北村さんちの遺跡めぐり」
更新日2022/11/26

初めての九州 大分県と福岡県
福岡県7 大野城市・福岡市・春日市2・糸島市
2022/5/7~5/15

九州遺跡めぐりの旅、7日目(2022/5/13)です。
筑紫野市の二日市温泉街にある「パープルホテル二日市」の朝食は
   近くの系列ホテル「アイビーホテル」のレストランで。



パープルホテル二日市の朝食
一人ずつの御膳でした

満足!

朝食付きのプランです

8時20分 アイビーホテル出発!

周辺の地図g

善一田古墳群
市史跡
大野城市乙金1丁目29
見学日2022/5/13

善一田古墳公園として整備されている。
駐車場、トイレ、遊歩道、東屋があり見学しやすくなっている。

 古墳時代後期から終末期(6世紀後半〜7世紀後半)の群集墳。30基が確認されている。
 この地で活動した鉄器つくりの職人やアジアとの交流で活躍した人々の墓と考えられている。

古墳配置図
  30基の古墳があり、27基を調査し、9基が現地保存されている。

奥の高い墳丘が18号墳
その手前に19号墳

南側の保存された古墳(14、13、12、11、10号墳)の見学。

 14号墳

14号墳 墳丘

 14号墳 長い羨道がある。

14号墳 石室内から開口部を見る
 13号墳

13号墳 墳丘

13号墳 石室

13号墳 石室内部
 12号墳

12号墳 墳丘
 11号墳

11号墳 墳丘
 10号墳

10号墳 墳丘

北側の保存古墳の見学。

右から
土壙墓群
16号墳
17号墳
17号墳の上に大きな18号墳
その左に19号墳



16号墳の東となりの土壙墓群から。

 土壙墓群
 
 地面に穴を掘り墓としている。
 ここでは6基見つかっている


 古墳が造られなくなる
  7世紀中ごろ~後半のものもあり、
 古墳時代終焉の姿を物語っている。
 16号墳

16号墳墳丘

16号墳 石室内部

16号墳 石室内に排水溝がある。
 17号墳

17号墳 墳丘

17号墳 閉塞石が見られる

17号墳 奥壁側から見た閉塞石
 19号墳

19号墳墳丘 柵に囲まれている

19号墳 立派な天井石が残っている

19号墳 奥壁の様子
 木棺墓
 19号墳の裾につくられた7世紀前半の木棺墓
 たくさんの土器が副葬品として納められ、木棺を設置するための石が並べて置かれていた
 18号墳被葬者の2世紀ほど後の世代の人々が葬られたと考えられている。
 表面に「奈」と記した土器を副葬していた。
 国内で漢字が普及する以前のもので、当時最先端の漢字文化の受容を物語る

木棺墓の位置を舗装で表現している


「奈」は地名か人名か氏族名か

古墳群中の中心と考えられているのが、18号墳。

 18号墳
 18号墳は  東西26m・南北22mの円墳
 刀や弓矢、靫、馬具の他に鍛冶具(鉄器を作る為の道具)、装身具など豊富な副葬品が出土
 石室入口付近からは多数の土器が出土して、飲食を伴う儀式があったと推定されている。
18号墳

保存された9基のうち
最も大きく、高い場所に造られている。

18号墳 石室開口部

18号墳 石室



展望台から見た古墳群

天気が良ければ、市街地も見渡せるのだが…。


        

今里不動古墳
市史跡
福岡市博多区金隈2丁目
見学日2022/5/13

福岡市博多区。
駐車場がないので、近くのコンビニに駐車させてもらって急いで見学。

 今里不動古墳は 直径34m・高さ9mの円墳
 6世紀末~7世紀初頭の築造と推定されている。

墳丘平面図と石室内部図
 (説明板から)

石室は福岡平野で最大級の規模をもつ
花崗岩の巨石で構築された横穴式石室は全長11.2m
  玄室・前室・羨道からなる複室構造
 玄室部は幅4.1m・高さ3.9m



北側の道路沿いに小さな案内板が出ている
(右に小さく見える白い四角)
後ろは墳丘

石室への小道 (中央の暗いところ)

右の壁の後ろに石室が開口している

大きな石室

奥壁

玄室から前室方向を見る

前室から羨道を見る

羨道から入口を見る

    

金隈遺跡
国史跡
福岡市博多区金隈1丁目
見学日2022/5/13

弥生時代の甕棺墓の共同墓地! 駐車場あり
600年間(2400~1800年前)で469基の墓が見つかっているという。 
金隈遺跡甕棺展示館で、墓地の一部がそのまま保存されている
周辺は「弥生の森公園となっている。

 金隈遺跡は、福岡平野の東を御笠川に沿って南北にのびる月隈丘陵のほぼ中央にある。
 弥生時代の共同墓地の遺跡
 この遺跡から、348基の甕棺墓と119基の土壙墓、2基の石棺墓が発掘されている。
 最初に土壙墓が作られ、その後に甕棺墓、最後に石棺墓が作られたものと考えられる。
 甕棺墓からは、136体の人骨が出土した。
 墓中の副葬品には、
  種子島からオーストラリアまでの海中にしか生息しないゴホウラ貝で作った腕輪や、
  石剣、石鏃、首飾り用の玉などが見つかり、中国大陸や南方文化との交流を物語っている。
 昭和43年、道路工事中に甕棺と人骨が見つかってから、3回の発掘調査が行われた。
 遺跡は、弥生時代墓制の典型的な遺跡として、昭和47年に国の史跡に指定された。
 昭和60年に、遺跡を保存、展示するため、
  発掘調査現場に屋根をかけるような形で展示館が建てられ、
  甕棺や人骨が発見されたままの状態で見学することができる。

金隈遺跡 全体図
明るい部分が展示館で見学できる。
 展示館の様子

密集している
 

人骨も表してある
 

甕棺の変遷 右に行くほど新しい

左から3番目がゴウホラ貝

   

板付遺跡
国史跡
福岡市博多区博多区板付
見学日2022/5/13

楕円形の環濠集落が復元されている。
雨が降っているので、板付遺跡弥生館の周辺だけ見学する。
日本列島における水田稲作や、弥生時代の始まりに関わる遺跡として知られている。



板付遺跡は弥生時代が主だが、
 それに先立つ旧石器、縄文時代や
 後続する古墳~中世の遺跡もある複合遺跡。
日本における稲作農耕の開始のころや、
 弥生時代の人々の生活や社会を、
 集落、墓地、生産地(水田)一体となって
 把握できる数少ない遺跡。
出土遺物は莫大な量にのぼり、
 土器、石器、本器をはじめとして、
  自然遺物が検出されている重要な遺跡
板付遺跡発掘図 (パンフから)
 板付遺跡のムラは、福岡平野のほぼ中央にあり、
  北、中央、南の3つの台地に分かれている。
 台地上には幅2~4m、深さ約2~3m、断面Ⅴ字形の溝を
  東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらした環溝がある

 環濠の内外には米やその他の食料を貯蔵するための竪穴(貯蔵穴)が多数掘り込まれている。
 台地の東西の低位段丘上には旧諸岡川から用排水路が引き込まれ、
  水路には井堰が設置されており、水をコントロールできるようにしている。
 土盛り畦畔で囲まれた水田には水口(水尻)を設けており、
  整備された水田が開かれ、稲作と共に高度な土木技術がもたらされた
ことを証明している。
 日本で最も早く稲作農耕が開始された。
 弥生時代前期末には北部九州でも有数の集落に発展している。
 大正5年に環濠の東南に位置する田端地区から甕棺墓数基が発見され、
  細形銅剣、細形銅矛各3本が出土
している。
 これらの甕棺墓には大きな墳丘があったとみられ、有力者が台頭したことを示している。
 このころは環濠周辺だけでなく、北方の現板付北小学校や南側の台地にも集落が広がり、
  貯蔵穴群や墓地が発見されている。

板付遺跡

左奥は  板付遺跡弥生館

復元水田

現在は地域や学校で、
田植え・稲刈りが行われている。
 板付遺跡弥生館の展示の様子(一部)

夜臼式土器

板付式土器

大甕

出土遺物  レプリカもある

出土遺物その2

環濠集落の周りの溝

環濠が復元されているが雨なので、見学せず。

奴国の丘歴史公園
須玖岡本遺跡

国史跡
春日市岡本3丁目
見学日2022/5/13

福岡県春日市にある、弥生時代の遺跡が須玖岡本遺跡。
遺跡の一角に奴国の丘歴史公園があり、甕棺墓の展示ドームがある。
また、奴国王の甕棺墓を覆っていた王墓の上石の移設展示がある。
春日市奴国の丘歴史資料館がある。

須玖岡本遺跡の主要遺跡配置図 (説明板から)
王墓の周辺からは、昭和54年〜55年の発掘調査で、
 弥生時代中期の甕棺墓116基、
土壙墓・木棺墓9基と、
これに伴う祭祀遺構が確認されている。
埋葬遺構は
300基以上に及んでいたと推定され、
古代のクニの中心だったことが判明している。

王墓の上石が公園内に保存されている。

 王墓の上石
 明治32年(1899年)、土地所有者が、長3.60m・幅2.0m・厚30.3cmの横石
  その側方に立つ、高1.20m・幅1.50m・厚40cmの立石の2つの巨石が邪魔なので動かして、
  下を掘ったところ、「合口甕棺」があり、その内外から種々の遺物が出土した。
 その場所から約14m北東に地下室を作って、出土遺物と掘り上げた土塊までもこの中に収めた。
 その後、明治・大正時代にこの地下室を調査した。
  中国製の鏡30面前後
  銅剣2・銅矛4・胴戈1・ガラス璧2以上・ガラス勾玉・ガラス管玉などが確認された。
 単独の墳丘墓であること、
 「鏡・剣・玉」の「三種の神器」の原型ともいえる副葬品があること、
 墓の上に重さ4t以上の石をのせることなどから、奴国の王墓と考えられている

王墓の上石

方向を変えて見る
 4トンの重さの王墓上石は、明治32年に発見された甕棺墓(王墓)の上石で、
  平成10年、現在地に移設されたもの。

これまでの発掘調査で、116基の甕棺墓が発見されている
ドーム状の覆い屋2棟には、甕棺墓や土壙墓が保存されている。

 覆屋A棟
墓地の北端部に位置する。
弥生時代中期中頃(紀元前1世紀)の
甕棺墓群の一部と祭祀遺構
が見学できる。

内部の様子その1

内部の様子その2
 竪穴住居跡

3軒分の住居跡
 覆屋B棟
墓地の西端部に位置する
弥生時代中期後半(紀元前後)の
 甕棺墓、土壙墓、木棺墓、
 竪穴遺構
が見学できる。

内部の様子その1

内部の様子その2

春日市奴国の丘歴史資料館がある。

 春日市奴国の丘歴史資料館の展示の様子

奴国王墓の復元

王墓出土の鏡(レプリカ)

銅矛・銅剣・胴戈

日常で使用された弥生土器

甕棺

ガラス勾玉・小玉 石製玉 鏡

大土居水城跡の木樋

復元された弥生琴
 古墳時代の出土物

春日市内では、
 前方後円墳が6基確認されている。
山麓部を中心に
 多数の円墳が分布している。

巨石の下の甕棺墓が発見された場所は、現在空き地となって、説明板が立っている。

熊野神社(古墳)
須玖岡本遺跡

国史跡
春日市岡本3丁目
見学日2022/5/13

熊野神社は須玖岡本遺跡の中心部にあり、熊野神社境内にも「須玖岡本遺跡」の説明板がある。
市天然記念物の「オオバヤドリギ」の説明板もある。

 熊野神社は古墳である
 墳頂に熊野神社の本殿が建立されている。古墳の詳細は不明。
 江戸時代に近くの畑から銅矛鋳型が発見され、熊野神社の宝物になった。
 銅矛鋳型は国の重要文化財に指定されている。

熊野神社鳥居

社殿が古墳の上にある

墳丘

墳頂(?)から墳裾を見る。
右は「オオバヤドリギ」の説明板

熊野神社の宝物の銅矛鋳型は、春日市奴国の丘歴史資料館に展示されていたような気がする。

 銅矛鋳型 (国重要文化財)


左端の長いのが「銅矛鋳型」と思われる

本物かレプリカかはわからない。
(春日市奴国の丘歴史資料館の展示から)

 この銅矛の鋳型は、江戸時代に近くの畑で発見されたもので、
  熊野神社の宝物として大切にされてきた。
 広形銅矛の製作技法を知る手がかりとして大変貴重なもので国重要文化財に指定されている。
 須玖岡本遺跡の周辺ではこのほかにも多くの青銅器の鋳型が発見されている。

神社境内には、宝物の銅矛鋳型の説明板があったようだが、見て来なかった。

11時半、 福岡都市高速環状線能多目入口から 首都高速・福岡前原道路で約20分、前原ICへ。
糸島市に入る。

一貴山銚子塚古墳
国史跡
糸島市二丈田中
見学日2022/5/13

墳丘南側に上り口があり、横に大きな説明板がある。
説明板の横の少し道路が広くなっているところにむりやり駐車。

 一貴山銚子塚古墳は  全長103mの前方後円墳
  後円部径61m・高さ9.5m、前方部29m・高さ6m、
 後円部3段・前方部2段築成。 葺石あり。
 埴輪や周濠は確認されてない。
 後円部墳頂中央にある竪穴式石室は、長さ3.4m・幅1.4m・深さ0.8m
 内部に納められた木棺の内外から
 銅鏡10面(方格規矩四神獣鏡1、内行花文鏡1、三角縁神獣鏡8)や
  刀剣類、玉類などの副葬品が出土した。
 4世紀後半の築造と推定されている。

一貴山銚子塚古墳の墳丘
  (古墳辞典から)

後円部の東側を一部削り取られている。
前方部を北に向ける。

後円部 奥に前方部

後円部 葺石

後円部から前方部を見る
 後円部を横切って私道が通る

後円部から前方部を見る
 手前が私道で削られた部分

くびれ部から前方部を見る

前方部

前方部から後円部を見る

くびれ部から後円部を見る

一貴山銚子塚古墳は、国登録有形文化財の椛島(カバシマ)家住宅の西に接している。
椛島家住宅は、元々は二丈田中の大地主であった「満生(ミツイキ)家」の住宅、
現在のJR一貴山駅(当時は北九州鉄道)は、満生家の寄付により作られたものと言われている。
糸島地方最大の前方後円墳「国史跡・一貴山銚子塚古墳」とは敷地を接しており、
満生家の方々はこの古墳を先祖の墓という意識をもち、庭の一部として管理して来たそうだ。

釜塚古墳
国史跡
糸島市神在
見学日2022/5/13

一貴山銚子塚古墳の北東約1kmにある。駐車スペースあり。
説明板が2枚ある。内容が少し違うので、二つ紹介する。

 釜塚古墳は  直径56m・高さ10mの円墳。標高約5mの低地に立地する。
 墳丘は5段築成に見えるが、築造当時は3段築成。 葺石あり
 埴輪片(円筒・朝顔・盾・家)や石見形木製品などが出土。
 周囲には幅5~8mの 濠がめぐらされ、墳丘と外部を繋ぐ渡り土堤が存在する。
 南東方向に入口をもつ初期の横穴式石室があるが、現在は保存のため埋め戻されている。
 5世紀前半の築造と推定されている。
 石見形木製品も市の有形文化財・考古資料に指定されている。

指定文化財の石見形木製品
墳丘は耕作のため5段築成に見える

発見された葺石


    (以上説明板から)

北から見る 本来は3段築成

石見形木製品は周濠から出土した。
全長204.8cmの石見形木製品

南から見る

大阪府の峯賀ヶ古墳でも、最近石見形木製品が出たそうだ。

午後1時ごろ、ファミリーマート糸島神在店で昼食。

周辺の地図g

志登支石墓群
国史跡
糸島市志登
見学日2022/5/13

釜塚古墳の北東約4kmの農地の中にひっそりと保存されている。



支石墓と
遺体を埋葬した上に支えとして小さな石を置き、
その上に大きな上石を置く形式のお墓

朝鮮半島から
 もたらされた形式のお墓と考えられている。
昭和28年(1953)に発掘調査が行われ、
弥生早期から中期(約2500~2100年前)
支石墓10基、甕棺墓8基などが発見され、
副葬品として打製石鏃、柳葉形磨製石鏃が出土。
支石墓に副葬品が納められるのは非常に珍しく、
特に柳葉形磨製石鏃の出土は
 朝鮮半島で出土したものとよく似ている。

遺跡の様子その1

遺跡の様子その2

遺跡の様子その3

遺跡の様子その4

遺跡の様子その5

遺跡の様子その6

 史跡の狭さにびっくり! 

泊大塚古墳 糸島市泊
見学日2022/5/13

志登支石墓群の北約1kmの泊地区に前方後円墳がある。
インターネット上に「平成31年度 泊現地説明会資料が公開されているので参考にさせてもらった。

泊大塚古墳群の周辺地形
古墳群配置図


泊大塚古墳
志摩半島の南東部、標高 10~20mの舌状丘陵の先端に位置。
同一丘陵南西側の竹林の中には
 御道具山 1・2 号墳がある。
現状では泊大塚1 基と御道具山2基の
 計3基をまとめて泊古墳群と呼んでいる。
古墳築造当時は
 博多湾と繋がった今津湾が
 この付近まで入り込んでいたと考えられている。
泊古墳群のすぐ北西にある元岡丘陵(現九州大学伊都キャンパスのある場所)には
 70基以上の古墳で構成された元岡古墳群がある。

この中には西暦 570 年にあたるとされる「庚寅」を含む金象嵌の銘文が 19文字入り、
 国の重要文化財に指定された大刀が出土した元岡G6 号墳も含まれている。
江戸時代に泊大塚古墳の記録があり、その後何度か調査や報告がなされている。
現在は開発などにより古墳の形が大きく変わっているが、このような古い記録が残っているお蔭で、
 元の古墳の姿を推測することができる。
     (現説資料から)

 泊大塚古墳
 推定全長74.8mの前方後円墳
  後円部直径45.6m・前方部長さ22.5m・前方部幅33m・くびれ部幅21.2m
 葺石あり
 埋葬施設は不明(箱式石棺か)
 古墳時代前期前半の築造と推定されている。
 現在、前方部と後円部の東側が大きく削られている。
 現況の測量図だけでなく、古い航空写真や地籍図、江戸時代の記録なども
  参考にして形態や規模を推定している。

南から見た泊大塚古墳
左が前方部だが削られて低くなっている。

後円部拡大
右側がざっくりと削られている


削られた後円部先端

東から見る

土がむき出しとなっている。

泊大塚古墳の南西に位置するのが、御道具山 1 号墳・2号墳。

 御道具山1号墳・2号墳
 御道具山1 号墳は 全長65mの前方後円墳
  後円部直径40m・前方部長さ26m・前方部幅25m
 泊大塚古墳より一回り小さいが、糸島地域においては大型古墳に分類される。
 前方部が撥形に開いていて、前方後円墳の中では最も古い形で、
  糸島地方最古級の前方後円墳といわれている。
 ただ、今後の調査の結果によっては、御道具山と泊大塚の両古墳の
  築造時期に関する前後関係が逆転する可能性もある。
 2号墳は、1号墳のそばにある小さな方墳

2号墳 東麓から上るとまず2号墳が見える。

1号墳前方部

1号墳 前方部から後円部を見る

1号墳 後円部から前方部を見る

全体像はなかなかわからない…。

平原墳丘墓 につづく

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