北村さんちの遺跡めぐり
更新日2016/2/13

大阪南部と和歌山県
その3 有田川町・御坊市・印南町 
2015/12/3~12/6

第一日目、
園部円山古墳の見学を終えたのが、お昼の12時半を過ぎて、
大通りにあるファミリーマート
和歌山園部店で昼食を買い、島本石油ニュータウン六十谷で給油

 阪和自動車道・和歌山IC-有田IC  (ETC 740)

午後1時半ごろ 天満藤並神社 着。

和歌山県の地図g

泣澤女の古墳
(天満1号墳)
県史跡
有田川町天満
2015/12/3

天満藤並神社の境内にある。道路に面して、石室が開口している。鳥居の横に墳丘。
神社には駐車場がある。
説明板あり。

 泣澤女の古墳は 径21~24mの円墳  周囲に幅3mの周濠が巡る。
  南に開口する
両袖式の横穴式石室は、玄室長3.6m、幅、高さともに2.4m、羨道長4m。
   巨石を使用した有田川流域最大の石室。
   木棺が主軸に直交して置かれていた。
  
6世紀末~7世紀初頭の築造と推定されている。
  多数の土器や耳環、ガラス玉、刀子、木棺に用いた鉄釘のほか、
       被葬者のものとみられる歯が出土。
  被葬者は12才前後の女性であったと考えられている。(出土した永久歯から)
  奈良時代の土器や下級役人が用いたベルトの金具も出土している。

  1992・93年に発掘調査。
  整備にあたり、失われた墳丘や石材を補ったほか、
         古墳の周りに掘られていた溝を砂利で表現している
  境内にはほかにも古墳がある。(わずかなマウンドがある) 

発掘時の石室の様子 (説明版から)

出土遺物 (説明版から)



天満藤並神社の鳥居の右側に
墳丘と石室が見える


復元整備された墳丘

方向を変えて見る墳丘

横穴式石室は 柵があって入れない

石室内部

和歌山県神社庁のHPによると、由来として、
  泣澤女の古墳は、斉明天皇の孫健皇子(タケルノミコ)の墓となっている。

「泣澤女の古墳」という名前の由来が気になる・・・・。
神話によると、この「なきさはめ」とは、
    妻である伊邪那美命を亡くした伊邪那岐命がその悲しみから流した涙から生まれた神(泣澤女神・啼澤女命)であるとされている。
ほかにも、葬送の際に泣き叫ぶ役割をした女性を「泣沢女」と呼んだという例もあるらしい。

 阪和自動車道にもう一度、有田南IC-御坊IC  (ETC 620)
 御坊市の見学へ。

岩内1号墳
県指定史跡
岩内古墳群(イワウチコフングン)
御坊市岩内
2015/12/3

復元整備された墳丘がある。説明版あり。

 岩内古墳群は、日高川河口から約2キロさかのぼった左岸丘陵上に立地
  現在までに
6基の古墳が確認されているが、
     1号墳・3号墳以外はすべて破壊されて、痕跡をとどめていない。

 
岩内1号墳は、一辺19.3mの方墳  墳丘の北・東・西の三辺に周溝をめぐらしている。
  横穴式石室があり、2回の埋葬が確認されている。
  
7世紀中頃以降の築造と推定されている。終末期の古墳。



1979(昭和54)年調査時の墳丘
     
      (説明版から)


 1949(昭和24)に発掘調査
   石室内から、漆塗木棺、銀線蛭巻太刀1振、六花形の鉄製棺飾金具などが出土
 1979(昭和54)年の調査では、版築技法で墳丘がつくられていることや、
    被葬者を安置した床面が7世紀後半頃に作り直されていることがわかる。
 1982(昭和57)年、復元し史跡として環境整備

 地元では、658年、謀反の罪で処刑された
「有間皇子(アリマノミコ)」の墓といわれていて、皇子塚ともよんでいる。

西から見た墳丘 木の向こう

南西から見た墳丘

横穴式石室

石室入口の石積み

石室内部

内部から外を見る

東から見た墳丘

墳頂から石室入口を見る

岩内3号墳は 1号墳の北西200mの小丘陵上にある径28mの円墳で、幅5mの周溝がめぐり、
  4世紀末から5世紀初めの築造と推定されている。
どれか、特定できなかった・・・

尾ノ崎遺跡 御坊市塩谷
2015/12/3

関西電力㈱御坊火力発電所に向かう橋の下に保存されている。
駐車場あり。

 尾ノ崎遺跡は、
  関西電力㈱が尾ノ崎地先に御坊火力発電所の建設を計画したのに際して、
  昭和53・54年度にかけて発掘調査をした。

 この尾ノ崎は海に長く突き出た標高11~16mの海岸段丘で、
 調査の結果、
  
弥生時代末~古墳時代初頭にかけての竪穴住居2軒・竪穴4基・溝・溝状遺構・円形土壙
  
古墳時代前期の方形周溝墓18基・土壙墓1基
  
古墳時代後期の横穴式石室1基
  
平安時代か中世と思われる円形周溝遺構・柱穴
  
近世以降の建物跡・柵・溝・ピット群を発見した。
 また遺構は確認されなかったが、
   剥片石器・石核などの旧石器、縄文時代早晩期の土器・石鏃・石錘・石棒片、
   弥生時代前・中期の土器・石鏃・石錘などの遺物も出土
 尾ノ崎遺跡は
旧石器時代にはじまり歴史時代につづく複合遺跡であることが明らかになった。

 一群でまとまって検出された方形周溝墓はその重要性から、
   先端部の11基(1~11号)が工事中保存され、昭和58年復元工事を実施した。




調査区と遺構の位置図



方形周溝墓群 配置図

現在、1~11号が保存されている。




方形周溝墓群

保存の様子

手前は周溝墓1号

手前は周溝墓2号

陸橋の下に周溝墓3号が復元されている

周溝墓3号の埋葬部の復元

手前は周溝墓8号

周溝墓9号

周溝墓10号は墳丘がほとんどない

竪穴住居が1棟復元されている。

古墳時代の横穴石室はどうなっているのか?

広畑1・2号墳
市指定史跡
秋葉山古墳群
御坊市名田町野島
2015/12/3

秋葉山古墳群は御坊市名田町野島の秋葉山に分布する古墳群
現在、秋葉山1号墳・11号墳(広畑1号墳)・12号墳(広畑2号墳)の3基が完存しているそうだ。
広畑1・2号墳は秋葉山の南裾から入るが、 北側の裾から入った山頂には、秋葉山1号墳があるという。
道なき道をひたすら上るということなので、あきらめた・・・・
秋葉山1号墳が一番立派な石室らしいのだが・・・

広畑1・2号墳(秋葉山11・12号墳)を見学。
南の道路から林の中に入るとすぐ広畑1号墳(秋葉山11号墳)がある。

 広畑1号墳  (秋葉山11号墳ともいう)  御坊市教育委員会の石造りの案内板(簡単な説明付)がある。
  径10m・高さ5mの円墳
  南東に開口している
両袖式横穴式石室は、全長4.26m 玄室長2.5m・幅2.25m・高さ2.25m。
   羨道部が一部破壊されている以外は完存

  6世紀後半の築造と推定されている。

広畑1号墳

横穴式石室入口

玄室を見る

奥壁

天井石を見る

石室内部から外を見る

広畑1号墳のすぐ上に広畑2号墳がある。

 広畑2号墳 (秋葉山12号墳ともいう  御坊市教育委員会の石造りの案内板(簡単な説明付)がある。
  径10m・高さ5mの円墳
  南東に開口する
両袖式横穴式石室は 全長5.1m、
   玄室長2.6m・幅2.35m・高さ2.6m、羨道長2.4m・幅1.3m、砂岩の自然石を石材に使用している。
  
6世紀後半の築造と推定されている。



広畑2号墳


横穴式石室入口

奥壁

天井石を見る

玄門袖石は巨石

四国で見た石室に似ているような・・・・。

崎山古墳群18・19号墳 印南町島田
2015/12/3

宗教法人弘竜庵の駐車場があり、その道路を挟んだ向かいの保安林の中に崎山18・19号墳がある。
切目崎の塚穴(崎山14号墳)の北1kmほどのところ。


道路から見た崎山18・19号墳

説明板が見えている。

入って左に18号墳
右(北)に19号墳





 崎山18号墳   町指定史跡
  径8mの円墳  高さ1.5m
  盗掘されていて、天井石はなくなっていが、石廓のみがほぼ完全な形で残されている。
  
両袖式横穴式石室は 玄室長2m・幅2m、羨道長2.5m・幅0.7m
   板状の袖石が立てられ、石材は海岸で採取できる小さな砂岩を使用している。
  銀環、杯、碗、土錘などが出土したと伝えられている

  切目川河口の東海岸段丘につくられている。
  旧県指定で、日高郡誌には「島田の古墳」として記されている。

墳丘。奥は海!

開口部から奥を見る

奥壁はいい感じで残っている。

奥壁側から開口部を見る

19号墳は、18号墳の北20mにある。

 崎山19号墳  町指定史跡
  径12m・高さ2mの円墳
  いつの頃(大正の頃という噂)か不詳であるが、
   羨道口を求めてか幅50cm・長さ2mほど発掘しかけた形跡(盗掘)がみられるが、
      一応完存していると考えられている。
印南町町内ではこのようにほぼ完全な形で残されている古墳は、
当古墳1基のみで郡内でもほとんど見られない。


19号墳

石室も完全に残っているらしい。



     

切目崎の塚穴(崎山14号墳)
県指定史跡
崎山古墳群
印南町島田
2015/12/3

18・19号墳から南に約1kmの道路沿いに、「切目崎の塚穴」と書かれた大きな標柱がある。


道路沿い(国道42号線)の
「切目崎の塚穴」の標柱

かなり目立つ


説明板がある。
向かい側にコンビニ(ローソン印南切目崎店)があるので、買い物をして駐車させてもらう。

 切目崎の塚穴 (崎山14号墳)は  径20m・高さ3mの円墳
  南に開口する
両袖式横穴式石室は、全長6m
   主軸をほぼ南北方向にとる玄室は奥行2.65m、幅は入口部で2.23m・奥壁で2.18m、高さ2.25m
   羨道部は奥行1.90m、幅入口部1.10m・玄門近くで1.40m
  勾玉、管玉、水晶切子玉、銀の耳環、土器、刀子などが出土
  
6世紀後半の築造と推定されている。

 この古墳の周辺に十数基の古墳があったが、現在ではこの一基を残すのみである。
 海に突き出た切目崎の高台にある。
 奥壁と側壁は、砂岩を持ち送りながら積み上げ、
      前後の天井石を迫り出してその上に1枚をかぶせている。
 このような天井の構築法は徳島県の吉野川中流域にルーツが見られる。



切目崎の塚穴


墳丘

墳裾から見上げる

周濠の痕跡がある 外護列石もあるのか?

開口部前に説明板

石室入口

羨道から玄室を見る

玄室内部の石積
すぐそばの海岸の砂岩が使われている。

玄室から外を見る
玄門は袖部には柱石状に袖石を立て、
その間に敷石を置いている。

羨道から外を見る

4時を過ぎたところだが、もう暗くなってしまった・・・
この後、白浜町の古墳見学の予定だったが、明日見ることにする。

白浜町につづく

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