北村さんちの遺跡めぐり
| 2009年・奈良の旅その4 天理市・桜井市 |
2009年11月3日〜11月7日 |
2009年11月6日、旅行4日目
昨日は中山大塚古墳に行ったが、その北にある燈籠山古墳や羽多子塚古墳を見たくて
昨夜のうちに場所を確認。
午前8時25分 ホテル出発。
その前に唐古・鍵遺跡に行く。
| 唐古・鍵遺跡 | 田原本町唐古 撮影日2009/11/6 |
弥生時代の環濠集落跡。
平成3年の調査で、楼閣の描かれた土器片が出土(弥生時代中期のもの)
その楼閣を復元。

復元された楼閣
唐古池のほとりにある。
高さ12.5m 柱の間隔4×5m 柱の太さ0.5mの規模に復元されている。
唐古池で釣りをしている人がいたが、
何が釣れるのか?
水抜きもしているようだ。
だいぶ老朽化しているみたい。
唐古・鍵遺跡付近の地図

唐古・鍵遺跡は
大和(萱生)古墳群の西4kmほどのところにある。
| 波多子塚古墳 大和(萱生)古墳群 |
天理市萱生町 撮影日2009/11/6 |
昨日場所がわからず、調べた結果ようやく見つけた。
見つかってよかった。
天理市の地図g

波多子塚古墳の後方部
小さな池の向こうに見える。
向こう側(西側)に長い前方部があるが、
果樹園となっている。
前方部は写真ではよくわからない
この形の説明板は
山の辺の道にあるようだ。
波多子塚古墳は 全長140mの前方後方墳
後方部東西50m復原長65m・南北45m・後方部高さ7m 前方部長さ90m幅14m
主軸は東西で、後方部は東側にある。
前方後方墳では全国2番目の大きさ。
幅7mの周濠跡がある。その外側には堤がある。
葺石あり 埴輪あり
円筒埴輪、特殊器台型埴輪、朝顔形埴輪などが出土、
墳丘に埴輪が並んでいた。
墳丘北側の周濠の外堤上部から未盗掘の小石室が確認された。
竪穴式石室と考えられている。
4世紀前半の築造と推定されている。
(説明板には3世紀後半の築造とある)
前方部の幅が極端に狭く細長い形とされてきたが、
調査で一般的な前方後方墳と同じ形と分かってきた。
後の開墾で墳丘が削られたために現状のようになったのではないかと考えられるようになった。
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大和(萱生)古墳群の主な古墳の配置図

5基の前方後方墳がある。
黒塚古墳は
柳本古墳群となる。
今回 国道の西側は全く見学しなかった。
| 大きさと形 | 主体部 | 時期 | ||
| @ | ノムギ古墳 | 全長63mの前方後方墳 | 3C後半〜4C | |
| A | ヒエ塚古墳 | 全長130mの前方後円墳 | 前期前半 | |
| B | マバカ古墳 | 全長74mの前方後円墳 | 3C前半 | |
| C | ||||
| D | 波多子塚古墳 | 全長140mの前方後方墳 | 竪穴式石室? | 4C前半 |
| E | 西山塚古墳 | 全長114mの前方後円墳 | 6C前半 | |
| F | 栗塚古墳 | 全長120mの前方後円墳 | 不明 | |
| G | ||||
| H | 下池山古墳 | 全長120mの前方後方墳 | 竪穴式石室 | 4C初め〜中 |
| I | 西殿塚古墳 | 全長219mの前方後円墳 | ||
| J | 東殿塚古墳 | 全長139mの前方後円墳 | 竪穴式石室? | |
| K | 燈籠山古墳 | 全長110mの前方後円墳 | 竪穴式石室? | 4C前半 |
| L | 中山大塚古墳 | 全長132mの前方後円墳 | 竪穴式石室 | 3C終わり? |
| M | 馬口山古墳 | 全長110mの前方後円墳 | 3C後半 | |
| N | 星塚古墳 | 全長56mの前方後方墳 | ||
| O | フサギ塚古墳 | 全長110m以上の前方後方墳 | 4C中 | |
| P | ||||
| Q | 矢矧塚古墳 | 全長105mの前方後円墳 | 不明 | |
| R | 弁天塚古墳 | 全長70mの前方後円墳 | 不明 |
| 燈籠山古墳 大和(萱生)古墳群 |
天理市中山町燈籠山 撮影日2009/11/6 |
墳丘の前方部が念仏寺の墓地となり、後円部は果樹園となる。
東の山側に後円部があり、主軸は東西となる。

燈籠山古墳
前方部東南側墳裾から後円部を見る
燈籠山古墳は 全長110mの前方後円墳 後円部径55m・高さ6.4m 前方部幅41m
葺石あり 埴輪あり 墳丘東側に張り出し部あり
竪穴式石室と考えられている。
4世紀前半の築造と推定されている。
埴製枕が出土したという。
| 上の山古墳 柳本古墳群 |
天理市渋谷町 撮影日2009/11/6 |
景行天皇陵陪塚い号として宮内庁の管理の古墳である。

上の山古墳全景
左(北)後円部
上の山古墳は 全長140mの前方後円墳 後円部径84m・前方部幅56m
幅25mの周壕あり 葺石あり 埴輪あり
前方部を南南東に向ける。
平成6年の前方部西側の調査で、
周濠内より鰭付き円筒埴輪、壷型埴輪、朝顔型埴輪、盾形埴輪、木製品が出土した。
4世紀中の築造と推定されている。
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柳本古墳群(@〜R)の主な古墳の配置図

天理市柳本町・渋谷町の古墳が
柳本古墳群となる。
珠城山古墳群より南の古墳は、纒向・箸中古墳群。
纒向・箸中古墳群は桜井市。
| @ | 黒塚古墳 | 130mの前方後円墳 | 竪穴式石室 | 4C |
| A | アンド山古墳 | 全長120mの前方後円墳 | 4C前半 | |
| B | 南アンド山古墳 | 全長60mの前方後円墳 | ||
| C | 大和天神山古墳 | 全長103mの前方後円墳 | 竪穴式石室 | 4C |
| D | 崇神天皇ろ号陪冢 | 径20mの円墳 | ||
| E | 行燈山古墳 | 全長242mの前方後円墳 | 4C中〜末 | |
| F | 櫛山古墳 | 全長155m双方中円墳 | 竪穴式石室 | 4C後半 |
| G | ||||
| H | 石名塚古墳 | 111mの前方後円墳 | 4C | |
| I | 柳本大塚古墳 | 全長94mの前方後円墳 | 石室 | 4C前半 |
| J | 上ノ山古墳 | 全長140mの前方後円墳 | 4C中 | |
| K | ||||
| L | ||||
| M | シウロウ塚 | 全長120mの前方後円墳 | ||
| N | 渋谷向山古墳 | 全長300mの前方後円墳 | 4C中 | |
| O | ||||
| P | ||||
| Q | ||||
| R | 龍王山古墳群 | 600基 | 後期の群集墳 |
| 渋谷向山古墳 柳本古墳群 |
天理市渋谷町 撮影日2009/11/6 |
崇神天皇陵の南1kmにあり景行天皇陵として宮内庁の管理となっている。

渋谷向山古墳前方部
柳本古墳群の前期古墳では
最後に築造されたものだという。
渋谷向山古墳は
全長300mの前方後円墳
後円部径160m・高さ26m 前方部幅170m・長さ130m・高さ24m
周濠は現在9箇所に区切られているが築造時の姿ではない。
前方部前面が幕末の修復時に拡張され形状が大きく変化している。
3段築成 葺石あり 埴輪((円筒埴輪 盾形埴輪)あり
複数の埋葬施設があると考えられている。
石枕が出土したといわれている。
4世紀中頃の築造と推定されている。
| 箸墓古墳 纒向・箸中古墳群 |
桜井市箸中 撮影日2009/11/6 |
「倭迹迹日百襲媛命大市墓」として宮内庁が管理している。
被葬者は卑弥呼?
箸墓古墳は 全長280mの前方後円墳
後円部径155m・高さ29.4m 前方部長さ125m・幅140m・高さ16m
撥方に開く前方部
葺石あり 埴輪あり(特殊器台・特殊器台形埴輪や特殊壺形埴輪)
前方部4段、後円部5段の段築
1992年前方部南側の調査で
この古墳は大半の封土を盛土した可能性が高いことが判明。
周囲には幅約10m程度の周濠と、その外側に大きな外堤が巡っていた可能性がある。
外堤の所々には渡り堤があったと考えられる。
埋葬施設は竪穴式石室か?
陵墓指定地外の調査で、木製輪鎧等の木製品、土器破片が出土。
宮内庁によって採集された特殊器台、特殊器台形埴輪、特殊壷、二重口縁壷が出土。
渡堤や外堤から出土した土器から、3世紀後半の築造と推定されている
![]()
珠城山古墳群に向かっていたとき、突然マイカーの調子が悪くなり、修理工場に駆け込むが、
そこではどうしようもなく、田原本町のスズキに行き点検してもらう。
どこも悪くないと言われたが、不安。
エンジンを休めたら直ったようだが・・・・・。
やっと通れるような道ばかりだったから、ストをおこしたのかなぁ。
そんなこんなで、1時間以上を無駄にしてしまった。
田原本町のコンビニで弁当を買い、纒向石塚古墳で食べる事とする。
| 纏向石塚古墳 纒向・箸中古墳群 市史跡 |
桜井市太田 撮影日2009/11/6 |
纏向石塚古墳の上でお弁当を食べる。

纏向石塚古墳全景
墳丘は全体に低くなっていて、
前方部はよくわからない。

纏向石塚古墳実測図
纏向石塚古墳は 全長96mの前方後円墳 後円部径64m・前方部幅32m
周馬蹄形の壕あり
埴輪なし 葺石なし 3段築成
埋葬施設は残っていない。
周壕内から
弧紋円盤,朱塗の鶏形木製品 、木製鋤 、木製鍬 、
横槌 、水槽、建築部材等の木製品 、土師器 が出土した。
墳丘盛土内から見つかった土器から
3世紀初頭〜中頃の築造と推定されている。
| 纏向勝山古墳 纒向・箸中古墳群 |
桜井市黒田字勝山 撮影日2009/11/6 |

纏向勝山古墳
右側が前方部
左側は周壕跡の池の堤だが、
こっちのほうが前方部に見えてしまう。

纏向勝山古墳実測図
勝山古墳の竹を切りに来た夫婦と出会う。
2、3日前、大発見があったらしくて、取材のヘリが飛んでいたとのこと。
自宅に帰ってから、纏向遺跡で3世紀前半の大型の建物発見というニュースが発表された。

纏向勝山古墳
後円部後方から見る。
濠の痕跡を残すように逆台形の池がある。
勝山古墳の周りは遊歩道がある。
纏向勝山古墳は 115mの前方後円墳 後円部径67m
馬蹄形の周壕(幅29m)がめぐる
葺石なし 埴輪なし
北側くびれ部付近の周濠からは多数の木製品が出土
3世紀中頃〜後半の築造と推定されている。
墳丘北側のくびれ部から出土した板材の年輪年代測定が西暦210年との結果がでている。
従来は纒向型前方後円墳と見られてきたが
2009年3月の発表で、前方部の南東隅が見つかり全長は115mと確定されて、
墳形も前方部が短い纒向型ではない事が正式に判明した。
この発表で勝山古墳と東田大塚古墳は、前方後円墳で、周濠は馬蹄形、
矢塚古墳は前方部が短い纒向型とほぼ確定された。
| 纏向矢塚古墳 纒向・箸中古墳群 |
桜井市東田字矢塚 撮影日2009/11/6 |

勝山古墳から見た矢塚古墳

纏向矢塚古墳後円部

纏向矢塚古墳実測図
纏向矢塚古墳は
全長96mの纒向型前方後円墳 後円部径62m・前方部幅34m
纒向型の古墳は後円部と前方部の比率が2:1である。
埴輪なし 葺石なし
埋葬施設は未調査(竪穴式石室か?)
土師器が出土
3世紀中頃の築造と推定されている。
| 東田大塚古墳 纒向・箸中古墳群 |
桜井市東田 撮影日2009/11/6 |

西から見た東田大塚古墳

東田大塚古墳実測図
東田大塚古墳は
全長120mの前方後円墳
後円部径70m・前方部長さ50m
馬蹄形の濠の外側から壺棺が出土
濠の中から土器や木製品、外堤から壷棺、籠状製品が出土
3世紀後半の築造と推定されている。
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纏向・箸中古墳群付近の地図

渋谷向山古墳より北は柳本古墳群となる。
纒向・箸中古墳群は
箸墓古墳と6基の前期の前方後円墳と周辺の古墳からなる。
6基の前期の古墳とは
纒向石塚古墳、纒向勝山、纒向矢塚、東田(ヒガイダ)大塚古墳、ホケノ山古墳、巻野内石塚古墳
珠城山古墳群・茅原大墓古墳は時期が少し後なので、
纒向・箸中古墳群に含むのか・含まないのか?
ホケノ山古墳の周辺には、地図には書かれていないが、
多くの円墳が確認されている。
| @ | 珠城山1号墳 | 全長50mの前方後円墳 | 横穴式石室 | 6世紀中〜後半 |
| A | 珠城山2号墳 | 全長75mの前方後円墳 | ||
| B | 珠城山3号墳 | 全長48mの前方後円墳 | 横穴式石室 | 6世紀後半 |
| C | 纒向勝山古墳 | 全長115mの前方後円墳 | 3世紀中頃〜後半 | |
| D | 纒向矢塚古墳 | 全長96mの前方後円墳 | 3世紀中頃 | |
| E | 纒向石塚古墳 | 全長96mの前方後円墳 | 3世紀初頭〜中 | |
| F | 東田大塚古墳 | 全長120mの前方後円墳 | 3世紀後半 | |
| G | 巻野内石塚古墳 | 全長60mの前方後円墳 | ||
| H | ホケノ山古墳 | 全長80mの前方後円墳 | 石囲い木槨 | 3世紀中頃 |
| I | 箸墓古墳 | 全長280mの前方後円墳 | 3世紀後半 | |
| J | 茅原大墓古墳 | 全長85mの前方後円墳 | 5世紀前半 | |
| K | 茅原狐塚古墳 | 一辺40mの方墳 | 横穴式石室 | 6世紀末〜7世紀初頭 |
その他
小川塚古墳・茶ノ木塚古墳・北口塚古墳・堂ノ後古墳・平塚古墳・慶雲寺裏古墳・慶雲寺古墳・ツヅロ塚古墳
・ツクロ塚古墳・箸中狐塚古墳・石神塚古墳・馬塚古墳・弁天社古墳・毘沙門塚古墳・箸中イヅカ古墳
などが確認されている。
| 珠城山古墳群 国史跡 |
桜井市穴師 撮影日2009/11/6 |
史跡公園となりきれいに整備されている。
後期の3基の前方後円墳が並んでいる。
が、2つの石室があった3号墳が消滅しているのが非常に残念だ。

珠城山古墳群配置図
説明板から
東(右)から
1号墳・2号墳・3号墳
3号墳はほぼ消滅している。
1955年から5回にわたり調査され、馬具をはじめ豪華な副葬品が出土した。
築造時期はいずれも古墳時代後期(6世紀)とおもわれ
2号墳→1号墳→3号墳の順に築かれている。

珠城山古墳群の北側の山裾には
立派な説明板がある。
階段の上は、2号墳後円部

南側の山裾から見た
1号墳後円部の石室
(中央右)

珠城山1号墳・石室開口部

珠城山1号墳・石室内部
| 珠城山1号墳 墳丘は後世の削平で変形している 全長50mの前方後円墳で前方部を東に向ける。 墳丘裾を埴輪列がめぐっていた? 片袖式の横穴式石室(全長3.4m)に組合式石棺がある。 (石棺は橿考研付属博物館にて保存) 石棺内から 人骨・挂甲・刀子・ガラス製小玉 石室内から 環頭太刀、武器類、工具類(はさみなど)、 金銅製勾玉、銀製空玉、琥珀製棗玉、 鞍金具等の馬具類等 が出土している。 石室が再利用されていたらしく、平安時代の遺物も出土。 6世紀中〜後半の築造と推定されている。 |
| 珠城山2号墳 全長75mの前方後円墳で前方部を西に向ける。 後円部墳頂などは調査されたが、内部主体はわかっていない。 少しの埴輪片が出土。 前方部前面にはかって小石室が存在していたが現在は消滅。 |
| 珠城山3号墳 全長48mの前方後円墳で前方部を東に向ける。 現在は前方部の一部を残しほぼ消滅。 前方部と後円部に1基づつ横穴式石室があった。 前方部の石室には(木棺があったと推定され、 中世には火葬墓として使用されていたとおもわれる。 耳環、太刀片、土器類が出土 全長9.7mの後円部の石室には、組合式石棺があり、 太刀類、挂甲小札、鉄鏃、杏葉や鏡板などの馬具類、土器が出土。 遺物から、6世紀後半の築造と推定されている。 |
| 茅原大墓古墳 国史跡 |
桜井市茅原 撮影日2009/11/6 |
発掘に遭遇した。
発掘の邪魔にならなければ、墳丘に上がってもいいと言われ感激。
円筒埴輪が並んで埋まっている様子を見ることができた。

発掘中の茅原大墓古墳
左手前の木があるところあたりが
短い前方部と思われる。
墳丘だけの調査で埋葬部分はそのままという。

茅原大墓古墳後円部頂から見た前方部
茅原大墓古墳は 全長約85mの帆立貝式前方後円墳で 前方部を北に向ける
後円部径約70m・高さ約9m 前方部長さ約15m・高さ約1m。
周壕が残る 葺石あり 円筒埴輪がめぐる
円筒埴輪、朝顔形埴輪、家型埴輪が出土
5世紀前半の築造と推定されている。できた。
| 巻野内石塚古墳 纒向・箸中古墳群 |
桜井市巻野内 撮影日2009/11/6 |
通りがかりに、古墳だとすぐわかったので写真を撮る。

巻野内石塚古墳
前方後円墳というが、
後円部しかわからない
巻野内石塚古墳は
全長60mの纒向型前方後円墳で前方部を北東に向ける。
後円部径40m・前方部長20m
現状は径40mの円墳状
測量調査のみがされている。
| ホケノ山古墳 纒向・箸中古墳群 国史跡 |
桜井市箸中 撮影日2009/11/6 |
東方から派生した丘陵上にある。

墳裾から見たホケノ山古墳
撮影日2009/11/6

後円部から見た前方部
撮影日2009/11/6
復元された前方部東斜面の埋葬施設が
左のほうに見えている。

前方部東斜面に復元された埋葬施設
撮影日2009/11/6
墓壙は全長4.2m・幅1.2m・深さ30〜50cm
内部は南端に大型壺、中央に壺があり
これにはさまれるように
全長2.15m・幅45cmの組合式木棺の痕跡が確認された。
墳丘が完成した後に設置されたもの。
ホケノ山古墳は
全長80mの前方後円墳で、前方部を南東に向ける。
後円部径60m・高さ8.5m 前方部長さ20m・高さ3.5m
後円部3段築成 葺石あり 埴輪なし
後円部側に周濠状遺構がめぐる。
後円部中央に石囲い木槨に長さ5mの刳抜式木棺 がある。
後円部の主体部西側に6世紀末頃の横穴式石室がある。(全長14m以上で組合式石棺がある。)
前方部東斜面にも木棺直葬の埋葬施設がある。.
二重口縁壷・銅鏃・鉄鏃・素環頭大刀・鉄製刀剣類・鉄製農工具・
同向式神獣鏡・内行花文鏡の破片・鉄製農工具などが出土。
3世紀中頃の築造?と推定されている。
すぐ西に堂の後古墳があるというが確認してこなかった。
| 茅原狐塚古墳 纒向・箸中古墳群 |
桜井市茅原 撮影日2009/11/6 |
JR桜井線沿いに石室が開口している。

茅原狐塚古墳全景
盛り土はなくなっている。

横穴式石室
水がたまっている。

茅原狐塚古墳・石室内部
奥壁に穴があいていて空が見える。
石棺が3個あったという。

茅原狐塚古墳の奥壁後方から石室を見る
補修しないとくずれそう
茅原狐塚古墳は40mの方墳と考えられている。
横穴式石室は長さ17.3m
玄室の長さ6m・幅2.6m・高さ3.2m
羨道の長さ11.3m・幅2.1m・高さ1.9m
石室内に石棺が3個、羨道部に木棺があった(釘が出土)
玄室から多数の須恵器の杯、
羨道部から鉄直刀と思われる小残片、木棺の釘、土師器破片等が出土。
6世紀末〜7世紀初めの築造と推定されている。
| 桜井茶臼山古墳 国史跡 |
桜井市外山 撮影日2009/11/6 |
10月末に見学会があった。
私たちが行ったのはその一週間後だったが、墳丘に入れた。

桜井茶臼山古墳全景
右奥 後円部
前方部の東側横のフェンスの扉から
墳丘に上がる。

前方部から後円部を見る
遠くて良く見えない

くびれ部から後円部を見る
後円部に上がるために、
1本の綱がたらしてあった。
石室の周り1mは立ち入り禁止となっていて、測量をしているらしき人たちが数人作業をしていた。
赤く塗られた天井石が確認できた。
できれば石室を覗き込んで見たかった。

竪穴式石室
赤く塗られた天井石が見える。
昭和24年の発掘調査で、
@後円部中央に壺形土師器を並べた長方形の壇とその内側に竪穴式石室があること。
A竪穴式石室は、長さ6.8m・幅1.3m・深さ1.6mの規模で赤く塗られている事
B木棺の底板が長さ5.2m・幅70cm分見つかり、木棺はマツ科の針葉樹「トガ」である事
C多くは盗掘されていたが鹿の角をかたどった玉杖や玉葉、武器や石製の腕飾り類鏡13枚分の破片が出土
D鏡の中の三角縁神獣鏡4面が京都府椿井大塚山古墳と同形
などが確認できていた。
2009年の再発掘調査では、
@竪穴式石室の全面が大量の水銀朱で赤く塗られていて、
石室を作っている割石は朱で一枚ずつ染色されている。
水銀朱の総重量は約200キロと推定され、国内の古墳で確認された量としては最多。
(これまでは、大和天神山古墳(天理市)で確認された42kgが最多)
A見つかった鏡片から少なくとも13種、81枚の銅鏡が副葬されていたこと(鏡片331点を発掘)
B木棺はトガではなく、コウヤマキ製であった。
C「玉垣跡」とみられる柱穴列が見つかった。
竪穴式石室周辺から、柱穴列が東西南北で各2〜3本ずつが見つかったが、
築造当時は南北12.5m・東西10mの方形に約150本の柱を並べていたという。
柱穴の深さは1.3m、柱の高さは3m。
などが新たに確認された。

後円部から前方部を見る
ながーい前方部

桜井茶臼山古墳2003年当時の測量図
(シリーズ史跡を学ぶから)
桜井茶臼山古墳は
南方の鳥見山から北に延びた尾根の先端を切り離して、南側に前方部がある
全長207mの前方後円墳
後円部径110m・高さ21m 前方部幅61m・高さ13m
前方部は開かない細く延びた柄鏡形
3段築成 葺石あり 周壕なし 埴輪なし
3世紀末〜4世紀初めの築造と推定されている。
竪穴式石室は長さ6.75m・幅1.2m・高さ1.6m。
内部には、木棺(長さ4.9m・幅75cm)の底板がほぼ当時の状態で残っていた。
石室の壁は、一辺50〜60cm大の板状の石材数千枚を積み上げて構築。
石材のほぼ全面に水銀朱が塗られていた。
水銀朱は、大和で多産した辰砂という硫化水銀の鉱物を粉状にすりつぶして水に溶かしたのち、
石材に塗ったとみられる。
巨木をくりぬいた大きな木棺がおかれていた。
桜井茶臼山古墳付近の地図

今回は桜井茶臼山古墳、文殊院西・東古墳、メスリ山古墳、コロコロ山古墳の見学だけとなる。
またまだたくさんあるから、また行くぞ!
| 文殊院西古墳 国史跡 |
桜井市阿部 阿部文殊院内 撮影日2009/11/6 |
午後4時半をまわり、文殊院の営業時間(?)は過ぎ、駐車料金は無料となり、日没も間近。

文殊院西古墳・墳丘

文殊院西古墳・石室
南側に開口している。

文殊院西古墳・石室内部
玄室が見えていない
石の隙間には、漆喰を詰めている。
とても整ったすばらしい石室!
文殊院西古墳は
墳丘形は不明だが、円墳か方墳で本来は30m前後の規模と考えられている。南に開口。
両袖式の横穴式石室は全長12.4m
玄室長5.1m・幅2.9m・高さ2.7m、
羨道長7.3m・幅2.3m・高さ1.8m
7世紀中頃の築造と推定されている。
| 文殊院東古墳 県史跡 |
桜井市安倍 阿部文殊院内 撮影日2009/11/6 |
西古墳の前の道を東のほうに歩いていくと、東古墳が見えてくる。

文殊院東古墳
石室内羨道部に井戸があるところから閼伽井窟と呼ばれている。
この井戸水で習字を練習すると上達するといった民間信仰が伝えられている。

文殊院東古墳・石室内部
切石積みの西古墳に対し、東古墳は巨石を積んでいる。
文殊院東古墳は
墳丘形は不明だが、円墳か方墳と考えられている。
南南西に開口。
両袖式横穴式石室は全長13m
玄室長4.7m・幅2.3〜2.7m・高さ2.6m、
羨道長8.3m・幅1.8〜2m・高さ1.5m
7世紀前半の築造と推定されている。
| メスリ山古墳 国史跡 |
桜井市高田 撮影日2009/11/6 |
日没後の見学となってしまった。
大きすぎて普通の山としか見えない。説明板の場所は通りかかった3人グループの女性に教えてもらった。
墳頂にも上れるらしいがこの暗さでは無理。

メスリ山古墳の前方部脇から後円部を見る

メスリ山古墳のくびれ部裾の
カーブ
説明板はこの丸みの向こうに立っている。

メスリ山古墳 1959年の測量図
(シリーズ遺跡を学ぶから)
メスリ山古墳は、安倍丘陵の南端にあり、前方部を西に向ける
全長250mの前方後円墳
後円部径165m・高さ23m 前方部幅110m・高さ12m
3段築成、葺石あり、周壕なし
埴輪は後円部に3段、
墳頂部には石室を中心に方形(2段)に巡り東と西にも交互に配したもう1段がある。
墳頂部の埴輪列の中には、径0.9m・高さ2.4mという巨大な埴輪があった。
主室の竪穴式石室がほぼ南北方向にありその東に副室がある。
主室は全長8m・幅1.35m・高さ1.76mで粘土床上に木棺を安置。
石室上面は約1mの高さの石垣の施された方形の土壇で囲まれている。
副室は全長6m・幅0.7mで未盗掘の状態で発見、副葬品のみ埋納されていた。
主室は盗掘されていたが
三角縁神獣鏡・内行花文鏡の破片、勾玉、管玉、石釧、鍬形石などが出土。
副室から
槍、多数の銅鏃、大型勾玉、玉杖、鏃型石製品、太刀、剣、農工具、鉄製の弓と矢などが出土。
4世紀中頃の築造と推定されている。
発掘調査は1959〜1961年に行われたそうだが、
石室上面の方形の土壇は今も観察することが出来るそうで、機会があれば見学してみたい。
200m以上の古墳はほとんど宮内庁の管理となっている中で、
桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳は墳丘に上がれる古墳だから、しっかり見学したいなぁ。
| コロコロ山古墳 | 桜井市安倍 撮影日2009/11/6 |
もう真っ暗!!
メスリ山で説明板の場所を教えてくれた3人グループの女性がこの古墳のことも教えてくれた。
メスリ山古墳の西方20mの所に位置していたが、
1984年古墳である事がわかり、発掘調査された後、
1987年現在の場所に移築保存されている。

コロコロ山古墳石室
天井石はなくなっているというが、
石室の左横に大きな石が転がっている

コロコロ山古墳
玄室から開口部を見る。
コロコロ山古墳は 1辺約30m・高さ3mの方墳
埴輪なし 葺石なし
南南東に開口した両袖式横穴式石室は
全長11m、玄室長5.4m・幅2.3m 羨道長5.5m・幅1.5〜1.8m
東隅に小型石室もあった。
天井石は取り去られていた。
6世紀末〜7世紀初ごろの築造と推定されているが
7世紀中ごろに追葬がされている。
築造当時のものとして金環、ピンセット状鉄製品、鍔などが出土
追葬時のものとして、鉄釘、金銅製刀子、鉄斧、環状鉄製品などが出土。
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コロコロ山の見学を終えたのが
5時半過ぎ。真っ暗。
昨晩の夕食のお店の隣のココ壱番屋でカレーライスの夕食 1160円
スーパーサンディでおやつを買い
スーパーホテル大和郡山で3泊目の夜を迎える。
今夜も温泉で疲れを取り、最終日に備える。
最終日は馬見古墳群。
D 奈良・その5 につづく
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