑岸本塚古墳 横穴式石室だったようだが、天井石はなく、周りの壁石も1段残っているだけだった 大棺は長さ1.5m、小棺は0.9mのもので、 大小の須恵質棺2組、計4個が石室に安置されていた。 太鼓塚古墳群の中の1基 太鼓塚古墳群(タコヅカコフングン)は現在地は豊中市永楽荘 千里川右岸の、豊中・箕面両市境に位置する、 通称西山丘陵上に形成された古墳時代後期の群集墳。 もとは約30基を数えたというが、 このうちの数基が調査されただけで、現在大部分が消滅している。 この古墳群は、須恵質陶棺を出土することで著名であるが、 昭和14年(1939)、同16年にあいついで発掘された、 金塚・岸本塚と命名された古墳をはじめ、 これまでに発掘された古墳では、 すべて横穴式石室の内部に須恵質陶棺を納めていた。 太鼓塚古墳群では、岸本塚古墳から大小四個の陶棺、金塚古墳から1個の陶棺、 他に、はやくから知られていた1個とあわせて6個の陶棺が確認されている。 ・新免宮山北塚古墳 横穴式石室で、1mに満たない小型の陶棺が出土 子供を埋葬したと考えられている。東接する金寺山廃寺との関係が考えられている。 新免宮山古墳群は、金寺山廃寺のそばということなので、豊中市本町8丁目辺り 陶棺が出土しているのは、他に 池田市茶臼山古墳の南東にあたる同じ尾根の南斜面から横穴式石室古墳が発見され、 その中に家形陶棺一個が納められていた。(池田市五月丘古墳) 西方では芦屋市の八十塚A号墳から家形陶棺が出土している。 |
![]() ではないが…… |
大阪万博 と あべのハルカス |
大阪府大阪市此花区夢洲 |
麻田御神山古墳の写真を撮った日に、大阪万博
翌日にあべのハルカスに行ったので、思い出の写真を!!
| 大阪万博 | |
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![]() 各国スタンプ 集めました!! |
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| あべのハルカス | |
![]() 展望台に行くエレベーター内の 流れ星シャワー! |
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,下界は豪雨 |
![]() 雨があがった!! |
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