北村さんちの遺跡めぐり」
更新日2022/7/21
初めての九州 大分県と福岡県 その3 豊後高田市・宇佐市・中津市 |
2022/5/7~5/15 | |
(2022/5/7は神戸からフェリーに乗るだけ)
九州上陸、 第2日目(2022/5/9)です。
朝7時10分、「ホテルフジヨシ」チェックアウト。 熊野磨崖仏を目指します。
熊野磨崖仏 国史跡・国重文 |
豊後高田市田染平野 見学日2022/5/9 |
熊野磨崖仏に一番近いお寺・胎蔵寺に駐車して、熊野磨崖仏を目指す。
駐車場には受付がある。
熊野磨崖仏の入山料は、一人300円。パンフレットをもらう。
胎蔵寺 | |
国東六郷満山霊場・第5番札所 | |
胎蔵寺 |
胎蔵寺 境内 |
金ぴかの貼り不動様 左奥に干支の石仏がある。 |
お堂後ろの斜面には多くの石仏が置かれている。 |
鬼が一晩で築いた石段の話 (駐車場説明板から) |
胎蔵寺から山道を登ると、鬼が一夜で築いたと伝えられている自然石の乱石造りの石段にかかり、
この石段を登ると左手に磨崖仏が見えてくる。
登り口 |
鬼が築いた石段 |
左・不動明王 右・大日如来 伝説では、磨崖仏は養老2年(718)、仁門菩薩が設立したといわれていて、 近くの山中には「御所帯場」とよばれる作業時の宿泊跡がある。 |
|
大日如来像は 高さ6.8m 頭部は両耳の後ろまで深く彫られているが、 体の下の方に向かって次第に浅く刻み、 膝上あたりはよく分からない。 頭部に円光背を負い、大粒の螺髪が刻まれている。 端正な顔立ちで、頭部上方には3面の種子曼荼羅が刻まれている。 国東半島はもとより大分県下の磨崖仏では最も古く、 11世紀頃 ( 平安時代後期 ) のものと考えられている。 |
|
不動明王は 高さ8m 国内最大級 大日如来像に比べて浅彫りで、 胴部から下はよく分からない。 柔和というより、ユーモラスな顔をしている。 不動明王の両脇には、何体かの像が彫られているが、摩耗が激しくてよく分からない。 大日如来像より時代が下った 12世紀後半頃(平安時代末期~鎌倉時代前期)の制作と考えられている。 |
磨崖仏から、さらに少し上がったところに熊野神社がある。
熊野権現熊野神社 | |
熊野神社拝殿 |
|
拝殿うしろの本殿右側にも 崖に彫られた仏像がある。 |
その右側にも続いている。 |
インターネット上に
「ぶんごたかだ文化財ライブラリーvol.2 豊後高田の磨崖仏」が公開されているので参考にさせてもらった。
元宮磨崖仏 国史跡 |
豊後高田市田染真中 見学日2022/5/9 |
胎蔵寺から北に約5kmの道路沿いに元宮磨崖仏がある。
田染・元宮八幡社の境内北側の岩壁に、向かって右から 毘沙門天・矜羯羅童子(コンガラドウジ)・不動明王・持国天・地蔵菩薩などの立像が薄肉彫りされている。 磨崖仏の仏龕の周囲には四角形のホゾ穴がいくつか穿たれていて、 かつては磨崖仏を風雨から守るための覆屋が建てられていたと考えられている。 平安時代後期、宇佐宮領・田染荘の鎮守として勧請された元宮八幡社が、 田染荘の拡大発展とともに田染二宮、三宮と分祀されたのが1351年(観応2)と伝わっていて、 元宮磨崖仏がこの頃につくられたと考えられている。 |
|
絶壁に覆い屋が建てられている |
覆い屋の中には、磨崖仏 |
現地説明板 |
|
他にも、鍋山磨崖仏、福真磨崖仏など、10数か所もの磨崖仏があるという。
穴瀬横穴群 県史跡 |
豊後高田市美和 見学日2022/5/9 |
元宮磨崖仏から北東へ、豊後高田市の市街地手前、桂川と都甲川の合流地付近の丘陵崖面にある横穴墓。
インターネット上に
「ぶんごたかだ文化財ライブラリーvol.3 豊後高田の古墳」が公開されているので参考にさせてもらった。
整形した入口部に円文や同心円文といった幾何学文様を赤色で描いたものもある。 装飾文様の分析から6世紀後半~7世紀中頃の築造と推定されている。 |
||||
横穴その1・その2 |
横穴その1 |
|||
横穴その2
|
||||
16号横穴 (横穴その3)
|
||||
横穴その4 |
横穴その5 |
|||
横穴その6
|
||||
横穴その7 |
横穴その8 |
16号横穴は、「豊後高田の古墳」とつきあわせて、ようやく古墳番号がわかった唯一の古墳だ。
雷鬼の岩屋古墳 市史跡 |
豊後高田市美和 見学日2022/5/9 |
「豊後高田の古墳」に掲載されている古墳。
穴瀬横穴古墳の北約100m、雷(イカズチ)地区といわれているところにある。
開口した石室を見た人々が「鬼が棲む」と噂したことから「鬼の岩屋古墳」と呼ばれている。
雷(イカズチ)鬼の岩屋古墳は市域に現存する最大規模の複室構造の横穴式石室がある。 石室は羨道部の一部が消失しているが、内部そのものは良好に残る。 石室の全長7.3m、玄室(奥室)の奥行2.8m・幅2.4m・天井高2.4m。 出土物は不明。 古墳時代後期(6世紀後半)の築造と推定されている。 雷鬼の岩屋古墳 石室実測図 (「豊後高田の古墳」から) 玄室奥壁には巨大な一枚岩を約6度内傾して立て、 側壁は前・玄室ともに巨大な一枚岩の腰石の上に、 やや持送りながら扁平気味の割石や川原石を 比較的乱雑に積んで天井石を架けている。 |
|
墳丘 ブルーシートの向こう側に 開口している |
|
前室から玄室(奥室)を見る |
石室内部 |
玄室(奥室)から前室・開口部を見る |
墳頂に石材が多数あり、 頭部のもげた石仏が立っている |
オーナーの高齢女性とお話しすることができた。
「前は墳丘の除草や掃除ができたが、高齢となりできなくなったので、町にお願いしている。」
除草が終わってから日が経っていないらしく、墳丘をしっかり確認できた。
石室入口がビニールシートで覆われているので、石室内部が青く写るのが残念だ。
真玉大塚古墳 市史跡 |
豊後高田市西真玉 見学日2022/5/9 |
「豊後高田の古墳」に掲載されている古墳。
前方部に神社があるが、どこから入っていいか分からない。
真玉大塚古墳は、墳長100mの前方後円墳 周囲に二重の盾状の周濠が廻る 外濠まで含めると全長135m 前方部・後円部ともに三段築成 葺石あり 埴輪あり 出土した円筒埴輪の大多数には、底部にくぼんだ「段」がある。 この特徴は「淡輪系埴輪」という、大阪府南部から和歌山県にみられる埴輪の形式で 畿内地方と密接な関係があったと推測されている。 古墳時代中期後半(5世紀中頃)の築造と推定されている。 真玉大塚古墳墳丘測量図 (「豊後高田の古墳」から) 墳丘は 神社の造営や、 土取りなどによって 大きく損壊している。 致斎神社が前方部にある。 真玉川と赤坂川によって隔てられた 周防灘を眼前に見渡す段丘の先端部に立地。 現在は干拓によって海岸線が後退しているが、 築造当時は段丘の突端まで海が迫っていて、 海からの眺望を強く意識した古墳だったと考えられている。 真玉大塚古墳は古くから知られた前方後円墳で、 1995年(平成7)~97年(平成9)に確認調査。 |
北東から見た真玉大塚古墳 左が前方部 右が後円部 周濠跡が確認できる。 |
眺めるだけ…。
入津原丸山古墳 県史跡 |
豊後高田市中伏入津原 見学日2022/5/9 |
「豊後高田の古墳」に掲載されている古墳。
入津原(ニュウヅバル)公民館の敷地内に、説明板がある。
この公民館に駐車。
|
|||||
入津原丸山古墳は 広瀬川南岸の段丘の突端部に位置している。 全長77mの帆立貝形古墳 円丘部70m・高さ10m 造出部長さ7m・幅23m 円丘部3段築成 周囲に濠を巡らしている。 埋葬施設は安山岩製の箱式石棺で、墳丘上にある石碑に部材の一部が転用されている。 仿製銅鏡・勾玉・鹿角製刀装具・革綴短甲・滑石製品などが出土。 出土品は現在、東京国立博物館が所蔵している。 円筒埴輪・朝顔形埴輪などが現地で採集されていて、 その中には、方形もしくは三角透かしとみられるものがあり、 これらの特徴から、4世紀末~5世紀初頭(古墳時代中期前半)の築造と推定されている。 1901年(明治34)に発掘調査 |
|||||
墳丘 周溝跡は耕作地となっている。 |
墳丘入り口に立つ標柱 |
||||
箱式石棺の石材が利用されたという石碑 |
小さな石祠もある。 |
||||
墳丘上には、陥没したところがある |
周濠跡 |
国東半島には、他にも興味深い古墳があるが、時間の関係で飛ばします…。
宇佐風土記の丘 国史跡 |
宇佐市高森 見学日2022/5/9 |
宇佐風土記の丘は、川辺・高森古墳群を守るためにつくられた史跡公園。
川部・高森古墳群は 宇佐平野を南から北へ流れる駅館川東岸の台地上に造られている。 6基の前方後円墳を中心に円墳や方形周溝墓など約120基で構成されている。 3世紀末~6世紀の築造と推定されている古墳群。 |
||
現地案内板に加筆 |
||
赤塚古墳 | 全長約57.5mの前方後円墳 | 3世紀後半 |
赤塚方形周溝墓群 | 20基ほど | 4~5世紀 |
角房古墳 | 全長46mの前方後円墳 | 4~5世紀 |
車坂古墳 | 全長58mの前方後円墳 | 4~5世紀 |
地蔵堂古墳 | 小円墳 | |
車坂方形周溝墓群 | 数基 | |
車坂東古墳群 | 数基の小石室が露出 | |
鶴見古墳 | 全長31mの前方後円墳 | 6世紀 |
福勝寺古墳 | 全長80mの前方後円墳 | 5世紀 |
免ヶ平古墳 | 全長51mの前方後円墳 | 4世紀 |
月曜日なので歴史博物館は休館日。
そばにある赤塚古墳から見学。
赤塚古墳 | |
全長57.5mの前方後円墳。後円部径36m・前方部幅21m、 前方部が後円部に比べて低くなる古式の形状 幅8.5~11mの空堀がある。 葺石・埴輪は確認されていない。 周濠部から土師器壺が見つかっている。 1921(大正10)年、後円部中央付近で箱式石棺が見つかり、 三角縁神獣鏡5面や玉類(碧玉製勾玉ほか)、鉄製品鉄斧・(刀など)などが出土した。 特に三角縁神獣鏡は、京都府の椿井大塚山古墳と同じ鋳型でつくられたものがある。 3世紀末頃の築造と推定されており、県内でも最古級の前方後円墳とされている。 |
|
左・前方部 右・後円部 |
|
後円部から前方部を見る |
前方部に大穴がある。 |
前方部から後円部を見る |
前方部裾から後円部を見る |
赤塚古墳と赤塚方形周溝墓群の配置図 (説明板から)
赤塚方形周溝墓群 | |
赤塚古墳の西から南西部に、4~5世紀に築かれた20基ほどの方形周溝墓 一辺5~10mの範囲を溝で囲み、 その中央部に箱式石棺や土壙墓、礫積小石室などの埋葬施設を作ったもの 墳丘には低い盛土があったと推定されている。 赤塚周辺の周溝墓群は5、6基ほどで1つのグループをつくり、 これがいくつか集合して全体を構成している。 宇佐平野を支配した首長の墓である赤塚古墳をめぐって広がるこれらの周溝墓は、 首長を支える階層の墓ともみなされている。 発掘調査で確認された遺構の現位置上に、造られた当時の形を想定して復元したもの。 |
|
奥から3号墓、4号墓、5号墓 |
左から7号墓、6号墓、5号墓、4号墓 |
左4号墓、右3号墓 |
3号墓の箱式石棺 |
4号墓 |
4号墓の箱式石棺 |
5号墓の土壙と箱式石棺 |
6号墓の箱式石棺 |
7号墓 |
7号墓の箱式石棺 |
17号墓 左奥は3号墓 |
|
手前から16号墓、15号墓、14号墓 |
16号墓の箱式石棺 |
15号墓 奥は14号墓 |
15号墓の箱式石棺 |
14号墓の土壙墓 |
12号墓の礫積石室 |
駅館川(ヤッカンガワ)の段丘に沿って4基の前方後円墳が並んでいる。北端にあるのは 角房古墳。
角房古墳 (カクボウコフン) | |
全長46mの前方後円墳 後円部の直径30m・高さ4m 前方部の幅18m。 前方部は消失している。 周囲に幅7.4~12mの空濠を有する。内部は未調査である。 5世紀に福勝寺古墳、車坂古墳に次いで築造されたものと推定されている。 角房古墳実測図 (説明板から) 後円部だけが 小さくなって残っている。 そばに方形周溝墓がある。 昭和52年に発掘調査 |
|
周濠跡がわかるようになっている。 |
円墳にしか見えない |
角房古墳の南西にある前方後円墳は車坂古墳。
車坂古墳 | |
全長58mの前方後円墳。 後円部径36m・前方部長さ23m・前方部幅21m 周溝(空堀)幅11~22m。 古墳の北側は駅館川の川谷に接するため濠をつくらず、 南から東側にかけて広い空堀をめぐらしている。 葺石あり 埋葬部は未調査 4~5世紀の築造と推定されている。 車坂古墳実側図 前方部を東に向けている。 |
|
左に後円部 墳丘はジャングルとなっていて、形がなかなか分からない。 |
|
後円部側 |
くびれ部あたり |
車坂古墳の南西20mには地蔵堂古墳という小円墳がある。
地蔵堂古墳
小円墳、詳細不明。
車坂古墳の南側の広場には、方形周溝墓が数基ある。
現在1、2号墓が復元されている。
車坂方形周溝墓群 | |
車坂古墳南側に、数基の方形周溝墓があり、5世紀中ころ~後半の築造と推定されている 石棺など墳墓の主体部の周囲を溝で方形に囲んだ墓を方形周溝墓という。 弥生時代に近畿地方を中心に流行した墓制だが、 九州では、古墳時代の初めに前方後円墳などとともに採用されている墓制。 宇佐風土記の丘では、前方後円墳を取り囲むように分布している。 前方後円墳の被葬者に次ぐ階層の人々と考えられている。 (説明板から) |
|
車坂1号方形周溝墓 |
車坂2号方形周溝墓 |
車坂古墳の東の公園内道路沿いのあちこちに小石室が露出しているのは車坂東古墳群。
車坂東古墳群 | ||||
車坂古墳をとりまく古墳群で小さな石室が露出している。 | ||||
車坂東1号墳 玄室長3m・幅1.5mの竪穴系横口式石室 羨道がなく、玄室入口(玄門)の形や、斜めに下降する墓道の構造などに特徴がある。 出土物はない。 5世紀末~6世紀初めの築造と推定されている。
|
||||
車坂東2号墳 周溝を持つ径8mの円墳 周溝幅1.5m 石室は、玄室長2.1m・奥壁幅0.8mの竪穴系横口式石室。 石室内から、剣1、鉄鏃2 周溝内から須恵器・甕が出土 5世紀代~6世紀初めの築造と推定されている。 遊歩道の間に石室が露出している。 |
||||
車坂東3号墳 小サイズの竪穴系横口式石室。
|
||||
車坂東4号墳 安山岩の板石を立て、その上に河原石を積み上げ棺を作っている 長さ2.1m・幅0.6mの石棺系石室。 刀子が出土 5世紀の築造と推定されている。 石棺と石室の二つの要素をあわせもつ特異な様式
|
車坂古墳の南西にあるのが福勝寺古墳。
福勝寺古墳 (春日山古墳とも呼ばれている) | |
全長80mの前方後円墳 川部・高森古墳群中で最大規模をもつ。 後円部径54m・前方部長28m・前方部幅22m、 後円部北側に幅10m・奥行8mの造り出しがある。 3段築成で葺石あり。周溝や埴輪は確認されていない。 埋葬部は未調査 赤塚、免ヶ平古墳に次いで5世紀前半頃の築造と推定されている。 福勝寺古墳 実測図 墳丘の南東側が大きくえぐられている。 |
|
後円部頂 三角点がある。 |
後円部から前方部を見る 細くなった前方部 |
前方部から後円部を見る |
前方部裾から後円部を見る |
福勝寺古墳 横姿 |
福勝寺古墳の東から南にかけて、福勝寺墳墓群がある。
福勝寺墳墓群 |
箱式石棺墓、土壙墓、小円墳など、いろいろな種類の墓が集まっている。 |
福勝寺古墳と福勝寺墳墓群の配置図 箱式石棺が1基 露出しているというが 見学忘れました…。 1・2号墳・・・横穴式石室がある小円墳 1号墓・・・石で蓋をした土壙墓 2号墓・4~11号墓・13~15号墓・・・土壙墓 3号墓・・・箱式石棺のある方形周溝墓 12号墓・・・箱式石棺墓 |
福勝寺古墳の東、大池の向こうにあるのが、横穴式石室がみられる鶴見古墳。
鶴見古墳 | |
全長31mの前方後円墳 後円部径22m・前方部幅約18m、周濠幅3~4.5m 墳丘図 (説明板から) 後円部に比べて 前方部が極端に短い帆立貝式古墳。 前方部前面に陸橋がある。 葺石・埴輪は確認されていない。 後円部北西方向に開口する片袖型の横穴式石室は長さ3m・幅2m・高さ2.5m、 石室図 (説明板から) トンネル状の羨道部がなく、 石室入口に直接墓道がつく。 入口から玄室には 2段の框石](カマチイシ)を降りて入る。 石室石積は大形の板石を腰石に用いて、 その上部に河原石を8~12段ほど、ドーム状に積んでいる。 最後に天井をふさいだ平らな石は1.3tもの重量がある。 馬具・刀子・鉄鏃・銅釧・ガラス小玉・須恵器・土師器などが出土。 石室内や周辺から銅釧や鉄鏃、馬具、土師器、須恵器などが出土している。 6世紀中頃の築造と推定されている。 川部・高森古墳群で最後に築造された前方後円墳と考えられている。 昭和59・60年度に保存修理工事 |
|
左が前方部 |
後円部手前から見た墳丘 |
開口部 羨道部というより前庭のように見える |
石室入口には柵があって入れない |
奥壁周辺 |
|
天井 |
床には石が敷かれている。 |
福勝寺古墳の道路を挟んで南東にあるのが免ヶ平古墳。後円部しか残っていない。
免ヶ平古墳 | |||||
前方部を南に向けた全長51mの前方後円墳。 後円部径28m・高さ4.5m 前方部長22m・前方部幅15m 周溝幅5~15m(東側だけ) 墳丘図 前方部は消失している。 葺石はあるが、埴輪はない。 後円部墳頂に、竪穴式石室と箱式石棺の2基の埋葬施設がある。 粘土床に割竹形木棺が納められた竪穴式石室は 長さ5.1m・幅0.9m 仿製三角縁神獣鏡、舶載二神二獣鏡、ヒスイ製勾玉や管玉、碧玉製石釧などの装身具 太刀や鉄槍、刀子などの鉄製武器、斧や鎌などの鉄製農工具が出土 箱式石棺は、竪穴式石室と平行して、 板石を組み合わせてつくられていて、長さ1.9m・幅0.5m 女性の人骨とともに舶載二神二獣鏡、 碧玉製石釧・勾玉・管玉・ミニチュアの刀子などの装身具が出土 出土品は国の重要文化財に指定されている。 4世紀末頃の築造と推定されている。 |
|||||
円墳にしか見えない |
頂部の埋葬施設は見ることはできない |
||||
|
埋葬施設が見学できなくて残念だ。
川部遺跡の墳墓群 | 宇佐市川部 見学日2022/5/9 |
免ヶ平古墳の東南側にある古代ふれあい広場にも古墳らしきものがある。
川部遺跡 | ||||
免ヶ平古墳の東から南側に広がる川部遺跡では、環濠集落が見つかっている。、 川辺遺跡の環濠集落の説明板 |
||||
川部遺跡の墳墓群 環濠集落の外側に、当時の共同墓地があった。 4~5世紀の低方墳20基、5~6世紀の低円墳19基、土壙墓10基などが確認されている。 |
||||
川部遺跡の墳墓群 1号墳は墳丘が復元されている。 まわりにある方形周溝墓は わずかな地面の高まりで表されている。 |
||||
埴輪を巡らした1号墳 1号墳は、「石棺」のまわりを一辺10mの溝で区画した低方墳 西側の隅は溝が切れているので墓道と考えられている。 溝の中から埴輪が出土。 円筒埴輪が多く、口が開いた朝顔形円筒埴輪は四隅付近からみつかっている。 東側に家形埴輪や高杯などが出土していて、墓の正面と考えられている。 出土した埴輪から、5世紀後半頃の築造と推定されている。 前方後円墳には埴輪がなく、 周辺の小規模古墳には埴輪が用いられていることは、宇佐古墳文化の特徴の一つ。
|
1号墳の説明板があったらしいが、見あたらない…。
宇佐神宮そばの「車輪屋(クルマヤ)うどん」で昼食。
美味しい肉うどん
いただきました!
宇佐神宮 | 宇佐市南宇佐 見学日2022/5/9 |
時間の関係で鳥居だけです…。
宇佐神宮は、豊前国一宮で、 全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。 石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。 古くは八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。 また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして、 正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。 現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれている。 |
|
北参道 |
北参道鳥居 |
凶首塚古墳 県史跡 |
宇佐市南宇佐 見学日2022/5/9 |
宇佐神宮の西に石室が露出した古墳がある。
宇佐神宮へと続く勅使街道沿いにあり、大分県の史跡に指定されている。
凶首塚古墳(キョウシュヅカコフン)は 直径15mの円墳 宇佐盆地を臨む台地上に造られている。 封土はなくなっていて、石室が露出している。 玄室しか残っていない。 高さ約2m・幅1.m・厚さ0.4mの4つの巨石で造られている。 6世紀後半~7世紀初頭の築造と推定されている。 |
|
「凶首塚」という名は、720年に南九州で起きた隼人の反乱の際、 八幡大神が隼人討伐に尽力し、百個の隼人の首を持ち帰り葬ったという伝説に由来する。 しかし、この古墳はこの反乱以前から存在している。 |
|
赤い柵の中にある。 |
|
4つの巨石以外は何もない |
方向を変えて見る |
葛原古墳 国史跡 |
宇佐市葛原 見学日2022/5/9 |
宇佐風土記の丘の西約2kmの農地の中に、古墳がある。
南側に駐車スペースあります。
葛原古墳は 直径53m・高さ6mの円墳。 駅館川下流左岸の微高地にある。 周濠がある。 墳丘には円筒埴輪列がある。 墳頂部に長さ2.5mの竪穴系横口式石室がある。 石室に平行して仕切り石があり、刀剣を置くための突起石がある。 石室内部から 四獣鏡(仿製)や玉類(メノウ製勾玉など)、武具(甲冑)など数多くの副葬品が出土した (市指定有形文化財・考古資料となっている。) 石室は明治時代に発掘された。 5世紀後半の築造と推定されている。 |
|
全景 |
|
入口に門のような石柱が立つ |
石柱の足元に埴輪の破片? |
墳頂部に露出した石室が 覆屋で保存されている。 |
|
覆い屋の中 その1 |
覆い屋の中 その2 |
駐車したところの横も古墳か?
葛原古墳の墳頂から南を見る 自動車の奥は古墳? |
円墳みたいだ。 |
葛原古墳の東に墓地があるが、そこも元は古墳だったのか?
ガソリン給油 「ENEOSセルフ宇佐バイパスSS」にて
相原山首遺跡 県史跡 |
中津市相原 見学日2022/5/9 |
中津総合運動場の西にある風の丘葬斎場の敷地内に保存された墳墓群。
相原山首遺跡は 丘陵の突端につくられた墳墓群 1993年火葬場の立て替えに伴う発掘調査で確認された。 古墳8基、方形周溝墓1基、火葬墓17基、土壙墓7基 4世紀~近世にわたって連綿と形成された一大墓地群。 4~5世紀の方形周溝墓9(号墳)に始まり、5世紀の中津市最大級の円墳(1号墳)、 7~8世紀の古墳時代末期の方墳(2~8号墳)、 8世紀後半以降は火葬墓(1~17号)や土壙墓(1~7号)へと、墓の変遷をたどることができる。 (説明板から) |
||||
相原山首遺跡 配置図 (説明板から) |
||||
相原山首遺跡 発掘時航空写真 (説明板から) |
||||
|
一番大きいのが1号墳。
1号墳 造り出しのある直径18mの円墳 中津市内では最大級の円墳 造り出し周辺の溝からはそうと呼ばれる須恵器が出土。 墳丘のすそには木柱が立ち並んでいたと考えられていて、これは木製埴輪の可能性がある。 5世紀中ごろの築造と推定されている。
|
1号墳の東側に、2号墳から9号墳が南北に並んでいる。
2~8号は方墳 7世紀~9世紀前半の築造と推定されている。 3号墳以外は横穴式石室で、河原石を床に敷き詰め、大きな石で1段目の壁を造っていた。 形は丸みを帯びたものや角ばったものがある。 最大の4号墳は、一辺10mほど 古墳の入口からは細長い排水溝がのびている。 |
||
2号墳 方墳
|
||
9号墳 2号墳に接する方形周溝墓 墳丘の対角線上に土壙墓がある。 古墳群中最古の4~5世紀の築造と推定されている。
|
||
3号墳(1号火葬墓) 古墳でありながら、石室を持たず骨壺を納めた珍しい方墳 横穴式石室をもつ方墳が、火葬骨壺のみを納めた方墳へ移り変る。 9世紀前半の築造と推定されている。 この後は墳丘のない墳墓になっていく。
|
||
4号墳 一辺10mほどの方墳 方墳としては群中最大
|
||
5号墳 方墳 |
||
6号墳 方墳
|
||
7号墳 方墳
|
||
8号墳 方墳 墳丘 |
古墳と火葬墓、土壙墓などが混在している。
火葬墓(1~17号) 奈良時代から近世までの火葬墓がある。 8世紀後半~9世紀にかけては6号→4号→1号(3号主体部)の順に、蔵骨器に入れて埋葬された 4号では、穴の底に土器をばらまいて火葬を行っている その後集めた骨を蔵骨器に入れ、石組にすえて河原石で蓋をした様子が観察されている。 2号墳と1号墳の間にある火葬墓 2号墳側から1号墳をみる。 説明板の右は7号火葬墓か 奥が1号墳 |
土壙墓 (1~7号) 遺骸を直接埋葬したもので、 穴を掘っただけのものと、4号のように玉砂利を敷きつめたものがある。 2号墳では、白磁の碗、皿、素焼きの土器などが出土し、 胸に短刀が置かれているので、中世の墓と推定されている。 手前 1号土壙墓 奥は1号墳 |
いろんな墳墓をみられて、楽しい遺跡だ。
午後2時半となりました。大分県終わります。
次回から福岡県に入ります!
穴ヶ葉山古墳群(福岡県)へ つづく
大分県のトップ へ