北村さんちの遺跡めぐり」
更新日2022/6/17
初めての九州・大分県と福岡県 その1 大分市・臼杵市 |
2022/5/7~5/15 | |
「北村さんちの遺跡めぐり」 初めて九州へ上陸しました!
2022/5/7、六甲アイランド港19時50分発「サンフラワーパール」で、翌朝 7時20分に大分港着。
サンフラワーパール 客室は、6階の二段ベッドのお部屋です。 |
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出航時、 職員の方がライトを振って送ってくれる |
さようなら!東神戸大橋 |
夕食 船内レストランのテイクアウトカレー |
朝食バイキング |
翌朝(5/8)、7時半過ぎに下船!
大分港から臼杵石仏公園を目指し、まず亀塚古墳から見学開始です!
亀塚古墳公園 亀塚古墳は国史跡 |
大分市里 見学日2022/5/8 |
記念すべき最初の古墳は、整備された立派な古墳。
そばには「海部古墳資料館」もある。
亀塚古墳 | 国史跡 |
全長116mの前方後円墳 後円部径64m・前方部長52m 三段築成。 西側のくびれ部に造出し。 前方部を南に向けている。 5世紀前半の築造と推定されている。 墳丘 復元図 (説明板から) 豊後水道を見下ろす県下最大の前方後円墳 墳頂部に2基の埋葬施設がある。 埋葬施設 模式図 (説明板から) 第1主体部は 9m×7mの墓壙の中に、 長さ3.2m・幅1.1m・厚さ0.1mと長さ0.9m・幅1.2m・0.1mの 板石を組み合わせた箱形石棺 地元産出の緑泥片岩を使ったいわゆる「海部の石棺」といわれるもの 遺体を安置する部分と副葬品を納めた部分に区画されている。 県下最大の石棺 短甲、鉄刀、鉄剣、鉄鏃の破片、滑石製勾玉428、 碧玉製管玉、滑石製臼玉、ガラス小玉などの玉類が多数出土 第2主体部は 第1主体部の後につくられた施設 0.3~0.5mの緑泥片岩を3~4段に積み上げて竪穴風の石室を設け、 その中に凝灰岩をくりぬき赤色顔料をほどこした石棺を安置していたようだが、 ひどく損傷を受けていた。 滑石製勾玉、碧玉製管玉が出土したが、 多くは過去の破損の際に散逸したと考えられている。 亀塚古墳の性格を示す遺物 (説明板から) |
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前方部手前から見た 亀塚古墳 前方部の南8~11mのところに、古墳と同じ石英質の礫を使った溝状遺構があるが、 これは 古墳本体から染み出した水を処理するために、工夫されたものと考えられていて、 溝の端は左右の谷へ伸びている。 |
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前方部南西脇から見た 亀塚古墳 くびれ部に造出しがある。 テラス上には白い玉砂利、 墳丘全体は白い石英質の葺石。 墳頂部の周辺に円筒形埴輪・朝顔形埴輪、 主体部の周りには家や船の形象埴輪が置かれていた。 |
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前方部から後円部を見る |
くびれ部西側の造出しがある |
後円部頂の埋葬部展示 第1主体部の石棺が復元されている。 |
第1主体部の石棺復元 副葬品を納める部分がつくられている。 |
後円部から前方部を見る |
小亀塚古墳から見た亀塚古墳後円部 |
弥生時代の石棺墓 移築 坂ノ市小学校の改築の際出土したもの 残存状態が良好だったので、 古墳公園の一角に保存された。 16枚の結晶片岩で組み立てられている。 発見時には6枚の石蓋がかぶせられ、石棺の周囲からは弥生土器の壺や器台が出土している。 |
亀塚古墳の後円部北側に小亀塚古墳がある。
小亀塚古墳 | |
全長35mの前方後円墳 後円部25m 2段築成 1段目は地山の削り出し、2段目は違う種類の土を版築工法で造成 葺石はない。 亀塚古墳の半世紀後(5世紀後半)の築造と推定されている。 小亀塚古墳の復元図 (説明板から) 後円部中央には、 くりぬき式石棺が据えられていたと考えられている。 凝灰岩製のくりぬき式家形石棺のレプリカが設置されている。 「王ノ瀬石棺(市指定文化財)」を参考にしてつくられた。 |
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亀塚古墳側から見た小亀塚古墳 |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
レプリカの「くりぬき式石棺」 |
海部古墳資料館は、9時に開館だが、9時前の見学のため、入ることはできない…。
築山古墳 国史跡 |
大分市神崎 見学日2022/5/8 |
亀塚古墳の東約6km、国道197号線沿いの神崎八幡神社境内にある。
本神崎地区の別府湾を臨む丘陵端部に築かれている。
築山古墳入口 (神崎八幡神社入口) |
神崎八幡神社境内 右に墳丘がある。 |
築山古墳は 全長98mの前方後円墳 後円部径40m (海部では亀塚古墳に次ぐ規模) 葺石あり 1932年に木の移植の際、後円部頂で未盗掘の石棺2基が発見され、調査された。 いずれも緑色片岩製の組合せ式箱式石棺で、内部には多量の朱がまかれていた。 南棺は1.95×0.75×0.8mの大きさで被葬者は3人、 中央の1体は女性で、腕には南海でとれるイモガイ製の貝輪が装着され、 頭上には鏡が置かれていた。 南棺から、15点の鉄剣・鉄刀や約90点の鉄鏃、 鉄斧や鉄鍬先などの鉄製農工具類の豊富な副葬品が出土。 北棺は1.8×0.65×0.73mの大きさで被葬者は女性1人で 巻貝(オオツタノハ)で作られた11個の貝輪が装着されていた。 亀塚古墳に先行する5世紀初め頃の築造と推定されている。 石棺に埋葬されていた4人のうち、 南石棺に最初に埋葬された女性が中心となる人物とみられることから、 臼塚古墳と同じく女性の首長だったと考えられている。 出土した多数の鉄製品は畿内からもたらされたと考えられている。 墳丘図 (説明板から) くびれ部に道路が通り墳丘を分断している。 。 南石棺の模式図 (説明板から) 石棺から出土した遺物 (説明板から) 出土品は、県指定文化財 |
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くびれ部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
石棺覆い屋 石棺は現在玉石が充填されて埋め戻され、 さらに覆屋で保護されている |
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この下に南石棺が埋められている |
この下に北石棺が埋められている |
後円部から前方部を見る |
後円部側の上り口 後円部上に石棺覆い屋がある。 |
古墳は「石棺さま」として神崎の人々に大切にされて毎年10月には石棺さま祭りが盛大に行われるそうだ。
丸山古墳 | 臼杵市稲田 見学日2022/5/8 |
次に見学する臼塚古墳のすぐ北側の三重野公民館の前には、小さな古墳が残されている。
丸山古墳は もとは径15m以上あったと考えられているが、 周囲を削られて小さくなっている。 墳頂部に置かれている石は、舟形石棺の一部で、石棺の底と考えられている。 棺身は壊され、底の部分だけが現存。一部に赤色顔料が残る。 石棺の規模は残された棺の底石から、長さ約2.5m・幅約1.0mと推定されている。 臼塚古墳の前方部に置かれている石材が、丸山古墳の石棺の蓋だと伝えられている。 蓋石の断面形状が臼塚古墳のものよりも三角形に近くなっていることから、 臼塚古墳のものより新しい時期に造られたと考えられている。 このような石棺を持つのはこの丸山古墳と臼塚古墳の2基だけで、 臼塚古墳との深い関係性を示していると考えられている。 |
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整備されて残る丸山古墳 |
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墳頂にある石棺の底石 |
墳頂には五輪塔も立っている。 |
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蓋石は臼塚古墳の前方部に置かれている。
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丸山古墳がある三重野(ミヨノ)台地には他にも、 田崎古墳、鏡塚古墳などの小規模な古墳が点在していて、 この台地が5世紀前半~中期に、海部集団の拠点であったと考えられている。 周辺の地図 (説明板から) |
丸山古墳から南を見ると、臼塚古墳が見える。
丸山古墳から見た臼塚古墳後円部
臼塚古墳 県史跡 |
臼杵市稲田 見学日2022/5/8 |
臼塚古墳は、丸山古墳の南すぐのところにある。
墳丘上に臼杵神社がある。神社前に駐車スペースがある。
除草作業の中、見学。 「ホーケキョケキョ」となくウグイスが気になる。
臼塚古墳は 臼杵湾の最奥部、熊崎川河口を望む台地の端部にある。 全長87mの前方後円墳 後円部径45m 推定前方部幅45m 後円部に大小2基の舟形石棺があり、 各石棺の内部には男女1体ずつ、、合計4体が葬られていた。 銅鏡2枚(位至三公鏡・獣帯鏡 ともに臼杵市指定有形文化財)、 貝輪や短甲、鉄鉾、鉄剣なとが出土。 5世紀前半の築造と推定されている。 石棺系装飾古墳としては最初に築かれたとされている。 くびれ部に二体の石甲(国重文)が 置かれていた③が、 現在は 墳丘裾の覆屋④に移されている。 後円部頂で発見された 2基の石棺①は 覆い屋②の中に保存されている。 (説明板から) |
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臼杵神社 奥の石段を上ったら、墳丘くびれ部 左が前方部 右が後円部 |
東裾から後円部を見上げる 後円部を削って社殿が建てられている。 |
前方部から後円部を見る |
後円部から前方部を見る 前方部には石材がいくつか置かれている |
丸山古墳の石棺の蓋とみられている石材 (丸山古墳の写真と同じ) |
その他にも、石材がある。 ほかにも石棺があったのだろうか? 左奥に丸山古墳石棺蓋が見えている。 |
墳丘脇の覆い屋には石棺が2基保存されている。
石棺 2基 | |
社殿が建てられている後円部で、1915(大正4)年、大小2基の舟形石棺が発見された。 墳頂部にあった大木が倒れ、 その際、根によって地上に持ち上げられて露出したといわれている。 どちらも凝灰岩製の舟形石棺で、身・蓋部分をくり抜いてつくられていて、 内部は赤く塗られている。 石棺の形状は、山陰・北陸地域の舟形石棺と同系統 それぞれの棺には、熟年男女の組み合わせで2体が埋葬されていた 出土した4体全ての頭骨の外耳道(耳の骨)には、 潜水作業を行なう人々によく見られる骨腫(骨の突起)があることがわかり、 葬られた人は、海を生活の舞台としている人々であると考えられている。 大きい石棺は、全長2.85m、蓋と身の長側面に3個の縄掛突起がある 2体分の人骨と銅鏡2枚(位至三公鏡・獣帯鏡)、鉄剣・鉄刀、鉄矛などが出土 小さい石棺は、全長2.25mで、長側面に2個の縄掛突起がある 蓋の表面には、四周を縁取りするため、 その内側を一段掘り下げた押縁の表現がほどこされている 人骨2体と鉄剣・鉄刀、短甲片が出土 昭和2年調査 |
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覆い屋に保存された2基の石棺 左が小さな石棺 右が大きな石棺 |
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小さな石棺を反対側から見る 蓋に模様がある 2体が埋葬されていた |
大きな石棺を反対側から見る こちらも2体が埋葬されていた |
くびれ部に2体の石甲が置かれていたが、現在は墳丘裾の覆屋に移されている。
石甲 (石製表飾) | 国指定重要文化財 |
2基の石甲は、県内では臼塚古墳と下山古墳にだけあるもの 車輪形の台石の穴に支柱を差し込むような構造となっていて、赤色顔料が残る。 両石甲の正面が、後円部の2基の石棺に相対していたことから、 石棺の被葬者を悪霊などから守る表象としての武人を あらわしたものと考えられている。 2基の石甲の形態的な相違は、時間的な差と考えられている。 古墳の年代と同じ、5世紀前半の作と推定されている |
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覆い屋の中の石甲2基 2基とも凝灰岩製で、 車輪石状の台石に差し込まれた ような状態で立っている。 |
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作りが丁寧な石甲は 総高1.64m 胸部や草摺部が張り、 非常に形の整った姿に仕上げられている。 表面には丁寧な削りや叩き調整の痕跡が明瞭に認められる。 先に造られたとみられている。 赤く塗られているのが分かる! |
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雑に仕上げられたように見える石甲は 総高1.63m 胸部や草摺部の張りが弱い、 風化の影響か、作りはやや稚拙な感じである。 |
魅力満載の古墳だ!
社殿入口に
アマビエカード(×アマエビ)が
置かれていたので頂いてきました。
下山古墳 国史跡 |
臼杵市諏訪 見学日2022/5/8 |
臼塚古墳から熊崎川を1kmほど下流の丘陵上にある。
この古墳にも石甲がある。
東の臼杵総合公園駐車場に下山古墳の案内板があり、西の道路を行くとまた案内板。
駐車スペースがぎりぎりあるので駐車。
山道を数分歩くと案内板、そこからまた数分、やっと着いた!
道路沿いの案内板。ここに駐車。 |
山道の案内板。 |
前方部手前に説明板がある。
下山古墳は 68mの前方後円墳 後円部径46m 江戸時代までは臼杵湾の最奥部であった熊崎川左岸河口部の標高43mの 丘陵上に、主軸をほぼ東西方向にむけてつくられている 後円部南西方向に6×8mの方形造出しがあり、その先に径10mほどの陪塚がある。 主軸に対して斜め方向に造り出と小円墳を配置する方法は、福井県地方の古墳によくみられる くびれ部上に上部を失った石甲(石製表飾)1基が立っていて、赤色顔料も少し残る。 後円部上には組合式家形石棺が安置されている。 2.5×1.3×1mの大きさで、蓋に陽刻された格子のような文様(押縁文様)がある。 棺内には男女1体ずつの人骨と、 鉄刀、毛抜き形鉄製品などの鉄製品、銅鏡、管玉などが副葬されていた。 棺外には、当時の朝鮮半島でしか生産されていない鉄鋌(鉄の延べ板)が多数埋納されていた。 1951年の調査 石棺は底石があるもので、近畿地方の長持ち型石棺に通じる形状で、 底石がない他の九州型組合式家形石棺とは一線を画す。 また、石棺の蓋の文様は、熊本県玉名市の経塚古墳舟形石棺の文様と極めてよく似ていること、 墳丘くびれ部に1基の短甲型石人を立てるなど、九州の色彩も強く持っている。 5世紀中ごろの築造と推定されている。
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前方部側 |
前方部から後円部を見る くびれ部に石甲 |
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くびれ部に立つ石甲 草摺部分が残っている |
後円部 |
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覆い屋の下に石棺 |
石棺の蓋に模様がある。 |
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後円部から前方部を見る |
くびれ部石甲あたりから前方部を見る |
雑木が多いので、造り出しや円墳は確認して来なかった。
西側の熊崎川のたもとにも案内板があるので、徒歩ならそちらから登れそうだ。
臼杵石仏 国宝・特別史跡 |
臼杵市深田 見学日2022/5/8 |
大分県に来たら、石仏・磨崖仏の見学は外せない。
入場料はひとり550円。
臼杵石仏公園 案内図
(パンフレットから)
臼杵石仏は、凝灰岩の岩壁に刻まれた磨崖仏。 ホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群、山王山石仏、古薗石仏の4群に分かれた61体の仏像。 造立は、平安時代後期から鎌倉時代(12世紀末~14世紀前半)。 誰がどのような目的で造営したのか、はっきりしたことはわかっていない。 昭和55年から14年間に及ぶ保存修復工事が行われ、 永年頭部のみの姿で親しまれた古薗石仏中尊の大日如来像も胴と一体となった。 平成7年、磨崖仏では全国初、彫刻においても九州で初めて国宝に指定された。 |
多くの磨崖仏が彫られた背景には 「臼杵荘」と呼ばれたこの一帯が、 栄華を極めた藤原氏の流れをくむ九条家の所領だったことと深い関係がある。。 ホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群、古薗石仏は、京都や奈良の一流の仏師が制作したといわれている。 九条家が天台宗の総本山である比叡山延暦寺とも深い関係を持っていたので、 一流の仏師が臼杵に派遣され、臼杵磨崖仏が造立されたと考えられている。 臼杵磨崖仏が彫られたのと同時期に、 この一帯にはこの磨崖仏を本尊とする「満月寺」という天台宗の大きな寺院が建立されていたことが、 江戸時代の記録や発掘調査で確認されている。 また、山王山石仏の直上には、満月寺の鎮護社である日吉社が同時期に建立された。 臼杵磨崖仏と満月寺・日吉社は、臼杵荘が仏の力で護られ、 そこに住む人々が極楽往生できるように祈りを込めて造られたと考えられている。 (説明板から抜粋) |
石仏の見学開始です。
ホキ石仏第二群 2龕(ガン)からなる。、 第1龕には阿弥陀三尊像が見事な技術で掘り出されている。 第2龕は、「九品の弥陀」と呼ばれ、比較的小さな仏像が彫られている。
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ホキ石仏第一群 平安時代から鎌倉期に至るまでの磨崖仏が20数体並ぶ。 4つの龕からなる。 第1龕は、如来坐像3体と菩薩立像2体、 第2龕は阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像、如来坐像の3体、 第3龕は大日如来像ほか4体、 第4龕は地蔵菩薩半跏像並びに十王像の11体。
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ホキ石仏第一群そばにある 五輪塔 |
山王山石仏の上にある日吉社 |
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山王山石仏 中央に丈六の如来像と左右に脇侍の様に如来を刻む三体の如来像で構成されている。 通称「隠れ地蔵」と言われている。 山王山石仏 |
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古園石仏 大日如来像を中心とする曼荼羅を構成している。 臼杵石仏の中心的存在。通称古園十三仏とも言われている。 特に中尊の大日如来は日本の石仏の中でも最高傑作の一つ。 平安後期の作と言われている。 崩壊破損が甚だしかったが、修復工事(昭和33〜)により 平成5年に中尊大日如来の仏頭が復位され、昔日の荘厳な姿に復旧された。 古薗石仏 |
御仏総選挙で、
御仏内閣が誕生したようだ。
京都や奈良から仏師を招いて仏像を作ってもらうほど、大きな勢力のある寺院が存在していたということのようだ。
東九州自動車道・臼杵ICから大分米良ICへ。急いで大分市に戻る。
滝尾百穴横穴古墳 市指定史跡 |
大分市羽田 見学日2022/5/8 |
滝尾中学校のグランドの横にある。
グランドでは野球大会が行われているので、監督らしき人に了解を得て写真を撮った。
駐車はできないので、日曜日休園の幼稚園駐車場あたりに路駐。
滝尾百穴横穴古墳 は総計84基の群集墳 凝灰岩の崖面に横穴を掘り込んで、中に遺体を安置し、入り口を石などの蓋で閉じたもの しかし、いつごろか内部は荒らされ、また物置用などの別の目的に利用されたりしたため、 遺物は失われ、形も作り変えられたものもある。 6世紀後半を中心とする100年間(古墳時代後期)に盛行した墓制で、 密集して営まれたことから群集墳と呼ばれている。 当時の庶民の家族墓と考えられていて、1基に数体が埋葬されることも珍しくない。 横穴の規模は様々だが、大きいもので高さ約1.8m・床面の幅2m、 天井部の形にはドーム形、家形、アーチ形のものがみられ、市内第1の規模 崖面の横幅120m、面積694㎡を史跡指定して保存している。 横穴には、もともと各横穴に行くための墓道があったが、風化して残っていない。 羨門、羨道、玄室が残る。 横穴墓群は、羽田、下郡、稙田、松岡地区など市内各所にある。 |
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マンションみたいなお墓だ。 |
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部分撮影 |
横穴1 |
横穴2 内部 |
横穴3 内部 |
横穴古墳は他にもたくさんあるが、見やすそうなものを選んで見学した。
大臣塚古墳 | 大分市神崎 見学日2022/5/8 |
大分川の河口から5kmほど入った西岸にある古墳。
南の道路に入口があるが、狭い道なので、手前の空き地にぎりぎり駐車。
大臣塚古墳は 全長50mの前方後円墳 後円部直径35mの後円部が良好に残されている。 前方部は削られているが、東側にあったとみられている。 5世紀ころの築造と推定されている。 古墳上にある石碑は国内最古の文化財保存記録で、 江戸時代の1634年に石棺とともに発見された人骨や太刀・甲冑の復旧と埋戻しを 府内藩主の日根野吉明が行った経緯が記されている。 これは水戸光圀が日本史上で初めて古墳を発掘し、 調査後に出土品を埋め戻した1692年より半世紀以上前のことになる。 古墳の名前は、百合若大臣の伝説に由来することが、 石碑の「ゆり若大臣殿つか」という表現から分かる。 |
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『雉城雑誌』によると、寛永13年(1636年)に前年の大風で崩れた塚を修復するよう 時の領主であった日根野吉明が命じ、その時に石棺が発見され、 中から刀や短甲そして人骨が出てきたと伝わる。 これらの出土品は再度埋められ、その塚の上に吉明の命による碑が今も建っている。 “百合若大臣”の墓であると言い伝えられており、そこから「大臣塚」という名が付けられている。 百合若大臣の伝説については、まこもヶ池の説明板に記載 『雉城雑誌』・・・ 豊後府内藩士であった阿部淡斎(1813-1880)が 天保年間(1831-1845)に著したとされる地誌書。 豊後府内の神社仏閣や名所旧跡などを編纂した著書。 |
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大臣塚古墳への入口 南の道路から見る |
後円部しか残っていない 前方部は右側のはず |
墳丘が見える |
墳丘が見える その2 |
墳頂部の石碑 府内藩主・日根野吉明の命で 発掘をしたという経緯が記されている。 |
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前方部残丘? |
後円部上から墳裾を見る |
説明板に
「大臣塚という名は百合若大臣の伝説による」とあり、「百合若大臣の伝説はまこもヶ池の説明板に記載」と
書かれているので、「まこもヶ池の説明板」を調べた。
まこもヶ池は大臣塚古墳の北200mほどの所にある。
まこもヶ池の説明板 |
西暦800年頃、豊後の国(大分県)に百合若大臣という国主がいた。 百合若大臣の留守中に別府兄弟という家臣が反逆を企て、国主の座を奪い取り、 さらに百合若大臣の妃をまこもヶ池に沈めて殺そうとしたが、 萬寿姫が身代わりとなってまこもヶ池に飛び込み、自殺をすることで妃を助けたという伝説 萬寿姫の死後、戻ってきた百合若大臣により別府兄弟はうち滅ぼされ、その後に百合若大臣が、 萬寿姫を弔って建立されたのが萬寿寺(今は大分市金池町に所在)である。 |
そしてこの物語、英雄が戦地からの帰途に漂泊しその間の出来事の復讐を果たすという話が、
ホメロスの『オデュッセイア』からヒントを得たのではないかという説が、あるそうだ。
大分には「府内藩」という名の藩があり、城跡が残っていることを初めて知った…。
大臣塚古墳は、史跡指定はされていないのだろうか?
大分元町石仏 国史跡 |
大分市元町 見学日2022/5/8 |
大臣塚古墳の南約300mのところにある磨崖仏。駐車場あり。
元町石仏は 上野丘台地東端の阿蘇溶結凝灰岩の岩面に刻まれた磨崖仏 1934年に国指定史跡となる。岩薬師(いわやくし)とも呼ばれている。 建物内に薬師如来坐像を本尊とする仏像群が安置され、 定朝様(ジョウチョウヨウ)の見事な作風を見ることができる。 11世紀後半頃の制作と推定されていて、 とくに薬師如来坐像は、木彫の仏像を彷彿とさせる造りで、 量感のある体躯、童顔を思わせる端正で穏やかな顔立ちなど、すぐれた彫刻の技を見ることができる。 (定朝様…平安時代の仏師・定朝にはじまる和様の仏像彫刻様式) 堂外の向かって右側には、ほとんど摩滅風化した三尊形式の像が二組残されている。 (説明板から) |
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模式図 (説明板から) |
薬師如来像は高さ約3m |
木造瓦葺の立派な覆堂 |
堂外の風化した三尊形式の像 二組 |
当時は宇佐八幡宮弥勒寺(現在の宇佐神宮)の神領でこの影響下でつくられたと考えられているようだ。
岩屋寺石仏 県史跡 |
大分市元町 見学日2022/5/8 |
大分元町石仏の西南約600m、龍ヶ鼻付近の崖にある。東側に数台の駐車スペースあり。
岩屋石仏は 17体の磨崖仏からなる仏像群で、 中央に薬師如来、その左に釈迦如来坐像、右に阿弥陀如来像が配され、 過去・現在・未来の「三世」を表そうとしたものと考えられている。 仏像群に向かって右側にある十一面観音菩薩立像は、一部欠損している部分があるが、 すらりとした八頭身に近い姿をしていて、岩屋寺石仏の中では、うつくしい彩色を残すなど、 その姿をよく留めている。 大きな眉や切れ長の目、鼻にかけての顔立ちからみて、 12世紀(平安時代末期)の作と考えられている。 大分元町石仏同様に凝灰岩質で、特に岩質があらく、永年の風雨のため、 腹部から脚部に下る程侵食がはなはだしく、すでに輪郭をとどめていない像も少なくない。 国史跡だったが、傷みが著しいため県史跡に変更された。 (説明板から) |
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崖面の覆い屋の中に磨崖仏が保存されている。 |
仏像その1 |
仏像その2 |
仏像その3 |
右手の崖には、 かつて小仏像を収めていた 千仏龕(センブツガン)が残ってい.る。 |
「岩屋寺」の寺名は平安時代後期の「宇佐大鏡」(宇佐八幡神宮文書)の中に出てくるので、
当時この一帯は宇佐神宮の領地だったと考えられている。
(永興)丸山古墳 | 大分市永興 見学日2022/5/8 |
大分市営丸山墓地公園に古墳がある。なんと、鉄塔の土台になっている。
説明板はない。
永興(リョウゴ)丸山古墳は、丸山墓地公園にある円墳。 詳細不明 鉄塔のそばに「丸山古墳祠再建之碑」というはげた碑があり、 横の建物の中に祠みたいなものがあるようだ。 |
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きれいな円墳 |
丸山古墳祠再建之碑 |
詳細不明!!
古宮古墳 国史跡 |
大分市季の坂1丁目 (元住所・三芳字宮畑) 見学日2022/5/8 |
丸山墓地公園の北700m、古墳公園として残されているのは古宮古墳。
西側の麓に駐車場完備だが、駐車場から山を登り下りしてやっと着いたところは、古墳しかない。
住宅街の一角に残されている。
古宮古墳は 丘陵上の南斜面にある南北12.5m・東西12mの方墳 埋葬施設は、 南東に開口する横口構造の石棺式石室 (横口式石槨)。 凝灰岩の巨石をくり貫いた2.02×0.79×0.85mの大きさの石槨の前に長さ2.5mの羨道がつく。 副葬品は見つかっていない。 7世紀末頃の築造と推定されている。 この石室は、7世紀中頃前後に畿内の中級豪族の間で流行した石室で、九州では他に例がない。 (畿内型終末期古墳) 被葬者は大和政権と深く関わり、 672年に壬申の乱に活躍したことが「日本書紀」に記されている 大分君恵尺(オオキダノキミエサカ)・稚臣(ワカミ)という二人の豪族のうち とくに恵尺が有力な候補者として考えられている。 この場所は、南側に川があり背後に山を背負うという風水の考え方(風水思想)に合っており、 これに基づいてつくられたのではないかと考えられている。
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墳丘 |
石室開口部 |
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石室内部 |
墳丘背後(北側)から見た景色 |
壬申の乱で活躍した大分君恵尺・稚臣について調べた。
大分君恵尺(オオキダノキミエサカ)・稚臣(ワカミ) |
大分氏(大分君)は豊後国大分郡の豪族であり、大分の国造家とされている。 一族に、大分稚臣がいる。 壬申の乱(672年)は、天智天皇後の皇位継承をめぐって、 大海人皇子(天皇の弟で後の天武天皇)と大友皇子(天皇の子)が争った日本古代史最大の内乱。 壬申の乱の勃発時、 恵尺は大海人皇子の舎人だったと推測されていて、 大海人皇子側の家臣として、この戦いで人質となっていた大海人皇子の息子を助け出し、 稚臣は最大の激戦地であった瀬田の戦いで単身敵陣に切り込むなど勝利に大いに貢献した。 このどちらかが九州唯一の畿内型終末期古墳である古宮古墳に埋葬されたと推定されている。 |
午後2時、ようやくセブンイレブン大分インター店(大分市大字三芳)で昼食。
蓬莱山古墳へ つづく
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このページで紹介した遺跡を築造順に並べると・・・
築山古墳 | 5C初め | 全長98mの前方後円墳 |
臼塚古墳 | 5C前半 | 全長87mの前方後円墳 |
(臼杵市)丸山古墳 | 臼塚古墳の後 | 径15m以上 |
亀塚古墳 | 5C前半 | 全長116mの前方後円墳 |
下山古墳 | 5C中ごろ | 全長68mの前方後円墳 |
小亀塚古墳 | 5C後半 | 全長35mの前方後円墳 |
大臣塚古墳 | 5Cころ | 全長50mの前方後円墳 |
滝尾百穴横穴古墳 | 6C後半を中心の100年間 | 84基の群集墳 |
古宮古墳 | 7C末 | 12.5×12mの方墳 |
永興丸山古墳 | ・・・ | |
大分元町石仏 | 11C後半 | |
臼杵石仏 | 12C末~14C前半 |