北村さんちの遺跡めぐり
更新日2022/1/30

美作の国旅行記 その3
万燈山古墳から   (津山市1・勝央町)
撮影日2021/11/20〜23

二日目です。    2021/11/21 
津山市の「セレクトイン津山」の朝食をいただいて、8時前に出発
20kmほど北にある万燈山古墳を目指す。時間的には30分ほど。

周辺の地図g

万燈山古墳
市指定史跡
津山市加茂町塔中
撮影日2021/11/20

津山市加茂町、古墳の南側の県道75号線の道路沿いにも登り口があるが、
 ぐるーっと北に回ったグランドに駐車して、古墳の前に行く。

 万燈山古墳は  直径24m・高さ4mの円墳
 南に開口する片袖式の横穴式石室
  全長11m 玄室長6.5m・幅2.2〜2.4m・高さ2.8mで県北最大
 石室の中に組み合わせ式の石棺1、陶棺1、木棺7があり、20体以上の埋葬者が確認された。
 羨道入口には大甕などを破砕した葬送儀礼の跡が見つかっている。
 石室から 金環21、勾玉7、管玉6、大玉・小玉類130、小金環2、空玉20、
  直刀9、刀子14、鉄鏃10、馬具2組(鉄地金銅張飾具付)、馬鈴2、
  鉄滓および土師器多数、
  須恵器の高坏5、坏21、まり(水や酒を盛った器)2、
   提瓶5、平瓶3、壺2、坩2、台付鉢1、大がめ1、
  他破片多数が出土。。
 6世紀後半の築造で、7世紀初めまで追葬が行われたと推定されている。
 昭和46年発掘調査

石室見取り図
 1、石棺
 2、陶棺
 3〜9、木棺

  奥壁前に組合せ式石棺1、その前に左側壁に沿って土師質亀甲形陶棺1、
  他に玄室内に木棺6、羨道に木棺1

北から見た墳丘

南から見た墳丘

石室の扉には鍵がかかっている。

奥壁は小さめの石材を積み上げている

左側の側壁

右側の側壁 片袖式

    

水原古墳(伝黒姫塚) 津山市西上
撮影日2021/11/21

史跡公園となっている。「新野山形」という地名の山あいの場所。

 黒媛伝説 
 古事記下巻にある吉備の山県における仁徳天皇と黒姫の美しいロマンは、
  山形の地名が遺るこの地の物語と古くから伝えられており、この古墳は黒媛塚という。
 黒媛は吉備の海部直の娘で、容姿端麗であったために都に召され、
 仁徳天皇の寵愛を受けながら、皇后の岩媛の嫉妬にあい故郷である山方(形)の地へ帰された。
 その黒媛を慕って仁徳天皇がわざわざ草深い山方を訪れて逢瀬を重ねたという
 古代のロマンスが「古事記」に載っている。
 この伝説は、八幡神社の由緒にも記されている。
 そしてこの水原古墳は「黒媛」の墓(黒媛塚)だとされていて、
  他にも山方地内には、黒媛が住んだ所といわれる地名などが今も残っている。
 古歌にも仁徳天皇が山方の地に黒媛を訪ねたときに詠んだ歌、
  黒媛が返歌を詠んだものなど、この地にゆかりの深いと思われるものが少なくない。
 昭和12年4月、この古墳が発掘されたことは勝北町史にも掲載されている。
 当時出土した陶棺などは、現在東京国立博物館に保管されている。

水原古墳(伝黒姫塚)歌碑

仁徳天皇
 「山縣(ヤマガタ)に
 蒔(マ)ける菘菜(アオナ)も吉備人と
 共にし採めば楽しくもあるか

      (「古事記」より


 黒媛
  「倭方(ヤマトヘ)に 西風吹きあけて雲離れ 退き居りともよ 我忘れめや

黒媛の墓といわれているのが、水原古墳。

 水原古墳(伝黒姫塚)は 昭和12年(1937)に発掘した横穴式石室の古墳
 陶棺(長さ222cm・高さ84cm)
  勾玉、管玉、ガラス玉、銀環、銅環、刀子などが出土して
  東京国立博物館に保管されている。   (説明板から) 

墳丘 石室が露出している。

天井石がなくなった石室 手前が開口部

奥壁

墳丘上から見た石室

総社市のこうもり塚古墳も黒媛塚といわれたことがあった。
年代が合わないので、名前がこうもり塚と変えられたそうだ。

近長四ツ塚古墳群
 市指定史跡
津山市近長
撮影日2021/11/21

近長の丘陵尾根に4基の古墳群がある。
集落内の道路から、すぐに山があるので見学しやすいかなと思って行ってみたが、
 見学できるような状態にはなっていない。
西の道路沿いにある「念仏講」の石碑あたりに駐車し、山に入る。

「念仏講」の石碑

説明板があるが、はっきり読めなくなっている。
寛政11年に立てられたと書かれている。



この東の山を登る。

 近長四ツ塚古墳群は、 
  尾根上に位置する前方後円墳1基と方墳1基、円墳2基からなる古墳群
 北から南に1号墳〜4号墳と名付けられている。
 1号墳は 1辺18×16m・高さ2.5mの方墳
 墳頂に盗掘坑の跡が残る。 4基の中で一番北側

墳丘

墳丘上には穴が開いている(穴に見えない…。)


倒木にからまった葺石!
 2号墳は  全長44.5mの前方後円墳
  後円部径30m・高さ4.5m 前方部幅20m・長さ16m・高さ3m
 前方部を北北西に向ける。 1号墳と前方部が接している。
 1号墳と2号墳の主軸が一致。
 葺石が残る。

前方部先端

くびれ部から前方部を見る

後円部

墳丘斜面の石  葺石か
 3号墳は 径13m・高さ2.5mの円墳  2号墳の後円部南側10m付近。
 4号墳は 径11m・高さ1.25mの円墳  3号墳の南側40m付近の尾根上に位置。

古墳に見えるような写真を掲載したいが、むずかしい…。

高野山西正仙塚古墳
 市指定史跡
津山市高野山西
撮影日2021/11/21

近くの空き地に駐車。
墳丘の北側の道路に案内標識があり、山を登る。
墳丘上に石棺が残っている。
説明板があるが、雑草が伸び放題で、墳形を確認するのはむずかしい。

 高野山西正仙塚古墳は 全長56mの前方後円墳
  後円部径31m・高さ6m、前方部長さ25m・高さ3m、
 前方部はほぼ真南に向いている。
 葺石があるが、埴輪はない。
 後円部墳頂には竜山石製の長持形石棺が露出している。
 石室のあった形跡はなく、石棺は直接土中に直接埋められていたと考えられている。
 石棺は明治時代(1883)に盗掘されて、
  半円方形帯神獣鏡1、変形四獣鏡1、勾玉、管玉、鉄斧、土師器などが出土した。
 このほかに人骨2体・鉄刀・鉄剣なども出土したと伝えられている。
 4世紀後半の築造と推定されている。

墳丘企画推定図

長持形石棺平面図
(いずれも説明板から)

道路脇の案内表示

くびれ部あたりに説明板が立っている
奥が後円部

後円部上の石棺

反対側から見た石棺

石棺内部
丸く削られた蓋石 赤色顔料も確認できる

前方部は藪
 

石棺がみられただけでも良かった!

植月寺山古墳
町指定史跡
勝田郡勝央町植月東
撮影日2021/11/21

観音寺の裏山にある前方後方墳。
観音寺は立派なお寺だ。

 観音寺
 平安時代の天安年間(857〜859)、比叡山第三祖慈覚大師によって創建されたと伝えられている。
 現在の地には、慶長5年に移転築造されている。
 明治8年には、この寺で植月小学校が開校されて、同14年まで仮校舎となっていた。
 当初、裏山の古墳台上に建てられたが、寛文年間の初めに焼失した。
 寛文六年(1666)同地に再建された。
 その後、明和元年から安永4年(1764〜1775)にかけ、古墳台上より現在の地に移築された。
 建物は概ね三百年を経ており、本尊をはじめ八仏像が安置されている。
     (説明板から)

仁王門・鐘楼

中門

仁王像1

仁王像2

本堂

庫裡

観音寺の後ろに古墳!

 植月寺山古墳 (観音寺古墳ともいう)  町指定史跡
 全長90mの前方後方墳
  後方部1辺約36m・高さ約4.5m、前方部長さ約47m・高さ約1.5m、
  後方部は前方部との比高差3mと高く、前方部はゆるく撥形に開く
 人頭大の葺石がある。
 埴輪はない。  出土物もない。
 埋葬施設は不明で、明瞭な盗掘痕も認められていない。
 未盗掘の可能性がある。
 古墳時代前期の築造と推定されている。
 美作地方最大の古墳

植月寺山古墳 墳丘図

(説明板から)

前方部の南側が
寺の境内となって変形している。

後方部手前から見る 右奥が前方部

後方部脇から前方部を見る

前方部脇から後方部を見る
周溝もきれいに残っている。

前方部から後方部を見る

くびれ部から後方部を見る

後方部頂

後方部から前方部を見る

葺石

 

井口車塚古墳
 市指定史跡
津山市河辺
撮影日2021/11/21

インターネット上に「井口車塚古墳(1994)」の発掘報告書が公開されているので、参考にさせてもらった。
周溝と外堤が残るきれいな古墳だ。

 井口車塚古墳(イノクチクルマヅカコフン)周辺古墳群分布図 (報告書から)

井口車塚古墳は、津山市の東部、
 吉井川の支流
 加茂川左岸の丘陵の頂部から、
 やや下った尾根上鞍部に立地する。

北西方向の視界が開けており
 かつては眼下に
 加茂川を見下ろすことが
 で きたと推測 されている。
 井口車塚古墳(1号墳)には隣接して、かつて円墳2基(2・3号墳)があった
  いずれも木棺直葬で
  2号墳からは円筒埴輪、形象埴輪(家)、須恵器、鉄鏃が、
  3号墳からは円筒埴輪が出土している。
 同一丘陵の先端部に前方後円墳1基と円墳1基のセウ田古墳群がある。
 井口車塚古墳墳丘復元図  (報告書から)

井口車塚古墳
 全長35.5mの帆立貝式古墳

墳丘は2段築成

上段と下段との境には幅1〜2mのテラスがあり、
 これと同レベルの所に造出しが付いている。
 前方部は全面発掘していないので詳細な規模・構造は不明。
 馬蹄形の周溝があったと考えられている。
 外提は、幅4mで、大部分が盛土でつくられている。
 上段の斜面には葺石がある。
  (平野部から眺望できる部分・北側のみに全面葺石の可能性がある。)
 墳頂とテラスに埴輪がめぐる
 円筒埴輪・朝顔形円筒埴輪・形象埴輪(家・人・盾など)
 埋葬施設はほとんど破壊されていて不明だが、
  石材が見られないので石槨ではないと思われる。
 鉄剣や鉄鑿の小片が出土しただけ。
 5世紀代の築造と推定されている。
 平成4・5年に発掘調査、平成6年に報告書が発行されている。

前方部南西角手前から見た井口車塚古墳

前方部手前から見た墳丘

外提手前から後円部を見る 向こう側に前方部

周溝と外提が残る

後円部から前方部を見る

後円部頂

横姿

右が前方部

報告書では、帆立貝式古墳というべきか、 造出し付円墳というべきか迷っている。
「部分調査のため全容がはっきりしないため、帆立貝式古墳としておく」と書かれている。

井口車塚の近くの津山ICから中国自動車道に入り、北房ICで下りる。
いよいよ真庭市の古墳見学です。
昼食は、途中の真庭PAで調達。

大谷1号墳 につづく

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