北村さんちの遺跡めぐり
更新日2026/3/25
| 2025年秋の旅その4 島根県浜田市・益田市・津和野町 |
撮影日 2025/11/22〜28 | |
2025/11/24(月) 3日目、午前10時、広島の古墳見学を一旦終えて、島根県浜田市へ向かう。
三次IC - 千代田JCT - 金城PA - 浜田IC
11時20分 片山古墳のふもとに到着。
浜田市周辺の地図g
島根 |
片山古墳 |
浜田市下府町 |
案内表示があるので、すぐそばにあるのかと思ったら、坂道を登らなければならない。
| 片山古墳は 1辺12m・高さ5mの方墳 墳丘中段と裾部に外護列石がめぐる。 南に開口する無袖型の横穴式石室は奥行6.4m 幅1.7m・高さ1.9m、 一部に加工した切石を利用して構築されている。 江戸時代には開口しており、遺物などは見つかっていない。 7世紀中頃の築造と推定されている。 下府平野を望む標高41mの丘陵斜面に立地する。 下府廃寺(国指定)とは近く、年代的にも大きな開きがないことから、 下府廃寺も同系譜の首長によって造営 されたものと想定されている。 |
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![]() 標柱奥の山を登る。 |
![]() この右を行く |
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![]() 途中にも案内表示がある。まだまだ… |
![]() 石室の横に大きな説明板 |
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![]() 開口部 |
![]() 奥壁 |
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![]() 手前に落ちている石は奥壁石材らしい |
![]() 石室内から開口部を見る |
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説明板から
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島根 |
下府廃寺跡 |
浜田市下府町 |
片山古墳の西約300mに、下府廃寺跡がある。
塔の中心柱を支える塔心礎で、柱をはめ込むための円形のくぼみや舎利を納める円形の穴が確認されている。
インターネット上に「下府廃寺跡(平成4年)」が公開されているので参考にさせていただいた。
| 下府廃寺跡(シモコウハイジアト)は 塔を東、金堂を西に配した「法起寺式」の寺院であった。 片山古墳と年代的に大きな開きがないので、 片山古墳と同系譜の首長による造営と考えられている。 |
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![]() 下府廃寺 現状 |
![]() 石碑の後ろに 塔心礎の丸い穴が残っている |
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説明板の文字がぼんやりしているので、浜田市HPから引用して要旨を記す
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![]() 史蹟下府廃寺跡の 道を隔てた北側の山裾に建つお社 関係があるのだろうか…… |
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| 浜田市の東に当たる国分や下府一帯は、国府や国分寺の置かれた古代石見の中心地の一つ。 この地に有力な豪族がいた証拠が片山古墳と下府廃寺。 片山古墳がつくられた頃は、権力の象徴として大きな墓(古墳)を築いていたのが、 やがて壮大な寺院の建立によって豪族の権力を表すようになったものと考えられている。 |
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浜田IC-西村終点の自動車専用道路を12分間利用し、さらに約25分で益田市鵜の鼻へ。
島根 |
鵜ノ鼻古墳群 |
益田市遠田町 |
鵜ノ鼻岬の西麓の漁港(遠田漁港)に駐車して、登り坂を上がる。
![]() 遠田漁港 右手の電信柱の辺りに登り口 |
![]() 電信柱のそばに古墳群に行く坂があり 坂の途中に説明板がある。 |
説明板から はげて読みにくくなっているので要旨を記す![]() 島根県指定史跡 鵜ノ鼻古墳群 指定:昭和33年8月1日 弥生時代につづく4世紀から7世紀にかけて、全国各地に土を高く盛り上げた古墳が造られた。 古墳はその地域を治めた豪族の墓で、 その形態には前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳などがあり、 権力の象徴として築かれた。 古墳時代の後期(6世紀〜7世紀)に入ると、社会構造が大きく変化し、 それまでは首長やそれを支えた有力な家筋の戸主だけに認められていた古墳の築造が さらに広い範囲の家筋や家族にまで及び、 古墳に葬られる人が急激に増えて群集墳や横穴群が盛行した。 群集墳は限られた地域内に数多くの古墳が次々と築かれた遺跡で、 鵜ノ鼻古墳群はその典型的な例。 また日本海に突き出した丘陵上に形成されているなど 立地の面からも注目すべき古墳群といえる。 昭和62年3月 島根県教育委員会 益田市教育委員会 |
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鵜ノ鼻古墳群の配置図をインターネットで探したら見つかった。
| 鵜ノ鼻古墳群 益田市の北東、日本海に突き出た半島上に横穴式石室を持った小さな古墳が多数造られている。 6世紀後半〜7世紀の築造と推定されている。 現在確認できる古墳は、 全長がいずれも30mほどの前方後円墳4基、 一辺13mの方墳1基を含む約30基で 中でも比較的保存状態の良い19基が県指定史跡となっている。 古墳群の大半を占める円墳はいずれも10m前後の小規模なもので、 長さ4〜6mの横穴式石室を持っている。 (島根県HPから) ![]() 鵜ノ鼻古墳分布図 (2022年企画展益田の古墳の図に加筆) いくつかの支群に分かれているようだ。 この図では、B支群の古墳だけは、頭の{B」の文字が書かれていないようだ…… G支群とB支群の間には浅い谷(遊歩道)がある。 |
| 50号墳は、発掘調査されて、インターネット上に報告書が公開されている。 唯一の方墳 |
遠田漁港から坂を登ると、まず「G14号墳」の大きな墳丘が目につくが、「B支群」を先に紹介する。
鵜ノ鼻B14号墳
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鵜ノ鼻B13号墳
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鵜ノ鼻B15号墳
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鵜ノ鼻B16号墳
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| 鵜ノ鼻B17号墳 全長30mほどの前方後円墳 横穴式石室は全長7.7m 玄室長さ5.2m 玄室幅2.0m 高さ1.9m 古墳群中では最大の石室
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B支群から浅い谷(散策路となっている)を挟んで西側の丘にはG支群の円墳が群集している。
漁港から登ったときに一番目に付くG14号墳。
鵜ノ鼻G14号墳
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鵜ノ鼻G11号墳![]() |
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鵜の鼻G10号墳![]() |
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鵜の鼻G9号墳![]() |
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鵜ノ鼻G6号墳
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鵜ノ鼻G古墳群その1 (特定できない)![]() |
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鵜ノ鼻G古墳群その2 (特定できない)
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鵜ノ鼻古墳群その3 (特定できない)![]() |
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鵜ノ鼻古墳群 G支群中央の説明板
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午後1時を過ぎて、キヌヤ遠田店にて昼食。朝食をしっかり食べておいて良かった。
島根 |
大元古墳 |
益田市遠田町 |
国道9号墳の一本東側の集落沿いの道路に
「大元古墳群 これより350m入る」とかかれた標柱が立っている。
近くに大元集会所があるので駐車させてもらって、赤い屋根の住宅脇から山に登る。
![]() 大元古墳群への道 突き当りを右へ登っていく |
![]() 大元古墳群への道 案内表示がある |
| 大元古墳群は 前方後円墳の1号墳、円墳の2号墳からなる。 大元古墳(大元古墳群第1号墳)は 全長85mの前方後円墳 後円部径52m・後円部の高さ7m 前方部幅31m・高さ4.3m、 2段築成で葺石・埴輪を備える。 墳形や後円部から出土した埴輪の特徴から、 4世紀後半の築造と推定されている。 丘陵の尾根を利用して築造されている、 石見地方でスクモ塚古墳に次ぐ規模 1号墳は、四塚山古墳群の三角縁神獣鏡が出土した古墳に次いで築かれ、 スクモ塚古墳(4世紀後葉)、小丸山古墳(6世紀初頭)へと続く 首長墓のひとつと考えられている。 2号墳は 直径12mの円墳 (島根県HPから) 2号墳の場所も含めて、国史跡である。 |
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![]() 手前が大元第2号墳 奥1号墳 |
![]() 大元第2号墳 右奥が1号墳 |
![]() 大本古墳(1号墳)から第2号墳見下ろす |
![]() 大本古墳(1号墳) 前方部側 |
![]() 大元古墳 前方部手前から後円部を見る |
![]() 大元古墳 前方部から後円部を見る |
![]() 大元古墳 後円部墳頂部 三角点がある? |
![]() 大元古墳 葺石? |
![]() 大元古墳 後円部から前方部を見る |
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説明板から![]() |
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島根 |
スクモ塚古墳 |
益田市久城町 字須久茂塚 |
整備されて、駐車場がある。
| スクモ塚古墳は、全長98.8mの前方後円墳 県内最大の前方後円墳。 後円部直径54.4m・高さ8.2m くびれ部幅19m 前方部長さ44.4m・高さ2.5m・先端幅29m 後円部2段、前方部1段築成 周溝なし 後円部の墳頂は径14mの平坦面 後円部上段の斜面にだけ葺石がある 前方部の上に方形壇(四角い壇状の高まり)を設けている 方形檀頂部と後円部テラス面および後円部頂部に埴輪が並ぶ(円筒埴輪・朝顔形埴輪) 4世紀後葉の築造と推定されている。 方形部の両側に 直径10m、高さ2.5mの小さな陪塚が存在していたことが確認されているが、 ほとんど消滅 久城丘陵のほぼ中央に位置する |
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![]() 東から見た墳丘 |
![]() 南から見た後円部 |
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![]() 後円部頂 |
![]() 後円部から前方部を見る |
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![]() くびれ部から前方部を見る |
![]() 前方部の方形壇 |
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![]() 前方部から後円部を見る |
![]() 西から見たスクモ塚古墳 手前の小さな高まりは 陪塚ではないと判明している。後世の塚か |
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![]() スクモ塚古墳 前方部脇から後円部を見る |
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説明板から
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| 前方部裾に埴輪が展示してある 2009年の「スクモ塚古墳・埴輪つくり教室」で作成したもの スクモ塚古墳にはたくさんの円筒埴輪があったと考えられているが、 現在原形をとどめたものは残っていない。 昭和16年国史跡になった時に出土した円筒埴輪の一部が町内の民家に保存されているだけ
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古墳そばに大賀ハスの栽培池がある。

大賀ハス
2000年前の遺跡から出土した種子を
大賀博士が育てた奇跡のハス
そのハスが斐川町荒神谷遺跡公園で育てられていて、
その種芋(蓮根)をもらい受けたもの
「2000年前ハス」という名だが、
放射線炭素の測定では3000年前のものだという
開花は7月下旬
島根 |
小丸山古墳 |
益田市乙吉町 |
乙吉町に「雪舟の郷記念館」(休館中だった)があり、その南に復元整美された立派な古墳がある。
北東から上がる。
| 小丸山古墳 | |||||||||||
| 墳丘長52mの前方後円墳 後円部径32m・後円部高さ7.3m 前方部幅40m・前方部高さ6.6m 葺石なし 埴輪なし 周囲には濠と堤がめぐる。それらを含めると全長66m・全幅56mとなる。 4回の発掘で、 珠文鏡、馬具の一部である馬鐸、鈴杏葉、辻金具や須恵器、鉄刀、鉄斧などが出土 6世紀初頭の築造と推定されている。 標高約40m、益田平野を一望できる山頂に築造された |
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![]() 前方部手前から墳丘を見る 右奥後円部 |
![]() 小丸山古墳 前方部前面 |
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![]() 前方部から後円部を見る |
![]() 後円部から前方部を見る |
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![]() 周溝・周堤が復元されている |
![]() 前方部前面にも周溝・周堤が復元され、 見学用の階段が付けられている。 |
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前方部西手前から見た小丸山古墳 |
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説明板から
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| 墓地造成のため、1987年未調査のまま墳丘上部が破壊され、 破壊後の調査で、遺物が出土したが、埋葬施設はすでに破壊されていた。 箱式石棺か土壙と考えられている。 (古墳辞典から) |
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小丸山古墳から西に下りたところに「雪舟の墓」がある。
伝雪舟の墓
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多根兼政公御廟所![]() 多根兼政公は 益田兼季(益田城第五代当主)の5男で、 北、東仙道、種の地頭職を務め、 後年、乙吉に上の山城を築いて、 益田城外城としての大役を果たし、 この地を拓いた功労者である。 公墓は上の山、一升野にあったが 、この地に移して復元した。 |
2時45分、津和野に向かう
道の駅シルクウェイにちはらでトイレ休憩
3時半過ぎに、今晩宿泊予定のビジネスホテル津和野に駐車して徒歩で散策。
遠いところは車も利用して観光。
島根 |
津和野 観光 |
津和野町 |
津和野の町は午後4時を過ぎると閑散としている。SLやまぐち号が出発してしまうと人がいなくなる?
SLやまぐち号の発車は見ることができたが、撮影は間に合わなかった、残念……
![]() 動くSLが撮れなかったので、 駅前に展示してあるSLを |
![]() 安野光雄美術館 |
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| 神様の休憩所「御旅所」 1617年、津和野の北端を決めるため、 藩の庇護のもとに置かれていた「祇園社」(今の弥栄神社)の「御旅所」としておかれたもの その後松林山天満宮や太皷谷稲成神社の大祭のときの御旅所としての役割を担う。 祇園祭の御神輿巡行には、 国の重要文化財の「津和野弥栄神社の鷺舞」も御旅所で奉納されている。
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津和野町 本町通り (重要伝統的建造物群保存地区)
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| 太皷谷稲成神社(タイコダニイナリジンジャ) 日本五大稲荷の一つ。日本で唯一「稲成」と表記されて願望成就の願いが込められている。 参道に連なる朱の鳥居が壮観である。
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| 森鴎外記念館 森鴎外の旧宅 明治の文豪・森鴎外は、幼少期を津和野で過ごした。 旧宅に隣接して記念館が建てられている。 (駅前の説明板から)
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ビジネスホテル津和野で、夕食のできるところはないかと訊いたら、
この辺のお店は3時か4時で閉まるから、なかなか食べるところはないと言われた……。
ローソンポプラ津和野店でカップ麺とおにぎりを買ってきて、ホテルの部屋で食事。
これがまた、今度はホテルで、カップ麺のお湯が出なくて、モタモタ……
朝食付きのプランにしておいて良かった……
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狐塚古墳 (山口県山口市) につづく