北村さんちの遺跡めぐり
更新日2009/7/28
山陰旅行記 その2 島根県出雲市 斐川町 雲南市 |
撮影日 2007/5/6〜11 |
二日目午後。
LAWSON出雲塩冶店でお弁当を買い、西谷3号墓の突出部で昼食。
午後は弥生時代の遺跡を中心に見学することになる。
地図g
西谷墳墓群 |
出雲市大津町 |
1953年(昭和28年)に発見、1983年(昭和58年)より1992年(平成4年)までの10年にわたり、
3号墓を中心に発掘調査が行われ、水銀朱や弥生式土器が発見され祭祀の跡も確認された。
弥生時代後期終わりごろ(2世紀末)〜古墳時代にかけて墓地としてのみ使用された遺跡。
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で出土した多量の青銅器が埋納された時期の後につくられた墳墓群。
西谷墳墓群の配置図
出雲市街南東部の標高40メートル程度の丘陵に存在する。
現在は27号までと番外5号までの32基の墳墓、古墳と
横穴墓が確認されている。
このうち、1〜4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。
5・7・8号など18基の方形墳丘墓、
11・25号など4基の円形墳丘墓が確認されており、
2号墓東側斜面には横穴墓群がある。
2000年(平成12年)に国の史跡に指定された。
現在、1号墓〜6号墓の並ぶ丘陵は「西谷墳墓群史跡公園・出雲弥生の森」(青点線の部分)として整備が進められている。
西谷3号墓 (出雲弥生の森) |
江戸時代には仏教施設があり周囲に基壇が設けられていた。
西谷3号墓全景 4号墳(南)から見る
唯一復元整備されている。
突出部を含めると約55m×40mの長方形四隅突出型墳丘墓
2世紀後半の築造と推定されている。
9号墓に次ぐ規模の四隅突出型弥生墳丘墓。
墳丘の斜面には、貼石、墳端には立石・敷石を並べてある。墳端の配石構造は2段になっている。
西谷3号墓南西突出部
突出部は墳頂への墓道?
西谷3号墓は8基以上の埋葬施設が確認されている。
西谷3号墓の埋葬部分を表してある。
左側 第4主体部
右奥 第1主体部
その中でも第4埋葬と第1埋葬が長辺6m・深さ1mの大きな墓穴で、納められた棺は二重構造の木棺。
第1主体から、200個以上の玉類、第4主体から、鉄剣1・20個の管玉が出土。
大量の朱が敷き詰められていた。
そのうちの最大の墓壙の第4埋葬上には4つの柱穴が発見されており、何らかの施設があったものと考えられている。
(この柱穴は首長の葬送の際に建てられた葬祭用の四阿(あずまや)で、次期首長候補を中心に葬儀が執り行われたと推定されている。)
その墓壙の上から他地域からの大量の土器が出土している。
西谷2号墓 (出雲弥生の森) |
今後整備をするらしい。現在は柵や雑草で入れない。2号墓の向こうに1号墓がある。
西谷2号墓を3号墓から見る。
2号墓は
方形部南北36m×東西24m
突出部を含めると約50m×35mの
長方形四隅突出型墳丘墓。
2世紀後半の築造と推定されている。
墳丘の斜面には、貼石、墳端には立石・敷石を並べてある。
墳端の配石構造は2段になっている。
墳丘は大半失われていたが、大型の埋葬施設(第1主体)がみつかり、木棺には朱が敷かれていた。
中心埋葬施設があったと推定される場所からは、ガラス釧・ガラス管玉・朱・吉備の特殊土器などが出土。
西谷4号墓 (出雲弥生の森) |
この墳墓群の中で最初に発見された墳墓で、1953年の造成工事の際に墳墓であることが確認された。
西谷4号墓を3号墓から見る。
突出部を含めると約45m×45mの四隅突出型墳丘墓
この墳墓にも斜面に葺石が施されている。
地元産の壷などの大量の土器、吉備産の特殊土器が発掘された。
2世紀末の築造と推定されている。
西谷17号墓 (出雲弥生の森) |
3号墓の南隣にある。
西谷17号墓
墳丘はよくわからない
墳丘の南側・西側は原形をとどめておらず、本来の墳頂部もすでに削平されていたが、
現状から、直径または一辺が8m・高さ0.7m以上の円形または方形と推定。
墳裾には土壙があり、弥生時代終末期(3世紀前半ころ)の土器が発見された。
西谷5号墓 (出雲弥生の森) |
4号墓の南東に隣接してつくられている。
22m×17m、高さ2m程度の方形または楕円形の墳墓と推定されている。
築造年代は不明。遺物はまったく出土なし。
西谷5号墓
5号墓の北西の平坦部には土壙1基、南東には番外3号墓がつくられている。
西谷番外3号墓 (出雲弥生の森) |
墓壙が長さ1.4m・幅1.2mの楕円形の箱式石棺墓
調査時にはすでに盗掘を受けていて東側と南側の石材しか残っていなかった。
遺物はなし。
発掘時の様子
説明版より
西谷6号墓 (出雲弥生の森) |
南側・西側はすでに失われている。
方丘部は16m×8m以上・高さ2.5mの四隅突出型墳丘墓
西谷6号墓
2基の埋葬施設が確認され、3号墓と同様、木棺と木郭の二重構造であった可能性がある。
弥生時代終末期(3世紀前半ころ)の築造と推定されている。
西谷1号墓 (出雲弥生の森) |
南側部のみが確認されており、規模は不明。四隅突出型墳丘墓
西谷9号墓 |
出雲弥生の森の北東にある丘陵に築かれている。
墳丘上に三谷神社がある。
西谷9号墓上り口
突出部を含めると最大規模、
約60m×55m・高さ5m以上の四隅突出型墳丘墓
墳裾の配石構造は3段になっている。
西谷墳墓群では最後に築かれた王墓
9号墓の西側に陪塚のように方形の18・19・20号墓が並ぶ。
墳頂部は平坦になっていて社殿が建つが、写真の撮りようがなかった。
パンフレットに発掘調査のときの写真が載っている。木を全て切って調査されたようだが、現在は森に戻っている。
三谷神社は昭和37年、今より南の地から、現在地に遷座したが、
当時はこの地が四隅突出型墳丘墓だということは夢にも思わなかったという。
元あった場所には三谷という字名が残っているようだ。
西谷7号墓 |
出雲弥生の森の東方向、建設中の「出雲弥生博物館」の背後の森にある。
古墳時代に入り築造された方墳もしくは前方後方墳と推定される。
建設中の出雲弥生博物館
(箱ものが多すぎる気がするが・・・・・)
平成10年「古代出雲王国の里推進協議会」が設立されて、
加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡・西谷墳墓群など全国にも特に価値の高い歴史文化遺産を活かした
個性的で魅力ある地域づくりを推進しているという。
神庭岩船山古墳 |
出雲市斐川町神庭 |
荘原小学校の校庭にある。
神庭岩船山古墳後円部
現状では48m、元は全長60m近くあった前方後円墳。
南から延びる丘陵の先端を堀状に切断し、その土砂を盛ってつくられている。
葺石はないが、埴輪の破片が出土。
神庭岩船山古墳
後円部から前方部を見る。
神庭岩船山古墳
前方部から後円部を見る。
後円部にある舟形石棺の蓋
復元すると、長さ2.7m・幅1.04mで
長辺に各2個、短辺に各1個の円形の縄掛突起がつく。
蓋の下に石棺の身が埋まっているのかと思ったが、
何にも埋まっていないらしい。
ガッカリです。
石棺が掘り出されたのが古く、出土したものは不明。
5世紀代の築造と推定されている。
実測図
説明版から
石棺実測図
説明版から
荒神谷遺跡 |
出雲市斐川町神庭 |
1984(昭和59)年農道予定地の発掘調査で、全国最多の銅剣358本が出土、
翌年隣接地で銅矛16本、銅鐸6個が出土し、日本古代史上最大の発見として脚光を浴びた遺跡。
出土青銅器は国宝に指定されている。
仏経山(出雲風土記記載の神名火山)から延びる山間の小さな谷斜面で発見、現在は発見当時の状況が再現されている。
荒神谷遺跡発見再現
左奥 銅剣 発見地
右手前 銅矛・銅鐸 発見地
(山奥で発見されたと思っていたが
市街地から近いところでちょっと驚いた。)
銅剣の出土した地面の上に30センチほど土を盛って発掘当時の地表面を再現し、
そこに青銅器の複製品を出土した状態で置いてある。
銅剣 発見地再現
出土した銅剣はすべて出雲型銅剣ともいわれる中細形C類とされるもので、
全長50〜53cmあり、うち344本に基部に×印が刻まれている。
同型式の銅剣は山陰地方でこれまでに3ヵ所11本が出土しており、
地元産とする説が強く、この地方の弥生時代を考える上で鍵を握る青銅器である。
銅矛・銅鐸 発見地再現
銅鐸は高さ約22〜24cmの小型品6個で古い型式である。
銅矛は長さ70〜80cmで、刃部を綾杉文に研ぎ分けた例があり、北部九州産と考えられている。
青銅器が埋納された時期は、弥生時代中期後半から後期初めと考えられており、
いわゆる邪馬台国が登場する以前にあたる。
農道は計画が変更され、1987年このあたり一帯を史跡に指定、保存することに決まった。
現在、荒神谷遺跡を中心に荒神谷史跡公園として整備され、
管理棟(研修室あり)・古代復元住居・弥生の砦(木製遊具)・バーベキューサイト
荒神さん広場(名前の由来となった「三宝荒神さんが祀られている)
古代農耕地・2000年ハス・荒神谷博物館などがある。
加茂岩倉遺跡 |
雲南市加茂町岩倉 |
加茂岩倉遺跡は1996年10月14日、農道工事中に偶然発見された。
パワーショベルで掘り起こされたたくさんの銅鐸は工事現場の片隅に集められ、
土砂とともに斜面下に落ちていた銅鐸は目の前にあった水田の畦に並べられていた。
遺跡は狭くて細長い谷の最奥部手前の丘陵に位置し、
前向きの丘陵斜面中腹にあたる標高138m、
谷底からは18mと見上げるような高いところに39個の銅鐸は埋納されていた。
発見から12年を経て、2008年、加茂岩倉遺跡出土銅鐸は国宝に指定された。
銅鐸の発見場所
山の斜面の中ほどの所で、39個の銅鐸が発見された。
銅鐸が埋められていた穴は、工事によって大半が壊れていたが、かろうじてその一部が残っていた。
集積されていた銅鐸
パワーショベルのバケットの中に土砂と一緒に入っていて発見された。(復元)
出土した銅鐸は、約45cm大のものが20個、約30cm大のものが19個で「入れ子」状態で発見された。
銅鐸の表面には、シカ、トンボやイノシシ、カメや人面などの絵が7個に描かれていた。
そのほかつり手の部分に×印が刻印された銅鐸が14個見つかっている。
また同じ鋳型で造られた同笵銅鐸が15組26個もあり、近畿地方を中心に他府県に分布する同笵銅鐸も14個確認されている。
加茂岩倉遺跡に行くには、岩倉の地名の由来になった大岩近くに駐車して10分くらい歩かないと着かない。
加茂岩倉遺跡ガイダンスという施設も造られ、史跡公園となっているが、
私たち以外には管理の男性一人しか見当たらず、静かな空間だった。
管理が大変だろうな。夏場は草も伸びるしね・・・・・・。
加茂岩倉遺跡の駐車場そばにある大岩
地名の由来ともなった岩として、1717年の「雲陽誌」に記載されている。
大岩と加茂岩倉遺跡とは関係があるのだろうか?
この岩には古くから伝わる金鶏伝説がある。
この伝説は、この岩が宝の隠し場所となっていて、
大岩の下には金の鶏がいて、一年に一度だけ大晦日の夜に鳴き、
その声を聞いた人はその宝を得ることができるがそれを他人に話してはならない、というもの。
加茂岩倉遺跡は山の中だが、荒神谷遺跡は市街地に近いのでびっくり。
弥生人がどんな想いで青銅器を埋めたのか?
・・・・・うーん。
神原神社古墳 |
雲南市加茂町神原 |
神原神社古墳は斐伊川支流の赤川のそばのにあり、。墳丘上に神原神社が建てられていた。
赤川の改修工事のため移転することになり、1972年神原神社古墳の発掘調査が行われた。
現在、神原神社はもとの場所から南側に移され、古墳は石室だけがそばに移設・復元されている。
現在の神原神社 二の鳥居から
この手前に一の鳥居がある。
神原神社の獅子舞は有名だそうだ。
神原神社古墳は29×25m・高さ5m以上の大型方墳。
周りの溝を含めた大きさは35×30m。
神原神社古墳の石室の覆い家
移設・復元された石室
多数の板石を積んで造られた竪穴式石室。
石室は内法長さ5.8m・幅1m・高さ1.4m
床には粘土がしかれ、その上に長さ5.2mの割竹形木棺が置かれた痕跡が残る。
またこれらの下には排水溝や、朱と土器5個を納めた長方形の穴が発見されている。
棺内には
多量の朱が認められ、三角縁神獣鏡1と武器や農耕具などの多量の鉄製品が出土
棺外から鉄剣1が出土している。
石室天井石の上面からは祭祀用と考えられる壺やそれを載せる器台の破片が多数出土
古墳時代初期の典型的な特徴を持つ。
石室に穴があったので、カメラを突っ込んで撮影したが、石室内にはなにもない。
神原神社古墳 縦に見た石室 方向を変えて |
神原神社古墳 石室内部 |
石室実測図
出土品は国の重文となっている。
出土品の中の三角縁神獣鏡は、
直径23cmで「景初三年(239年)という年号がみえる。
この年号は、邪馬台国女王卑弥呼が魏に使いを送り、銅鏡100枚を授かった年。
卑弥呼の鏡を出土した古墳として全国に知られることとなった。
足頭2号墳 アシガシラ 宍道町総合公園・古墳の森 |
松江市宍道町 |
「島根の歴史散歩(山川出版)」に椎山1号墳が宍道町総合公園・古墳の森に保存されていると書かれてあったので、
寄ってみたが、広すぎて椎山1号墳は見つからず。
古墳のサンプルの広場で足頭2号墳の石棺を見つけ、それだけでがまんする。
足頭2号墳の復元
1985年(昭和60年)宍道町佐々布で2基の方墳からなる足頭古墳群が発見され調査。
足頭2号墳は一辺10m・高さ1.5mの方墳
足頭2号墳の石棺(実物)。
朱に塗られた石棺だった。
宍道町総合公園は大小30基の古墳からなる、宍道町最大の古墳群(水溜古墳群)をメインに整備した総合公園だそうだ。
広大な敷地の中には、古代生活体験ゾーン、古墳・歴史ゾーンといったテーマ別に分かれていて、
古代体験広場には、キャンプ場や高床倉庫風のキャビンもある。
古墳の広場では、
県内や町内の主な古墳の模型が展示されており、周辺の古墳の様子を知ることができる。
(この古墳の模型というのが、どうも中途半端な気がするのだが・・・・・・・・・・。)
午後5時半になり、今日の見学は終了。
今晩は松江市の時計台のホテルに宿泊。
レトロな雰囲気の風情ある建物だ。
夕食は近くの「いろは」という料理屋さん。3350円也。
豪華すぎて全部食べられなかった。
山陰旅行記・その3(松江市) へつづく