明日香村  岩屋山古墳 牽牛子塚古墳 越塚御門古墳 真弓鑵子塚古墳 梅山古墳 吉備姫王墓 金塚古墳
          鬼の俎板・雪隠古墳 天武・持統合葬陵 石舞台古墳 
 

地図g

岩屋山古墳
国史跡
明日香村大字越
撮影日2011/11/22

古墳前に駐車できる。


岩屋山古墳
 西半分は削られている。すぐ民家がある。

岩屋山古墳 石室入口

岩屋山古墳 羨道から玄室を見る
羨道の奥の部分の天井石が一段低くなっている。
石の間に塗り込められた漆喰がすごい!

岩屋山古墳 玄室内部

岩屋山古墳 玄室天井石
  大きい!

岩屋山古墳 玄室から入口を見る。
 岩屋山古墳は  一辺54m・高さ12mの方墳
  2段築成
  南側に開口した両袖式横穴式石室は、全長16.7m
   玄室長4.72m・幅2.7m・高さ2.6mm、羨道長13m・幅2.3m・高さ約2m
   側壁、奥壁とも2段に切石を積み、下段はほぼ垂直に、上段は内側に傾斜している。
  7世紀前半の築造と推定されている。

   

牽牛子塚古墳
国史跡
明日香村越
撮影日2011/11/22

2010年に現地説明会が行われ、八角形墳と発表された。


牽牛子塚古墳 北からみる。石室は向こう側
 墳丘斜面に露出した石材は、
発掘調査で石槨を囲む石が傾いて露出したものと確認された。
 八角形に敷かれた石敷きは埋め戻されている

牽牛子塚古墳 石室入口
 南に開口する刳り抜き式石槨

牽牛子塚古墳の石槨は
 まん中に間仕切りがあり、
二つに分かれている。

石槨内の左の部屋

石槨内の右の部屋
 牽牛子塚古墳は 対辺22m・高さ4,5m以上の八角形墳
  墳丘基底部は寺山を八角形に削り出し、
   裾部には切石を敷きつめた犬走り状の石敷きがある。
  その外側には河原石を敷きつめた二重のバラス敷きがある。
  南に開口する刳抜式石槨で、
   石槨内の中央には間仕切りがあり、それを境に二つの埋葬施設がある。
  床面には、長さ1.9m・幅80cm・高さ10cmの二つの棺台があり、天井はドーム状
   開口部は内扉と外扉の2つの閉塞石があり、
   この石槨全体を直方体の切石で囲んでいる。
  夾紵棺片、七宝金具、人骨、歯牙などが出土している。
  7世紀後半の築造と推定されている。

   

越 塚御門古墳 明日香村越
撮影日2011/11/22

牽牛子塚古墳の現説が2010年の9月に行われた後、
牽牛子塚古墳の範囲を確認するために調査をしていたところ、発見され現説が行われた古墳。
調査時、墳丘はすでになく、現説後に埋め戻されて、現在はあとかたもない。


越塚御門古墳跡地 奥は牽牛子塚古墳
手前の平坦になっている場所にあった。
埋め戻されていて、歩くと地面がふわふわする。

発掘時の様子   (説明板から)
石材もそのまま埋め戻してしまったのか…
 越 塚御門古墳は牽牛子塚古墳の南東約20mに位置するが、
  地表には痕跡が残っておらず、墳形や規模は不明
  墳丘は板築で築かれていた。
  埋葬施設は
   貝吹山周辺で採れる石英閃緑岩を使用した南に開口する刳り抜き式横口式石槨。
   天井部と床石の2石からなる構造。
   規模は内法長さ約2.4m・幅約90cm・高さ約60cm。
   床面には幅2cmの溝をコの字形に設けている。
   天井石の大半はすでに失われているが、
    奥壁付近が残存していて、ドーム状だったとわかる。
   側石の底と床石の接するところは窪みがあり、
    石材を接合する際のほぞ穴と考えられている。
  槨の前面部には長さ4m以上、幅約1mの墓道が設けられている。
  墓道は人頭大の河原石を側石として数石積み上げ、その間をハラスで敷き詰めている。
  漆膜片、鉄製品などが少量出土
  漆塗木棺が埋葬されていたと考えられている。
  7世紀後半の築造と推定されている。      (説明板から) 

   

真弓鑵子塚古墳 明日香村真弓
撮影日2011/11/22

牽牛子塚古墳の近くにあるが、現在立入禁止となっている。




真弓鑵子塚古墳のあたり


南の道路から
 真弓鑵子塚古墳は、直径約40m・高さ約8mの円墳
  2段築成 西側にテラス状の土地があり前方後円墳の可能性も残る。
  片袖式横穴式石室は全長19m以上
     玄室長6.5m・最大幅4.4m・高さ約4.7m
  6世紀中ごろの築造と推定されている。

   

梅山古墳
欽明天皇陵
明日香村平田
撮影日2011/11/22

きれいな古墳だ。


   梅山古墳 遙拝所


   梅山古墳 左前方部 右奥後円部
 現在ある周壕は、
  江戸時代末期に復元したもので、
       築造当時のものではない。
 梅山古墳は 檜隈阪合陵(ヒノクマノサカアイノミササギ)として宮内庁が管理している。
  全長約140mの前方後円墳 後円部径72m 前方部107m
  3段築成 周壕あり
 日本書紀では、
    欽明天皇は571年になくなり、檜隈阪合陵に埋葬されたとある。
  欽明天皇の妃で推古天皇の母、堅塩姫(キタシヒメ)を612年に合葬し、
  620年に砂礫を檜隈陵に葺き、
   土を積んで山を
つくり氏ごとに大柱を土の上にたてさせた
  という記事がある。
      (説明板から)

    

吉備姫王墓
キビヒメノミコノハカ
明日香村平田
撮影日2011/11/22

梅山古墳の西南隣にある。
説明板には墓とはあるが、どんなものなのか不明。



吉備姫王墓  西側から
左奥に見える森が梅山古墳

径25mの円墳とか・・・


   猿石その1・その2

   猿石その31・その4
 吉備姫王墓は墓名を檜隈墓(ヒノクマノハカ)という。
 吉備姫王墓は孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の生母にあたり、
 欽明天皇と同じ墓域内に墓があると記されていることから、
  現在地に指定されている。(延喜式)
 墓域内には江戸時代に欽明天皇陵の南側の水田から掘り出された石造物4体があり、
  猿石と呼ばれている。  (説明板から)

説明板には、大きさとか形は書かれていない。

金塚古墳
カナヅカコフン
明日香村平田
撮影日2011/11/22

梅山古墳から、鬼の俎板・雪隠に行く途中にある。宮内庁の立て札が立つ。
欽明天皇の陪冢に指定されている。

金塚古墳 南から
別名平田岩屋古墳といわれるくらいだから、
 石室があったのだろう 
金塚古墳 北から
金塚古墳は平田岩屋古墳ともいわれる
 一辺35m・高さ6〜8mの方墳
 横穴式石室(全長16m 玄室長5.5m・幅3.6m・高さ2.7m、羨道10m)があったが、
   破壊されている。

    

鬼の俎板・雪隠古墳 明日香村平田
撮影日2011/11/22

宮内庁の管理となっている。欽明天皇の陪冢に指定されている。
一体の石槨であったが蓋石が下に転落したものである。

鬼の雪隠
鬼の俎板

鬼の俎板・雪隠古墳 模式図
墳丘を失った終末期の古墳の石室の一部。
本来は花崗岩の巨石を
 精巧に加工した底石・蓋石・扉石の3個の石を
        組み合わせたもの。
 鬼の雪隠はその蓋石にあたり、
  上方にある鬼の俎板(底石)から横転してきたものである。
 この周辺は霧ヶ峰と呼ばれ、鬼が住み、通行人に霧を降らせ迷った所を捕えて、
  まな板の上で調理し、雪隠で用を足したという伝説がある。(説明板から)
 俎板(底石)は長さ4.3m・幅が約3.3mの不整形な長方形。
  雪隠(蓋石は)底石に合致する部分から約1.3m刳り貫かれた大きさ。

 復元長は長さ2.5m・幅1.5m・高さ1.5mで横口式石槨としては最大級と考えられている。
 7世紀中ごろの築造と推定されている。

   

天武・持統合葬陵 明日香村野口
撮影日2011/11/22

周りより高い所にあって、天皇陵の風格があるように見える。
立入はできないが、周りを一周できる道がある。


  天武・持統合葬陵 遙拝所

   天武・持統合葬陵
 小道からみると円墳のよう・・・

墳丘復元図と横口式石槨の模式図 
      (説明板から)

墳形は八角形で5段築成、周囲に石段をめぐらすという。
切石積の横口式石槨
   (全長約7.5m・幅約3m・高さ約3m)は、
 2室からなり、
 天武天皇の夾紵棺

 持統天皇の金銅製骨臓器が納められている。
 7世紀後半の築造と推定されている。
       


 壬申の乱(672年)に勝利し、律令制の基礎を築いた天武天皇と、
  その皇后で次に即位し、天皇としてはじめて火葬された持統天皇が
  合葬されている御陵(檜隈大内陵)である。
 墳丘は、現在東西約58m南北径45m・高さ約9mの円墳状をしている。
 鎌倉時代(1235年)に盗掘され、
   その際の記録である「阿不幾乃山陵記」に墳丘・前室・墓室内の様子の記録がある。
      (説明板から)

   

石舞台古墳
国特別史跡
明日香村島庄
撮影日2011/11/22

暗くなってしまったが、石舞台古墳は見学しなければ・・・・・・
   とはいいながら、石舞台は3回目の訪問です。
見学時間は過ぎてしまっていたが、何やら起こりそうな感じ・・・・・・
「明日香アートプロジェクト 霧の芸術」というイベントをしていた!
高台から石舞台を注目。


   ライトアップされた石舞台が・・・・・

   5分後には霧に包まれる・・・・・・
 石舞台古墳は 
  1辺55mの方墳 墳丘上部の形状は不明。周濠、貼石あり。
  西南方向に開口している両袖式横穴式石室は全長19m
   玄室長7.7m・幅3.4m・高4.8m 羨道長11.5m・幅2.4m・高2.6m
   凝灰岩製の家型石棺があったと考えられている。(玄室から凝灰岩の破片が出土)
  土器片少々が出土
  7世紀初の築造と推定されている。

石舞台の周りは観光地化されていて、駐車場もある。
近くの都塚古墳も見学したかったが、時間切れ。
高松塚古墳は、見ることができないといわれた。

橿原市 おわり

川西町

奈良の遺跡トップページ

トップページ