北村さんちの遺跡めぐり
2023/3/10
地元加賀の話題あれこれ 2022年度後期 |
2022/9/23〜2023/2/26 |
2022年度下期の、現地説明会、なぞとき調査隊、講演会、北陸中日新聞記事など、
2023年2月26日の「令和4年度発掘報告会 いしかわを掘る」で報告された内容も交えて紹介です。
なぞとき調査隊 活動再開 河田向山古墳群 コウダムカイヤマコフングン |
能美市泉台町 |
2019年12月に、河田向山古墳群の調査に向けて、
「なぞとき調査隊」(加賀立国1200年遺跡魅力発信委員会)が発足した!
なぞとき調査隊には、私の夫が参加して、2019年は12/12〜21の期間で、
古墳群北の仮称1・2号墳周辺での下草の仮払いや低木の間伐を行なった。
2020年3月にも予定されていたが、コロナ禍で中止になり、その後ずっと中断していた。
2019年なぞとき調査隊のページ
2023年10月に活動が再開です!
地図g
活動再開パンフレット |
3年間何にもできなかったので、前回きれいにした仮1・2号墳も元に戻ってしまった…
河田向山古墳群の位置
(前回の「河田向山古墳群だより」から)
能美市と小松市の境界にまたがる
仮1号墳・2号墳は能美市
その他は小松市となる。
この河田向山古墳群と同じ丘陵の東にある
小松市八里向山F遺跡7号墳からは、
鉄製の短甲が出土している。
まず、下草の仮払いや低木の間伐。これが重労働!
夫が参加したが、私は見学のみ。
今回は金沢学院大学の考古学ゼミの学生たちが、測量実習で参加していた。
埋蔵文化財を仕事とするときは、測量の技術は必須条件だと聞いた。
活動日は、10/23・10/29・10/30・11/3・11/5・11/6の10〜12時 13〜16時
下草の仮払いや低木の間伐
仮1・2号墳の整備と南の尾根先の古墳までの道の整備。
作業の合間に 樫田氏(小松埋文元センター長)の話を聞く |
学院大生の測量実習 |
11/3には「LiDAR SLAM」による3次元スキャンの実演があった。
「LiDAR SLAM」とは 計測器を移動させながら三次元空間情報を取得する機器 森林や工場など多数の障害物がある場所はもちろん、非GPS環境下でもスキャンできる優れもの 歩きながらの計測も可能 |
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説明を聞く |
得られたデータをパソコンで見る |
2023年2月11日 河田向山古墳群なぞとき調査隊2023ミニ報告会&意見交換会
金沢学院大学生の測量調査の成果の報告会が小松埋文センターで開かれた。
金沢学院大生の発表 表題 (当日資料から) |
河田山古墳群のパンフレットができた 表紙です。 |
ミニ報告会が済んだところ |
測量調査で得られたデータから作った 仮1・2号墳の模型 まるで前方後円墳のようだ |
ミニ報告会の後、きれいになった河田向山古墳群を見学する。
河田向山古墳群 配置図
(なぞとき調査隊活動再開パンフから)
最南にある古墳は
前方後円墳の可能性が高いとみられている。
仮称1号墳は、直径20m前後の円墳と考えられている。
仮称1号墳から南に連なって、
1号墳・2号墳を含めて計6基〜8基の古墳状の高まりがある。
全てが古墳かは、調査を待つしかないが、
確実なのは6基あるそうだ。
今後が楽しみである。(古墳番号は全て仮称)
7基しか書かれていないが、私たちが見学したら、8基となってしまった。
古墳じゃないものも含まれているかもしれないが、ご容赦ください。
河田向山古墳群 | 見学日2023/2/11 |
(仮)1号墳から(仮)2号墳を見る |
(仮)2号墳から(仮)1号墳を見る |
(仮)3号墳を南から見る |
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(仮)4号墳を北から見る |
(仮)4号墳を南から見る |
(仮)5号墳を北から見る |
(仮)5号墳を南から見る |
(仮)6号墳を北から見る |
(仮)6号墳を南から見る |
(仮)7号墳を北から見る |
(仮)7号墳を南から見る |
(仮)8号墳後円部を北から見る |
(仮)8号墳後円部から前方部を見る |
(仮)8号墳前方部から後円部を見る |
(仮)8号墳前方部から後円部を見る |
(仮)8号墳後円部脇から前方部を見る |
(仮)8号墳後円部から前方部を見る |
(仮)8号墳前方部の南は斜面となって平地につながる。 | |
2022/10/24の 北陸中日新聞で紹介された。 |
ミニ報告会の日に、小松埋文センターに「加賀立国1200年ミニスタンプラリー」の冊子が置いてあったので、
小松埋文センターのスタンプをもらい、
帰り道に「能美ふるさとミュージアム」に寄りスタンプを貰った。
なんとこの二つのスタンプで、「オリジナルミニ瓦タオル」がもらえた!
スタンプラリーのパンフレット |
賞品の「オリジナルミニ瓦タオル」 |
いつもは、河田山古墳群資料館のスタンプももらわなければいけないが、
現在、リニューアル工事のため休館中です。
金沢市 観法寺墳墓群 |
金沢市観法寺 |
観法寺墳墓群(複合遺跡)は 東部環状道路の観法寺PA西側の尾根に位置している。 昨年から2ヶ年にわたって発掘調査を行っていて、 弥生時代後期の円筒土坑、中世〜近世の墓、 弥生時代後期〜終末期の墳丘墓8基とその間に竪穴建物が重複して検出された。 |
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観法寺墳墓群 全体図 (「いしかわを掘る」資料から)
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墳丘墓が8基確認された。 | 弥生時代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
墳丘墓データ (現説資料に新しいデータを加筆)
「いしかわを掘る」時点(2023年2月)では8基となっている。 |
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1号墓は全長約12.5mの四隅突出型の可能性がある。 周溝は弧を描くように掘られている。 複数の埋葬施設がある。 第1主体部aの箱形木棺部分(全長2.1m・上幅70cm)から、 鉄製短刀(全長31cm・幅2.7cm)が出土。 この短刀は、茎に切断痕があり、素環頭部分が切断された刀の可能性がある。 中心となる第1主体部bは全長6.5m以上・上幅2.6m・深さ50cmの長大な墓壙内に、 全長5m・幅80cmの箱形木棺の痕があり、ガラス小玉が出土。 外側には、木槨の痕跡もみつかっている。 弥生時代後期後半〜終末期の築造と推定されている。 7号墓は、推定全長20mだが、後世に上部が削平されていて、埋葬施設は残っていない。 海側の平坦面も含め前方後方墳だった可能性もある。 墳丘盛土の下からは、弥生時代後期後半〜終末期と考えられる大型土坑群がみつかる。 |
集落跡 | 弥生時代 |
・環濠 7号墓北側斜面に20mが確認された。 ・竪穴建物 6.9×6.7mの隅丸方形の建物の中に炉跡 弥生時代後期後半ごろの土器とともに鉄鏃や砥石・碧玉の剥片が出土 ・大型土坑群 尾根上部と斜面に竪穴上に深く掘られた土坑11基が確認された。 径2〜5m・深さ1〜2.5も平面は円形・隅丸方形・方形とさまざまだが、 底に壁溝と小穴(梯子穴?)がある。 W区では、弥生時代後期後半の土器がまとまって出土 土坑の機能は不明だが、貯蔵穴の可能性がある。 高地性集落の可能性がある。 |
古代(奈良・平安時代) 小型の竪穴状遺構 小さな穴(ピット)から、土師器や須恵器が出土。 北側斜面からは、鉄滓やふいごの羽口などの鍛冶関係の遺物が出土して、 焼土や炭化物が堆積した土坑もみつかっていることから、 遺跡内で鍛冶作業が行われていた可能性がある。。 |
中世(鎌倉・室町時代) 竪穴建物の上部を造成し、平坦面を造っている。 近くの溝から中世の土師器皿がまとまって出土していて、 この時期に尾根上で儀礼を行っていた可能性がある。 1号墓の南西部には、上部に集石された土坑がみつかり、 13世紀後半の加賀焼きの甕などが出土し、 周辺から同時期の擂鉢がみつかっていることから、 甕を擂鉢で蓋をしてその上に集石を行う中世墓と考えられている。 |
宮永遺跡 |
白山市旭丘2丁目 |
「令和4年度 発掘報告会 いしかわを掘る」に参加したところ、宮永遺跡の報告があった。
報告会の帰り道、発掘現場に寄ってみた。
北陸自動車道のすぐ北側、あさひこども園の隣接地で
「(仮称)あさひ児童センター」の建設に伴う発掘だそうだ。
地図g
宮永遺跡は、白山市の中でも北側に位置している。 周辺には、四隅突出型墳丘墓が確認された一塚遺跡や、 八田中遺跡など数多くの遺跡が密集している。 宮永遺跡は、過去3度調査されている。 昭和45年、昭和57年、平成2年、そして今回の令和4年。 平成2年の調査では、絵画土器が2点出土した。 絵画土器 2点 (「いしかわを掘る」資料から) 平成2年の出土 |
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今年度の調査は、児童センター建設部分の調査で 竪穴建物、掘立柱建物、土坑、溝などが確認されて、 弥生土器・土師器・須恵器が出土した。 |
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掘立柱建物と竪穴建物には、時期の差がある。 今回の調査で確認された掘立柱建物と、過去の調査で確認されている掘立柱建物とでは、 主軸がずれていることから、 今回確認された掘立柱建物は、今まで宮永遺跡で確認されていない時期の可能性がある。 |
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南側 |
北側 奥に見える茶色の建物が「あさひこども園」 |
竪穴建物と切りあう掘立柱建物 |
左と同じ掘立柱建物を方向を変えて見る |
発掘現場は元は公園だったらしく、かわいい公衆トイレがあった。
公衆トイレ
発掘現場にできる児童センターと
隣のあさひこども園で
この辺りは子供たちの集まる
元気な場所になることを願っている!
金沢城・兼六園・東茶屋街 |
金沢市丸の内ほか |
2022年10月末に、学生時代の友達と3年ぶりの女子会をして、金沢城跡、兼六園、東茶屋街の観光をする。
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金沢城跡 | 金沢市丸の内 | ||||
「国指定史跡 金沢城跡」 説明板 大手門から入るとみつかる。 |
戸時代後期の金沢城絵図 拡大 |
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金沢城は犀川と浅野川に挟まれた細長い丘陵地・小立野台地の先端に築かれた平山城で 本丸の標高は約60m、城下町との標高差は約30m。総面積は約30ha。 城となる前は加賀一向一揆の拠点として金沢御堂が天文15年(1546)に置かれていたが、 天正8年(1580)に織田信長の重臣柴田勝家の軍勢に攻略されて、 その指揮下にあった佐久間盛政が城主となり、 これ以降、加賀・能登・越中3ヵ国を領し、 江戸時代を通して最大の大名であった加賀藩前田家の居城として発展した。 利家、利長時代の城の姿は不明な点が多いが、 天正14年(1586)頃に天守を創建したという史料が残る。 現在の本丸、二ノ丸、三ノ丸などの配置は 寛永8年(1631)の大火後に3代藩主前田利常により整備された姿。 宝暦9年(1759)の城下町最大の大火により城の建物の大半が焼失し、 その後は再建されない建物も多かったが、 現存する石川門と三十間長屋は江戸時代に再建されたもので、 鉛瓦や海鼠壁(ナマコカベ)など金沢城の特色をよく表している。 明治維新を迎えると藩主は城外に移り、城は軍用地となった。 第二次世界大戦後は金沢大学のキャンパスとして利用されたが、 大学移転後の平成13年(2001)に県営都市公園として一般に開放され、 城郭施設の復元整備が進められている。 金沢城は近世城郭としての縄張りや 高い技術によって構築された石垣が良好に残る代表的な近世城郭の一つであり、 近世の大大名の政治権力や築城技術を知るうえで重要であることから、 平成20年(2008)に国史跡に指定された。 |
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大手門側から見た金沢城跡 |
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河北門二の門 |
五十間長屋 |
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橋爪門
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左 五十間長屋 右 河北門 |
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二ノ丸 発掘調査中 「いしかわを掘る」で報告があった。 忠実に復元するために 少しずつ発掘が行われている。 |
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「令和4年度 発掘報告会 いしかわを掘る」での報告
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石川門 |
石川門から兼六園へ
兼六園 | 金沢市丸の内 |
ご存じ! ことじ灯籠 |
霞ヶ池 |
霞ヶ池の写真を撮ったところで、スマホが固まる…。
2時間後復活したが、兼六園の写真は撮れなかった…。
東茶屋街 | 金沢市東山 | |||
文政3年(1820)、茶屋町が創設され、天保2年(1831)に一時廃止された。 その後慶応3年(1867)、東新地と改められ再興された。 |
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説明板 |
東茶屋街 (撮影日2022/10/26) |
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説明板拡大
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次はおまけです!
乗敬寺 (ジョウキョウジ) | 金沢市彦三町 |
ん(?)十年前、女子会のメンバーが このお寺の2階に下宿していた。 懐かしい! この寺は、 2013年に亡くなった俳優・石田太郎さんが、 俳優業の傍ら住職を務めていた。 下宿していた頃は、 石田太郎さんの母親が切り盛りしていた。 |
乗敬寺は、現在の住職も常駐ではなくて、行事がある時だけいらっしゃるそうだが
檀家の方々がお世話をしていて、きれいになっている。
(通りかかった女性の話から)
北陸中日新聞の記事から |
白山市西新町ほか |
北陸中日新聞から、最近の考古に関する記事を集めてみた。
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