北村さんちの遺跡めぐり

2009年・奈良の旅その3
天理市
2009年11月5日

2009年11月5日、旅行3日目
今日は天理市を南下する。
まず和邇下神社古墳から。

天理市の地図g

和邇下神社古墳
(東大寺山古墳群)
天理市櫟本町
撮影日2009/11/5

東大寺山丘陵の西麓台地上にある。

和邇下神社
和邇氏の氏寺
後円部に社殿がある。







和邇下神社古墳実測図
前方部東に陪塚がある。





和邇下神社そばの柿本寺跡

今も礎石の一部が残り、奈良時代の瓦も出土した。
柿本氏の氏寺だという。



柿本寺跡にある石材

「古墳の石室天井石」とだけ書かれている。
石棺材のような感じたが・・・。
和邇下神社古墳に関係あるのかないのか・・・・?




歌塚
柿本人麻呂の遺骨を葬ったところといわれている。
今の歌塚の碑は1732年に建立されたもの
和邇下神社古墳の陪塚の一つと考えられている。

和邇下神社古墳は、全長105mの前方後円墳
後円部径70m・高さ5m 前方部幅50m  前方部が短く端部が撥方に開く形態
内部主体や副葬品は明らかではない。
昭和59年の防災工事に伴う調査で埴輪円筒棺1基を検出
4世紀末〜5世紀初頭の築造と推定されている。
前方部東側に小さな陪塚がある。

赤土山古墳
(東大寺山古墳群)
国史跡
天理市櫟本町
撮影日2009/11/5

赤土山古墳の西側に行ったが、フェンスで囲まれている。
東側に埴輪が復原されて置かれていた。
整備途中という事か。全貌を早く見たいものだ。


後円部南東側付近の埴輪群




説明板も設置されているがブルーシートに覆われていて見ることはできない。

円筒埴輪・家型埴輪が並ぶ






赤土山古墳
後円部から前方部を見る
赤土山古墳
は  平成10年度から発掘調査。
全長110m(現状103.5m)を超える前方後円墳。
後円部の東側に大きな造り出しがある。
2段築成  葺石あり。
埴輪は、
朝顔形と円筒埴輪がほぼ原形のままで出土
朝顔形埴輪は素焼きで、1mを超える大きなもの
後円部南東側の墳丘裾から
家形埴輪が出土。
後円部先端の造出しくびれ部から南東にかけ ての幅3mの段築に、
 11棟の家形埴輪が配置されていることも判明した。
円筒埴輪・家型埴輪が並ぶ4世紀後半〜5世紀初頭の築造と推定されている。

赤土山古墳は地すべりで崩れ、以前は前方後方墳と考えられていたが、
調査の結果、前方後円墳と確認された。
地すべりで埴輪などがそのままの状態で埋もれて、
築造当時のまま出土したと考えられている。

後円部東側の造り出し部は、シャープの寮建設などで削られて、
本来の長さが不明となっているが、
造り出し部をもう1つの前方部と見て、
双方中円墳という墳形にしたらいいのではないかという意見もある

東大寺山古墳
(東大寺山古墳群)
天理市櫟本町
撮影日2009/11/5

東大寺山という名は荘園領主の東大寺にちなんで名づけられた。
この丘陵上に多くの古墳が存在するが、この東大寺山の最高所にあるのが東大寺山古墳。
和邇下神社古墳の北東300mのところにある。
現在天理教の施設の敷地内に上り口があり、きれいに掃除されている。



東大寺山古墳のある丘




東大寺山古墳への上り口




東大寺山古墳後円部頂
ベンチが置かれている。
室町時代にも盗掘されたという記録がある。
昭和36年に、
鍬形石27・車輪石26などの多数の碧玉製品・滑石製品・鉄刀剣などが
 掘り出され(盗掘)、その後処理として、天理大学付属天理参考館により発掘。
東大寺山古墳は 全長140mの前方後円墳
後円部径84m・高さ11m 前方部幅50m
中腹と裾に円筒埴輪列がある。 墳頂部に形象埴輪が並ぶ。
葺石あり
主体部は粘土槨で、南北12m東西8m深さ3.7mの墓壙の底に
砂礫と粘土で丁寧な棺台をつくり、長大な木棺が粘土で覆うようにして安置されていた。

主体部はほとんど盗掘されていたが
棺外から
 鉄刀20・鉄剣9・鉄槍10・銅鏃・革製短甲・巴形銅器・玉類などが出土。
 なかでも鳥形飾銅製環頭のある鉄刀から金象嵌の文字が見つかり、
 中国後漢末の中平年(184〜189)に作られたものとわかった。
  (東京国立博物館保管)
4世紀後半の築造と推定されている。

シャープ前の
東大寺山古墳群
天理市櫟本町
撮影日2009/11/5

シャープ(株)の敷地内に、
消滅した東大寺山古墳
群が移築保存されているというので行ってみる。
シャープの正門の門番のおじさんに許可をもらい、
正門横の移築石室を見学。

シャープの敷地には20基以上の古墳があった。
現在は東大寺山25・26号墳(前方後円墳)と数基が保存されている。
発掘のときに石室の残りが良好だった3基の横穴式石室と2基の小石室を移築保存した。


東大寺山古墳群・移築石室その1

東大寺山古墳群・移築石室その2

東大寺山古墳群・移築石室その3

東大寺山古墳
移築石室その4

東大寺山古墳群・移築石室その5

移築石室の背後の山の上には東大寺山25・26号墳が残っている。
人間の目ではわかるが写真ではわからない。

東大寺山26号墳
 後円部より前方部を望む


竹林の中に眠っている。


東大寺山古墳群の配置図
  (シャープ前の説明板より)


は消滅した古墳




マンジュウ塚古墳
(東大寺山古墳群)
天理市櫟本町
撮影日2009/11/5

東大寺山から櫟本墓山古墳に行く途中に古墳らしいものを発見。



マンジュウ塚古墳

 径15mの円墳と見られている。

何という古墳かわからなかったが、
HP「古墳のお部屋」さんに同じ古墳が掲載されていて、名前が判明。
「古墳のお部屋」さん、いつもお世話になりありがとうございます。

櫟本墓山古墳
(東大寺山古墳群)
天理市櫟本町
撮影日2009/11/5

大通りのAコープのうしろにある。
墓地として利用されているせいか、天理市のHPでは紹介されていない。


櫟本墓山古墳


櫟本墓山古墳
東大寺山から西に続く丘陵に造られている。
全長64mの前方後円墳
後円部径40m・高さ7m 前方部幅18m。
採取された埴輪から6世紀前半の築造と推定されている。

天理市櫟本付近の地図(東大寺山古墳群)




@ 櫟本墓山古墳 全長64mの前方後円墳   6C前半
A まんじゅう塚古墳 円墳    
B 和邇下神社古墳 全長105mの前方後円墳   4C末〜5C初頭
C 赤土山古墳 全長110mの前方後円墳
(現状103.5m)

4C後半〜5C初頭
D 東大寺山古墳 全長140mの前方後円墳 粘土槨 4C後半
E 東大寺山25・26号墳 前方後円墳2基    
F 岩屋大塚 全長76mの前方後円墳   6C前半
G ウワナリ塚 全長110mの前方後円墳 横穴式石室 6C前半〜中
H 石上大塚 全長107mの前方後円墳 横穴式石室 6C前半
I 別所大塚 全長125mの前方後円墳 石室に石棺 6C前半
J 上総御墓山古墳 全長74.3mの前方後円墳   5C末〜6C前半

このほか、ハミ塚古墳や塚平古墳もある。

杣之内古墳群 天理市杣之内町・勾田町・ 乙木町

杣之内古墳群の主な古墳の配置図

@ 塚穴山古墳 径65mの円墳  横穴式石室 6C末〜7C初頭
A 西山古墳 全長183mの前方後方墳  竪穴式石室? 4C後半
B 峯塚古墳 径35.5mの円墳  横穴式石室 6C末〜7C中
C 保昌塚古墳 径約16.8mの円墳 
(元は径25m)  
   
D 西天井山・
東天井山古墳
2基の円墳     
E 小墓古墳 全長80mの前方後円墳    5C末〜6C前半
F 西乗鞍古墳 全長118mの前方後円墳  横穴式石室? 6C前半
G 東乗鞍古墳 全長72mの前方後円墳  横穴式石室 6C前半


西山古墳 
(杣之内古墳群)
国史跡
天理市杣之内
撮影日2009/11/5

天理高校の隣にある。

西山古墳
左 前方部
右 後方部
前方部側に周壕のなごりが残る。

西山古墳
全長183m・高さ16mの前方後方墳  前方部幅72m・後方部幅94m
全国で一番大きい前方後方墳  後方部を東に向ける
葺石あり 埴輪あり  3段築成
1段目のみ前方後方形  2段目から上が前方後円形
周壕がめぐる(古池がなごり)
竪穴式石室があったと考えられていて、鏡・鉄剣・勾玉・管玉が出土したと伝えられている。
周壕の外提に埴輪棺墓・石棺墓・小石室などの付属の埋葬施設が造られている。
鏡破片・碧玉製石鏃破片・碧玉製車輪石破片・
 鉄製刀剣類破片・管玉・埴輪(円筒・鰭付円筒・朝顔形・家形)
などが出土している。
古墳時代前期(4世紀後半)の築造と推定されている。
古墳時代後期には北側の外提を壊して塚穴山古墳の外提が造られた。
丘陵上に築かれた古墳で第二次大戦中はアメリカ軍の空襲に備えて対空射撃陣地が置かれた。
このとき掘り出されたとみられる竪穴式石室の石材が墳丘上に散乱している。
石材は大阪府柏原市芝山産のもの。

塚穴山古墳
(杣之内古墳群)
天理市杣之内町
撮影日2009/11/5

西山古墳のそばにあるはずだが、場所が分からない。
通りかかった高校生にたずねたら
「自分は一年なのでよくわかりません」という硬派な言葉が返ってきた。
天理高校のアーチェリー練習場の向こうに巨大な横穴発見。
石舞台古墳に負けないくらいの大きな石室がある。

西山古墳のすぐ北側にあり、石室を含む南側半分が天理高校の敷地、北半分は善福寺の敷地となる。


塚穴山古墳の周壕と周堤


墳丘の北側は墓地となり削られている
天井石はなくなっているが、巨大な石室にびっくり!


長い羨道の向こうに大きな石室

石室全長は17m





玄室の巨石

玄室の長さは7m
写真では大きさがわからないのが
非常に残念!


石室の側壁としては日本で一番大きな石
幅6m


見学を終えてから案内板を見たら、見学のときは天理高校の許可を取ってほしいと書かれていた。

塚穴山古墳は  直径65mの円墳
周濠あり(周濠の外の周堤帯を含めると、直径112m)
上半分が失われている横穴式石室は、全長17.12m、玄室長さ7m。巨石で造られた石室
出土した須恵器から、6世紀末〜7世紀前半の築造と推定されている。
明日香村の石舞台古墳(全長19.1m、玄室の長さ7.5m)に匹敵する大きさだ。

峯塚古墳
(杣之内古墳群)
天理市杣之内
撮影日2009/11/5

峯塚は、天理大学グランドの東方の図書館の東にあるらしいが、結局発見できなかった。
保昌塚古墳そばの説明板の地図を見ていったのだが、わからなかった。残念で残念で・・・・・・
場所はわかるけれども見つけにくい古墳といわれているのがよくわかる。
次回、ぜひ探してみたいと思う。

保昌塚古墳
峯塚古墳の説明板そばにある。
現在は径約16.8mの円形

元は径25mはあったと推定されている。





見つける事ができなかった
   峯塚古墳実測図


説明板から


峯塚古墳は、東方から延びる尾根の南裾にある
径35.5m・高さ5mの円墳
2段築成  葺石あり(一部残る)
周壕があった可能性もある。
南に開口する両袖式の横穴式石室は全長11.11m
 玄室長さ4.46m・奥壁幅2.58m・高さ2.4m
7世紀前半の築造と推定されている。

三昧田町の和食レストラン「さと」にて昼食 1343円也。

小墓古墳
(杣之内古墳群)
天理市杣之内
撮影日2009/11/6

東乗鞍古墳や西乗鞍古墳から続く尾根上の西のもっとも先端に造られている。

小墓古墳全景


小墓古墳
前方部を南西に向ける
全長80.5mの前方後円墳
後円部高さ7.8m・前方部高さ6.1m
もとは85m以上あったと考えられている。
3段築成
盾形の周壕(幅12m)の痕跡がある。
昭和62年(1987)平成元年(1989)の墳丘東側の発掘で
周壕からたくさんの埴輪や木製品が出土した。
埴輪は円筒・朝顔形・きぬがさ形・盾形・鞍形・人物・馬形・鹿形・水鳥形、鶏形・家形など
木製品はきぬがさ形・盾形・刀形・サシバ形・鉾形など
これらの木製品は「木製埴輪」で埴輪と同じように古墳の上や周囲に並べられていた。
ほかに木製の槽・槌・火切臼・耳杯形容器や柱・杭などが見つかるが使い方はよくわかっていない。
6世紀前半の築造と推定されている。

西乗鞍古墳
(杣之内古墳群)
天理市杣之内
撮影日2009/11/5

桜の名所として有名な公園となっている。


西乗鞍古墳全景
左 後円部


前方部から後円部を見る

墳形はかなり崩れているが、
 東側墳裾で、
 周壕と周堤の跡を見つけて
 規模の大きさに感動!




西乗鞍古墳実測図

西乗鞍古墳
は、東方から延びる丘陵の先端に作られた
前方部を南に向けた
全長118mの前方後円墳

後円部径66m・高さ16m
横穴式石室と推定されている。
墳丘裾部の西側に東西20〜30m南北130mの平坦地がひろがることから、
墳丘の土台となる基壇上の施設の存在が考えられている。
昭和56(1981)の南側隣接地の発掘調査で
 南・東側に外濠が確認され二重周壕の存在が確認されている。
濠の内部から多数の埴輪が出土、
平成11(1999)年の墳丘裾西側平坦面の発掘調査では、
 周壕と東側外提の遺存が確認された。
5世紀末〜6世紀初頭の築造と推定されている。

東乗鞍古墳
(杣之内古墳群)
天理市杣之内
撮影日2009/11/5

西乗鞍の東、現在ホッケー場の横にあるが、
雑木林となっていて形の確認もむずかしい。
後円部に石棺がある横穴式石室があるというが確認できなかった。

東乗鞍古墳

東乗鞍古墳は前方部を西に向ける  全長約72mの前方後円墳
 後円部径44m・高さ約10m 前方部幅68m・高さ約6.5m
二段築成
後円部に開口する横穴式石室は全長14.6mの左片袖式
羨道長約7m・幅1.7m・高さ1.5m。
玄室長約7.8m・幅2.4m・高さ3.3m。
玄室内に2基の石棺がある。組合せ式石棺と刳抜式家形石棺。
6世紀中葉の築造と推定されている。

大和古墳群
(オオヤマトコフングン)
天理市・桜井市
撮影日2009/11/5

ヒエ塚・ノムギ古墳・マバカ古墳のそばに新しい道路が通ることとなり、発掘調査。
ヒエ塚古墳そばに「大和古墳群」の大きな説明板が設置された。

大和古墳群は奈良盆地の東南部、
天理市から桜井市にかけて広がる大型の前方後円墳を中心にした古墳群の総称。
天理市萱生町・成願寺町・中山町・岸田町・兵庫町・新泉町一帯に広がる大和(萱生)古墳群
天理市柳本町付近一帯の柳本古墳群
桜井市箸中・太田・東田付近一帯の纒向(箸墓)古墳群
からなる。
大和(萱生)古墳群の中では全長230mの西殿塚古墳(衾田陵)が最大で周囲に
前方後円墳として、東殿塚古墳・中山大塚・馬口山(バグチヤマ)古墳など
前方後方墳として、波多子塚古墳・下池山
円墳として、クラ塚古墳・西ノ塚古墳
がある。

説明板や他の資料を基に、大和(萱生)古墳群の古墳の位置を調べてみた。

  大和(萱生)古墳群の主な古墳の配置図

5基の前方後方墳がある。


黒塚古墳は
柳本古墳群となる。

今回 国道の西側は全く見学できなかった。


大きさ 時期
@ ノムギ古墳 全長63mの前方後方墳   3C後半〜4C
A ヒエ塚古墳 全長130mの前方後円墳   前期前半
B マバカ古墳 全長74mの前方後円墳   3C前半
C        
D 波多子塚古墳 全長140mの前方後方墳 竪穴式石室? 4C前半
E 西山塚古墳 全長114mの前方後円墳   6C前半
F 栗塚古墳 全長120mの前方後円墳   不明
G        
H 下池山古墳 全長120mの前方後方墳 竪穴式石室 4C初め〜中
I 西殿塚古墳 全長219mの前方後円墳    
J 東殿塚古墳 全長139mの前方後円墳 竪穴式石室?  
K 燈籠山古墳 全長110mの前方後円墳 竪穴式石室? 4C前半
L 中山大塚古墳 全長132mの前方後円墳 竪穴式石室 3C終わり?
M 馬口山古墳 全長110mの前方後円墳   3C後半
N 星塚古墳 全長56mの前方後方墳    
O フサギ塚古墳 全長110m以上の前方後方墳   4C中
P        
Q 矢矧塚古墳 全長105mの前方後円墳   不明
R 弁天塚古墳 全長70mの前方後円墳   不明

この辺りは、何気なく歩いていても古墳にぶつかると、思えるくらい古墳が密集している。

軽自動車でやっと通れるくらいの道をどんどん進む。

ヒエ塚古墳とノムギ古墳
大和(萱生)古墳群
天理市萱生町
撮影日2009/11/5

「大和古墳群」の大きな説明板の横に
「ヒエ塚古墳とノムギ古墳」の大きな説明板が設置されている。
ヒエ塚古墳ノムギ古墳は大和古墳群の最北端にあり、東西に位置する。
現在は道路東にヒエ塚古墳、西にノムギ古墳がある。
2003年県道天理環状線建設に伴い調査。
道路ができたが、古墳は道路下にしっかり保存されているそうだ。

東側のヒエ塚古墳

中山大塚と形や大きさがほぼ同じというが
ヒエ塚古墳は小さく見える。
ヒエ塚古墳は  全長130mの前方後円墳
 後円部径60m・高さ10m 前方部幅55m・高さ7m
2003年の調査では周壕が確認できなかった。
埋葬施設は未調査だが、明治年間に勾玉・管玉・金環・土器などが出土したという(山辺郡誌)。
墳丘北側の周壕外提部の調査で、外提を分断する溝の中から大量の古式土師器が出土した。
古墳時代前期前半(3世紀後半〜4世紀)の築造と推定されている。

ヒエ塚とノムギ古墳の実測図



ノムギ古墳
左後方部 右前方部


ノムギ古墳
現状全長63mの前方後方墳
後方部40m・前方部20m
埋葬施設は未調査だが、
明治年間に勾玉・管玉などが出土したという(山辺郡誌)。
周壕を発掘調査、
周壕の南東コーナーと墳丘の南東コーナーが確認され、前方後方墳であることが確定した。
周壕は築造されてから6世紀後半までに何度か改変されている。
周壕から大量の古式土師器や鰭付円筒埴輪、須恵器などが出土した。
ヒエ塚と同時期(3世紀後半〜4世紀)か、すこし後の築造と推定されている。

マパカ古墳
大和(萱生)古墳群
天理市萱生町マバカ
撮影日2009/11/5

この古墳の前にも大きな説明板が設置されている。
以前から古墳を分断する道がついていた。
2002年・2004年調査 埋葬部は未調査

マパカ古墳
左後円部
くびれ部を道路が通る。



実測図

マパカ古墳

現状全長74mの前方後円墳
後円部径43m・高さ7m 
前方部幅26m・高さ2m
周壕の痕跡あり
明治年間に管玉・勾玉が出土したという。

前方部の西側で、溝状の区画や池状の落ち込みの遺構が検出された。
古墳北西部では、
幅27mほどの川跡から大量の古式土師器や須恵器、円筒埴輪などが出土。
南側では古式土師器を含む溝や土杭などの遺構が検出された。
3世紀前半の築造か?

西山塚古墳
大和(萱生)古墳群
天理市萱生町西山
撮影日2009/11/5

本当の衾田陵ではないかといわれている。




西山塚後円部




西山塚古墳
後円部を南に向けた
全長114mの前方後円墳
後円部径65m・高さ10m  前方部幅65m・高さ7m
前方部2段・後円部3段に築成
周囲には幅20mの馬蹄形の周壕がめぐる。
傾斜地に築造されているため周壕が4つの池に分かれて作られている。
埋葬施設は未調査だが、開墾の際に石棺が確認されているので、
家形石棺が使用されていると考えられている。
発掘した円筒埴輪から、6世紀前半の築造と推定されている。
   

西殿塚古墳
大和(萱生)古墳群
天理市萱生町西山
撮影日2009/11/5

延喜式で山辺郡にあったとされる継体天皇の皇后・手白香皇女衾田陵に治定されている。

西殿塚古墳後円部


西殿塚古墳は  全長234mの前方後円墳
 後円部径135m・前方部幅118m。
三段築成 葺石あり 周濠あり
地山を少し掘り下げて造っている。葺石と円筒埴輪が確認されている。
3世紀後半〜4世紀初めの築造と推定されている。
墳丘から特殊器台・特殊壺が出土。

築造時期が手白香皇女の生没年と合わない。
衾田陵は推定築造時期が6世紀と推定されている西山塚古墳ではないかといわれている。 

東殿塚古墳
大和(萱生)古墳群
天理市萱生町西山
撮影日2009/11/5

西殿塚古墳の東、古墳群中の最高所に位置している。



東殿塚古墳後円部



東殿塚古墳は  全長139mの前方後円墳
前方部が著しく長い。
前方部西側の一角から造り出し的な祭祀遺構が見つかり、
 そこから多量の埴輪片(朝顔型埴輪・円筒埴輪・楕円形円筒埴輪)が出土した。
ゴンドラ型の大型の船が描かれた円筒埴輪が出土。
未発掘のため詳細は不明
後円部頂には竪穴式石室を思わせる割石と方形壇による自然石が散乱、
円筒埴輪や特殊円筒の破片も散乱。
4世紀前葉の築造と推定されている。
行燈山古墳(伝崇神陵)と同時期と考えられている。

下池山古墳
大和(萱生)古墳群
県史跡
天理市成願寺町
撮影日2009/11/5

前方部を南に向ける120mの前方後方墳

下池山古墳
左後方部

下池山古墳は、前方部を南に向けた
全長120mの前方後方墳  後方部幅57m・高さ14m 前方部長さ60m・高さ7.5m
前方部の南端が削られている
前方部は先端の開かない細長い形
段築あり 葺石あり 埴輪なし
墳丘の西側や東側に池があるが周壕と確認されたわけではない。

1995年〜1996年に石室を調査。
後方部中央の竪穴式石室は長さ6.9m・最大幅1.3m・最大高さ1.8m
石室内に復原長さ6mのコウヤマキ製の割竹形木棺が腐らずに残っていた。
盗掘されていたが鉄器片、ガラス玉、勾玉、腕輸が出土。
墓壙の北西隅の小石室に径37.6cmの鏡が納められていた。
4世紀前半の築造と推定されている。

栗塚古墳
大和(萱生)古墳群
天理市萱生町西山
撮影日2009/11/5



栗塚古墳後円部

前方部は、天神山古墳の南半分とともに道路で消滅

栗塚古墳  全長約120mの前方後円墳  後円部径70m・高さ8m、前方部幅45m
前方部は国道169号線に削り取られている。
後円部は柿畑
過去に土器・管玉が出土したらしい。
未調査

柳本古墳群 天理市柳本

崇神天皇陵(行燈山古墳) 景行天皇陵(渋谷向山古墳)を中心にした古墳群。
アンド山、天神山、上ノ山、シウロウ塚、黒塚、柳本大塚などの前方後円墳と双方中円墳の櫛山古墳がある。
大部分が前期の古墳。

   柳本古墳群(@〜R)の主な古墳の配置図


天理市柳本町・渋谷町の古墳が
柳本古墳群となる。


珠城山古墳群より南の古墳は
纒向・箸中古墳群となる。
纒向・箸中古墳群は
桜井市となる。

名前 大きさと形 埋葬施設 時期
@ 黒塚古墳 130mの前方後円墳  竪穴式石室 4C
A アンド山古墳 全長120mの前方後円墳    4C前半
B 南アンド山古墳 全長60mの前方後円墳     
C 大和天神山古墳 全長103mの前方後円墳  竪穴式石室 4C
D      
E 行燈山古墳 全長242mの前方後円墳    4C中〜末
F 櫛山古墳 全長155mの双方中円墳  竪穴式石室 4C後半
G        
H 石名塚古墳 111mの前方後円墳    4C
I 柳本大塚古墳 全長94mの前方後円墳  石室 4C前半
J 上ノ山古墳 全長140mの前方後円墳    4C中
K 崇神天皇陵ろ号陪塚  径20mの円墳     
L        
M シウロウ塚      
N 渋谷向山古墳 全長300mの前方後円墳   4C中
O
P
Q
R 龍王山古墳群 600基   後期の群集墳

   

黒塚古墳
大和(萱生)古墳群
国史跡
天理市柳本町黒塚
撮影日2009/11/5

2007・08年に発掘調査、多数の三角縁神獣鏡が元の位置を保った状態で発見された。
発見されたときのニュースを覚えている。
柳本公園となる。


黒塚古墳

黒塚古墳は 全長130mの前方後円墳 後円部径72m・高さ11m
戦国時代には城郭として利用されたので墳丘は改変を受けている。
周囲の濠は周壕を拡張したもの。

後円部中央の竪穴式石室は長さ8.3m・幅1.3m〜0.9m高さ1.7m
川原石と板石を使った合掌式の石室
石室床面の粘土の棺台の中央には長さ6.2mのクワの巨木をくりぬいた木棺の痕跡が残る。
水銀朱が残る。
遺物は盗掘をまぬがれ埋葬した当時のまま出土
棺内は、画文帯神獣鏡1面が立った状態であり、その両脇に刀剣が2振り置かれていた。
棺外は33面の鏡が、棺と壁面の間、および北小口に立てかけるように置かれていた。
全て三角縁神獣鏡。
鏡に重なるように刀剣類・鉄鏃・槍などが出土。

天理市立黒塚古墳展示館が設けられて、
 石室の実物大レプリカや出土した鏡などの模型が展示されている。

櫛山古墳
柳本古墳群
国史跡
天理市柳本町
撮影日2009/11/5

珍しい双方中円墳で墳丘に入れる古墳。

櫛山古墳
中円部から後方部を見る
方形をしっかり確認できる。
ここに祭壇があったのだろう。
櫛山古墳は崇神天皇陵の後円部周壕に接している
全長155mの双方中円墳
中円部径90m・前方部長さ60m・幅60m・後方部長さ25m
周濠あり 葺石あり 埴輪あり
昭和23・24(1948・49)年の発掘調査で
後方部の大型祭壇上から排水施設を伴う白礫を敷き詰めた遺構や
白礫層の下部に赤色顔料を含む砂層を施した方形の土坑などが検出されている。
鍬形石・車輪石・石釧などの腕輪形製品や、高杯形土師器の破片が白礫層の上部から出土、
 墓前祭祀に関係する遺構と見られている。
中円部の頂上に築かれた竪穴式石室は、すでに盗掘されていたが、
 全長7.1m・幅1.4mで、扁平な石材を用いて側壁を築いている。
 石室の中央に石棺を据えたと思われる方形の落ち込みがあり、長持形石棺の一部が出土。
石棺を据えてから石室の側壁を築いたものと考えられている。
(石棺は棺身の下半分が石室の床面を掘って埋められている)
4世紀後半の築造と推定されている。

柳本町の専行院というお寺の境内にある石棺仏は、櫛山古墳出土の長持形石棺のものといわれている。

行燈山古墳
柳本古墳群
天理市柳本町行燈
撮影日2009/11/5

柳本古墳群の盟主墳ともいえる古墳で現在崇神天皇山辺勾岡上陵に比定されている。
行燈山古墳周辺にはアンド山古墳、南アンド山古墳、天神山古墳の3基の前方後円墳がありいずれも陪塚とされている。



崇神天皇陵礼拝所
大きくて山にしか見えない。

行燈山古墳全長242mの前方後円墳
後円部径158m・高さ31m 前方部幅100m・高さ13.6m
周壕を含めると全長360m、最大幅230mとなる。
周壕は東から渡堤で階段状に区切られている。
東西に主軸を置く。
幕末に大規模な御陵補修と灌漑用水確保のための工事が行われたので
 前方部の一部が水没したり周壕の形が変化している。
葺石あり 埴輪あり
埋葬施設は不明だが、
 近くの長岳寺の石棺仏はこの古墳の天井石が使われているといわれていて、
 石室があると推定されている。
墳丘から円筒埴輪、小型丸底壺  濠から銅版が出土
4世紀〜末の築造と推定されている。

アンド山古墳
柳本古墳群
天理市柳本町
撮影日2009/11/5

「崇神天皇陵陪塚い号」に比定されていて崇神天皇陵の半分の大きさだという。

アンド山古墳
左手前 前方部
きれいに整備されていて
形がよくわかる。
副葬品を納めただけの古墳といわれている。
アンド山古墳
全長120mの前方後円墳
後円部径70m・高さ15.5m  前方部幅53m・高さ11.5m
周濠なし、段築なし、前方部を南南西に向ける。
埋葬施設は不明
4世紀前半の築造と推定されている。

南アンド山古墳
柳本古墳群
天理市柳本町
撮影日2009/11/5

「崇神天皇陵陪塚は号」と比定されていて、行燈山の4分の1の大きさといわれている。


「崇神天皇陵ろ号陪塚」から見た
南アンド山古墳

左 後円部
右 前方部

その右に行燈山古墳の前方部がある。
南アンド山古墳 東西に主軸をおく 全長60mの前方後円墳

大和天神山古墳
柳本古墳群
県史跡
天理市柳本町
撮影日2009/11/5

井射奈岐神社の境内にあり東側半分は道路で削平されている。


天神山古墳遠景
崇神天皇陵から見る


右手前は南アンド山古墳
左手前は行燈山古墳の前方部外堤




井射奈岐神社鳥居の南側(左側)に
墳丘(後円部)がある。






天神山古墳実測図
説明板から

見事に東半分が削平されている。
天神山古墳は 前方部を南に向けた 全長113mの前方後円墳
 後円部径56m・高さ9m 前方部幅47m・高さ7m
墳丘の東半分が国道169号線の建設時に削られている。
周壕の有無は不明
葺石あり 埴輪なし
1960年、後円部中央の竪穴式石室の発掘調査、
長さ6.1m・幅1.4m・高さ1.2mで合掌式の構造(天井石は必要としない)の石室に
 粘土で作られた台の上にコウヤマキ製の割竹形木棺が安置されていて、
銅鏡23面や鉄製品等の副葬品が出土。
銅鏡が木棺中央に置かれた41kgの朱を取り囲むように配置されていた。
銅鏡は三角縁神獣鏡を含まない。
副葬品は2002年に国重文、木棺は2008年に県の有形文化財に指定されている。

人体埋葬の痕跡はないといわれているが・・・・。どうなのだろうか?

崇神天皇陵陪塚ろ号
柳本古墳群
天理市柳本町
撮影日2009/11/6

通りがかりにみつける。

崇神天皇陵陪塚ろ号

径20mの円墳



別名「白塚古墳」といわれている。
宮内庁が管理している。

中山大塚古墳
大和(萱生)古墳群
天理市中山町
撮影日2009/11/5

1985〜1994年まで学術調査が行われた。
ヒエ塚古墳と形・大きさがほぼ同じだというが、中山大塚のほうが大きく見えるのは山にあるからか?

中山大塚古墳
前方部の大和神社のお旅所

現在、
墳裾は子どもたちの遊び場となっている。

前方部には大和神社のお旅所が置かれたため削平を受けている。
中世に城郭としても利用されたため墳丘は大きく改変されている。


中山大塚古墳のくびれ部
奥が後円部となる。




空から見た中山大塚古墳
説明板から




燈籠山古墳から見た
  中山大塚古墳


中山大塚古墳
は標高90mの尾根上に前方部を南西に向けている
全長132mの前方後円墳
 後円部径73m・高さ11m  後円部2段、前方部1段に築成

西側くびれ部に三角形の張り出し部と後円部北側に張り出し部がある。
各斜面と前方部上面に葺石
あり
葺石の最下段は垂直に近く石垣のように築かれていた

埋葬施設は後円部中央の竪穴式石室で長さ7.5m・高さ2m
石室の石材は大阪府羽曳野市と太子町の間の春日山産の安山岩が使用されている。
すでに盗掘を受けていたが、銅鏡片2・鉄器36などが出土
墳頂部から
土器や特殊壺形埴輪、二重口縁壺系の埴輪、特殊円筒埴輪、特殊器台形土器、特殊壺形土器などが出土。

古墳群の中で初期に築かれた古墳の一つと考えられている
3世紀?の築造

星塚古墳 天理市二階堂上ノ庄町
撮影日2009/11/5

「星塚古墳」は大和神社の境内にもあるが、西山古墳の西の荒蒔町付近にも「星塚古墳」がある。
宿への帰り道、見学に行く。
ヤフーの航空写真でみたところ、そのあたりには古墳らしいものは見当たらない。
日没後となってしまったが、暗い中に星塚古墳あるはずの辺りを探してみた。
やはり古墳は消滅していた。
「星塚古墳」の大きな説明板があった。
現在付近は墓地公園となり、星塚2号墳の中心あたりに「星塚古墳」と書かれた石碑が立つ。



星塚古墳の配置図
暗やみの中の説明板から

1号墳は1985年発見された。



星塚古墳は  1952年石室が調査された
1985年の周辺の水田の発掘で、もう一つ古い古墳が埋もれていることがわかった。
埋もれていた古墳を星塚1号墳、
1号墳の一部を壊して築造された古墳を2号墳とした。
近鉄天理線の踏切の南側には2号墳に隣接して3号墳があったことが確認された。

星塚1号墳
全長38mの前方後円墳
東に後円部、西に前方部がある。
後円部は南北26m東西27m
周壕の幅5〜8m・深さ0.8m
前方部の一部が2号墳の外濠によって切られている。
墳丘は鎌倉時代に削平
周壕内から埴輪・須恵器・土師器が出土
木製品では琴状木製品や笛状木製品が出土
笛状木製品は周壕北側のくびれ部付近から出土したが、
現存長28.7cm・太さ2.9cmの管状で小さな孔があいている。
6世紀初頭の築造と推定されている。
星塚2号墳
南北27m東西30mが残り、西に土壇状のものが見られる。
1985年の調査で馬蹄形の二重の濠が見つかったことから前方後円墳と考えられる。
全長7mの横穴式石室は、
玄室は長さ4.7m・幅2.3m 羨道の長さ2.3mが残る
盗掘されていたが、凝灰岩製の組合式石棺の底石と蓋石の一部や
装飾品、利器、馬具、容器など各種の副葬品が出土
そのうち金製の垂下式耳飾やガラス製の装飾品と鉄製の柄頭が注目される。
柄頭は金銀線の象嵌によって亀甲のつなぎ文を前面に配し、
亀甲の中に向かい合う鳥が描かれている。
6世紀前半の築造と推定されている。
星塚3号墳
2号墳の南側にあった。

近くには荒蒔古墳や岩室池古墳があるがいずれも消滅か?
暗くなってしまい、確認できなかった。

天理市の地図y

  星塚古墳付近の地図

荒蒔古墳は全長30mの前方後円墳、墳丘はすでにない。
1988年の発掘調査で周壕の痕跡が発見され、
 多量の円筒埴輪のほか馬、鳥、犬、猪、人物、盾、太刀などの埴輪が出土。
5世紀末〜6世紀前半の築造と推定されている。
岩室池古墳は全長50mの前方後円墳で墳丘はほとんど失われている。
1980年の発掘で円筒埴輪のほかに盾、人物、馬などの埴輪が出土。
5世紀末〜6世紀前半の築造と推定されている。



今夜もスーパーホテル大和郡山に宿泊。午後5時30分チェックイン
夕食も昨日と同じ筒井食堂。1130円也。
今夜も温泉に入り、ゆっくり休む。

C 奈良・その4 につづく

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