北村さんちの遺跡めぐり
更新日2015/1/23
群馬県・2014
その5 太田市2014/11/21~24
11月22日 2日目。
太田第一ホテルで、朝食を済ませ、7時にホテルを出発。
太田市の古墳めぐり
太田市教育委員会発行の「太田市の古墳」がインターネットで公開されているので、印刷し持参した。
ホテルから東に1kmほどの天神山古墳へ。
天神山古墳 と 女体山古墳 ともに国史跡 「太田市の古墳」掲載の古墳 |
太田市内ヶ島町 |
天神山古墳と女体山古墳という大きな古墳が、隣接してつくられている。
同時期に築造されたと考えられることや、同じ方向を向いてつくられていること、
設計企画に同じ尺度を用いている可能性があることなど、
密接な関係があると考えられている。
天神山古墳・女体山古墳の位置図
(説明板から)
天神山古墳 国史跡 | 太田市内ヶ島 |
別名男体山とも呼ばれ、東日本最大の古墳。 標高40mに立地。 墳丘全長210mの前方後円墳 後円部径120m・高さ16.8m 前方部長さ92.5m・前端幅126m・高さ12m 太田天神山古墳実測図と 想定される周堀 (古墳辞典から) 馬蹄形の2重の周堀(内堀・外堀)があり、 墓域は南北355m・東西290mとなる。 北東と西に陪塚がある。 3段築成 葺石あり 後円部の墳頂に竪穴式の主体部があるが、 江戸時代に盗掘され、長持形石棺が掘り出されている。 (現在はこの石材の一部しか残っていない) 墳丘部および中堤帯には円筒埴輪、 後円部頂には器材埴輪が立っていたと考えられている。 家形埴輪や水鳥形埴輪も出土している。 5世紀中ごろの築造と推定されている。 後円部の北に、A陪塚がある。 平成20年度に南東側外堀の調査 |
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南から見た天神山古墳 左・前方部 右・後円部 |
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前方部から後円部を見る 右の小屋は社殿か |
後円部頂 盗掘でくぼんでいる 以前は長持形石棺の一部が墳丘上にあったらしい |
後円部から前方部を見る |
くびれ部脇から後円部を見る |
南側の周堀跡から見た 左奥・前方部 くびれ部付近に鳥居 |
南側の周堀跡から見た後円部 |
天神山古墳のすぐ東に、女体山古墳がある。
女体山古墳 国史跡 | 太田市内ヶ島 |
隣接する男体山(天神山の別名)に対して、女体山古墳と呼ばれる。標高40mに立地。 墳丘全長106mの帆立貝形古墳(または造出付き円墳) 円丘部径84m・高さ7m 造出部は幅18m・長さ16m 女体山古墳実測図 (古墳辞典から) 帆立貝型古墳としては 奈良県の乙女山古墳(全長128.6m)に次いで全国第2位。 周堀外側までの全長は140m 葺石あり 円筒埴輪がめぐる 盾形埴輪がある。 周囲に11~19mの周堀がある。 発掘調査はされていないが、主体部は竪穴式と考えられている。 (盗掘跡らしいものがある) 5世紀中ごろ(天神山よりわずかに先行)の築造と推定されている。 |
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女体山古墳 手前・造出部 奥・円丘部 |
造出部から円丘部を見る |
円丘部から造出部を見る |
円丘部頂 |
塚廻り4号墳 「太田市の古墳」掲載の古墳 県指定史跡 |
太田市龍舞字塚廻り |
天神山古墳から東へ約3km、農地の中に塚廻り4号墳が復元されている。
埋没古墳だ。
昭和51年度の土地改良事業のさいに偶然水田下から発見された7基の古墳のひとつ 塚廻り4号墳の測量図と埴輪の配置 (太田市の古墳パンフから) 円丘部に台形の造出部をつけた 全長22.5mの帆立貝形古墳 円丘部径17.7m 造出部幅・8.7m・長さ4.8m 墳丘と相似形の周堀は幅4.5mで、周堀を含めた全長は31.4m 円筒埴輪269(普通円筒253・朝顔形16) 形象埴輪35(人物14・家1・盾3・太刀5・馬2) が出土し、国重文に指定された。 主体部は、円丘部中央と北側裾部の2ヶ所の箱形石棺 1号石棺は、痕跡のみ 2号石棺(北側裾部)では箱型石棺が発見されている。 副葬品は出土していない。 埴輪以外では土師器3しか出土していない |
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造出部手前から円丘部を見る |
円丘部から造出部を見る |
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発掘調査で明らかにされた埴輪類を 忠実に復元製作し、 当時の姿に再現した。 出土した埴輪は、並び置かれた埴輪の残りがよく、 当時の埴輪祭式を復元できることから、 出土した埴輪は国の重文に指定された。 |
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塚廻り古墳群は、水田下から発見された。 渡良瀬川の沖積作用により古墳群が埋没、 古墳群が埋没したのは、奈良時代ころと考えられている。 東西300m・南北400mの範囲内に、 帆立貝形古墳4基(1・2・3・4号墳)、円墳3基(5・6・7)が確認されている。
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塚廻り4号墳から北に車で5分の藤本観音山古墳を見学に行く。
でもこの藤本観音山古墳は、栃木県足利市なので、栃木県のページで紹介することにする。
栃木県の初めての古墳は藤本観音山古墳となる。
栃木県足利市藤本観音山古墳のページ
太田市を続ける。
円福寺の遺跡 茶臼山古墳ほか 「新田荘遺跡」として国史跡 「太田市の古墳」掲載の古墳 |
太田市別所 |
円福寺境内(古墳の東側ふもと)では、グランドゴルフでにぎわっている。
寺駐車場あり、 8時50分ころ 着。
円福寺には、いろんな史跡が混在している。
新田荘遺跡(国史跡)・・・・12世紀中ごろ源義国の子新田義重(新田氏初代)がこの辺りを開発して
「新田荘(荘園)」が成立し、新田氏一族が活躍した。
新田荘に関わりのある11の遺跡からなっているが、その中の2つの遺跡が円福寺境内と十二所神社境内
円福寺境内・・・新田政義が開基した寺と伝えられている。
境内には茶臼山古墳がある。
前方部の東裾には新田氏累代の墓と伝えられる20基余の凝灰岩製の石層塔・五輪塔群がある。
十二所神社境内・・・円福寺本堂の西、茶臼山古墳の後円部頂近くにある。創建された時代は不明。
16体の神像が安置されている。このうち5体は市重文となっていて、1259年に造られたと刻まれている。
平安時代は神仏混合が進み、寺院境内に神々を祀ることが普及していることが分かる。
円福寺境内
中央の森が茶臼山古墳後円部
左の石段から墳丘に上がる。
右の円福寺本堂は近年改築された。
内部には新田氏の第4~7代の位牌が安置されている。
古墳の後円部には十二所神社、くびれ部辺りには千手観音堂と「石憧」、前方部には馬頭観世音堂と墓
など見どころいっぱいの古墳だ。
円福寺茶臼山古墳 「別所茶臼山古墳」ともいう 円福寺茶臼山古墳測量図 (太田市の古墳パンフから) 全長168mの前方後円墳 後円部径96m・高さ14m 前方部前端幅(現存)42m・高さ9m 後円部3段 前方部2段築成 葺石(河原石) 中ほどのテラスには円筒埴輪がめぐる。 形象埴輪は確認されていない。 馬蹄形の周堀があり、 後円部北側にその名残が残っている。 埋葬施設や出土品は不明、5世紀前半の築造と推定されている。 後円部の十二所神社、東側は円福寺の境内となり 削られている。 |
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西から見た円福寺茶臼山古墳 左・後円部 右・前方部 |
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後円部 左の建物はは十二所神社 十二所神社本殿には、30cm弱の一木造で、 彩色のほどこされた 16体の神像が安置されている。 |
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後円部から前方部を見る 中央奥の建物は、前方部上の馬頭観世音堂 右に見える説明板は「石憧」のもの |
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別所円福寺・石憧 先祖供養のための石造物 千手観音堂の横にある。 高さ142cmの安山岩製 長亨3年の銘文がある 大きな説明板がある。 |
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前方部の一番高い所には墓がある |
くびれ部には千手観音堂がある。 奥が後円部 左側に「石憧」 |
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伝新田氏累代の墓 茶臼山古墳前方部東裾の覆い屋の中にある。 多層塔・五輪塔・板碑の台石20基ほどがある。 この中の1基の五輪塔に新田義貞の祖父新田基氏の法名「沙弥道義」の銘文がある。 昭和54年の発掘調査で、埋葬施設が確認され、骨臓器などが出土している。 |
八幡山古墳 「太田市の古墳」掲載の古墳 |
太田市大島字八幡山 |
太田市役所の北1kmほどのところ、金山丘陵南の独立支丘八幡山(標高78.5m)の山頂にある。
南側の石段の上りがきつそうなので、西側の裏口から上ったが、こちらもきつかった。
西側の空き地に駐車させてもらった。
八幡山古墳は 全長84mの前方後円墳 後円部径50m 前方部幅35m 円錐台状の後円部に対し、 低平な前方部であるところは、古式の前方後円墳の形状と考えられている 八幡山古墳測量図 (太田市の古墳パンフから) 葺石あり 後円部頂に建てられている八幡宮社殿の西側で 長方形に割石が詰まった範囲が見られることから、 竪穴式石室があると想定されている。 踏石に使われている板状の緑泥片岩は石棺の一部と考えられている。 太刀と鏡が出土したと言われているが、現存しない。 円筒埴輪が出土している。 4世紀末~5世紀初頭の築造と推定されている。 |
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前方部から後円部を見る |
くびれ部あたりから後円部を見る |
社殿の踏石には石棺の一部が使われている? |
後円部から前方部を見る |
市場稲荷山古墳 「太田市の古墳」掲載の古墳 |
太田市市場 |
工場地帯を通って行くとあった。 10時10分ごろ 着。
かつての渡良瀬川の旧流の右岸にある。
市場稲荷山古墳は 径32m・高さ4mの円墳と考えられているが、 |
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全景 南側から見る りっぱな円墳だ。 |
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墳頂の社殿 |
墳丘の出っ張り部分 |
厳穴山古墳 へ続く