天理市・1    櫟本の古墳群
           (櫟本墓山古墳  まんじゅう塚古墳  和邇下神社古墳  赤土山古墳  東大寺山古墳  東大寺山古墳群
           岩屋大塚古墳 ハミ塚古墳 ウワナリ塚古墳 石上大塚古墳  別所大塚古墳 別所鑵子塚古墳

地図g

東大寺山古墳群のまとめ 天理市櫟本町・岩屋町・石上町
撮影日2009/11/5

天理市櫟本付近の地図(東大寺山古墳群)

 名前  形  大きさ  時期
@ 櫟本墓山古墳 前方後円墳 全長64m 6C前半
A まんじゅう塚古墳 円墳
B 和邇下神社古墳 前方後円墳 105m 4C末〜5C初頭
C 赤土山古墳 前方後円墳 復原110m 現状103.5m 4C後半〜5C初頭
D 東大寺山古墳 前方後円墳 140m 4C後半
E 東大寺山25・26号墳 前方後円墳
F 岩屋大塚 前方後円墳 76m 6C前半
G ウワナリ塚 前方後円墳 110m 6C前半〜中
H 石上大塚 前方後円墳 全長107m 6C前半
I 別所大塚 前方後円墳 125m 6C前半
J 上総御墓山古墳 前方後円墳 74.3m 5C末〜6C前半
K ハミ塚古墳 方墳 48×45m 6C末〜7C初
L 別所鑵子塚古墳 前方後円墳 全長57m 6C前半

このほか、塚平古墳がある。

@ 櫟本墓山古墳
(東大寺山古墳群)
天理市櫟本町
撮影日2009/11/5

大通りのAコープのうしろにある。
墓地として利用されているせいか、天理市のHPでは紹介されていない。


櫟本墓山古墳


櫟本墓山古墳は、
東大寺山から西に続く丘陵に造られている。
全長64mの前方後円墳  後円部径40m・高さ7m・前方部幅18m。
採取された埴輪から6世紀前半の築造と推定されている。

A マンジュウ塚古墳
(東大寺山古墳群)
天理市櫟本町
撮影日2009/11/5

東大寺山から櫟本墓山古墳に行く途中に古墳らしいものを発見。



マンジュウ塚古墳

 径15mの円墳と見られている。

B 和邇下神社古墳
(東大寺山古墳群)
天理市櫟本町
撮影日2009/11/5

撮影日2013/4/23

東大寺山丘陵の西麓台地上にある。

和邇下神社
和邇氏の氏寺
後円部に社殿がある。

撮影日2009/11/5





和邇下神社古墳実測図
前方部東に陪塚がある。
撮影日2009/11/5




和邇下神社古墳の陪塚
前方部東側にある



小さな円墳

撮影日2013/4/23
和邇下神社古墳墳丘の東側は、現状のままで残っているようだ。

和邇下神社古墳 周堀と周堤帯

手前は和邇下神社古墳前方部
その後ろに周堀
その後の明るい所が周堤帯
写真左側に陪塚がある。


撮影日2013/4/23




和邇下神社そばの柿本寺跡

今も礎石の一部が残り、奈良時代の瓦も出土した。
柿本氏の氏寺だという。

撮影日2009/11/5



柿本寺跡にある石材

「古墳の石室天井石」とだけ書かれている。
石棺材のような感じたが・・・。
和邇下神社古墳に関係あるのかないのか・・・・?


撮影日2009/11/5




歌塚
柿本人麻呂の遺骨を葬ったところといわれている。
今の歌塚の碑は1732年に建立されたもの
和邇下神社古墳の陪塚の一つと考えられている。
撮影日2009/11/5
和邇下神社古墳は、全長105mの前方後円墳   後円部径70m・高さ5m・前方部幅50m
前方部が短く端部が撥方に開く形態   内部主体や副葬品は明らかではない。
昭和59年の防災工事に伴う調査で埴輪円筒棺1基を検出
4世紀末〜5世紀初頭の築造と推定されている。
前方部東側に小さな陪塚がある。

1984年にくびれ部東西方向と後円部北側斜面及び後円部平坦面の一部のみ調査がされている。

C 赤土山古墳
(東大寺山古墳群)
国史跡
天理市櫟本町
撮影日2009/11/5

赤土山古墳の西側に行ったが、フェンスで囲まれている。
せっかく来たのただからと、フェンスを越えてみてびっくり! 東側に埴輪が復原されて置かれていた。
整備途中という事か。全貌を早く見たいものだ。


後円部南東側付近の埴輪群




説明板も設置されているがブルーシートに覆われていて見ることはできない。


円筒埴輪・家型埴輪が並ぶ





赤土山古墳

後円部から前方部を見る



墳丘模式図
(大和古代遺跡案内・吉川弘文館から引用)

赤土山古墳は  平成10年度から発掘調査。
全長110m(現状103.5m)を超える前方後円墳
後円部の東側に大きな造り出しがある。
2段築成  葺石あり。
埴輪は、
朝顔形と円筒埴輪がほぼ原形のままで出土
 朝顔形埴輪は素焼きで、1mを超える大きなもの
後円部南東側の墳丘裾から
家形埴輪が出土。
後円部先端の造出しくびれ部から南東にかけ ての幅3mの段築に、
 11棟の家形埴輪が配置されていることも判明した。
4世紀後半〜5世紀初頭の築造と推定されている。

赤土山古墳は地すべりで崩れ、以前は前方後方墳と考えられていたが、
  調査の結果、前方後円墳と確認された。
地すべりで埴輪などがそのままの状態で埋もれて、
  築造当時のまま出土したと考えられている。
後円部東側の造り出し部は、シャープの寮建設で削られて、
  本来の長さが不明となっているが、造り出し部をもう1つの前方部と見て、
  双方中円墳
という墳形にしたらいいのではないかという意見もある。

D 東大寺山古墳
(東大寺山古墳群)
天理市櫟本町
撮影日2009/11/5

東大寺山という名は荘園領主の東大寺にちなんで名づけられた。
この丘陵上に多くの古墳が存在するが、この東大寺山の最高所にあるのが東大寺山古墳。
和邇下神社古墳の北東300mのところにある。
現在天理教の施設の敷地内に上り口があり、きれいに掃除されている。


東大寺山古墳のある丘




東大寺山古墳への上り口




東大寺山古墳後円部頂

室町時代にも盗掘されたという記録があるが、
昭和36年に、鍬形石27・車輪石26などの多数の碧玉製品・滑石製品・鉄刀剣などが
 掘り出された(盗掘)後の処理として、天理大学付属天理参考館により発掘。
東大寺山古墳は 全長140mの前方後円墳 後円部径84m・高さ11m 前方部幅50m
 中腹と裾に円筒埴輪列がある。 墳頂部に形象埴輪が並ぶ。
 葺石あり
主体部は粘土槨で、南北12m東西8m深さ3.7mの墓壙の底に
 砂礫と粘土で丁寧な棺台をつくり、長大な木棺が粘土で覆うようにして安置されていた。
主体部はほとんど盗掘されていたが
 棺外から  鉄刀20・鉄剣9・鉄槍10・銅鏃・革製短甲・巴形銅器・玉類などが出土。
なかでも鳥形飾銅製環頭のある鉄刀から金象嵌の文字が見つかり、
 中国後漢末の中平年(184〜189)に作られたものとわかった。
  (東京国立博物館保管)
4世紀後半の築造と推定されている。

E シャープ前の
東大寺山古墳群
天理市櫟本町
撮影日2009/11/5

シャープ(株)の敷地内に、
消滅した東大寺山古墳
群が移築保存されているというので行ってみる。
シャープの正門の門番のおじさんに許可をもらい、正門横の移築石室を見学。

シャープの敷地には20基以上の古墳があった。
現在は東大寺山25・26号墳(前方後円墳)と数基が保存されている。
発掘のときに石室の残りが良好だった3基の横穴式石室と2基の小石室を移築保存した。


東大寺山古墳群・東大寺山古墳群移築石室その1

東大寺山古墳群・東大寺山古墳群移築石室その2

東大寺山古墳群・移築石室その3

東大寺山古墳群
移築石室その4

東大寺山古墳群・移築石室その5

移築石室の背後の山の上には東大寺山25・26号墳が残っている。
人間の目ではわかるが写真ではわからない。

東大寺山26号墳
 後円部より前方部を望む


竹林の中に眠っている。




東大寺山古墳群の配置図
   (シャープ前の説明板より)


は消滅した古墳




F 岩屋大塚古墳 天理市岩屋町・櫟本町
撮影日2011/11/20

名阪国道の側道の整備時に墳丘の南側が削られている。周りも削られているようだ。


岩屋大塚古墳
左手前が後円部 右奥が前方部

後円部も前方部も半分になってしまっている。

 岩屋大塚古墳は  全長76mの前方後円墳
 後円部径60m・高さ6.5m 前方部幅42m・高さ3m
 2段築成 葺石あり。前方部を東に向ける
 埋葬施設は現状では確認できないが、後円部と前方部どちらにも横穴式石室があった。
 前方部の横穴式石室には組合式石棺があつた。
 須恵器、瓦器、土釜などが出土した。
 6世紀前半の築造と推定されている。 (1966年調査)

   

K ハミ塚古墳 天理市岩屋町
撮影日2011/11/20

古墳南側の道路の工事で巨石が発見され、調査した結果大きな方墳だと分かった。
説明板がある。


ハミ塚古墳
 削られているので大きな古墳には見えない。
 石室も1段目の石しか残っていなかった。

ハミ塚古墳 石室
 閉じられている。手前の石しかみえない。
 高さ4mもある巨大な石室だったという。
 ハミ塚古墳は    復元長東西48.8m・南北45.6mの方墳
 周濠の痕跡あり。
 南に開口している石室は、花崗岩切石の両袖式横穴式石室で 現存長12m 
  玄室長5.7m・奥壁幅2.8m 玄門幅2.8m、羨道現存長5m・幅1.8m
 床面は、平たい石を敷いた上に白石と黒石の玉砂利を厚さ5〜10cmに敷き
  その上に、漆喰が塗られた竜山石製刳抜式家型石棺(縄掛突起6個)が安置されていた。
 須恵器片、土師器片、金環、太刀の環頭につく鉄地銀張りの環頭片、
   刀装具と思われる金銅製品2、長頭鏃片が出土。
 6世紀末〜7世紀初の築造と推定されている。(1994年調査)

   

G ウワナリ塚古墳
石上・豊田古墳群
天理市石上町
撮影日2011/11/21

前方部が果樹園となっていて入れないので、前方部の脇の細道を通って後円部へ。


   ウワナリ塚古墳 後円部

  ウワナリ塚古墳の横穴式石室入口
 後円部に南向きに開口する。
 羨道の一部が破壊されているが、
 両袖型の石室が完存する。

ウワナリ塚古墳の玄室内部

ウワナリ塚古墳玄室から開口部を見る
ウワナリ塚古墳
全長110mの前方後円墳  後円部径68m・高14m、前方部幅80m・高14m
 前方部を北に向ける。
 造り出しがあって円筒埴輪が並べられていた。
 前方部西北隅に方形の張り出しがある。
 前方部前面にに円筒埴輪を並べた平坦面がある。(この部分まで含めると全長128m。)
 2段築成
 両袖式横穴式石室は、全長10.4m、
  玄室長6.85m・幅2.9〜3.1m・高さ3.6m 羨道幅2.1m・現存長さ3.5m。
  床面には拳大の礫石が敷かれていた。凝灰岩製の石棺の破片も見つかる。
 須恵器片、円筒埴輪片などが出土。
 6世紀前半〜中頃の築造と推定されている。  

    

H 石上大塚古墳
石上・豊田古墳群
天理市石上町
撮影日2011/11/21

墳丘はしっかり残っていて、周りを一周できる。周壕跡も確認できる。


石上大塚古墳 後円部
 
石上大塚古墳の造り出し
 立派な造り出しを確認できる。


石上大塚古墳の石室
南に開口する

ひどく破壊されていて、
石室の最下段の石もあんまり残っていない。
斜面には石材がころがっていたりする。






石上大塚古墳石室の奥壁部分
 
石上大塚古墳石室内部から入口を見る
 石上大塚古墳は 前方部を北に向ける。
  全長107mの前方後円墳   後円部径67m・高さ14m 前方部幅82m高さ14m
  北、西、南の3方に空濠あり。
  造り出しは西側にあり(東側に存在する可能性あり)
  2段築成  葺石、埴輪あり。
  片袖型横穴式石室
   玄室長6.3m、幅2.8m、高さ推定3.8m(残存2.8m)
   凝灰岩製石棺があったと考えられている。 (破片が出土)
  6世紀前半の築造と推定されている。

    

I 別所大塚古墳
石上・豊田古墳群
天理市別所
撮影日2011/11/21

墳丘がしっかり残っているように見えるが、実は土取りされていて、
石棺も横穴式石室も無くなっているという。ヤフー航空地図で見ると盾形の墳丘に見える。


別所大塚古墳
干上がっているため池の向こうの墳丘

別所大塚古墳
周壕跡がきれい!
別所大塚古墳は 前方部を北東に向ける
 全長125mの前方後円墳 後円部径85m・高さ15m 前方部幅90m・高15m
  2段築成。周濠の痕跡あり。葺石あり、埴輪あり
 横穴式石室があり石棺があった
 埴輪片と金銅製の鈴や鏃、鎧、大刀、土器、人骨などが出土したといわれている。
 6世紀前半の築造と推定されている。

  

L 別所鑵子塚古墳
石上・豊田古墳群
天理市別所
撮影日2011/11/21

山の辺小学校の東横にある。

 
別所鑵子塚古墳 北から
 ビニールハウスの向こうに見える。
 撮影ポイントが難しい・・・

別所鑵子塚古墳 西から
 小学校横の公園みたいなところから見る
 塀の向こう側
別所鑵子塚古墳
 全長57mの前方後円墳 後円部径31m・現状高5.5m、前方幅43.5m・高5.5m
 前方部をほぼ北に向ける
 周濠の痕跡あり 葺石あり 埴輪あり 造り出しの痕跡もあり
 埋葬施設は未調査で詳細は不明。
 6世紀前半の築造と推定されている。 


天理市・1 おわり

天理市・2

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