桜井市・2 桜井茶臼山古墳 文殊院西古墳 文殊院東古墳 メスリ山古墳 コロコロ山古墳 谷首古墳 兜塚古墳 艸墓古墳
赤坂天王山古墳 越塚古墳 段ノ塚古墳
桜井茶臼山古墳 国史跡 |
桜井市外山 撮影日2009/11/6 |
10月末に見学会があった。
私たちが行ったのはその一週間後だったが、墳丘に入れた。
桜井茶臼山古墳全景
右奥 後円部
前方部の東側横のフェンスの扉から
墳丘に上がる。
前方部から後円部を見る
遠くて良く見えない
くびれ部から後円部を見る
後円部に上がるために、
1本の綱がたらしてあった。
石室の周り1mは立ち入り禁止となっていて、測量をしているらしき人たちが数人作業をしていた。
赤く塗られた天井石が確認できた。
できれば石室を覗き込んで見たかった。
竪穴式石室
赤く塗られた天井石が見える。
昭和24年の発掘調査で、
@後円部中央に壺形土師器を並べた長方形の壇とその内側に竪穴式石室があること。
A竪穴式石室は、長さ6.8m・幅1.3m・深さ1.6mの規模で赤く塗られている事
B木棺の底板が長さ5.2m・幅70cm分見つかり、木棺はマツ科の針葉樹「トガ」である事
C多くは盗掘されていたが鹿の角をかたどった玉杖や玉葉、武器や石製の腕飾り類鏡13枚分の破片が出土
D鏡の中の三角縁神獣鏡4面が京都府椿井大塚山古墳と同形
などが確認できていた。
2009年の再発掘調査では、
@竪穴式石室の全面が大量の水銀朱で赤く塗られていて、
石室を作っている割石は朱で一枚ずつ染色されている。
水銀朱の総重量は約200キロと推定され、国内の古墳で確認された量としては最多。
(これまでは、大和天神山古墳(天理市)で確認された42kgが最多)
A見つかった鏡片から少なくとも13種、81枚の銅鏡が副葬されていたこと(鏡片331点を発掘)
B木棺はトガではなく、コウヤマキ製であった。
C「玉垣跡」とみられる柱穴列が見つかった。
竪穴式石室周辺から、柱穴列が東西南北で各2〜3本ずつが見つかったが、
築造当時は南北12.5m・東西10mの方形に約150本の柱を並べていたという。
柱穴の深さは1.3m、柱の高さは3m。
などが新たに確認された。
後円部から前方部を見る
ながーい前方部
桜井茶臼山古墳2003年当時の測量図
(シリーズ史跡を学ぶから)
桜井茶臼山古墳は
南方の鳥見山から北に延びた尾根の先端を切り離して、南側に前方部がある
全長207mの前方後円墳
後円部径110m・高さ21m 前方部幅61m・高さ13m
前方部は開かない細く延びた柄鏡形
3段築成 葺石あり 周壕なし 埴輪なし
3世紀末〜4世紀初めの築造と推定されている。
竪穴式石室は長さ6.75m・幅1.2m・高さ1.6m。
内部には、木棺(長さ4.9m・幅75cm)の底板がほぼ当時の状態で残っていた。
石室の壁は、一辺50〜60cm大の板状の石材数千枚を積み上げて構築。
石材のほぼ全面に水銀朱が塗られていた。
水銀朱は、大和で多産した辰砂という硫化水銀の鉱物を粉状にすりつぶして水に溶かしたのち、
石材に塗ったとみられる。
巨木をくりぬいた大きな木棺がおかれていた。
桜井茶臼山古墳付近の地図
文殊院西古墳 国史跡 |
桜井市阿部 阿部文殊院内 撮影日2009/11/6 |
午後4時半をまわり、文殊院の営業時間(?)は過ぎ、駐車料金は無料となり、日没も間近。
文殊院西古墳・墳丘
文殊院西古墳・石室
南側に開口している。
文殊院西古墳・石室内部
玄室が見えていない
石の隙間には、漆喰を詰めている。
とても整ったすばらしい石室!
文殊院西古墳は
墳丘形は不明だが、円墳か方墳で本来は30m前後の規模と考えられている。南に開口。
両袖式の横穴式石室は全長12.4m
玄室長5.1m・幅2.9m・高さ2.7m、羨道長7.3m・幅2.3m・高さ1.8m
7世紀中頃の築造と推定されている。
文殊院東古墳 県史跡 |
桜井市安倍 阿部文殊院内 撮影日2009/11/6 |
西古墳の前の道を東のほうに歩いていくと、東古墳が見えてくる。
文殊院東古墳
石室内羨道部に井戸があるところから閼伽井窟と呼ばれている。
この井戸水で習字を練習すると上達するといった民間信仰が伝えられている。
文殊院東古墳・石室内部
切石積みの西古墳に対し、東古墳は巨石を積んでいる。
文殊院東古墳は
墳丘形は不明だが、円墳か方墳と考えられている。
南南西に開口。
両袖式横穴式石室は全長13m
玄室長4.7m・幅2.3〜2.7m・高さ2.6m、羨道長8.3m・幅1.8〜2m・高さ1.5m
7世紀前半の築造と推定されている。
メスリ山古墳 国史跡 |
桜井市高田 撮影日2009/11/6 |
日没後の見学となってしまった。
大きすぎて普通の山としか見えない。説明板の場所は通りかかった3人グループの女性に教えてもらった。
墳頂にも上れるらしいがこの暗さでは無理。
メスリ山古墳の前方部脇から後円部を見る
メスリ山古墳のくびれ部裾の
カーブ
説明板はこの丸みの向こうに立っている。
メスリ山古墳 1959年の測量図
(シリーズ遺跡を学ぶから)
メスリ山古墳は、安倍丘陵の南端にあり、前方部を西に向ける
全長250mの前方後円墳
後円部径165m・高さ23m 前方部幅110m・高さ12m
3段築成、葺石あり、周壕なし
埴輪は後円部に3段、
墳頂部には石室を中心に方形(2段)に巡り東と西にも交互に配したもう1段がある。
墳頂部の埴輪列の中には、径0.9m・高さ2.4mという巨大な埴輪があった。
主室の竪穴式石室がほぼ南北方向にありその東に副室がある。
主室は全長8m・幅1.35m・高さ1.76mで粘土床上に木棺を安置。
石室上面は約1mの高さの石垣の施された方形の土壇で囲まれている。
副室は全長6m・幅0.7mで未盗掘の状態で発見、副葬品のみ埋納されていた。
主室は盗掘されていたが
三角縁神獣鏡・内行花文鏡の破片、勾玉、管玉、石釧、鍬形石などが出土。
副室から
槍、多数の銅鏃、大型勾玉、玉杖、鏃型石製品、太刀、剣、農工具、鉄製の弓と矢などが出土。
4世紀中頃の築造と推定されている。
発掘調査は1959〜1961年に行われたそうだが、
石室上面の方形の土壇は今も観察することが出来るそうで、機会があれば見学してみたい。
200m以上の古墳はほとんど宮内庁の管理となっている中で、
桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳は墳丘に上がれる古墳だから、しっかりと見学したいなぁ。
コロコロ山古墳 | 桜井市安倍 撮影日2009/11/6 |
もう真っ暗!!
メスリ山で説明板の場所を教えてくれた3人グループの女性がこの古墳のことも教えてくれた。
メスリ山古墳の西方20mの所に位置していたが、
1984年古墳である事がわかり、発掘調査された後、
1987年現在の場所に移築保存されている。
コロコロ山古墳石室
天井石はなくなっているというが、
石室の左横に大きな石が転がっている
コロコロ山古墳
玄室から開口部を見る。
コロコロ山古墳は 1辺約30m・高さ3mの方墳
埴輪なし 葺石なし
南南東に開口した両袖式横穴式石室は
全長11m、玄室長5.4m・幅2.3m 羨道長5.5m・幅1.5〜1.8m
東隅に小型石室もあった。
天井石は取り去られていた。
6世紀末〜7世紀初ごろの築造と推定されているが
7世紀中ごろに追葬がされている。
築造当時のものとして金環、ピンセット状鉄製品、鍔などが出土
追葬時のものとして、鉄釘、金銅製刀子、鉄斧、環状鉄製品などが出土。
谷首古墳 県史跡 |
桜井市阿部 撮影日2011/11/21 |
社会福祉法人大和桜井園の西隣にある。道路から階段を6段上ったら石室が見える。
谷首古墳入口 |
谷首古墳 石室入口 南に開口する |
谷首古墳 石室内部 丸い大きな天井石が不気味だ! |
谷首古墳 石室内部から開口部を見る。 |
谷首古墳は、標高100mあたりにある。 東西35m南北38m・高さ8.2mの方墳(現状) 墳頂部に八幡神社の本殿と社殿があり、墳丘西側は変形している。 葺石なし 埴輪なし 両袖式横穴式石室は全長13.8m 玄室長6m・幅2.8m・高さ4m 羨道長7.8m・幅1.7m・高さ1.8m。 花崗岩の巨石で、奥壁2石、石室天井石2石、羨道天井石4石 石室内は礫が敷かれていて、石棺らしき破片が見つかっている。 6世紀末〜7世紀初頭の築造と推定されている。 |
兜塚古墳 | 桜井市浅古 撮影日2011/11/21 |
谷首古墳から東南へ1kmほどの浅古にある。
最初は八幡神社の境内をウロウロ・・・・・。でも古墳は八幡神社の南にある・・・・。
兜塚古墳 上り口 後円部の高まりが見える。 |
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兜塚古墳 後円部から前方部を見る |
兜塚古墳 前方部から後円部を見る かなり削られている。 |
兜塚古墳 後円部に露出した石棺 |
兜塚古墳 盗掘穴から見た石棺内部 きれいな仕事してますね! 残念なことに水がたまっているようだ。 阿蘇ピンク石で造られた刳抜式家型石棺だそうで、 石棺の蓋の内側は確かにピンク色!! |
兜塚古墳は 全長45mの前方後円墳 後円部径28m・高さ4m 前方部幅25m・高さ4m 後円部頂にある竪穴式石室(長さ3.7m、幅1.4m)に、 刳抜式家型石棺(長辺2.1m短辺1m・蓋の高さ0.45m・身の高さ1m)が安置されていた。 阿蘇ピンク石で造られた刳抜式家型石棺で、 石室の天井石や側壁は早くから失われていたが、石棺はほぼ完全な形で残されていた。 鉄鏃・ガラス製小玉・碧玉製管玉や琥珀製棗玉・銀製の中空丸玉などが出土 棺西側の空間から金銅張りの馬具片が出土。 5世紀後半〜6世紀初の築造と推定されている。 (1954年石棺の周辺だけ調査) |
艸墓古墳 クサハカ 国史跡 |
桜井市谷 撮影日2011/11/21 |
安倍文殊院の北東にある有名な古墳。
住宅に埋もれて道路から見えなくて、案内板に沿って細道を行ったところにある。
日が暮れて、写真の色がおかしい。
艸墓古墳 墳丘 |
艸墓古墳 開口部 東南に開口する |
艸墓古墳 石室内部 長い羨道の奥に石棺の置かれた玄室が見える。 |
艸墓古墳 玄室内部 石棺の大きさギリギリに石室がつくられている。 |
艸墓古墳 石棺の盗掘穴 ちょっと見には石棺は無傷に見えるが、実は、 いかにも盗掘だという穴があいている。 |
艸墓古墳 石棺内部 石棺の盗掘穴からカメラを突っ込んで撮影。 きれいに整形されている。 |
艸墓古墳 石室内部から開口部をみる 開口部から向かい側の民家の屋根が見える |
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艸墓古墳は 長辺27m・短辺21m・高さ8mの方墳 葺石あり 両袖式横穴式石室は全長13.16m 玄室幅2.71m・長さ4.44m・高さ2.0m 羨道長さ8.72m・玄門部の幅1.9m・高さ1.5m 側壁・天井石のすき間には漆喰が詰められている。 石棺の大きさに比べて石室が小さいので、石棺を安置してから石室を造ったと考えられている。 竜山石製の刳抜式家型石棺(6個の縄掛突起を持つ) 出土物は確認されていない。 7世紀前半の築造と推定されている。 |
赤坂天王山古墳 | 桜井市倉橋字赤坂 撮影日2011/11/22 |
HP「大和の古墳探索ブログ」を参考に、行き方をチェックして、到着。
赤坂天王山古墳 入口
道路際に説明板がある。
ここにしか説明板は無い。
背後の森の中に5基の古墳が確認できる。
他にも多くの古墳があるようだ。
東南から北西にのびる尾根上に造られている。
一般に赤坂天王山古墳といわれいているのは赤坂天王山古墳1号墳のことだ。
赤坂天王山古墳(1号墳)
国史跡
とんがり頭の立派な墳丘なのだが、写真で見ると、迫力がない。
赤坂天王山古墳(1号墳)の墳丘 小さく見えてしまうのが、 残念・・・ |
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赤坂天王山古墳(1号墳) 石室入口 すごく狭いので、 シートを敷いて石室内に滑り降りる。 懐中電灯が要る。 |
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赤坂天王山古墳(1号墳) 石室内部 細かいちりが舞っている。 石棺に方形小孔が彫り込まれているというが、 分からなかった |
赤坂天王山古墳(1号墳)の石棺内部 いい仕事してます! よく見ると石棺の中は落書きがいっぱい! 残念です! |
赤坂天王山古墳(1号墳) 奥壁付近から羨道部を見る。 わずかに灯りがもれる。 |
赤坂天王山古墳(1号墳) 羨道部 手前が玄室 石室から抜け出すのも大変! |
赤坂天王山古墳(1号墳)は 一辺45m・高さ9mの方墳 3段築成 江戸時代には崇峻天皇陵に比定されていた。 南に開口している両袖式横穴式石室は 全長14.9m(復元17m)。 玄室の長さ8.5m・幅3m・高さ4.2m 羨道の長さ8.5m・幅1.8m・高さ2m 玄室の中央に巨大な刳抜式の家形石棺が置かれている。 棺身の長さ2.4m・幅1.2m、 身・蓋を合わせた高さ1.8mで6個の縄掛突起を持つ。 棺身の羨道に面した側の上辺中央に方形小孔が彫り込まれている。 以前から開口していて、副葬品は明らかでない。 6世紀後半の築造と推定されている。 |
赤坂天王山3号墳
1号墳の北にある。先に見つけたのがこの3号墳だった。
石棺はないが、かなり立派な石室が残っている。
赤坂天王山3号墳の墳丘 |
赤坂天王山3号墳 石室入口 |
赤坂天王山3号墳羨道部から石室を見る |
赤坂天王山3号墳の玄室 1号墳と間違えるほど立派な石室。 石棺は無い。 |
赤坂天王山3号墳 玄室から羨道部を見る |
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赤坂天王山3号墳は、径11.2m・高さ4.5mの円墳 二段築成で、南に開口している。 両袖式横穴式石室は全長10.3m(?) 玄室長4.3m・幅2.5m・現状高約2.6m, 羨道長6m・幅1.7m。 6世紀末〜7世紀初頭の築造と推定されている。 昭和の初期に調査されたというが、詳細は不明。 |
赤坂天王山2号墳
1号墳の西にある。
赤坂天王山2号墳 左手前は1号墳の墳裾 |
赤坂天王山2号墳の石室開口部 ほとんど埋まっている。 昔は入ることができたという。 |
赤坂天王山2号墳は 1辺19mの方墳 南に開口している。 片袖式横穴式石室は全長9.3m? 玄室長4.4m・幅1.8m・高1.5m, 羨道長4.9m・幅1.7m。 6世紀末〜7世紀初頭の築造と推定されている。 |
赤坂天王山5号墳
赤坂天王山5号墳
3号墳の北東(後右)にある。
石室は見る事が出来ない。
赤坂天王山?号墳
赤坂天王山?号墳
5号墳の北奥にある。
古墳らしいが、確証はない。
越塚古墳 県史跡 |
桜井市下り尾 撮影日2011/11/22 |
かなりの山の中。
越塚古墳 上り口 |
越塚古墳 石室入口 立ったまま入れる大きな開口部 |
越塚古墳 石室入口から玄室を見る 立派な石室だ |
越塚古墳玄室から羨道部を見る 玄室と羨道の境にある天井石がとても大きい! |
越塚古墳の玄室床には、 こぶし大の礫が敷詰められ、 組合式石棺の底が残っている。 |
越塚古墳 奥壁部分 |
越塚古墳は、径43m・高さ7mの円墳 2段築成。埴輪なし、茸石はなし 南南西に開口している両袖式横穴式石室は全長15.4m 玄室長5.3m・幅2.75m・高さ3.85m、 羨道長10.2m・幅1.7m・高さ1.9m 6世紀末の築造と推定されている。 |
個人的には赤坂天王山古墳より魅力のある古墳だった。
段ノ塚古墳 舒明天皇陵 |
桜井市忍阪 撮影日2011/11/22 |
舒明天皇押坂内陵として宮内庁が管理している。
番所に男性がおいでた。
段ノ塚古墳 上り口 天皇陵の風格がありますね! |
段ノ塚古墳 御拝所 |
段ノ塚古墳 古墳周囲をめぐる。 ひとまわりすると大きいなと感じる。 |
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段ノ塚古墳は、 現在前方後円形に生垣がめぐっているが、 3段築成の方形壇(105×80m))の上に2段築成の八角墳が築かれた 上八角下方墳と考えられている。 埋葬施設は全長20mを超える超大型の横穴式石室に、2つの石棺がある。 (文久年間(1861〜64年)の「山陵考」による) 7世紀中頃の築造と推定されている。 |
埋葬されているのは、舒明天皇と田村皇女(舒明天皇の母)なのではないかといわれている。
舒明天皇は、妻が皇極・斉明天皇、
子供が中大兄皇子(後の天智天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)というすごい人物。
桜井市・2 おわり