北村さんちの遺跡めぐり
更新日2019/8/30
近江の古墳・遺跡2019
その5 長浜市1・高島市
2019/5/5・6
ゴールデンウイークの10連休の最後の2日間で、滋賀県へ。
孫の顔を見に行ったのだが、孫の顔見たのは30分、他は遺跡めぐり。
今年2月の続きで、「近江の古墳・遺跡2019その5」となる。
5/5 6時50分 自宅発
8時10分 敦賀ICから8号線を南下、湖西線に沿って進むと
8時30分 塩津丸山古墳 着。
地図g
塩津丸山古墳群 県指定史跡 |
長浜市塩津 (撮影日2019/5/5) |
前方後円墳だと思って見学したのは、円墳の4号墳だったようだ…。
その後、この古墳は3号墳と判明しました。
詳しくは、長浜市のページをご覧ください
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径30m・高さ4mの円墳 | |
湖西線の高架下にある。 |
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墳丘 |
墳頂部 |
山麓に、4基の古墳が並んでいるようだ。
塩津丸山古墳群 県指定史跡 | |||
前方後円墳1基・円墳3基で構成されている。 発掘調査は行われていない。 古墳時代前期~中期にかけての築造と推定されている。 3・4号墳は、1号墳に続く墳墓と考えられている。 塩津丸山古墳群1・2号墳 墳丘測量図 (HP長浜市の遺跡から) |
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1号墳 | 前方後円墳 | 全長21.5m 後円部径12m 前方部先端幅13.5m |
尾根の南端に立地 前方部を北東に向ける 葺石なし 埴輪なし |
2号墳 | 円墳 | 径9m・高さ1m | 1号墳のそばにある。 葺石なし 埴輪なし 1号墳の陪塚か |
3号墳 | 円墳 | 径30m・高さ4m | 1・2号墳の北約100m 葺石なし 埴輪なし |
4号墳 | 円墳 | 径28m・高さ1.5m | 3号墳の北約100m 元は、尾根の先端部にあった |
1号墳は、4号墳の200mほど南にあることになる。
浅井パーキングで、トイレ休憩。
妙見山古墳群 ミョウケンヤマコフングン |
高島市今津町福岡他 (撮影日2019/5/5) |
平ケ崎王塚古墳の南にある妙見山には古墳群がある。
妙見山は、北側が宗教施設、南側が住宅開発地となっているが、南側は私有地で立ち入り禁止となっているらしい。
知らずに入り込み、追い出されてしまった…。
滋賀県の資料には、妙見山古墳群の詳細図があり、一部発掘されている。
妙見山古墳群は日置前遺跡群(ヒオキマエイセキグン)の東にある妙見山丘陵に築かれた古墳群。
妙見山丘陵は、面積30万㎡、比高差約30mの北西方向に延びる楕円形の独立丘陵。
円墳と方墳が約80基確認されている。
立地から大きくA~F支群の6つのグループに分かれ、
標高125~130mの最高所に築かれたA支群を始め、
丘陵尾根上だけでなく、丘陵の北東および南東側の斜面にも広がっている。
すぐ北側に所在する王塚古墳群と、一体となる可能性もある。
古墳は、3世紀末~7世紀後半の築造と推定されていて、
古墳時代のほぼ全期間にわたって続いていたと考えられている。
妙見山古墳群分布図
(古墳辞典から)
見学できた3号墳と10号墳を赤で示している
上にある大きい円墳が、平ケ崎王塚古墳で、
近年は東側に前方部がある前方後円墳
ではないかといわれている。
住宅地としてつくられた道路に残されているのが、
3号墳と10号墳
立入禁止の場所なので、小さく掲載する…。
3号墳 |
10号墳 |
3号墳と10号墳の間の林の中には、群中最大級の1号墳・2号墳が残っているようだ。
建速神社古墳群 タテハヤジンジャコフングン |
高島市新旭町饗庭(アイバ) (撮影日2019/5/5) |
地図を見ていたら、建速神社古墳群とあるので、寄ってみる。
詳しいことは、わからないが、6基ほどの墳丘が確認できた。
仮3号墳と仮4号墳には、石室跡とみられる大穴があいている。
「建速神社古墳群」の石碑と説明板 説明板はほとんど読めなくなっている 10~20mほどの古墳が何基かあり、 大部分が横穴式石室だということは 読めるのだが…。 境内は、 墳丘らしき盛り上がりが、いくつもある。 |
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建速神社(仮)1号墳 |
建速神社(仮)2号墳、 右奥仮1号墳 |
建速神社(仮)3号墳 |
建速神社(仮)3号墳 墳頂部の大穴 |
建速神社(仮)4号墳 |
建速神社(仮)4号墳 墳頂部の大穴 |
建速神社(仮)5号墳 小屋に寄り添うようにある。 |
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建速神社社殿は、古墳の上に建っている。 (建速神社(仮)6号墳とする) |
(仮)1号墳~(仮)6号墳の大体の位置
(仮)1号墳と(仮)2号墳は、合わせて前方後円墳に見えるが…、どうなんでしょうね。
大國主神社古墳群 | 高島市新旭町饗庭(アイバ) (撮影日2019/5/5) |
地図を見ていたら、大國主神社古墳群とあるので、寄ってみる。
建速神社の南約2km。
詳しいことは分からない…。
大國主神社 |
大國主神社古墳群? |
5月の祭礼が終わったばかりらしい・・・。
白鬚神社古墳群 | 高島市鵜川 (撮影日2019/5/5) |
白鬚神社は2度目の訪問だ。
白鬚神社 | |
白鬚神社大鳥居 琵琶湖の中に立っている |
白鬚神社 境内 |
白鬚神社背後の斜面を登る。
白鬚神社古墳群は、白髭神社社殿背後の斜面にある。 | |||||
1号墳は、本殿の裏山に登ると、石室を保存するように建物が建ち、岩戸社となっている。 横穴式石室は全長6m、玄室長2.5m・幅2m・高さ1.1m、羨道長3.5m・幅1.2m・高さ1mの両袖式
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2号墳は、1号墳のすぐ右奧にある。 2号墳 墳頂が陥没し、石材が散乱。 |
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そのほかの墳丘 その1 |
そのほかの墳丘 その2 |
埋葬施設の辺りが陥没している墳丘もあるが、写真ではよく分からないので、載せないことにする。
鵜川四十八躰仏と古墳 | 高島市勝野 (撮影日2019/5/5) |
白鬚神社から北東に約400mに、四十八躰仏への案内板があり、脇道を登ったところにある。
四十八躰仏の背後は、墓地となっている。
鵜川四十八躰仏 県指定史跡 |
石仏の大きさは、それぞれ多少の差はあるが、 像高約1.6m、顔長0.5m、肩幅0.76m、膝高0.46m、膝幅1.3m。 地元の比良石といわれる花崗岩製で、いずれも定印を結んだ丸彫りの阿弥陀如来像である。 現在は33体だが、元々は48体が東を向いて鎮座していた。 不足のうち13体は江戸時代前期に坂本の慈眼堂(大津市)に移され、 2体は昭和62年(1987)に盗難にあった。 伝承によると、天文22年(1553)に近江半国の守護職であり観音寺城主であった佐々木六角義賢が、 亡き母の菩提を弔うため建立したとされている。 しかし、冷泉為広の「為広越後下向日記」延徳3年(1491)に、 船で琵琶湖の西側を北上し、白鬚神社へと進んだところで、 「次に廿八躰の石の阿弥陀あり」と記されており、 この時すでに石仏群が存在したとわかる。 さらに、永享8年(1436)、周辺の境界争いの記録に、 「四拾八躰」の文字があり、四十八躰石仏がそのころにはすでに存在し、 境界の目印として認識されていたといえる。 四十八という数は、阿弥四十八願という信仰に因む、阿弥陀仏に対する供養信仰に基づくものである。 大きな丸彫り阿弥陀仏が四十八体も造られ、また一ヶ所に祀られているところは他にはないようである。 (現地説明板から) |
鵜川四十八躰仏 |
鵜川四十八躰仏の東屋の横に、石室が開口している。
四十八体古墳群 | |
古墳群だが、現存は1基。 玄室の奥側しか残っていない。 現存長3m・幅1.5m。 |
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東屋横に石室が開口 |
天井石前面には、梵字が刻まれている。 |
石室内部 埋まっているのか? |
昔は、ここから琵琶湖が見えたようだが、今は森の中…。
打下古墳 ウチオロシコフン |
高島市勝野 (撮影日2019/5/5) |
四十八躰仏の登り口から北へ、道なりに約1km。
東麓の日吉神社に駐車、北側の山道を水道塔まで登ると、水道タンクそばに整備保存された墳丘がある。
打下古墳 | |
平成13年、工事中に発見された。 箱式石棺(内法長さ205cm・最大幅42cm・深さ30cm)の中には、 良好な人骨と鉄剣・鉄刀が納められ、壁面は朱で赤く塗られていた。 棺外から、鉄鏃が一束 置かれていた。 鉄鏃の型式から5世紀代の築造と推定されている。 被葬者については、身長150cm、年齢40才前後の男性と推定されている。 明神岬を治めた人物と考えられている。 (平成15年 高島町教育委員会の説明板から) |
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手前から見た墳丘 |
方向を変えて見る |
墳頂部 |
墳頂には、説明文が刻まれた石碑がある。 |
水道タンク上の 高台から見た景色 琵琶湖が一望! 中央が打下古墳! |
お昼になったので、「道の駅 妹子の郷」で昼食。
小野道風神社古墳へつづく