北村さんちの遺跡めぐり
更新日 2023/5/3
徳島旅行記2023 その2 阿南市・徳島市・石井町 |
2023/3/21〜25 |
徳島県2日目 朝は小雨が降っている。
2023/3/22
「スーパーホテル阿南富岡」の朝食バイキングを食べて出発、午前8時
朝食バイキング
ホテルの西側の山に、学原剣塚古墳があるはず。
学原剣塚古墳 | 阿南市学原町深田 |
通称「袖もじき」の山中、標高約40mに位置する。 直径約10mの円墳 封土はほとんど流出し、天井石・側壁も大半が持ち去られている。 南に開口した横穴式石室は全長4.6m 最大幅1.75m・高さ1.80m 羨道部は幅1.35m・現存長さ2.1m 右片袖式で胴張の形状 石室内から勾玉・管玉・丸玉・切子玉・棗玉・ガラス小玉・耳飾などの装飾品の他、 頭椎(カブツチ)大刀・鉄鏃・刀子の鉄器類や須恵器などが出土。 古墳時代後期の築造と推定されている。 1959年(昭和34年)に発掘調査。 |
雨の中、登り口不明なので、あきらめる……
王子山古墳群 県史跡 |
阿南市日開野町王子山 撮影日2023/3/22 8:14 |
宿泊した「スーパーホテル阿南富岡」の北東約1kmに標高36mの王子山という小さな独立丘陵がある。
その山中に古墳がある。西麓に皇子神社。
王子山古墳群は、標高約36mの低山・王子山の山頂に、 直径15m前後の円墳3基が確認されている。 6世紀頃の築造と推定されている。 発掘調査は行われていないが、須恵器が出土したと伝えられている。 麓には、皇子神社が鎮座する。 |
皇子神社 (オウジジンジャ) 創立年代は不明だが、 崇徳天皇第三の皇子朧夜の皇子が、 紀州渚の郡加田浦より當阿波の国へ入船し、 日開野村へ流着、朱塗の鳥居を建て、 當社を創建したと伝えられている。 (皇子神社 由緒書きから) 御祭神は大己貴命(大国主神) 摂社として二宮神社・八坂神社・秋葉神社・天神社の四社が祀られている。 |
ふもとからは遊歩道が整備されているが かなり、森が深い…。 「農村公園 90m 展望台 20m 古墳群 60m」 の案内板 |
3号墳、2号墳、1号墳の順に見学。
3号墳 径17m・高さ2mの円墳 内部は不明だが、横穴式石室と考えられている
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1号墳・2号墳の前にも 説明板がある。 |
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2号墳 径14mの円墳 羨道入口付近から須恵器の破片が出土
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1号墳 径14m・高さ2.5mの円墳 南側に羨道部が開いている 天井石が数個露出している
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説明板から |
展望台へ。
展望台 |
展望台から北方向を望む 雨が止んで、晴れてきて、空が青いなぁ! |
皇子神社の向かいのコンビニで休憩して、次へ!
徳島市南部に向かう。
渋野の古墳群 「渋野の古墳」として県史跡 渋野丸山古墳は国史跡 |
徳島市丈六町・渋野町ほか 撮影日2023/3/22 9:34 |
渋野丸山古墳にパンフレットが置かれていたのでもらってきた。
インターネット上に、「徳島市埋蔵文化財発掘調査概要10 (2000年) マンジョ塚2号墳」
「史跡渋野丸山古墳発掘調査報告書U (2020)」が公開されていたので参考にさせてもらった。
渋野の古墳群 | ||||||||||||||||||||||||
徳島平野南部を流れる多々羅川左岸に位置する丘陵先端部に築かれた古墳群。 渋野丸山古墳は平成21年に国指定史跡となった。 渋野丸山古墳の周辺には、 新宮塚古墳、天王の森古墳、マンジョ塚2号墳などの、 前後する時期の円墳が古墳群を形成している。
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花折塚古墳(県指定史跡})は現在所在地不明で消滅していると考えられている。 1918年に発掘され、直径16mほどの円墳 結晶片岩製の組み合わせ石棺があり、直刀2本が出土 |
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マンジョ塚古墳(県指定史跡)は、 現状は畑地となっていて、消滅していると考えられている。 直径12mほどの円墳 古くは鏡、三鈴、鉄剣などが出土したと伝えられている。(所在不明) 輪鐙が貼り付けられた馬形埴輪片とメノウ製の勾玉が出土品として伝わっている。 |
マンジョ塚2号墳・新宮塚古墳・渋野丸山古墳・天王の森古墳の順に見学。
見学した中では、一番東側にあるのがマンジョ塚2号墳。
マンジョ塚2号墳 | 県史跡 |
直径約30mの円墳と推定されている。 円筒埴輪、朝顔形埴輪、家や蓋などの形象埴輪の破片が出土 墳頂で、東西に長さ4.7mの結晶片岩製の埋葬施設の蓋石列が 良好に残存していることが判明し、部分的に薄く粘土が残存することや、 蓋石と蓋石の隙間に小石が詰められている状況などから、 未盗掘の埋葬施設であると考えられている。 古墳時代前期後半の築造と推定されている。 マンジョ塚1号墳と同じ尾根続きにある 地形・墳丘測量図、トレンチ配置図 (報告書から) 1999(平成 11)年に市道拡幅工事に伴い調査 2009(平成 21)年に確認調査 |
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東から見た墳丘 |
擁壁の向こうに保存されているはず |
中はジャングル |
西から見たマンジョ塚2号墳 |
マンジョ塚2号墳の南西約500mの道路のすぐ北にあるのが新宮塚古墳。
新宮塚古墳 | 県史跡 徳島市渋野町伊予王子 |
現状直径12m(本来は20m)の円墳 1952(昭和 27)年に箱形石棺が発掘され、副葬品として鏡や玉類、鉄刀・鉄剣などが出土 古墳時代中期・5世紀前半頃の築造と推定されている。 現在は丘陵斜面に階段が作られており、登ると新宮神社がある。 丘陵先端部に位置する |
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階段を上ると、新宮神社がある。 |
墳丘 |
墳丘上 |
簡単な説明板 |
新宮塚古墳の西北西約750mにあるのが渋野丸山古墳。
渋野丸山古墳 | 国史跡 徳島市渋野町三ツ岩 | ||
全長105mの前方後円墳 周濠を含めた全長は 118 m 主軸を東西に向ける。 3段築成だが、現在土砂や耕作土によって第1段は埋没している。 葺石あり、埴輪列あり 周濠は山側を一部省略した盾形周濠である。 南側側面に造出しがあり、舟形埴輪、土師器小壺、高坏笊形土器などの破片が出土 造出し平坦面には円筒埴輪列があった。 5世紀前半の築造と推定されている。 県内最大の前方後円墳で、 四国でも富田茶臼山古墳(香川県さぬき市)に次いで第2の規模を誇る |
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東から見た墳丘(後円部側) |
前方部から後円部を見る |
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後円部から前方部を見る |
周濠跡 |
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南から見た渋野丸山古墳 右が後円部 |
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説明板から |
渋野丸山古墳の西側に、裾を石垣で固められた古墳がある。
渋野天王の森古墳 | 県指定史跡 徳島市渋野町学頭 |
直径23m・高さ3.5〜6mの円墳。 墳丘は周囲をコンクリート壁で覆われ、墳頂部は神社の社殿建築により平坦になっている。 内部構造は不明だが、社殿建築の際に天井石が出たという言い伝えもある。 |
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南から見た墳丘 |
東側に上り口がある。 |
墳丘上には社殿がある。 |
弁天山 | 徳島市方上町弁財天 撮影日2023/3/22 10:36 |
!小さな山なのに、徳島の名所として有名な弁天山。
弁天山は、「とくしま市民遺産(徳島県徳島市が選定した徳島市の景観・伝統文化)」に選ばれている。
弁天山は 標高が6.1mで、 国土地理院発行の地形図に記載されている 日本で最も低い山。 市杵島姫命イチキシマヒメノミコトを祭神とする 厳島神社がまつられていて、 地元の保存会では、 社殿・参道・鳥居などを整備するほか 毎年6月に山開きをしている。 |
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弁天山 |
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登り口 きれいな鳥居 |
山頂の厳島神社 |
弁天山の隣には、弁天市があって産直野菜が売られている。
勢見山古墳 | 徳島市二軒屋町 撮影日2023/3/22 11:10 |
「徳島県の歴史散歩」に掲載されている古墳。
眉山丘陵に続く南東の尾根先端の勢見山山頂にある。
どこから行くのかわからないが、
「眉山のまほろば」というリハビリ施設の駐車場に駐車して、東側の斜面を山頂目指してよじ登る。
石碑がある。石室が開口しているらしいが、見て来なかった…。
勢見山古墳は、勢見山山頂にある。 通称「佐々木の抜け穴」とよばれ、 現在は墳頂部に「天武天皇中宮摩耶姫命之墓」という石碑が建てられている。 竪穴式石室が東側で開口していて、内部が観察できる 1766年(明和3年)、筒形銅器と銅鏡が出土したと報告されている。 (徳島県の歴史散歩から) |
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墳頂部に「天武天皇中宮摩耶姫命之墓」 と刻まれた石碑や鉄柵などが設けられている。 鉄柵の横には、「奥津城由来記」という説明板がある。 この奥津城にまつられているのは天武天皇の中宮であった「摩耶姫」である。 この姫は当時「壬申の乱」という内乱に際して、 相手方の軍に捕らえられて都から阿波の国「いわねびこ」という者に連れられて、 都から阿波の国の琴弾山に来られました、 その時、姫は懐妊中でありましたので、 気が転倒してついに悶死されたのであります この地に奥津城を築いて、丁重に葬ってあったのであります 時代の変遷に伴ってこの奥津城を顧みるものもなく、 見る影もなく荒れてしまつておりましたので、 ここに修復を行い、その祭祀を続けることにしております (「宗教法人 自然社徳島教堂」) |
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石碑 |
墳丘 |
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ネット検索から 勢見山古墳は、勢見山(109.4m)山頂に位置する。 現在は墳頂部に「天武天皇中宮摩耶姫命之墓」という石碑や鉄柵などが設けられている。 4世紀後半の築造と推定される前方後円墳とも言われるが、円墳状の高まりが残るだけ。 竪穴式石室の東側短側壁部分が開口しており、内部を観察できる。 内部は結晶片岩8段の割り石が積まれ、9枚の蓋石がある。 現存長約4m、幅約0.8m、開口部高さ40cm。 通称「佐々木の抜け穴」とよばれている。 |
墳丘上に石材は見えるが、石室はどこにあったのか?
八人塚古墳 | 徳島市加茂名町東名東山 眉山カントリークラブ内 撮影日2023/3/22 11:41 |
眉山カントリークラブの敷地にあるので、クラブの受付に見学の申し込みをして、快くOKをもらった。
ゴルフ場のカートに乗せられて、古墳の裾まで連れて行ってもらった。(まぁすぐなんだけど。)
インターネット上に「徳島市八人塚古墳測量調査報告(2006年)」が公開されているので参考にさせてもらった。
八人塚古墳は 2005年の調査で、現状墳丘長約45mの前方後円墳、 後円部径約24m、前方部長約21m、前方部幅約6m 積石によって構築された積石塚 埴輪なし 遺物も出土していない 古墳時代初期の築造と推定されている。 八人の武将を葬ったという伝説があることからこの名前が付けられた。 |
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後円部 |
後円部上 |
後円部上の積石 |
後円部上の陥没坑 |
後円部から前方部を見る |
くびれ部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
後円部脇から前方部を見る |
前方部脇から後円部を見る |
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説明板・報告書から 1966年の調査では、 全長60mと報告されていた。 八人塚古墳墳丘推定復元図 (2005年) (報告書から) 前方部先端は無くなっているので、 1966年の測量図をもとに復元されている。 現状墳丘長約45mの前方後円墳、 後円部径約24m、前方部長約21m、前方部幅約6m 1966年の測量調査ては、 全長約 60mの前方後円墳 後円部径約 30m、前方部幅約 15m 前方部が極めて細長いことが報告されている。 前方後円形の積石塚としては最大規模、石積塚の中では、3番目の規模を持っている。 1974年には、自治体とゴルフ場の間で、 「ゴルフ場の敷地内で、現状保存する」という協定書が結ばれた。 しかし、その後のゴルフ場建設に伴い、 八人塚古墳の前方部が数m崩落したことが報告されている。 (報告書から) |
周辺の遺跡 (「八人塚古墳報告書」から引用・抜粋) |
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穴不動古墳 市史跡 |
徳島市名東町1丁目 撮影日2023/3/22 12:08 |
八人塚古墳の北約500mの地蔵院境内に保存されている。
お寺の駐車場あり。
地蔵院は、嵯峨天皇の御代(平安時代初期の弘仁年間810年- 824年)に創建された。 空海(弘法大師)が四国巡錫の折に女人の出産の安産を願い、 地蔵菩薩を安置したことが始まりといわれている。
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穴不動古墳は 直径18mの円墳 横穴式石室は全長9.3m、玄室長4.3m・幅2.2m・高さ2.0m 羨道幅2.0m・高さ1.8m 7世紀中ごろの築造と推定されている。 (矢野古墳の次) |
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穴地蔵古墳墳丘 |
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横穴式石室には扉があって中には入れない |
石室内部 壁面はきれいに整えられている |
西側尾根上には節句山古墳群、さらに尾根筋を南側には姥が懐古墳があるそうだ。
「徳島旅行割 周遊クーポン」があるので、クーポンが使える「マルナカ国府店」でおにぎりなどを買い、
尼寺古墳群の駐車スペースで食事。
尼寺古墳群につづく