北村さんちの遺跡めぐり
更新日2014/7/13
四国の遺跡めぐり 第8回 愛媛県その7 四国中央市② |
2014/4/20~26 |
4月22日 三日目。四国中央市宇摩地区の見学を終え、午後4時半を過ぎたが、日没ギリギリまで、見学を続ける。
三島川之江IC付近の古墳見学へ。
地図g
東宮山古墳 | 四国中央市妻鳥(メンドリ)町山口東宮山 撮影日2014/4/22 |
松山自動車道の三島川之江ICのすぐ北東側に、海抜80m余の独立丘陵がある。
この山の山頂平坦部に東宮山古墳と春宮(トウグウ)神社の祠がある。
駐車場がなく、北にある小さな墓地の空き地に駐車、長い階段を上る。
陵墓参考地となっている。
記紀には允恭天皇の皇子・木梨軽皇子が、道後に流される途中、
船が難破して近くの海岸に漂着しこの地で没したため、この地に手厚く葬られたという記述がある。
東宮山古墳は、径15m・高さ3mの円墳 北西の平野側に開口する横穴式石室がある。 両袖式で、長さ4.33m・幅1.95mの玄室に、短い羨道がつく。 1894(明治27)年、地元の人々によって横穴式石室が発見され、数多くの副葬品が出土した。 白銅製内行花文鏡をはじめ、金銅透彫帯冠・金環・水晶切子玉などの装身具や 衝角付冑・三葉環頭柄頭などの武具や馬具などが出土した。 6世紀中頃の築造と推定されている。 允恭天皇の皇子・木梨軽皇子の墓として宮内庁が管理している。 妻鳥陵墓参考地 1895(明治28)年指定 |
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北から見た東宮山 古墳は手前の山の頂上にある。鳥居の上 |
東宮山の長ーい階段を上がる |
東宮山古墳 社殿横に保存されている。 |
東宮山古墳 石室は埋め戻されている。 |
東宮山古墳 墳丘には石材がある。 |
東宮山古墳のそばに 石棺の蓋石の ような石材がある。 説明がない。 |
山口古墳群 | 四国中央市川之江町山口 撮影日2014/4/22 |
東宮山から南へ、高速道路の下「大野原62」のトンネルをくぐる。説明板は見あたらない。
山口古墳群 三島川之江インター南の中に1号墳、そのさらに南200mの住宅団地奥に4号墳がある。 |
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1号墳 周囲を削られているが、玄室長5m・幅2mの横穴式石室がある。
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4号墳 径20mほどの墳丘か?
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山口1号墳は、石棚がある石室だそうだ・・・。見たかったなぁ・・
経ケ塚古墳 市史跡 |
四国中央市川之江町山口 撮影日2014/4/22 |
山口古墳群の西約400m、高速のすぐ南にある。
標高110mの丘陵にあるが、そばまで車で行ける。説明板は見あたらない。
経ケ塚古墳は全長30m・高さ5mの前方後円墳 前方部が西にある。 後円部径20m・高さ5m 前方部幅20m・高さ4m 地山を2段に成形した後、盛り土をして構築している。 後円部に北向きに開口する全長7.6mの横穴式石室がある。 玄室長3.8m・奥壁幅1.9m 玄門部幅1.9m 金箔の歩揺付金銅冠、馬具、直刀、剣、鉄鉾、金環、須恵器などが出土。 前方部には、箱式石棺があり、人骨と鉄刀が出土している。 6世紀半ばの築造と推定されている。 円錐形をした丘と思われていたが、四国縦貫自動車道の用地となったため、 昭和57年度からの調査で、前方後円墳とわかった。 (四国中央市教育委員会HP・古墳辞典から) |
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くびれ部がくっきり! 左奥(東)・後円部 右手前・前方部 |
後円部手前にある小祠 祠の後ろが後円部 石室は埋め戻し |
後円部から前方部を見る。 |
前方部から後円部を見る。 |
北岡山古墳群 | 四国中央市川之江町山口 撮影日2014/4/22 |
経ヶ塚古墳の南西約400mに、横穴式石室が二つ並んでいる。
果樹園だというが、かなり雑草が生えている。説明板がある。
北岡山のなだらかな丘の南斜面のみかん畑に2基の横穴式古墳が並んで残っている。 上方を1号、下方を2号古墳とよんでいる。 どちらも円墳で、東向きに開口した横穴式石室がある。 石室はいずれも玄室部分のみの残存で、 入口付近はすでに失われていると考えられている。 石室の大きさは、どちらも幅1.5m・高さ1.5m・奥行き3.8mほど。 1号古墳は片袖式、2号古墳は両袖式の可能性が高い。 この2基のほか、北岡山には7基の古墳があったことが確認されている。 7世紀中葉に築造された群集墳と推定されている。 (四国中央市教育委員会HP・説明板から) 北岡山1・2号墳 左2号墳 (説明板の右下) 右上1号墳 (擁壁の上) |
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1号墳
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2号墳
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端華の森古墳館 タンガノモリコフンカン |
四国中央市川之江町山口 撮影日2014/4/22 |
石室を保存するために、りっぱな覆い屋がある。 駐車場あります。
端華の森古墳館
ガラス越しに見学する。
説明板は、はげて読みにくくなっている。
この地は、「たんがの森と呼ばれ大きな塚があったと伝えられてきたが、水田になっていた。 平成元年農道を造るため発掘調査をしたところ、径25mでその中に2基の横穴式石室があった。 端華の森古墳 石室図 (説明板から) 左・2号石室 右・1号石室 二つの石室は直交してつくられている。 1号石室(北側)は 北西に入口があり、全長9.1m 玄室長4.96m・奥壁幅2.1m・玄室中央幅2.28m・前壁幅1.7m 玄門部幅1.6m 羨道長4.14m・羨道口幅1.6m 大きな石を使用し胴のふくらんだ形 石室の後ろ半分に平石を積み上げて高さ0.4m・長さ2.6mの大きな棺床をつくり、 それにつづけて北壁前に長さ1.8m・幅0.8m・高さ0.3mの第2棺床がつくられている。 金環やよろいの鉄片、刀子、須恵器など192点が出土 2号石室は 入口は南西向きで、全長4.3m 玄室長3.1m・奥壁幅1.7m・玄室中央幅1.94m・玄門部幅0.84m 羨道口1.4m 小形の河原石を使用し片袖式胴張型となっている。 管玉や鉄斧、須恵器など35点が出土 6世紀後半の築造と推定されていて、 その後8世紀まで数回追葬が行われていたと考えられている。 2号石室は、1号石室の後、7世紀初頭に築造されたと推定されている。 (説明板・四国中央市教育委員会HP・古墳辞典などから) |
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1号石室 羨道入口から奥壁を見る |
1号石室 奥壁側から入口を見る |
2号石室 入口側から |
2号石室、側壁側から 左が奥壁 |
横地山古墳 | 四国中央市中曽根町乙 三島公園内 撮影日2014/4/22 |
午後6時に三島公園駐車場に到着。日暮れ前に見学できるか?と山頂へ走る。
横地山古墳は 三島公園の山頂部にある。 径7.5m・高さ1mの封土があり、周りには河原石をならべて周縁部を形成していた。 この封土の中に、2基の箱式石棺が並んで構築されていた。 東側の1号石棺は、長さ1.6m・幅0.42m・深さ0.24mで一部破壊されていた。 西側の2号石棺は長さ2m・幅0.50m・深さ0.35mで、 頭が南に仰臥伸展葬されたを向く壮年男子と推定される人骨が出土。 頭部及び石棺内部には赤色顔料(酸化鉄)が塗られていた。 弥生時代後期の墳墓と推定されている。 昭和33年発掘調査 (説明板から) |
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横地山古墳は 見晴らしの良い山頂につくられている。 |
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横地山古墳 墳丘 |
石棺? 埋もれすぎていて、よく分からない。 |
なんとか、日暮れ前に見学できたが、ちょっと物足りない・・・
夕食場所を探しに、「イオンタウン川之江」に行くが、レストランがない。
近くのジョイフルで食事を済ませ、伊予三島駅そばの「ホテルリブマックス伊予三島」にチェックイン。
オープン直後の特別価格で宿泊できたが、駐車場はちょっと離れたところだ。
四国中央市は、製紙会社で有名なところ。
ホテルの朝食は、エリエールフードサービス提供のバイキングだ。
エリエールといえばティシュペーパー・・・・
次回からは、いよいよ香川県に入る。