北村さんちの遺跡めぐり」
更新日2022/11/6

初めての九州 大分県と福岡県
福岡県その6 筑前町・小郡市・筑紫野市
・太宰府市・春日市
2022/5/7~5/15

九州遺跡めぐりの旅、6日目(2022/5/12)。貸し椀の穴古墳での脱輪から復活、
1時間以上のロスのため、予定していた見学をいくつかあきらめて
仙道古墳に行く。
6日目後半始まります!

筑前町付近の地図g

仙道古墳
国史跡
朝倉郡筑前町久光
見学日2022/5/12

仙道古墳公園として整備されている。駐車場完備。
四阿には石室の復元模型がある。



 仙道古墳は、径49mの円墳
 2段築成 葺石あり  2重の周溝がある。
 複室構造の横穴式石室は 全長7m以上、玄室長3m、幅2.6m
 石材には装飾がある。
 石室からガラス小玉多数、管玉8、棗玉3、青銅製釧1が出土
 墳丘から須恵器少量と埴輪多数が出土
  円筒埴輪、朝顔形埴輪、柵形円筒埴輪、馬・人物・家などの形象埴輪
 石室前の周溝内からは盾持武人埴輪が出土
 6世紀後半の築造と推定されている。
 発掘時の状況 (説明板とパンフレットから)
 昭和52年の発掘調査の時は、墳丘は削り取られていて、原形を留めておらず、
   発見当初は石室の基底部を残すだけだった。
 残っていた石室の全面に、赤や緑の彩色で丸や三角の文様が描かれていた
 奥壁は巨石の1枚石で床には扁平な石と円礫を敷き、奥壁と平行する石障石がある。

石室背面周溝内埴輪出土状況(説明板から)

盾持武人埴輪出土状況 (パンフから)
   

石室状況 (説明板から)

石室奥壁 (パンフから)

全景

調査時すでに墳丘は削られ、
 石室も基底部を残すだけだった。
現在は石室の保護施設があり、
 墳丘も復元されている。

2段築成 埴輪が復元されている

周溝跡
 四阿の石室模型

模型の説明図

白い部分が
残存石材



入口方向から奥壁を見る


雨のため、合羽・長靴の人物がいるが
 見えないことにしてください

奥壁は巨石だとよくわかる。

奥壁
 

奥壁の左の側壁
 

奥壁の右の側壁 

奥壁から入口を見る 

 模型だったけど、見学できてよかった。   

焼ノ峠古墳
国史跡
朝倉郡筑前町四三嶋
見学日2022/5/12

標高130.6mの城山から派生する標高56mの見晴らしの良い丘陵先端部に古墳公園として整備されている。
駐車場完備。

 焼ノ峠古墳は 全長40.5mの前方後方墳
  後方部幅23.5m、前方部長17m
 前方部が撥形に開き、 後方部は北側がやや広くなる梯形
 後方部2段、前方部1段築成 一段目は地山を整形し、後方部の二段目は盛り土。
 前方部西側には造出しがあり、周溝は一部確認されている。
 二重口縁壺や広口壺が周溝から出土
 埋葬施設は確認できていない
 3世紀後半の築造と推定されている。
 九州最大の前方後方墳。

遠景  南西から見る  前方部の造り出しが見えている

前方部手前から見る

前方部から後方部を見る

後方部から前方部を見る 
見にくいが前方部右(西)に造り出しがある。

周りが農地になっていて、遠くからでもよく見える。

花立山穴観音古墳
県史跡
小郡市干潟大字城山
見学日2022/5/12

焼ノ峠古墳は城山の北側、花立山穴観音古墳は城山の南西側麓にある。
城山公園から東へ、古墳前に駐車スペースあり。
「穴観音さん」と呼ばれ、信仰されていた。

 花立山(城山)の南西斜面に約300基確認される群集墳の中で最大級の古墳である
 花立山穴観音古墳は、全長33mの前方後円墳
  後円部径22m、前方部長さ11m
 古墳の周囲に大規模な平坦な面を造成し、その上に墳丘を作っている。
 周囲には幅の広い溝があり、これを含めると古墳の全長は45m。
 南に開口する複室構造の横穴式石室は、全長12.3m
  内部の石壁には線で刻みつけた(線刻)文様が描かれている。
 線刻は、石室内の6つの石の7面に描かれていて、
  文様は、格子文・斜格子文・連続三角文などで魔除けなどの意味があると考えられている。
 6世紀末頃の築造と推定されている。
 この地域では最後の前方後円墳と考えられている。
 平成16~18年度に発掘調査。

南の道路沿いの城山公園案内図と石碑と説明板

開口部が見える

開口部

玄室内部

奥壁側には仏像が祀られている

玄室入口の巨石

前室

羨道

   

津古1号墳
県史跡
小郡市津古
見学日2022/5/12

みくにの団地のみくにの古墳公園に保存されている。
公園に説明板があるが、1号墳は規模だけ書かれていて、2号墳・3号墳のことが中心に書かれている。

インターネット上に「津古1号墳 確認調査報告(2019)」が公開されているので、参考にさせてもらった。
津古1号墳のデータはこの情報から引用する。

 津古1号墳は  全長40m以上の前方後円墳
  後円部径24.8m 前方部長さ15.8m以上
 段築は不明
 埋葬施設はほとんど削平されていて、不明。
 地形を活かし墳丘の盛土を少量にして築かれている。
 古墳時代前期の築造と推定されている。

津古1号墳測量図
(「津古1号墳」から引用)

昭和43年(1968)、
 みくにの団地造成に先立ち測量調査
昭和57年(1982)測量調査
平成28・29年に測量調査・トレンチ調査

津古1号墳 前方部裾から後円部を見る

後円部側

後円部上の大穴

後円部から前方部を見る

前方部から後円部を見る

津古1号墳と周辺の古墳 
  (「津古1号墳」から引用)

2号墳・3号墳は調査後消滅。

津古生掛古墳も調査後消滅していて、
生掛公園に説明板だけがある。

 津古2号墳は、全長32mの前方後円墳 前方部幅10m・後円部径19m
  南に前方部があり、1号墳とは逆方向になっている。
  盗掘されていたが埋葬施設は木棺と確認されている。て、
  埋葬施設から、刀子3・小玉2
  周溝から、小形丸底壺・小形器台・舟形文様の線刻を有する壺などの古式土師器が出土
 津古3号墳は 一辺13m・高さ1m弱の方墳  2号墳の南に接している
  埋葬施設は不明
  周溝から  小形丸底壺・二重口縁壺などの古式土師器が出土している。
 
 津古生掛古墳(ツコショウガケコフン)は  全長33mの前方後円墳
  後円部径29m・前方部高さ4m
 津古生掛古墳の周辺には、方形周溝墓、円形周溝墓や土壙墓などが多数造られている

     

午後1時半ころ、ようやくファミリーマート筑紫野美しが丘北店にて昼食。

五郎山古墳
国史跡
筑紫野市原田
見学日2022/5/12

五郎山公園内に保存されている。駐車場完備。
西麓に五郎山古墳館があり、原寸大可動式石室模型があり、石室はこの模型を見学することとなる。


五郎山古墳は  径32mの円墳
  高さ5.5m
  周溝がある。
  2段築成


 複室構造の横穴式石室がある
 玄室及び前室には、赤・黒・緑の3色で多彩な文様が描かれている
 6世紀後半の築造と推定されている。
 その後2~3世代にわたって追葬が行われたと考えられている。
 1947年に発見された。

墳丘と説明板

石室は封鎖されている。

全景

石室は、五郎山古墳館の模型で見学。
まず真っ暗な石室を体験、その後 扉が自動で開いて明るい石室を見学。


古墳館内部

真っ暗の石室しか見れないかと思った。


石室実測図  (パンフから)

横穴式石室は全長11m以上
 後室長4.5m、幅3m、高さ4mの複室構造
玄室及び前室には、
 赤・黒・緑の3色で多彩な文様が描かれている。



奥壁図

人物や動物、円文など80点余り
 馬にまたがった人
 祈りをささげる人
 弓を引く人などの人物画
 被葬者の冥福を祈るための「鳥」「船」、
 魂を守護したといわれる「靫」「弓」
などが描かれている


奥壁の壁画

奥壁の左側の壁画

玄室奥壁全体

玄室から見た開口部

前室と羨道

    

塚口古墳
国史跡
筑紫野市原
 塚口古墳公園
見学日2022/5/12

筑紫野市のみかさ台団地の中の公園に残されている。

 塚口古墳は 復元・保存された円墳。詳細不明
 南西に開口する複室構造の横穴式石室は全長6.60m
  玄室部長さ2.65m・奥壁幅1.87m  前室部長さ1.15m・幅1.70m、羨道部長さ2m。
 前室から、土器や鉄器が出土している。
 昭和47年に調査
 付近には、17基の古墳があり、「塚口」と呼ばれていた。

復元された墳丘
   

左下(南西)に石室が開口。
 入口に柵があり、入れない。

石室内部

玄室はほとんど見えない

 筑紫野市・太宰府市付近の地図g   

太宰府天満宮
国史跡
太宰府市宰府
見学日2022/5/12

元々は菅原道真公の怨霊(?)を鎮めるために建立された神社で、
    「学問・至誠・厄除けの神様」として、広く崇敬を集めている。

 太宰府天満宮は、菅原道真公の御墓所の上に社殿を造営し、
  その御神霊を永久にお祀りしている神社。

鳥居

楼門

本殿
   

飛梅 
道真公を慕って一夜にして飛んできたという御神木


天然記念物の大楠
樹齢1000年とも1500年ともいわれる。
高さ39m 根廻り20m

門前のお土産やさんでお土産購入!

太宰府政庁跡
特別史跡
太宰府市観世音寺4丁目
見学日2022/5/12

菅原道真公が冤罪で左遷されたのが、太宰府政庁の長官職(大宰権帥)だった。



古代九州の政治・文化の中心で
 日本の外交、対外防備の拠点であった
 太宰府の中枢。
1300年前に設けられた
 奈良・平城京などの宮殿と同じ構造の政庁、
 周辺に広がる官衙などで構成される。
赴任者には遣唐使経験者など
 国際的に活躍した人物も多い。

(別の説明板から)
 「遠の朝廷」として、繁栄を誇った太宰府も平安時代末期ごろには、その役割を終えて、
  田畑と化していたが、
 江戸時代福岡藩の建物礎石の調査から始まり、長い年月をかけて
  発掘調査と保存整備が行われている。  (説明板から)

(説明板から)

(説明板から)

国指定有形文化財 鬼瓦
 (説明板から)
大宰府政庁跡北方の畑から発見されたもの
全長47.1cmで、右下端部約3分の1が欠損している。
大宰府独特の形相をしている。
奈良時代前半に建てられた政庁の
 屋根に使われたと考えられている。

南門跡
柘植の植栽は築地塀を表している。

南門の礎石は11個残っていた

正殿跡

正殿跡の礎石

脇殿跡

   

筑前国分寺跡
国史跡
太宰府市国分四丁目
見学日2022/5/12

大きな説明板があるが、見えない部分もあるので、写真はカット。
調査後整備されて、塔基壇や回廊の基礎部分が平面的に表示されている。

 筑前国分寺は 太宰府政庁の西北の見晴らしの良い丘陵上に建てられている。
 天平13(741)年に聖武天皇の勅願により全国に造られた国分寺のひとつ
 創建の記録は残っていない。
 西海道の国分寺が天平勝宝8年(756)には建てられた記録があるので、
  筑前国分寺もこのころまでに完成したと考えられている。
 創建当時の筑前国分寺は約192m四方の寺域に
  金堂・七重塔・講堂などが整然と配置されていた
が、
  律令体制の衰退とともに国分寺の役割も失われていき、
  平安時代末期には廃絶していたと考えられている。
  伽藍配置は中央に金堂、北側に講堂、南東の一角に七重塔、南側に中門、南大門を配し、
  それを回廊で結んでいる。

 現在の「国分寺」の場所に金堂があり、
  金堂と中門をつなぐ回廊の内側に塔、金堂の背後に講堂がそれぞれ配置され、
  その外側に約192m四方の範囲で塀がめぐっていることが明らかになっている。
 現在も一辺約17.4mの塔跡には巨大な塔心礎が残る。

八角燈籠
奈良東大寺大仏殿の前にある
 銅製八角燈籠をモデルとして製作
火袋には、音声菩薩がさまざまな楽器を手に
 浄土の音色を奏でている。
当時の国分寺をしのぶ資料としてほしい
  (説明板から)

現在の筑前国分寺(國分密寺)
金堂跡に建っている

「聖武帝勅建筑前國分寺碑」

塔跡

塔跡礎石

塔跡から回廊跡を見る

回廊跡から塔跡を見る

国分寺駐車場にある石碑「史蹟筑前国分寺」

回廊跡の南側にある国分天満宮

国分天満宮境内にある山上憶良の歌碑

 

陣ノ尾1号墳
市史跡
太宰府市国分二丁目
見学日2022/5/12

国分小学校の南にある。整備保存されているが、駐車場はない。路駐しながらの見学となる。


 陣ノ尾1号墳は  径12m前後の円墳  
 南側に開口する複室の横穴式石室は全長6.6m
  奥室は長さ2.3m・幅2.0m・高さ2m  前室は長さ1.4m・幅1.3m
 6世紀末ころの築造と推定されている。

 古墳は、丘陵裾に築造されていたが、土地の改変によりほとんど残っていなかった。
 発掘直後の石室は、欠損が目立ち、天井石は奥室のみ残っていた。
 石室内は、奥室・前室・羨道に分かれ、
  それぞれの境には袖石が張り出し、床面には仕切り石が置かれている。
 羨道の入口は、閉塞石として30cm前後の花崗岩を積み上げて塞がれていた
 石室の床面には石が敷かれていた。
 9世紀の土器が出土したので、石室が平安時代に再利用されたと考えられている。
 奥壁は高さ1.8mの巨石が使われている。
石室実測図

横穴式石室は全長6.6m、
奥室は長さ2.3m・幅2.0m・高さ2m
前室は長さ1.4m・幅1.3m
出土品リスト

奥室は盗掘などで荒らされていて、
副葬品はほとんど残っていなかったが、
前室や羨道から耳環や鉄鏃などが出土。


出土品の写真
(いずれも説明板から)

復元された墳丘と石室
石室には柵があって入れない

石室内部

 

水城跡
特別史跡
太宰府市水城一丁目、国分一丁目、
吉松一丁目から三丁目ほか
見学日2022/5/12

5時近くの見学になったが、付近の駐車場は4時半まででほとんどが閉鎖、
開いている駐車場がひとつだけ見つかり駐車。


 663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れた日本が国土防衛のため築造した土塁
 『日本書紀』天智天皇3(664)年の条に「於筑紫、築大堤貯水、名曰水城」と記されている。
 土塁の規模は全長1.2km、基底部幅80m、高さ9mで、
 土塁の内外には濠が設けられ、それらを繋ぐ木樋も確認されている

 また、土塁の東西にはそれぞれ門が設けられ、官道が通り抜けている。

水城は今も交通の要衝で、
 鉄道・国道・高速道路が
 横切っている。

景観に配慮して、高速道路は、
水城跡の頂部より低く横切っている。

地図の「現在地」の場所に
 展望台がある。

展望台の向こうは、西に延びる土塁の林

展望台の東側の水城は、大野城跡に続く

展望台から西を見る

横切るのは県道福岡日田線。

すぐ下に、水城館がある。

水城には東西2ヶ所に門があり、官道(現在の国道)が接続していた。

県道脇に「古代官道跡」の説明板がある。
右に水城館

水城館と、水城にちなんだ歌碑
水城館は午後4時半で閉館

  

日拝塚古墳
国史跡
春日市下白水
見学日2022/5/12

うすくなってよく見えない説明板だけかと思ったら、新しい説明板があった。駐車場あります。

 日拝塚古墳は 全長46mの前方後円墳 高さ5.5m
 周溝を含めた全長は61mを測る。
 2段築成
 葺石なし 埴輪なし
 後円部中央にあり南西方向に開口する単室の横穴式石室は、
  玄室部長さ3.6m・幅2.6m・高さ4.0mの両袖式
、 羨道部長さ4.8mを測り、花崗岩の巨石を使用して構築されている。
 獣形鏡や金製垂飾付耳飾、玉類、武器、馬具、須恵器、陶質土器など
  数多くの副葬品が出土した
(東京国立博物館に収蔵)。
 6世紀前半の築造と推定されている。
 彼岸の時期になると、東に位置する大根地山から昇る太陽を拝めることから
  「日拝塚」と呼ばれるようになったという。
 那珂川右岸の低段丘上に立地している。

北から見た墳丘 左(東)が後円部

南から見た墳丘

石室は閉じられている

前方部から後円部を見る

後円部から前方部を見る

 

午後6時、増田石油春日下白水SS(下白水)でガソリン給油。
 太宰府食堂(太宰府市向佐野)で夕食。       
宿泊は  二日市温泉街にある「パープルホテル二日市」(筑紫野市湯町)  
ホテル1階に洗濯機・乾燥機があり、また洗濯できた。
温泉大浴場は、100mほど離れた同系列のアイビーホテルの大浴場を利用することになる。
朝食もアイビーホテルのレストランで。

善一田古墳群 につづく

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