北村さんちの遺跡めぐり
更新日 2023/5/24
徳島旅行記2023 その3 石井町2・徳島市2・吉野川市 |
2023/3/21〜25 |
徳島県の2日目午後です。晴れてきて助かった!
尼寺古墳群 | 名西郡石井町石井尼寺 撮影日2023/3/22 12:55 |
尼寺古墳群の標柱があるところは、墓地があり、1台分くらいの駐車スペースがあるので、
そこで昼食を食べて、山に登ってみる。
道路沿いにある
「尼寺古墳群」の標柱
説明板は見あたらない。
道路の向かい側には、「鳥坂城址登り口がある。
横穴式石室らしいものを2基見つけた。
尼寺古墳群は 気延山から北東に延びる丘陵(茶臼山)の最先端部の尾根上に位置する6基からなる古墳群。 組合せ式箱式石棺を主体とする1号墳と横穴式石室を主体とする2号墳が知られている。 その他に箱式石棺をもつ円墳1、埋葬施設不詳の円墳2、提瓶・坏出土地が確認されている。 1・2号墳は昭和44年(1969)に発掘調査 南にはひびき岩古墳群、国史跡阿波国分尼寺跡などがある。 |
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尼寺1号墳 組合せ式石棺を主体とする。
1号墳(行者はん古墳)は尾根筋の頂部を利用して築かれた径9m・高さ2mの円墳。 箱式石棺は岩盤に墓壙を掘込み、結晶片岩の板石によって構築され、 内法で長さ1.94m、幅は東端で0.52m、西端で0.41m、東端高さ0.25m、西端高さ不明 床面には円礫を敷設している。 棺内から管玉4・ガラス玉17 棺外から須恵器有蓋短頸壺が出土。 6世紀後葉の築造と推定されている。 (ネット検索・古墳辞典から) |
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尼寺2号墳 1号墳の向こう側に、天井石がなくなった石室がある。
2号墳(徳里山神さん古墳)は墳丘がほとんど失われているが、径10mの円墳と考えられている。 西に開口する片袖式の横穴式石室は現存長5.82m。 玄室長さ2.62m・幅1.80m・現存高さ1.30m 羨道部長さ3.20m幅は玄門付近で0.85m、入り口付近で0.95m 天井石は全て取り去られ、玄門石も抜き取られている。 須恵器の高坏片3が出土 1号墳よりやや時代が下る時期の築造と推定されている。 尼寺古墳群2号墳石室 (古墳辞典から) (ネット検索・古墳辞典から) |
ひびき岩古墳群 日枝神社古墳群 |
名西郡石井町石井内谷 撮影日2023/3/22 13:29 |
尼寺古墳群の南東300mほどの道路沿いに「ひびき岩古墳群」の標柱が立っている。
西の山中にあるらしいが、場所が特定できなかったので見学はしなかった。
16号墳・17号墳が調査されたようだ。
道路脇にある「ひびき岩古墳群」
と書かれた案内板
説明板は見あたらない
この奥の山にあると思う。
ネット検索・古墳辞典から |
ひびき岩古墳群は 気延山東麓の北東に延びる尾根の標高約20mの地点に位置する。 約20基の古墳があったとされる。 16号墳は直径約12mの円墳で、墳丘中央にある横穴式石室は、玄室長約4m、幅約2m 須恵器・玉類(勾玉・トンボ玉・琥珀製棗玉・切子玉・耳環など)・馬具などが出土しているが、 火葬墓として再利用されたので、熱の影響で損傷しているものが多い。 17号墳は16号墳の東に位置する直径約10mの円墳である。 横穴式石室は、玄室長1.75m、幅1.75m 須恵器、管玉・切子玉・ガラス小玉・耳環などの玉類、鉄鏃・刀子・馬具などが出土。。 これらの古墳は、6世紀末の築造と推定されている。 古墳の規模に比べて出土遺物が豊富。 |
ひびき岩古墳群標柱の南にある日枝神社の入口には「日枝神社古墳群」の標柱が立っている。
日枝神社境内に古墳があるようだが、これも見学しなかった。
阿波国分尼寺跡 国史跡 |
名西郡石井町石井字尼寺 撮影日2023/3/22 13:30 |
地名が「字尼寺」というので、元は尼寺があったと推定されてきたが、発掘調査で寺の範囲が確定された。
阿波国分尼寺跡は、鮎喰川によって形成された沖積平野に突き出した気延山南麓に位置する。 1970年(昭和45年)・1971年(昭和46年)に、寺の範囲を確認する調査が行われた。 その結果、寺の範囲は1町半四方(約150m)で、 寺を建てる基準の方位は条里と同じ方向であることが分かった。(レキシルとくしまから抜粋) |
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説明板と石碑「史跡阿波国分寺跡」 |
金堂基壇復元工事中 |
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講堂跡 |
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説明板から |
「国分尼寺跡」は石井町、「国分寺跡」は徳島市となる。
阿波国分寺跡 国史跡 |
徳島市国府町矢野 撮影日2023/3/22 13:49 |
阿波国分尼寺跡の南約1.5kmには、現代の国分寺がある。
聖武天皇が国分寺建立の詔によって建てられた官寺「阿波国分寺」の跡と考えられている。
現在の国分寺 四国八十八箇所霊場の第十五番札所。 札所寺院としては単に国分寺と呼ぶのが通例である。 薬王山(ヤクオウサン)、金色院(コンジキイン)と号す。宗派は曹洞宗。本尊は薬師如来。 |
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山門 |
本堂 |
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阿波国分寺庭園 桃山時代に作庭されたと伝わる“阿波の青石” の豪快な石組の庭園は 国指定名勝となっている。 |
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天平時代の国分寺の七重塔心礎 |
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説明板から |
2014年には、阿波史跡公園内の宮谷古墳・奥谷1号墳・矢野古墳を見学した。
見学しなかった八倉比売神社へ。
八倉比売神社古墳群 | 徳島市国府町矢野 撮影日2023/3/22 14:03 |
宮谷古墳から道なりに西へ約200m、八倉比売神社のふもとに、駐車スペースがある。
そこから階段を約180段で八倉比売神社社殿に到着。
インターネット上に「八倉比売神社古墳群測量調査概要」が公開されているので参考にさせてもらった。
天石門別八倉比売神社 八倉比売神社はかつては 気延山山頂(標高212.3m)に あったといわれている。 神社略記の細かな説明板から 古墳関係の部分を中心に抜粋する。 祭神は大日霊女命オオヒルメノミコト(別名天照大神) 当社は鎮座する杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る 江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。 奥ノ院は海抜116m、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で 後円部頂上に五角形の祭壇が青石の小口積で築かれている。 青石の祠に、 砂岩の鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。 気延山(海抜212m)一帯200余りの古墳群の最大の古墳である。 |
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神社略記には、前方後円墳となっているが、 平成4年に測量調査が行われて、円墳1基と方墳1基と確認された。
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社殿の後に階段があり、 その上に古墳が奥の院として 保存されている。 |
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八倉比盗_社1号墳は 径約35m・現高約 3mの円墳 墳頂部は削平により広い平坦面をなしている。 段築が成されているものと考えられている。
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八倉比盗_社2号墳は 一辺が推定約20mの 方墳と考えられている。 くびれをもって山頂側に開いていく部分が存在することから, 前方部もしくは突出部が存在する可能性もある。
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阿波史跡公園内の古墳は、前回の四国旅行(2014年)の時に見学した。
阿波史跡公園の古墳と曽我氏神社古墳群の位置関係 (八倉比売神社古墳群測量調査概要から) 左方の古墳群は曽我氏神社古墳群(石井町) |
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山ノ神古墳群 | 名西郡石井町石井石井 撮影日2023/3/22 14:41 |
気延山の北西方向端の尾根上にある。
円徳寺の東側にあるが、古墳群に行くには、
円徳寺から南下して住宅街に入り、その北東の端から行かなければならない。
「茂利神社」の東から入る。
山ノ神古墳群は 1978年、宅地造成工事で発見された。 本格調査は行われておらず、町や県の史跡には未指定。 気延山の北西端の標高約40mの尾根上にあり、3基確認されている。 墳丘図 (古墳辞典から・1985年時点) 1978年(昭和53年)、発見 1983年(昭和58年)に測量調査 2014年度(平成26年度)に発掘調査 山ノ神古墳(1号墳)は利包古墳(トシカネコフン)の別名で円墳として認識されていたが、 1983年の測量調査で前方後円墳と指摘された。 墳丘長56mの前方後円墳 最大幅約30m、高さ6・7m 段築なし 円筒埴輪なし 粘土槨2基が確認されている 形象埴輪片・鉄鎌・鉄斧などが出土 4世紀後半の築造と推定されている。 1号墳のそばには円墳(直径14m)が位置し、4世紀末頃の築造と推定されている。 |
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古墳群入口 |
山ノ神古墳群(1号墳)上り口 |
後円部墳頂部 |
後円部から前方部を見る |
1号墳の前方部の斜め前にある大山祇神社 |
2号墳 |
ネット検索から 2017年2月、2014年度から進めていた「山ノ神古墳」の発掘調査で、 県内2例目の筒形銅器が出土したと発表された。 筒形銅器は円筒型で長さ11cm、最大直径2.7cm、 前方後円墳の築造後に加えられた円墳(直径14m)の周辺部から出土した。 4世紀半ば以降、畿内で栄えた政権とのつながりがあった可能性を示す資料とみられる。 筒形銅器は勢見山古墳(徳島市)を含めて、国内で約70個が出土しているものと同種。 全長56mの前方後円墳は、渋野丸山(徳島市)、愛宕山(板野町)に次ぐ、 県内3番目の規模。 |
古墳群は、3基となっているが、2基の情報しかない。
古墳辞典には、
「後円部西側にある3号墳は横穴式石室と組合せ石棺があるので、4世紀末〜5世紀前半の築造」
とある。
前山古墳群 | 名西郡石井町石井清成 撮影日2023/3/22 14:41 |
地蔵峠まで車で行けて、駐車できる。そこから徒歩で約350m.歩けば、前山古墳群。
地蔵峠
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地蔵峠にある案内板 前山古墳跡という文字が、下の真ん中あたりに見える |
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前山古墳群への道 |
途中の鉄塔 |
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前山古墳群は 気延山から西に約6km離れた標高160mの尾根上に位置し、 2基の前方後円墳からなる。
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前山1号墳 全長18mの前方後円墳
前山1号墳は 全長約18mの前方後円墳 後円部径9.7m前後、前方部9.0m、 前方部と後円部の長さの比がおよそ1:1となり、前方部はバチ型にひろがっている。 葺石がある。「讃岐型前方後円墳」の特徴 後円部は高さ1mの2段築成で、土と結晶片岩の割石を積み上げて構築(積石塚か)されている。 後円部のやや西寄りにある竪穴式石槨は長さ3.1m、幅は北側で1m、南で0.8m。 墳丘の主軸(東西)に直交してほぼ南北の主軸をもち、石室は緑色片岩の割石でつくられていて、 墓壙の堀込に当たる部分には板石を立て、 その中に細長い石を縦または横に積み上げた後に、壁に沿って板石を貼り付けている。 石室の床には赤色粘土が貼られ、 その中央に溝状のくぼみがあり、木棺を安置していたと考えられている。 副葬品などは出土していないが、墳丘裾部で出土した土師器片から 3世紀末〜4世紀初頭頃の築造と推定されている。 |
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前山2号墳 全長18mの前方後円墳
前山2号墳は 全長18mの前方後円墳。 後円部径11m・高さ1.3m 前方部の長さ7m・幅6m・高さ1m くびれ部の幅4.5m・高さ0.8m 前方部はやや開き、墳丘平面形は約2分の1サイズで宮谷古墳に類似する。 後円部中央には2基の埋葬施設があり、1基は竪穴式石槨と内部の箱形石棺が露出している。 古墳の立地からみて、1号墳に続く築造と推定されている。 |
調べました! | |
讃岐型前方後円墳 | 北条芳隆氏の提唱による。 香川県、徳島県の積石塚が多く分布する地域の古墳の検討から 後円部と前方部の比率はほぼ1:1 前方部端を溝で区画するか、高く盛り上げて目立たせている。 |
纒向型前方後円墳 | 寺沢薫氏の提唱による。 纒向石塚をはじめとする奈良県の纒向古墳群の検討から 前方部の長さが後円部の直径のほぼ半分 前方部が小さくその先端がはっきりしないものが多い。 |
曽我氏神社古墳群 | 名西郡石井町石井城ノ内 撮影日2023/3/22 15:47 |
前山古墳群から北に約500mの尾根の先端には、曽我氏神社古墳群がある。
説明板はない。
曽我氏神社 由緒書きから 御祭神は 木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト) 彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト) 創建は寛正5年(1464)と伝えられている。 建久4年(1193)に、 父親の仇討ち本懐を遂げて武士の鑑として讃えられた曽我兄弟の一人曽我五郎の 家臣鬼王団三郎(地元の武知一族の先祖)が、この地に小祠を建てたのが始まり。
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曽我氏神社古墳群 北に延びる尾根先端、標高約50mに位置し、突出部をもつ円墳と方墳の2基からなる。
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曽我氏神社1号墳 全長14mの円墳で突出部がある。
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曽我氏神社2号墳 10m×12mの方墳
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ネット検索・古墳辞典から 曽我氏神社1号墳は 径11mの円墳で長さ3m・幅3mの突出部をもつ 基底部に貼石をして裾部には葺石を積み上げている。 墳丘中央には、結晶片岩で作られた2基の竪穴式石槨が設置されている。 第1主体部は割竹形木棺があり、 小型の四獣鏡・鉄剣・鉄斧・ヤリガンナ・鉄鎌・刀子が出土。 第2主体部は、組合式箱形木棺で 面径4cmの珠文鏡・石釧・勾玉・管玉・ガラス小玉などが出土している。 曽我氏神社2号墳は 1号墳同様に貼り石葺石がある。 円筒埴輪列がある。 墳丘中央に結晶片岩で作られた竪穴式石槨があり内部に割竹形木棺があり、 鉄刀・鉄剣・鉄斧・ヤリガンナ・刀子などが出土している。 1号墳が先につくられているが、4世紀後葉の築造と推定されている。 |
西宮古墳 | 吉野川市鴨島町敷地 撮影日2023/3/22 16:21 |
吉野川市の国立病院機構徳島病院のすぐ北に説明板が立っていて、
そこから登ってすぐ、低い丘の頂きにある。
残っているのは4つの巨石だけ。
西宮古墳は、忌部山型の横穴式石室がある。 7世紀初めの築造と推定されている。 |
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墳丘 |
4つの立石が残るだけの石室 |
「忌部山型石室」とは 石室の平面形は、隅丸長方形で、 天井部は石材を前後に持ち送って、中央部を高く作り出す構造を持っている。 「境谷古墳」の例も含め、旧麻植郡内に数多く造営され、 阿波忌部氏との関係が指摘されている。 (ネット検索から) |
この残り方で忌部山型と、分かるのか…。
金勝寺古墳 市史跡 |
吉野川市山川町山路 撮影日2023/3/22 17:06 |
前回の四国旅行で、行きつけなかった金勝寺古墳。今回はナビで行けた。
金勝寺の前に説明板。古墳のそばにも説明板。
金勝寺の駐車場前に 案内板と説明板
正面奥の墓地ではなくて、
左に20mほど行った先の墓地の中にある。
古墳は墓地の中に隠れている。
金勝寺古墳は 玄室の平面プランを隅丸に構築し、 石材を持ち送りにしたいわゆるドーム式の天井を形成する。 このような構造の玄室をもつ古墳は忌部山古墳群の独特なもので 「忌部山型石室古墳」といわれている。 6世紀後半の築造と推定されている。 |
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案内板の通りに行くと遠回りになる |
奥壁側が開いている。中に入る。 |
石室内部 奥壁側から入口側を見る |
石室内部 入口側から奥壁側を見る |
入口側も開口している |
入口側から見た石室内部 |
墓石に囲まれてかろうじて残った古墳だ。
境谷古墳 市史跡 |
吉野川市山川町境谷 撮影日2023/3/22 17:28 |
山川町の丘陵先端にあり、集落の曲がり角に説明板がある。説明板近くの空き地に駐車。
そこから山道を100mほど上る。
曲がり角にある説明板 |
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墳丘前にも説明板 |
石室入口 天井石が露出 |
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隅丸方形、左右持ち送りの天井 |
石室内部から入口側を見る |
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古墳辞典・ネット検索から 1958(昭和33年)再発掘・1967年実測調査 尾根の先端につくられた径13mの円墳 高さ3.5m 旧山川町で発見された古墳の中では最大のものとされる。 横穴式石室は、結晶片岩の割石を小口積み持ち送りぎみにして構築している。 「忌部山型石室」 玄室は長さ3.2m最大幅1.8m高さ2m 碧玉製管玉・水晶製切子玉無・銅製耳環・鉄鏃・土師器などが出土 7世紀前半の築造と推定されている。 |
西の原古墳 市史跡 |
吉野川市山川町西ノ原 撮影日2023/3/22 17:28 |
境谷古墳の西約800mにある。
北西側の道路三叉路に案内板があり、南に50mほど行って、戻るような脇道に入る。
脇道の入口に駐車。
西の原古墳 「無縁大師塚穴」と呼ばれる横穴式の円墳が残存している。標高50m付近になる。 昔は表面積が約1ヘクタールもあったと言われているが,現在はけずりとられて田畑と化している。 以前,塚穴がくずれ白骨が出土したこともある。(HP「山川町の文化財」から) 玄室内の壁が河原石で積まれているのが特徴 周囲は羨道と共に崩され、玄室内に弘法大師が祀られている。 7世紀前半頃の築造と推定されている。 |
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「西の原古墳」の案内板 古墳は車の左の先にある。 |
小さくなった墳丘 |
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6 石室には弘法大師像が安置されている。 |
弘法大師像 |
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説明板から |
午後6時を過ぎた。
明日はまず祖谷渓に行くので、今日中に三好市まで行って泊まる。
脇町ICから徳島自動車道で井川池田ICまで25分。
7時頃、「ホテルココクロス」(三好市池田町サラダ)にチェックイン
外から直接客室に入れる変わった造りのホテル
「徳島旅行割 周遊クーポン」が1人2千円もらえたので
クーポンが使えるセブンイレブン三好池田ウエノ店で
夕食用に中華飯と朝食用の食品を買い、ホテルで食事。
祖谷渓につづく