北村さんちの遺跡めぐり
長浜市1 長浜市の地図g
塩津丸山古墳群 県指定史跡 |
長浜市塩津 (撮影日2019/5/5 2020/11/1) |
山麓に、4基の古墳が並んでいる。
塩津丸山古墳群 県指定史跡 | |||||||||||||||||||
前方後円墳1基・円墳3基で構成されている。 発掘調査は行われていない。 古墳時代前期〜中期にかけての築造と推定されている。 3・4号墳は、1号墳に続く墳墓と考えられている。
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2019年に、4号墳として紹介したのは、実は3号墳だった。
(滋賀県文化財保護課に問い合わせして、訂正しました)
塩津丸山3号墳 1・2号墳の北約100mの所にある。 | |
径30m・高さ4mの円墳 葺石なし 埴輪なし 墳頂部に盗掘坑があり、石材が見当たらない事から 埋葬施設は、粘土槨ではないかとみられている。 |
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湖西線の高架下にある。 撮影日2019/5/5 |
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墳丘 |
墳頂部 三角点がある。 |
3号墳の南の資材置き場(?)の奥から林に入ると、1号墳・2号墳がある。
塩津丸山1号墳 | |
1号墳は 南端尾根上にある。 全長21.5mの前方後円墳 後円部径12m 前方部先端幅13.5m 前方部を北東に向ける 葺石なし 埴輪なし 低い前方部の形状から前期でも古相に属すると考えられていて、 規模等から粘土槨に類似する主体施設が考えられているが、詳細不明 2号墳 1号墳の後方約5mの所にある 径9m・高さ1.4mの円墳 葺石なし 埴輪なし 主体部不明 塩津丸山古墳群1・2号墳 墳丘測量図 (HP長浜市の遺跡から) |
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1号墳を横から見る |
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1号墳後円部 後円部を分断して柵がある。 |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
資材置場そばの道路沿いに説明板 |
1号墳の後方約5mの所にあるのが、2号墳。
2号墳 1号墳のそばにある。 |
2号墳は 径9m・高さ1.4mの円墳 葺石なし 埴輪なし 埋葬施設も不明 立地から1号墳と同時期か、直後と推定されている。 1号墳の陪塚とも考えられている。 |
1号墳から見た2号墳 |
3号墳の北にある4号墳は、まだ見学できていない。
長浜市 旧高月町・旧湖北町の古墳のまとめ |
滋賀県長浜市高月町 |
旧高月町の主な古墳の位置(滋賀県埋文ニュース第307号 2005.11.1 から)
1 | 湧出山1号墳 (湧出山古墳群) | 全長35mの前方後円墳 |
2 | 茶臼古墳 (湧出山古墳群) | 1辺18mの方墳 |
3 | 桜椅古墳 (湧出山古墳群) | 径25mの円墳 |
4 | 唐川宮山古墳群 | 横穴式石室4基 |
5 | 横山神社古墳 (物部古墳群) | 全長約36mの前方後円墳 |
6 | 兵主神社古墳 (物部古墳群) | 前方後円墳 |
7 | 松尾宮山古墳群 | 2基の横穴式石室に石棺 |
8 | 大森古墳 (山畑古墳群) | 全長62mの前方後方墳 |
9 | 姫塚古墳 (物部古墳群) | 全長80mの前方後方墳 |
10 | 父塚古墳 (物部古墳群) | 径40mの円墳(全長60mの前方後円墳) |
11 | 五位塚古墳 | |
12 | 瓢箪塚古墳 | 全長30m以上の前方後円墳 6世紀中葉の築造と推定されている。 |
13 | 尾山古墳 | |
14 | 北馬上古墳 | |
15 | 馬上山古墳 | |
16 | 円願寺裏山古墳 | |
17 | 古保利古墳群 (国史跡) |
前方後円墳8基・前方後方墳8基 ・円墳79基・方墳37基が確認されている。 小松古墳は全長60mの前方後方墳 西野山古墳は全長90mの前方後円墳 |
18 | 物部大将軍塚古墳 | 別名・下生塚古墳 |
19 | 上生塚古墳 | |
20 | 瓢塚古墳 |
北陸自動車道の側道膨らむ。 |
21 | 若宮山古墳 | 全長50mの前方後円墳。 |
若宮山古墳は、旧湖北町となる。
湧出山古墳群ユルギヤマ 地図番号 1・2・3 |
滋賀県長浜市高月町唐川 |
涌出山の山頂尾根にある。
涌出山中腹からの景色
真ん中の林は、横山神社古墳
前方後円墳1基・方墳6基・円墳4〜5基で構成される古墳群。
B支群・涌出山古墳(1号墳)の後円部頂 墳頂に三角点(199.9m)がある。 涌出山古墳は、全長35mの前方後円墳 |
B支群・涌出山古墳の西隣の円墳から 涌出山古墳を見る |
涌出山古墳から西の円墳群を見る 一番向こうに見えるのがC古墳か |
涌出山C古墳 |
D支群・茶臼古墳 東から 茶臼古墳は1辺18mの方墳で 涌出山の最高所(204m)に位置している。 |
D支群・茶臼古墳を 西隣の方墳から見る |
D支群・茶臼古墳の隣の方墳 一辺14〜17m・高さ0.5〜2mの方墳 |
涌出山古墳群の配置図
(滋賀県埋文ニュース第307号 2005.11.1から)
A群 | 円墳1基(A古墳) | A古墳は、1973年発掘調査。土取りのため消滅。 径12.4m・高さ3.5mの円墳。 2段に円筒埴輪・朝顔形埴輪が並ぶ。葺石なし・段築なし 簡略した竪穴式石室に木棺(長さ2m・幅0.6m)があった。 棺内から、珠文鏡・鉄刀・刀子片・勾玉・管玉・ガラス玉が出土。 5世紀末の築造 |
B群 | 前方後円墳1基 (涌出山古墳・1号墳) 円墳2基 墳形不明古墳1基 |
涌出山古墳(1号墳)は1986年測量調査、1989年発掘調査 全長35mの前方後円墳 後円部径23m・高さ5m、前方部幅17m 葺石なし・埴輪なし 涌出山古墳(1号墳)の西に3基の古墳が並ぶ。 |
C群 | 方墳1基(C古墳) | C古墳は、2005年発掘調査 約16×13mの長方形と推定され、現状の墳丘高は約0.5m(以内) 地山を若干整形して盛土、、当初から低い墳丘だった。 主体部は木棺直葬で、その床底はU字形。 二段墓壙と推定され、 木棺が納められた下段は残存上面で長さ5m以上・幅0.9m・深さ0.5m、 上段は残存上面で長さ5.3m以上、幅2m前後。 木棺内中央付近で、鉄剣1・刀子1・鉄鏃1 木棺内東端付近で 鉄斧状鉄器3・刀子4・鉄針状鉄器1以上、形態不明の鉄製品1 が出土。 木棺内から朱も検出。 墳丘南側裾周辺で、木棺内出土と同様の鉄斧状鉄器1が出土。 5世紀中頃までには築造されたと推定されている。 |
D群 | 茶臼古墳(1辺18m) を中心に方墳5基 |
茶臼古墳は、一辺18mの方墳 茶臼古墳の西隣は、一辺14〜17m・高さ2mの方墳 |
E群 | 円墳1基(桜椅古墳) | 桜椅古墳は径25mの円墳 |
C号墳の調査の際、弥生時代中期後葉の土器・石器類が出土し、同時期の遺構も発見され、
C号墳周辺でも土器類と遺構が検出された。
B支群の東側およびC号墳からD支群の間でも、同時期の土器片が出土した。
湧出山は高地性集落の遺跡(涌出山遺跡)としても、位置づけられている。
唐川宮山古墳群 地図番号4 |
滋賀県長浜市高月町唐川 |
七郷小学校の西側の道を北にまっすぐ行くと、湧出山(ゆるぎやま)にぶつかる。
ふもとには日吉神社と赤後寺がくっついた大きな寺(神社?)がある。
日吉神社赤後寺
立派なお寺
東隣には長照寺がある。
赤後寺から湧出山に登る遊歩道が東に続いている。
登りだしてすぐ、赤後寺の東隣の長照寺うしろの崖に、崩れかけた石室がある。
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唐川宮山古墳群 奥壁の石はきっちり積み上げられている。 |
唐川宮山古墳は湧出山南麓にあり、 横穴式石室4基が確認されていて 3号墳は良好に残り、 多数の副葬品が発見されたという。 |
説明板も見つからず詳しいことは分からない。
横山神社古墳(物部古墳群) 県史跡 地図番号5 |
滋賀県長浜市高月町横山 |
横山神社境内にあり、墳丘の上は稲荷神社となっている。
墳丘は破壊はうけているが墳丘の一部が残っている。
別名、コロコロ山古墳。
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横山神社古墳全景 北側から |
横山神社古墳後円部 稲荷神社が建つ |
説明板(平成2年3月設置)では
「前方部を西に向けた全長約36mの前方後円墳。
前方部はやや広がり、後円部南側に横穴式石室がある。
古墳時代後期(6世紀)の築造
現在の大きさは後円部径21m・高さ2.3m
周濠は不明 葺石・埴輪はないと考えられている。」
となっていたが、インターネットで調べたら
「発掘調査が1989年に、測量調査が1990年に行われた。
前方部の最大幅は15m、高さ1.75m。
墳丘の周囲には幅5〜6mの周濠がある。
円筒埴輪、器材埴輪などが採取されており墳丘には埴輪の配列がなされていた。
6世紀中葉ごろの築造と推定されている。」
というデータがあった。
横山神社の道を挟んですぐ北にある七郷小学校の改築工事の際の発掘調査で、
弥生時代の環濠内の玉造工房とそれに関する遺物が出土した。
周辺では弥生時代中期から古墳時代前期の方形周溝墓群、
弥生時代後期以降の竪穴住居とともに
玉類や金属器生産に関わる遺構も確認された。
兵主神社古墳(物部古墳群) 地図番号6 |
滋賀県長浜市高月町横山 |
七郷小学校の東隣に、こんもりとした森がある。前方後円墳といわれている兵主神社古墳。
兵主神社の森
兵主神社入り口
森のトンネル
兵主神社社殿
石造りの可愛い社殿
古墳を掘り込んで参道と社殿が造られたようだ。
説明板もなく、詳しいことは分からない。
松尾宮山古墳群 県史跡 地図番号7 |
滋賀県長浜市高月町松尾 |
松尾で案内表示が出ているけれども、分かりにくい。
農作業をしている男性に尋ねて、古墳のすそに到達。
道には門扉が付いていている。
かなり急な崖にあるので、だれでも入り込めないようにしているのか。
扉を開けて崖を登る。
松尾宮山古墳群は、通称サイト山の南斜面とふもとに分布する後期・終末期の古墳群。
3基確認されている。
そのうち2基の横穴式石室に石棺が存在する。
明治時代に発掘されて、
須恵器・土師器などの土器のほか、
耳環類・鉄器(直刀・鉄鏃)・玉類(勾玉・管玉・切小玉)が出土したという記録がある。
松尾宮山1号墳への登り口
急斜面に階段がある。
上に松尾宮山1号墳の石室の覆い屋が見える。
1号墳は1990年に整備を目的に確認調査、
東西17m・南北13mの外護列石を持つ2段築成の方墳。
松尾宮山1号墳石室入り口
保護するために屋根がある。
石室は天井石の大部分と開口部付近の側壁がない。
南方向に開口する横穴式石室は
全長8.5m・幅1.4mの無袖形。
松尾宮山1号墳石室内部
玄室の真ん中に刳抜式家形石棺が置かれている。
玄室床面には石が敷かれている
鉄釘が出土した
他の古墳は見当たらない。
横穴式石室に石棺があるというもう1つの古墳は埋め戻されたという。
大森古墳(山畑1号墳) 山畑古墳群 地図番号8 |
滋賀県長浜市高月町松尾 |
松尾地区の南東200mぐらいのところの(株)ヤンマーの東隣の林の中に大森古墳がある。
細長くのびた尾根の先端部に、門扉があるので、そこをあけて入ってみる。
無住の小さなお寺がある。
大森古墳を守るようにして建つ
龍頭山普門寺
その奥に大森古墳がある。
山畑古墳群は、通称サイト山の尾根上に形成された古墳群で、
松尾宮山古墳群と同じ山並みの東の細長くのびた尾根の先端にある。
一部が磯野山城や己高山に関連する松尾寺の遺構と重複している。
また、同一山塊には国史跡古保利古墳群を始めとして、150基以上の古墳が分布している。
前方後方墳の1号墳と円墳・方墳10数基で構成されている山畑古墳群の1号墳が、大森古墳と呼ばれている。
大森古墳後方部
逆光に負けて立派な古墳がよく見えない。
説明板では
大森古墳(山畑1号墳)は
全長約62m
後方部39×32m 前方部長さ24m・先端部幅25m くびれ部幅13m
前方部は後方部の規模から考えるとやや短く、先端部は比較的開く。
後方部はかなり長方形で、尾根幅を最大限利用している。
自然地形を最大限利用しているため、後方部と前方部の主軸方向がねじれている。
墳丘形の解釈によっては、全長80m程の双方中方墳という特殊な形状に復元することもできる。
2段築成の可能性がある。葺石・埴輪は不明。
4世紀末〜5世紀前半の築造
となっている。
滋賀県文化財学習シートでは、
後方部から壺形(つぼがた)などの土器類が出土しており、
これらの土器の年代から大森古墳は、
3世紀前葉に築造された、国内でも最古級の古墳であると想定されている
となっていた。。
2号墳は、尾根先端に位置。大森古墳の陪塚的存在の小円墳。(分からなかった)
姫塚古墳(物部古墳群) 県史跡 地図番号9 |
滋賀県長浜市高月町東柳野 |
余呉川左岸の沖積地にある。田んぼの真ん中にあって遠くからでも見える。
別名 へい塚古墳。
姫塚全景
左が削平された前方部だが、
つつじなどを植えて、元の形をあらわしている。
姫塚後方部 北側から
説明板(平成2年3月設置)には
全長64mの前方後円墳で、5世紀代の築造と推定されている。
南側の前方部は削平されたが、幅20mと推定。
葺石や埴輪などの出土品や埋葬施設は不明。
周濠もあったといわれているが、確認されていない。
前方部の南約50mのところに、陪塚と考えられる「みち塚」かある。
となっていたが、その後
2003年の調査で、
葺石の状況から周壕がめぐる全長78mほどの前方後方墳であることが確認された。
出土土器から、3世紀後半〜4世紀前半の築造と推定されている。
陪塚の「みち塚」は見当たらない。水田の中にポコンと古墳。素晴らしい景色に感動。
父塚古墳(物部古墳群) 地図番号10 |
滋賀県高月町東阿閉 |
「姫塚」があれば、「父塚」もある。
父塚古墳全景
道路側から
父塚古墳
反対側から
説明板から
墳丘上に稲荷神社が鎮座し、直径30mほどの古墳時代後期の円墳と考えられていた。
1992年の部分調査で、古墳の周濠と7世紀以降の集落あとが確認された。
周濠は幅17〜18m、深さ1.5m全周していない。
復原すると径40mの円墳か全長60mの前方後円墳。
瓢箪塚古墳 地図番号12 |
長浜市高月町洞戸 |
洞戸集落の南端に墓地があるが、ここに瓢箪塚古墳があった。
説明板がある。
30m以上の前方後円墳 1984年にこの古墳の東側くびれ部と前方部の裾が発掘調査され、 須恵器杯・杯蓋・器台・壺・甕・ハソウ・土師器壺等があり、 墳丘より転落あるいは放棄された状況で検出された。 これらの土器の時期は6世紀中葉で、瓢箪塚古墳の築造もこのころと考えられている。 付近にはかつて 鉄刀・ガラス玉等が出土した円墳と考えられる饅頭塚古墳、 背後の山頂部には瓢箪塚古墳に先行すると推定される前方後円墳尾山(姫塚)古墳等 が知られている。 また、周辺に大海道遺跡、井口遺跡、雨森遺跡といった同時期の集落跡が存在する。 |
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瓢箪塚古墳 跡地 |
現在墳丘の一部が洞戸地区墓地となっている。 |
物部大将軍塚古墳 地図番号18 |
長浜市高月町東物部 |
農地の中に、2基の古墳が残っている。
円墳と考えられているが、詳細は不明 別名を下生塚古墳という。 |
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物部大将軍塚古墳 農地に残された小さな墳丘 とても「大将軍」の塚には見えない |
上生塚古墳 地図番号19 |
長浜市高月町東物部 |
大将軍塚からすぐ東に、上生塚古墳。
詳細は不明。 | |
生塚古墳 大将軍塚より少し大きい… 「文化財を大切に保存しましょう」 という標柱があるので古墳と分かる。 |
瓢塚古墳 地図番号20 |
長浜市高月町東物部 |
瓢塚古墳は、横山神社古墳の東500mくらいの高速道路の東側側道がふくらんでいるあたり。
現状は 墓地。 詳細は不明。 |
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瓢塚古墳跡地は 丸い墓地 奥は高速道路 |
名前からすると前方後円墳? |
古保利古墳群 国史跡 地図番号17 |
長浜市高月町 |
左(南)の山本山から、右(北)古保利古墳群へ・・・・・ 東側の麓に下りてから写す。
パノラマなので、実際とはちょっと違うかも・・・・。
古保利古墳群配置図 (説明板から) |
琵琶湖の北端、塩津湾に面する細長い丘陵上に分布する。 |
私たちは左から右へ(南から北へ)歩いたので、番号の大きい方から小さい方へ行ったことになる。
便宜上、南から南地区・中央地区・北地区と分けたが、これは私が勝手に分けたもので、正式の分け方ではない。
ずらりと墳丘が並んでいるので、説明板のある墳丘以外は、特定が難しい。
説明板のあるところも、設置場所があいまいな所もあり、間違っている部分もあることを御容赦願います。
南地区配置図
31番 | F-1 | 旭山古墳 | 全長32.5mの前方後円墳 |
30番 | E-15 | 大谷古墳 | 全長40mの前方後円墳 |
29番 | E-14 | 屋ヶ谷古墳 | 全長27mの前方後方墳 |
28番 | E-9 | 熊野山古墳 | 全長27mの前方後方墳 |
27番 | E-7 | 蝉谷古墳 | |
26番 | E-5 | 岩屋古墳 | 全長25mの前方後方墳 |
25番 | E-1 | 上大谷古墳 |
F-3号墳 円墳 最初に見た墳丘 |
F-2号墳 円墳 2番目に見た墳丘 |
31番 F-1(旭山古墳)の前に説明板がある。
31番 F-1号墳 (旭山古墳) 全長32.5mの前方後円墳 後円部23.5m・前方部長さ10.5m・くびれ部幅8m・先端部幅11m 前方部は短くあまり開かない。 後円部は不整円形で2段築成。墳丘は総体的に低い。 主軸方向は N-35°-W。主尾根の高所標高250mに単独で立地。 古墳群で最高所に築造されている。
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E-18号墳 |
E-17号墳 |
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E-16号墳 大谷古墳から見る |
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30番 E-15号墳 (大谷古墳) 全長40mの前方後円墳 後円部径26×24.5m・前方部長さ17m・くびれ部幅11m・先端部幅15.5m 後円部はやや不整円形で、前方部はややバチ形だが、さほど開かない。 屋ヶ谷古墳の南側に隣接する。 主軸方向 N-10°-W 。 標高237m。
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29番 Eー14号墳(屋ヶ谷古墳)の前に説明板がある。 南隣りのE-15号墳(大谷古墳)の説明もある。
29番 Eー14号墳 (屋ヶ谷古墳) 全長27mの前方後方墳 前方部長さ11m・くびれ部幅6m・先端部幅11m・後方部16.5×15m 後方部は長方形で、前方部は短く、さほど開かない。 標高224m。 主軸方向は N-1°-W。
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E-13号墳 |
E-12号墳 |
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E-10号墳 |
28番 E-9号墳(熊野山古墳)の前に説明板
28番 E-9号墳 (熊野山古墳) 全長27mの前方後方墳 前方部長さ10m・くびれ部幅8m・先端部幅12m・後方部17×16m 主軸方向は N-19°-W 標高234m 前方部は短く、あまり開かない 後方部は正方形に近い。
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E-8号墳 |
E-7号墳 |
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E-6号墳 |
E-5号墳(岩屋古墳)の前に説明板
26番 E-5号墳 (岩屋古墳) 全長25mの前方後方墳 前方部長さ10.5m・くびれ部幅6m・先端部幅9m・後方部14×13.5m 主軸方向は N-5°-W 標高223.5m 前方部は低く、ややバチ形を呈するがあまり開かない。 くびれ部より先端部がやや高くなっている。 後方部はほぼ正方形。
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E-4号墳 |
E-3号墳 |
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25番 E-1号墳 (上大谷古墳) |
賤ヶ岳展望台まで、6km 片山まで、0.8km 現在は、琵琶湖湖畔の片山地区から 山をくぐるトンネルができているが、 明治27年から昭和37年までは、 片山の児童は山越えで 古保利小学校に通っていた。 その道が残っている。 |
24 | D-42 | 黒見古墳 | 全長32.5mの前方後円墳 |
23 | D-41 | 北谷古墳 | 全長29mの前方後方墳 |
22 | D-24 | 井ノ裏古墳 | |
21 | D-10 | 南山古墳 | |
20 | D-7 | 堂谷古墳 | |
19 | D-6 | 堂山古墳 | |
18 | D-2 | 臼ヶ谷古墳 | 全長28mの前方後方墳 |
17 | D-1 | 寺ヶ崎古墳 | 全長52.5mの前方後円墳 |
16 | C-22 | ||
15 | C-20 | ||
14 | C-17 | 野瀬古墳 | 直径35mの円墳 |
13 | C-16 | 大浦古墳 | 全長39mの前方後方墳 |
12 | C-10 | 西山古墳 | |
11 | C-1 |
D-43号墳 (24番の手前にある墳丘) |
24番 D-42号墳 (黒見古墳) 全長32.5mの前方後円墳 後円部径21×20m・前方部長さ13.5m・くびれ部幅8m・先端部幅17m 主軸方向は N-77°-W 前方部はバチ形に開き、やや低い |
24番D-42号墳(黒見古墳)と23番D-41号墳(北谷古墳)の間に説明板 木が倒れていて説明板が折れそう!
23番 D-41号墳 (北谷古墳) 全長29mの前方後方墳 前方部長さ11.5m・くびれ部幅6m・先端部幅12m・後方部17.5×15m 前方部は短く低くあまり開かない。後方部は長方形。 尾根頂部付近の標高202m 前方部を北側に向ける。 |
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22番 D-24号墳 (井ノ裏古墳) |
D-23号墳 |
20番 D-7号墳 (堂谷古墳) |
奥は19番(D-6号墳・堂山古墳) 右手前は20番(D-7号墳・堂谷古墳) |
18番 D-2号墳 (臼ヶ谷古墳) 全長28mの前方後方墳 後方部14×12.5m・前方部長さ14m・くびれ部幅6m・先端部幅11m 墳丘が低く、前方部は細長く、さほど開かない。 寺ヶ崎古墳より約30m南にある。主軸方向は N-11°-W。 標高182m。 |
D-2号墳(臼ヶ谷古墳)とD-1号墳(寺ヶ崎古墳)の間に説明板
17番 D-1号墳 (寺ヶ崎古墳) 全長52.5mの前方後円墳 後円部径37×35m・前方部長さ18m・くびれ部幅12m・先端部幅23m 後円部は2段築成 前方部は短く、ややバチ形に開く。葺石あり。 主軸方向は N-65°-W 丘陵鞍部の標高178m
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16番 C-22号墳 | |||
15番 C-20号墳 | |||
14番 C-17号墳 (野瀬古墳) 直径35mの円墳 大浦古墳に南接する古墳群中最大の円墳 2段築成 葺石あり |
13番 C-16号墳(大浦古墳)前に説明板
13番 C-16号墳 (大浦古墳) 全長39mの前方後方墳 後方部22×19.5m・前方部長さ17m・くびれ部幅11m・先端部幅23m 前方部は低く バチ形にかなり開く。 主軸方向は N-9°-W 標高171m |
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12番 C-10号墳(西山古墳) | |
C-5号墳 |
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11番 C-1号墳 |
見晴らしのいい、坂道の段に腰かけて、昼食。涼しい風が吹いている。
北地区の配置図
10 | B-16 | 木戸越古墳 | 前方後円墳 |
9 | B-12 | ||
8 | B-10 | 木戸古墳 | 円墳 |
7 | B-6 | 小松古墳 | 全長60mの前方後方墳 |
6 | B-4 | ||
5 | B-1 | ヘソ岩古墳 | 全長22.5mの帆立貝形前方後円墳 |
八ツ岩支群 | 後期群集墳 | ||
4 | A-5 | 己ノ脇古墳 | |
3 | A-3 | ||
2 | A-2 | 西野山古墳 | 全長78mの前方後円墳 |
1 | A-1 | 深谷古墳 | |
瀧ヶ谷古墳群 | |||
西野宮山古墳群 B支群 |
10番(B-16号墳・木戸越古墳)の手前に古保利古墳群の大きな説明板がある。
10番 B-16号墳 (木戸越古墳) 前方後円墳 |
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9番 B-12号墳 | |||
8番 B-10号墳 (木戸古墳) 円墳 |
7番(B-6号墳・小松古墳)の前に説明板がある。
7番 B-6号墳 (小松古墳) 小松古墳墳丘実測図 (滋賀県文化財保護協会 紀要15号 小松古墳から見えてくるもの から引用) 全長60mの前方後方墳 後方部34×29m・前方部長さ23m ・くびれ部幅14m・先端部幅22m 前方部は低く短くあまり開かない。 後方部は長方形を呈し、2段築成の可能性がある。 主軸方向はN-2°-W。 標高194mで主尾根の高所に立地する。 古墳群中最大の前方後方墳。 発掘調査が行われている。 盗掘坑から、2面の漢式鏡と銅鏃、鉄器類(鉄鏃・刀子・ヤス)、赤色顔料が出土した。 墳頂部では大量の土器類を用いた埋葬儀礼が行われていたと考えられている。 古保利古墳群では最も早い3世紀中頃の築造と推定されている。
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B-5号墳 奥に小松古墳がある。 |
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6番 B-4号墳 |
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5番 B-1号墳 (ヘソ岩古墳) 全長22.5mの帆立貝式古墳。 小松古墳の100m北にある。 墳丘がよくわからない。 |
群集墳の八ツ岩支群のあたりに着いた!
分かれ道
案内板には、
「遊歩百選」
山本山まで、3.5km 賤ヶ岳まで、4.0km
余呉湖まで、8.5km 西野水道まで、1.3km
とある。
西野山古墳を通り、賤ヶ岳まで行く道
湖側の深谷古墳に行く道
東側の麓に行く道
今私たちが来た、山本山に行く道 がここでぶつかっている。
八ツ岩支群 古保利古墳群の中で、横穴式石室を採用する後期群集墳。 この中のA-22号墳は、朝鮮半島の高句麗に由来する横口式石室を採用するとともに、 副葬品として多量の鉄滓が納められていた。 A−22号墳の被葬者は、鉄生産に従事する渡来系氏族と考えられる。
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八岩支群の中を通り西野山古墳まで登る。かなりの急坂を行く。途中にも墳丘。
4番 A-5号墳 (己ノ脇古墳) |
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A-4号墳 円墳 |
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3番 A-3号墳 円墳
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2番 A-2号墳 (西野山古墳)の前に説明板
2番 A-2号墳 (西野山古墳) 全長78mの前方後円墳 後円部径51.5m・前方部長さ34.5m・くびれ部幅20m・先端部幅28m 後円部2段築成 前方部はあまり開かない。 くびれ部よりやや前方部寄りに造出がある可能性が高い。葺石あり 主軸方向は N-46°-E。標高245mの主尾根の高所に単独で立地。 群中最大規模で残存状況もよい。
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西野山古墳から、北にずっと行くと、賤ヶ岳に行く。
墳丘は、この先は無いので、引き返すことにする。
あと一つ、1番の深谷古墳は、西野山古墳の西にあるが、道がないので、
八ツ岩支群の所まで引き返し、琵琶湖寄りの道を進む。
西野山古墳からは15分くらい歩く。
A-1号墳(深谷古墳)には、説明板がある。
1番 A-1号墳 (深谷古墳) 全長35mの前方後円墳 後円部22×19m・前方部長さ16m・くびれ部幅8.5m・先端部幅16m 後円部はやや不整形で2段築成、 くびれ部は比較的細く、前方部はバチ形に開く。 葺石あり。 主軸方向は N-80°-W 標高158.5m 古墳群の最北端に位置し、琵琶湖に張り出す尾根上に単独で築造されている。 湖上交通を意識した立地となっている。
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八ツ岩支群まで戻り、東側のふもとに下りる。
下りようとしたら、石室が見えた。
八ツ岩支群の石室開口墳
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八ツ岩支群から東にふもとに下りる道があり、すぐふもとに到着。午後2時過ぎた。
獣除けか柵があって、出られず・・・・無理やりまたいで脱出。
さあ、ここから駐車した宇賀神社まで戻るのが大変だ。
西野水道 県指定文化財 |
長浜市高月町西野 |
ほりぬき公園の管理事務所にパンフレットが置かれている。
2代目の西野水道
初代にしてはきれいだと思ったら、
2代目だった。がっかり・・・・。
思い込んでいたので、初代は見てこなかった。
大失敗!
現在は3代目の大きなトンネルが通っている。
西野水道とは・・・。
賤ヶ岳山系が南へ延びて西野の西山という山のふもとに、琵琶湖に向かって貫かれている排水用の岩穴。
高さ約2m・幅1.5m・長さ259m、粘板岩の堅い岩盤を刳りぬいている。
西野の村と耕地を自ら守るために行われた大土木事業だった。
天保11年(1840年)能登から3名の石工がきて仕事にとりかかった。
最初は琵琶湖側から掘り始めた。
西側から掘った穴と、東側から掘った穴が途中でぴったりと合ったという。
若宮山古墳 地図番号21 |
長浜市(旧湖北町)山本 (撮影日2003/4/29 2012/5/1) |
湖北町の山本山の南西の丘の先端部にある前方後円墳。
2003年4月ふもとの宇賀神社で説明板を見つけ、その裏山に登ってみたが、結局わからず断念。
説明板をまとめると・・・・・
若宮山古墳 |
全長50mの前方後円墳。後円部径34m・高さ4.5m 前方部幅19m・高さ2.5m |
古保利古墳群 |
前方後円墳11基を含む100以上の古墳群。 |
物部古墳群 |
巨大化した前方後円墳4基がある。 |
2012年5月、山本山の南西にある宇賀神社の社殿横から登り、10分ほどで、若宮山古墳に着く。
若宮山古墳は、山本山の南に突き出た若宮山の丘上に立地。標高約159m。
若宮山古墳実測図 若宮山古墳は 前方部を西に向けた全長50mの前方後円墳 後円部径32m、前方部幅18m 前方部の狭い墳形や円頭埴輪の出土などから 4世紀後半の築造と推定されている。 湖北地方で数少ない古式古墳。 葺石あり 埴輪も採集されている。 主体部は板石がみられることから、竪穴式石室と推定されている。 (文化財学習シートから) |
若宮山古墳の南に隣接して1基の円墳が陪塚として知られていたが、
後円部背後墳端から小さな谷状の鞍部をはさんで北に約10mほど行くと直径約10m、高さ約1mの円墳
前方部の先へ約30m行くと直径約20m、墳頂平坦面径約10m、南側高さ約3m・北側高さ約1mの円墳が同じ尾根上にある
さらにそこから尾根上を南へ約50m下ると、直径15〜18m、墳頂平坦面径約10m、高さ約2mの円墳
計5基からなる古墳群を形成していることが判明した。
(2010年度琵琶湖博物館研究セミナー 「前期小形前方後円墳の史的位置 用田 政晴」から)
若宮山古墳 前方部から後円部 |
若宮山古墳 後円部から前方部 |
若宮山古墳 盗掘坑 |
若宮山古墳 後円部の葺石 |
若宮山古墳の手前には、古墳状の高まりがいくつか確認できたが、
本当の墳丘が特定できないので、写真は載せないことにする。
宇賀神社から登ると、若宮山古墳を過ぎた所に、柵があり、柵を越えた所に、若宮山古墳の説明板がある。(?)
山本山城跡 |
長浜市高月町西阿閉 |
若宮山古墳から、高さ160m以上の登り。ゆっくり登って30分、山本山城二の丸跡 着。
標高324.9m。
山本山からの眺望
左から竹生島、葛籠尾崎
山本山城の大手道は、山本山市場地区の中央部に位置する朝日小学校裏手の登り口と考えられている。
若宮山古墳を見たくて、南西の宇賀神社から登ったが、南東の朝日小学校から登った方が、登りやすかったのかもしれない。
山本城 二の丸跡 |
山本城 本丸跡 |
山本城 本丸から堀切を渡る。 |
山本城 一番馬場跡 |
山本城 二番馬場跡 |
山本城 馬の蹴跡 |
山本山城が歴史に登場するのは治承4年(1180)に、 山本義経の本拠である山本山城を平知盛・資盛が攻撃した時とされる。 その後、京極氏の被官であった阿閉(アツジ)氏が入ってその本拠とした。 元亀年間(1558〜1573)織田信長による浅井攻めに際しては、 浅井氏の居城・小谷城の支城として位置づけされていたが、 元亀4年(1573)阿閉貞征が織田信長に降ったことで小谷城は孤立し、 浅井氏の滅亡の一因となった。 阿閉貞征は秀吉の与力となり山本山城と伊香郡内の本領を安堵されたが、 天正10年(1582)本能寺の変で明智光秀に加担して、秀吉方の長浜城を攻めた。 しかし、山崎の合戦で光秀を破った秀吉に追討され一族全て殺され、山本山城は廃城となった。 |
長浜市北部 終わり