葛城市

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鳥谷口古墳
県史跡
葛城市染野
撮影日2013/4/23

古墳周辺が、公園のようにきれいになっていて、わかりやすかったが、
古墳自体は、急こう配の斜面にある。


鳥谷口古墳に上がる坂道

古墳自体は一番上の7.6m四方の部分だけ


 鳥谷口古墳一辺7.6m・高さ2.1mの方墳
  後背部には掘割がある。外護列石がある。
  南に開口する横口式石槨は、内法長さ1.58m・幅0.6~0.66m・高さ0.71m。
  組合式家形石棺として加工された凝灰岩の石材を転用している。
  須恵器、土師器が出土
  7世紀後半~末の築造と推定されている。
 1983年、1985年に発掘調査

鳥谷口古墳 南から

鳥谷口古墳 南西から

鳥谷口古墳石室

鳥谷口古墳石室上部

鳥谷口古墳石室内部1

鳥谷口古墳石室内部2

石室なのか石棺なのかわからないような埋葬施設がふしぎだ・・・・・。

首子古墳群
県史跡
葛城市染野及び葛城市加守
撮影日2013/4/24

古くから「首子七塚」として知られている。現在、現地で確認できるのは4基。
首子4・5号墳の前に説明板がある。
残っているこの4基も削平や改変がかなりされている。
1・4・5・8号墳が県指定史跡となっている。

首子古墳群配置図

 

 説明板から
 首子古墳群は、昭和28・51・52年の調査で
    帆立貝形前方後円墳1基・円墳6基・方墳3基 計10基が確認されている。
 多くの古墳は横穴式石室で内部に組合式石棺が納められていた。
 副葬品には、刀、装身具、須恵器などがある。
  5号墳 首子塚ともよばれ、埋葬部は未確認だが、
   木棺を直葬したものと考えられている。墳丘部には円筒埴輪があった。
  1号墳 櫟山古墳、
  2号墳の墳丘は削平されていたが、
   丘尾を切断する形で溝が半円形にめぐり、
   溝内から多数の円筒埴輪・家形埴輪・須恵器が出土
  3・4号墳は方墳で、3号墳では、木棺直葬
  4号墳は竪穴式石室
  5号墳は群中最大で、帆立貝式前方後円墳で円筒埴輪がある。
  7号墳は未調査だが一辺18mの方墳
  8号墳は径25mの円墳で、横穴式石室の中に凝灰岩製の石棺の底石が残っていた。
   この石室は中世に再利用されている。



首子古墳群
東から見た4・5号墳

左5号墳 右4号墳



 
 首子古墳群5号墳は、古墳群中、一番大きく当古墳群の盟主的存在にある。
  墳形は円墳もしくは帆立貝式で「首子塚」と呼ばれいる。
  帆立貝式の場合全長25m、後円部径20m前後となる。
  円筒埴輪列がある。
  埋葬施設は未確認であるが木棺直葬と考えられている。
  6世紀前半の築造と推定されている。

首子古墳群5号墳墳丘
 

首子古墳群5号墳墳頂
「首子塚」と刻まれた石碑が立つ
 首子古墳群4号墳は現状は古墳の残骸が一部残る程度。
  1辺27m・高さ4~5mの方墳と考えられている。
  発掘の結果から、
   片袖式横穴式石室(玄室長4.4m・幅2.5m・羨道部長2m以上)と判明したが、
   破壊されていて石材もほとんどない。
  家型組合式石棺の底石の一部が見つかっている。須恵器が出土。
  6世紀後半の築造と推定されている。


北側の道路から見た4号墳

左側奥に5号墳がある。
 首子古墳群8号墳は、径12mの円墳
  横穴式石室は、全長7.4m 玄室長3.7m・幅1.37m 羨道幅1.06mで、
  石室そのものは殆ど破壊されていて、
  石室の1段目の一部及び凝灰岩製組合式家型石棺の底石が残っていた。
  須恵器、土師器、金環、鉄鏃、飾鋲などが出土。


北側から見た8号墳


手前に4・5号墳がある。
 首子古墳群 1号墳は 別名、櫟山古墳
  現状は径10m・高さ3mの円墳。復元径18m・復元高約5mの円墳と考えられている。
  2基の埋葬施設が確認されている。
   第1主体部は、家型石棺を直葬したもの(人骨3体分発見) 
   第2主体部は、(発見時にはすでに破壊されていたが) 
    第1主体部に隣接した両袖式横穴式石室で
    玄室長3m・幅1.5m 羨道長2.95m・幅1.05m 
    組合式石棺らしき石材の破片が出土
  副葬品として、金環・棗玉・素玉・須恵器が出土
  第1主体部が6世紀中頃、第2主体部が6世紀後半の築造と推定されている。
 1953年・1978年に調査




南側から見た1号墳

7号墳は、1辺17mの方墳とされていたが、寺院跡と判明したらしい。

横穴式石室のある古墳があるようだが、全て埋め戻されていて、見ることができない。

鍋塚古墳
葛城市竹内
撮影日2013/4/23

真っ暗の中、見学。

 鍋塚古墳は 径40mの円墳
  周濠の痕跡あり。埴輪あり
  埋葬施設は不明
  朝顔形埴輪片、鰭つき円筒埴輪片が出土
  5世紀前半の築造と推定されている。
  1978年に一部調査された。

鍋塚古墳 

鍋塚古墳 方向を変えて

鍋塚古墳 方向を変えて
右に説明板が見えている。

鍋塚古墳説明板の拡大

通りかかった男性によると、この近くに石棺が露出しているところがあるという。
興味津津だが・・・・・、真っ暗なので・・・・・・あきらめる・・・・・。

芝塚1号墳 葛城市兵家
撮影日2013/4/23

イトーピアという住宅街の、南西のため池の南側にある。

 芝塚1号墳は 前方部を東に向ける
  復元全長50mの前方後円墳 後円部復元径35m、前方部復元幅20m
  12~20m前後の周濠の痕跡がある。
  後円部は未発掘。前方部端で直葬された内部を赤く塗った箱型木棺直葬棺1基が出土している。
  木棺内から鉄刀1本、鉄鏃8本などが出土。
  墳丘や周濠から円筒埴輪片、朝顔形埴輪、須恵器、土器などが出土している。
  6世紀前半の築造と推定されている。
  1985年に調査。

芝塚1号墳  北側から見る。左側(東)に前方部がある。
後円部右側の裾の小屋に芝塚2号墳の石棺が保存されている。

芝塚1号墳 前方部から後円部を見る
 

芝塚1号墳 南側から見る。 右手前に前方部 

芝塚1号墳 後円部から前方部を見る

残存状態が良くなかったそうだが、整備保存されきれいな姿を見せている。

芝塚2号墳石棺 葛城市兵家
撮影日2013/4/23

芝塚1号墳後円部の北裾部に、芝塚2号墳の石棺が移築されている。
足場が悪くて、なかなか近付けない。
芝塚2号墳は、1号墳の西100mの地点にあったが、調査後、消滅してしまった。

 芝塚2号墳は 径25mの円墳
  復元すると、径30m、高さ4.5~5mと考えられている。
  周濠の痕跡がある。
  南に開口している片袖式横穴石室は全長8.1m・玄室長5.1m・幅2.5m 羨道長3m、幅1.5m
  玄室内には二上山凝灰岩製の朱が塗られた組合式家型石棺と木棺があった。
  垂飾付耳飾、玉、馬具、刀、鉄製工具、須恵器などが出土
  6世紀前半の築造と推定されている。
  1985年に芝塚1号墳とともに調査されたが、消滅。

芝塚2号墳 覆い屋の下に保存された石棺

芝塚2号墳 石棺 方向を変えて

説明板があるが、判読できない・・・。

二塚古墳
国史跡
葛城市寺口
撮影日2013/4/24

山あいのたんぼの中にある。


二塚古墳実測図  (古墳辞典から)

二塚古墳は 全長60mの前方後円墳
後円部径36m・高さ13m、前方部幅41m・高さ13m。
前方部を北に向ける。
2段築成、周濠幅13m。葺石あり。埴輪なし。
左(西)側くびれ部に造出がある。
後円部、前方部、西側造出部にそれぞれ横穴式石室がある
3石室は全て横穴式であるが構造や規模が異なる。
造出し部の石室は未盗掘の状態で発見された。
6世紀中ごろの築造と推定されている。
1958年に発掘調査。
後円部の石室は両袖式で、全長16.4m 
 玄室長6.7m・幅3m・高さ4.1m、羨道長9.7m・幅1.7m・高さ2.7m
  玄室内に石棺があったと考えられているが詳細は不明 
   (凝灰岩の棺材片のみ検出されている)
  金銅花形座金具をはじめ、馬具、鉄製武器、農工具、玉類

前方部の石室は片袖式で、全長9m
  玄室長3.9m・幅1.7m・高さ1.9m、 羨道長5.1m・幅1.4m・高さ1.5m
 玄室内に組合式石棺が置かれていた(棺底材の一部だけが残存)。
  馬具、農工具、金製中空丸玉・銀製中空丸玉

造出部の石室は無袖式で、全長7.8m、
  玄室長4.5m・高さ1.3m・幅1.5m、 羨道道3.3m・幅1.4m
 コハク製棗玉、鉄製武器、農工具のほか、多量の須恵器、土師器

二塚古墳全景

西から見る


左(北) 前方部    右 後円部

周壕の跡が墳丘を囲んでいる。

二塚古墳  後円部側
 

二塚古墳  前方部前面側
 
 二塚古墳後円部石室  (全長16.4m)

二塚古墳後円部石室入口
鉄柵があり、中には入れない。

二塚古墳後円部石室内部

二塚古墳後円部石室奥壁
 二塚古墳前方部石室 (全長9m)

二塚古墳前方部石室入口

二塚古墳前方部石室内部

二塚古墳前方部石室奥壁

二塚古墳前方部石室 内部から入口を見る

 二塚古墳造出部石室 (全長7.8m)

二塚古墳造出部石室入口

二塚古墳造出部石室内部


団子山古墳 葛城市寺口
撮影日2013/4/24

二塚古墳から、100mくらい南にある。

 団子山古墳は 一辺22m・高さ5mの方墳で石室がある。
  南西隅に小墳丘(造出部か?)があり、そこにも石室がある。
  主墳丘の両袖式横穴式石室は、全長.9.7m、
  玄室長4.5m・幅1.7~2.2m・高さ2.3m 羨道部長5.2m・幅1.5m・高さ1.4m。
  南西隅の小墳丘の石室は開口しているが、内部が埋まっていて、詳細は不明。
  発掘調査はされていないようで、詳しい事は分かっていない。
  6世紀末~7世紀前半の築造と推定されている。

団子山古墳 墳丘

団子山古墳 石室入口の反対側には石材が見える

団子山古墳石室入口
無理すれば入れるが、雨が降っているので・・・・

団子山古墳の石室内部
カメラを突っ込んで撮影

団子山古墳の小墳丘(右手前)
左奥は主墳丘

団子山古墳 小墳丘の石室
埋まってしまっている。


神明神社古墳
葛城市寺口
撮影日2013/4/24

公園になっている奈良県社会教育センター敷地内にある。

 神明神社古墳は 寺口丘陵の南斜面に築かれた径20mの円墳
  鉄製環金具、銀製金具、水晶切子玉、鉄釘などが出土。
  7世紀後半の築造と推定されている。
  1981~1982年に発掘調査

墓域俯瞰図 (説明板より)

南方に突き出した3つの尾根を利用し
 中央の尾根に墳丘と前庭部を築き、
  東西の尾根は半円形に整形して
   全体を墓域としている。
 東西120m、南北80mの広大な墓域となる。


石室の概要
 (説明板より)

花崗岩切石を使用した無袖式横穴式石室があり、
 南に開口している。
  石室全長6.14m、高さ1.5m、入り口幅1.86m。
 石室内の奥壁から3mの地点と4.5mの地点の両壁に幅約8cmの溝が縦に彫りこまれていて、
  元々は木製の中扉と前扉がはめこまれていたと考えられている。
 石室内部から出土した銀製環金具は、扉の把手金具と見られている。

神明神社古墳墳丘

西側から見た神明神社古墳

神明神社古墳石室入口 中には入れない

神明神社古墳 石室内部

神明神社古墳 開口部から外を見る
前庭がとても広い

神明神社古墳の名前の由来とみられる神明神社
小さな石造りの社殿
    
   
皿池古墳
葛城市寺口
撮影日2013/4/24

奈良県社会教育センター敷地内にある。
神明神社古墳から東に行くと石碑が立っている。

 皿池古墳は、径25mの円墳 
  発掘調査がされていないので、詳細は不明だが、前方後円墳ではないかともいわれている。
  須恵器 円筒埴輪が出土。

皿池古墳

皿池古墳 角度を変えて見る


屋敷山古墳
国史跡
葛城市新庄屋敷山公園内
撮影日2013/4/24

屋敷山古墳のある公園に隣接している文化会館や体育館が休館日(毎週水曜日は休館)。
駐車場にも入れない。裏道の道端に駐車。

 屋敷山古墳は 前方部を北に向ける
  全長135~138mの前方後円墳
  後円部径77m・高さ15m 前方部幅90m以上・現存高さ約10m
 古墳の東側に、周壕の名残と思われる池があり、
 古墳の周囲には埴輪がめぐっていたと考えられている。
  竜山石製の長持形石棺の蓋石と小口板石、縄掛け突起をもつ天井石が出土していることから、
 竪穴式石室に長持型組合式石棺があったと考えられている。
  円筒埴輪片、器財埴輪片、家型埴輪片、ガラス製小玉、金銅製鉄製品などが出土。
 5世紀中頃の築造と推定されている。
 屋敷山の名は、中世~金製初めにこの地を支配した布施氏が陣屋を築き、
   周辺に屋敷を構えたことに由来している。
 そのため、埋葬施設が破壊され、墳丘も著しく変形している。
 1972年、1988年 に発掘調査

西から見た屋敷山古墳

左前方部

公園の芝生の向こうに横たわっている。

屋敷山古墳 上り口 くびれ部付近
古墳ではなく、新庄城跡と刻まれた石碑がある。

屋敷山古墳 後円部

屋敷山古墳 後円部から見た前方部西側

屋敷山古墳前方部東側

屋敷山古墳の竪穴式石室内の石棺天井石

後円部ふもとの南側に置かれている。
短辺の両端に各一個の縄掛け突起を持つ。
竜山石製で、
  御所市室宮山古墳の石材とよく似ている。

説明板があるが、薄くなっていて、
 全く読めない。

御所市

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