北村さんちの遺跡めぐり
更新日2016/4/7

大阪南部から和歌山県へ
その7  三社参り
と紀伊国分寺跡と古墳
2015/12/3~12/6

三つの神社に詣でる風習が残る和歌山。
西国三社参り」として、日前宮伊太祁曽神社、そして竈山神社の見学(参拝)に行った。

伊太祁曽神社は二日目の午前中、三日目の朝一番に
日前宮・竈山神社を見学したが、
三社とも和歌山電鉄貴志川線沿線にあるので、電車に乗ったつもりで、
日前宮、竈山神社、伊太祁曽神社の順に紹介する。

三社ともそばに古墳があるのは、必然か? それとも偶然か?

地域で一番社格が高いとされてきた「一之宮」だが、紀伊國・和歌山には一之宮が三つあるとされ、そのうちの二社が貴志川線沿線に鎮座している。

和歌山県の地図g

日前宮
 (日前神宮・國懸神宮)
和歌山市秋月
2015/12/5

三社参りその1。

境内に二つの神宮を持つ珍しい神社で、二社をあわせて日前宮(ニチゼングウ)の名で親しまれている。
紀伊國一之宮のひとつ
西側が日前神宮(ヒノクマジングウ)、東側が国懸神宮(クニカカスジングウ)で、ともに南に向いている。

 日前宮
  由緒によると、創建二千六百余年を経ているという。
  三種の神器である八咫鏡(ヤタノカガミ)に先立って造った鏡とされる
日像鏡(ヒガタノカガミ)を御神体とする日前大神
  
日矛鏡(ヒボコノカガミ)を御神体とする國懸大神は天照大神の別名である。

  古代から、紀伊国造家がまつってきた神社で、大きな勢力を持っていた。


日前宮入口


日前神宮

國懸神宮
  同じ造りの社殿がふたつ並んでいる。  ちょっと見ただけでは区別がつかない・・・・。

日前宮西側の県立向陽高校の敷地内の地下に、和歌山県最古の古墳ともいわれる秋月1号墳を含む、秋月遺跡が存在する

 秋月遺跡と秋月1号墳
 秋月遺跡では、これまでに日進中学校や向陽高等学校内などで発掘調査が行われ、
   
弥生時代前期の土坑、古墳時代前期の竪穴建物、古墳時代前期~後期の古墳群、
   日前宮やその東西にかつてあった貞福寺・神宮寺に関わる可能性がある
古代~中世の遺構が発見された。
 とくに古墳時代では、墳丘は残存せず周溝のみだが、
前期の前方後円墳(秋月1号墳)、中期の方墳、後期の円墳が発見されている。
 秋月1号墳は、全長約31m・墳長約26.8m・後円径15.5m・前方幅10m・長さ11.3mの前方後円墳
  葺石は見つかっていない。
  後円部から前方部にかけて、幅4~6mの溝がめぐる。
  前方部前面には、幅2mの溝があるが、これらの溝はつながらず、前方部両隅に陸橋が造り出されている。
  墳丘裾部には幅1mのテラスが地山を削り出して作られている。
  埋葬施設は、奈良から平安時代の削平により消失していて不明。
  周溝から古手の布留式土器が出土している。
  紀ノ川下流の微高地上に造られている。
  
古墳時代前期(4世紀)の築造と推定されている。

 
方墳5基も、埋葬施設は不明だが、うち3基の周溝から古手の布留式土器が、他の2基の周溝から初期須恵器が出土している。

 昭和60年(1985年)に調査。

日前宮とこの古墳との関係は・・・?

竈山神社
竈山陵
和歌山市和田
2015/12/5

三社参りその2は、竈山神社。

 竈山神社
  
神武天皇(初代天皇)の長兄にあたる彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)を祀る。
  国家安泰や世界の平和と発展を守っていると言われている。
  「延喜式」の神名帳には、「紀伊国名草郡 竈山神社」とあり、古くから官幣に与る皇室御崇敬の大社だった。
  その後、近代社格制度のもとで村社から官幣大社で異例の昇格をした唯一の神社。
  彦五瀬命は、大和平定の途中で戦傷、亡くなられ竈山の地に 葬られたとされ、
    
本殿の背後にある陵墓は和歌山県唯一の陵墓となっている。




竈山神社 二ノ鳥居


神門


拝殿  後ろに本殿
 竈山墓(カマヤマノハカ)
  
本殿の背後には彦五瀬命の墓と伝える竈山墓、宮内庁治定墓)がある。
  宮内庁により彦五瀬命の墓に治定されている。
  古墳としては、竈山神社の本殿後背の高さ約9mの独立丘上に位置する
     
直径約6m・高さ約1mの円墳で、裾に護石を配する。

下調べが十分ではなくて、竈山神社へ行ったときは、竈山墓の存在を知らず、竈山墓を見ていない・・・・・!

伊太祁曽神社
イタキソジンジャ
伊太祁曽神社古墳
和歌山市伊太祁曽
2015/12/4

三社参りその3は、伊太祁曽神社。 
紀伊國一之宮のひとつ

 伊太祁曽神社は、「木の神」を祀る神社として広く知られている。
  
五十猛命(イタケルノミコト)を祭神とする
  御祭神の五十猛命は素盞鳴尊の御子神様で、
  『日本書紀』には父神の命を受けて日本国土に木種を播き青山と成した植樹神と記されている。
  このことから「木の神」として慕われ、木の神様の住む国ということでこの地は「木の国」と呼ばれ、
   やがて「紀伊国」となった。(伊太祁曽神社HP)
 和歌山県神社庁によれば・・・
  創建の時期ははっきりしないが、『続日本紀』の文武天皇大宝2(702)年が初見記事となる。
  
現在の地に鎮まる以前には、
     現在の日前神宮・國懸神宮(日前宮)の地にお祀りされていたと伝えられている


  日前宮の御鎮座が垂仁天皇16年と伝えられているので、
   その頃に秋月(現在の日前宮鎮座地)より山東(現在の伊太祈曽周辺)に遷座されたと推察されるが、
   当初は現在の社殿のある場所より南東に500mほど離れた「亥の森」と呼ばれる場所であった。

  亥の森は、今でも田圃の真ん中にこんもりとした森で、いかにも神奈備の様相を呈している。
   中には、摂社である三生神社が鎮まっている。
  『延喜式神名帳』には「名神大、月次、相嘗、新嘗」とあり朝廷の尊崇が篤い大社であったことがわかる。
           (和歌山神社庁のHPから)

鳥居  この反対側に古墳の案内板がある。

伊太祁曽神社
  赤い橋が印象的

伊太祁曽神社 
社殿

伊太祁曽神社 

 昭和37年に落雷で炎上。

鳥居の反対側に古墳がある。

 伊太祁曽神社古墳は 伊太祁曽神社の境内にある古墳群
  標高約20mの丘陵上に
3基の円墳がある。1号墳だけが調査されている。

 
1号墳直径16m、高さ5mの円墳
  西側に開口する横穴式石室は、石棚・石梁がある。
  
横穴式石室は全長5.6m  玄室長2.8m・幅2.1m・高さ3.4m
  玄室内には棺台が設置されている。


古墳のある丘は
「ときわ山」と名付けられている。

伊太祁曽神社古墳1号墳  扉があって中には入れない。

1号墳の石室 すき間から撮影

近くにあるもう一つの墳丘

さて、紀伊國・和歌山には一之宮が三つあるとされるが、今回見学した一之宮は、日前宮と伊太祁曽神社の二つ。
もう一つはどこにあるか?

もう一つの一之宮は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある丹生都比売神社(ニウツヒメジンジャ)だ。
 全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社。
 「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして世界文化遺産に登録されている。

史跡・紀伊国分寺跡 紀の川市東国分
2016/12/5

古墳めぐりをしながら、その地方の国分寺跡も見学しているが、紀伊国の国分寺跡は紀の川市にある。
史跡として整備されていて、横には歴史民俗資料館がある。

 紀伊国分寺は、紀の川市東国分の新義真言宗国分寺医王院の境内とその周辺に、
  奈良時代に建立されたと伝えられてきた。
 昭和3年(1928)に境内地が国の史跡指定を受け、昭和12年に塔跡の土壇と心礎と、18個の礎石が確認された。

 しかし、西の岩出市西国分集落の西側にも、大きな塔心礎が残っている古代の寺院跡があり、
 
東国分の廃寺跡西国分の廃寺跡のどちらが国分僧寺でどちらが国分尼寺であるか、長い間議論されてきた。

 道路建設などの地域開発がすすむ中で、昭和48年から昭和50年に本格的な調査を行い、
  寺域並びに伽藍跡遺構がほぼ確認され、昭和63年全寺域(宅地部分を除く)が史跡として追加指定された。
            (歴史民俗資料館内展示から)




紀伊国分寺跡案内図
(現地説明板から)

出土した鬼瓦 (歴史民俗資料館内展示から)

出土したいろいろな瓦 (歴史民俗資料館内展示から)



紀伊国分寺跡

 中央奥は中門跡

 手前南門跡 

 

紀伊国分寺跡 塔跡

紀伊国分寺跡 金堂基壇

紀伊国分寺跡 手前:金堂跡、奥に講堂跡

紀伊国分寺跡 奥は僧房跡、手前は経蔵跡
 講堂後に現在建っているのは、町指定文化財の本堂
  江戸時代元禄年間につくられたものだが、
   その下には奈良時代紀伊国分寺講堂の基礎である「基壇」が復原されている。
 発掘調査の結果、奈良時代の講堂は、東西27m・南北14mの大きさの建物と推定されていて、
  元慶3(879)年の紀伊国分寺焼失後も、中世以降は同じ場所に数回にわたって御堂が建て替えられ、
  今日まで国分寺の法灯が伝えられてきたことがわかった。
              (現地説明板から)



紀伊国分寺復元

(歴史民俗資料館内展示から)

歴史民俗資料館内には、古墳の説明パネルがある。
私たちが今回見学しなかった紀の川市の古墳は
高尾山古墳(貴志川町高尾)・具束壺古墳群(貴志川町岸宮)・七ツ塚古墳群(貴志川町岸宮)だ。

史跡・西国分塔跡 岩出市西国分
2016/12/5

先ほど行った歴史民俗資料館内展示の国分寺跡の説明の中にあった
「西の岩出市西国分集落の西側にも、大きな塔心礎が残っている古代の寺院跡」だ。
一時は国分寺跡として、議論のあった場所。
しかし、塔心礎しか発見されてなくて、詳細不明。

 聖武天皇は、諸国に命じて国分寺を建立させた。
 国分寺には金光明四天王護国之寺(僧寺)と法華滅罪之寺(尼寺)があり、
  いずれも高台の景勝地を選んで建立された。
 
岩出市西国分には国分寺建立以前に白鳳寺院が建立されていて、
  天平期に尼寺として使用されたものと考えられている。

 紀伊続風土記を参考にすると昔は南北に長く東西に短い長方形の広大な境内で、
  その中に堂塔伽藍が数多く建ち並んでいたものと想定されるが、
  現在では塔跡の心礎が塔跡の基壇に残されているだけである。
 昭和3年に国史跡に指定されている。                       (現地説明板から)

史跡・西国分塔跡

塔心礎

見学したとき、国分寺跡より先に、こちらを先に見つけてしまった。
国分尼寺の跡なのかもしれない・・・・

岩橋千塚古墳群その1 へつづく

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