奈良市・2 富雄丸山古墳 開化天皇陵 奈良公園周辺(道祖神社 猿沢の池 頭塔 旧大乗院庭園)
大安寺古墳群(墓山古墳 杉山古墳 野神古墳) 三陵墓古墳群
富雄丸山古墳 | 奈良市大和田町丸山 撮影日2009/11/4 |
すっかり宅地化されて、富雄丸山古墳だけが現状保存で残る。
富雄丸山古墳のある山
説明板も見あたらない。
富雄丸山古墳墳丘実測図
(大和古代遺跡案内・吉川弘文館から引用)
昭和46年宅地造成計画に先立ち、発掘調査。
径86m・高さ10.5mの円墳(巨大!)
葺石あり・円筒埴輪あり
北東に短い造り出しをもつ可能性がある。
4世紀後半の築造と推定されている。
丸山古墳に近接して2基の後期の小円墳がある。
墳頂部には巨大な盗掘穴があった。
内部には墓壙があり粘土で保護した木棺の痕跡が確認されたが、破壊されていた。
装身具の管玉や鍬形石製品などの玉・石製品類や
刀剣などの武器類、斧・きり・のみなどの工具類や巴形銅器が出土した。
以前盗掘された時、
「伝富雄丸山古墳出土品」として多数の遺物が市場に出て、
現在その一部が京都国立博物館に所蔵されているが、
その中の鍬形石製品の破片と発掘調査で出土した破損部分が一致。
「伝」ではなく「富雄丸山古墳出土品」と確認された。
(参考「大和の古墳を語る」)
開化天皇陵 (念仏寺山古墳) (春日率川坂上陵) カスガノイザカワノサカノウエノミササギ |
奈良市油阪町 撮影日2009/11/4 |
開化天皇陵東の念仏寺
「山の寺念仏寺」とある。
今は繁華街の真ん中だけれど、
山の寺だったのだねぇ。
徳川家康が、大阪冬の陣(1614)の折、木津の戦いで真田幸村に破れ奈良に入り、
この地小字山の寺に落ちのび桶屋の棺に隠れ九死に一生を得たという。
開化天皇陵の入口は大通りにはない。
ぐるっと南に回ったところ、三条通りから北のほうに参道が延びている。
参道から見る開化天皇陵
陵墓となっているので中には入れない。
繁華街の近くとは思えないような静けさに包まれている。
開化天皇陵は春日率川坂上陵(カスガノイザカワノサカノエノミササギ)という。
古事記には「伊邪河之坂上」と記す。
別名念仏寺山古墳という。
全長約100mの前方後円墳
後円部径48m・前方部幅48m。
開化天皇陵付近の地図
大安寺墓山古墳 大安寺古墳群 |
奈良市大安寺 撮影日2011/11/20 奈良県遺跡地図・6 |
名前の通り全部墓地となっていて、知らないと古墳とは思わないだろう。
入口には融福寺となっているが、大安寺の墓地ともなっている。
大安寺墓山古墳
全長80mの前方後円墳で周壕をめぐらせていた。
南側に前方部がある。
ヤフーの航空写真で見ると前方後円墳の形になっている。
杉山古墳 大安寺古墳群 |
奈良市大安寺 撮影日2011/11/20 奈良県遺跡地図・5 |
南側の大通りから、杉山古墳の西側の脇道に入ると、その途中に古墳への入口がある。
杉山古墳入口 鉄の門が閉まっている日もあるらしいが、 開いていて良かった! |
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杉山古墳は 南側に前方部がある 全長154mの南面する前方後円墳 後円部径80m・高さ9.8m、前方部幅95m・高さ7m くびれ部東側に造り出しがある。 葺石あり。埴輪あり。 幅30mの周濠の跡がある。 5世紀後半の築造と推定されている。 主体部は1954年に調査しているが、確認されていない (粘土槨か) 家形埴輪が出土している。 8世紀、奈良時代に大安寺の境内に取り込まれ、 前方部南側に、瓦窯が築かれていた。 境内の隅にあり、「隅山」の名が「杉山」になったとも考えられる。 杉山古墳の前方部南斜面には、6基の瓦窯跡が見つかり、大安寺杉山瓦窯跡群と呼ばれている。 杉山古墳史跡公園の敷地内に2号瓦窯が復元されている。 1度に焼かれた瓦は500枚前後と考えられている。 出土した瓦などから 奈良時代から平安時代にかけて大安寺に使われた瓦を焼いた窯跡と考えられている。 |
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杉山古墳 後円部 |
杉山古墳 右側が前方部 |
杉山古墳の墳丘図 (説明板から) |
復元された大安寺杉山2号瓦窯 |
野神古墳 大安寺古墳群 |
奈良市南京終町野神 撮影日2011/11/20 奈良県遺跡地図・7 |
イオンから南に200m、ローソンの東側に保存されている。
野神古墳 石室のある所だけ保存されている。 |
野神古墳 後円部の竪穴式石室 コンクリートや鉄棒で補強されている。 天井石は残っているみたい。 |
野神古墳 石棺 |
野神古墳 築造当時のままの東の側壁 |
野神古墳は 前方後円墳と考えられている。 円筒埴輪あり 石室長さ3.7m・幅1.1m・高さ0.8mと推定されている。 築造当時そのままなのは、東側壁だけ。 縄掛突起を6つ持つ凝灰岩(阿蘇ピンク石)製家型石棺が残っている。 銅鏡2面、玉類、鉄刀3振り、馬具が1876年に出土したが行方不明という。 5世紀中ごろの築造と推定されている。 |
道祖神社(猿田彦神社) 猿沢の池 |
奈良市ならまち 撮影日2009/11/3 |
道祖神社(猿田彦神社)
勝負運(バクチ)の神様だそうな
思っていたより小さな神社だった。
ご存知!猿沢の池
旧大乗院庭園 | 奈良市高畑町 撮影日2009/11/3 |
大乗院庭園は、15世紀の半ばすぎ、善阿弥とその子が京都から招かれてつくったもの。
名勝大乗院庭園
大乗院は、興福寺の門跡寺院で1087年創建、庭園も造られたが、15世紀に荒廃した。
その復興のために招かれた善阿弥(銀閣寺庭園を作った人)とその子が庭園を改造した。
明治初頭まで南都随一の名園とされてきたが、大乗院は廃仏毀釈で明治初年に廃寺となった。
庭園は残され、戦後その一部が整備されて1958年(昭和33年)国の名勝に指定された。
庭園の南側には「名勝大乗院庭園文化館」がつくられている。入場無料。
名勝大乗院庭園文化館では、大乗院の復元模型や大乗院に関する資料が展示されている。
織田信長直筆の書状なども展示されている。
頭塔 | 奈良市高畑町 撮影日2009/11/3 |
以前は全体が鬱蒼とした森だったが2000年(平成12年)復元整備が完了、
北半分に方形7段の土塔の姿がよみがえった。
頭塔石仏入口
南側の石段を上ったところ
南側は現状保存
1987〜1998年まで発掘調査。
一辺32mの石積みの基壇上に建つ7段の階段状石積みからなり、
基壇を含めた全体の高さは約10m、
石積みの上に瓦葺の屋根がのっており、奇数段には石仏が安置されていた。
現状の頭塔内部にはひとまわり小さい頭塔がある。
頭塔石仏の北側
基壇と7段の石積みを復原し、
残存していた石積みと復原のために
積み足した石積みとの境界には鉛板を入れ明示。
抜き取られていた石仏の位置には新石を補充。
第1・3・5・7の奇数段4面に各11基ずつ総数44基の石仏が整然と配置されていた。
44基のうち28基が確認されている。
そのうち1基は郡山城の石垣に転用されている。
石仏 拡大
現在石仏の上にのっている屋根は、
石仏を保護するものであり、
江戸時代に据えたものと考えられている。
石仏の表現は天平盛期の特徴をよく示し、
記録にあるとおり神護景雲元年(767)に造立されたと考えられている。
三陵墓古墳群 | 奈良市都祁南之庄町 撮影日2011/11/20 |
ハミ塚古墳から東に約10km、山辺郡都祁村は合併により2005年4月1日から奈良市都祁になった。
この地区にも古墳がある。
三陵墓古墳群は都介野岳からのびる尾根上に造られていて、
前方後円墳の東古墳、円墳の西古墳、南古墳の三基で構成されている。
東古墳・西古墳は、県の史跡に指定され、史跡公園として整備されている。
このあたりには他にも、「市場古墳群」「観音山古墳群」と、古墳が点在している。
三陵墓西古墳
三陵墓古墳群
県史跡
古代都祁王朝のゆるキャラ「つげまろ」くんに守られている。
三陵墓西古墳 |
三陵墓西古墳墳頂部 埴輪が復元されている。 二つの埋葬部が示されている。 |
三陵墓西古墳は、直径40m・高さ5mの円墳で墳頂部の径16m。 葺石あり 円筒埴輪と朝顔形埴輪の埴輪列がめぐっていた 二つの埋葬部が発見されている。 5世紀前葉の築造と推定されている。 第1主体部は割竹形木棺粘土槨で、 墳丘完成後、長さ13m・幅5.6m・深さ1.5mの隅丸長方形の墓壙を掘り下げ、 長さ8.35m・幅0.95〜1.2mの木棺を納めた。 棺床には ベンガラが散布されていた。 棺内から鉄剣5・ヤリガンナ2・鉄鑿1・鉄斧4・鉄鎌7・ 滑石製臼玉・琴柱形石製品8・碧玉製管玉・竪櫛多数が出土 棺外から、鉄鏃一群・鉄剣6・直刀9・鉄鉾1が出土。 第2主体部は組合式木棺直葬で 長さ5.5m・幅2m・深さ1.5mの隅丸長方形の墓壙に 長さ4.17m・幅0.61m〜0.67m・棺身高さ0.26mの木棺を納めたもので、 内部は全 面ベンガラが塗られていた。 棺内から、臼玉108・竪櫛89・鉄鏃8・漆塗り靫1が出土 棺外から、漆塗り盾1・鉄槍1・円礫1・鉄刀子2・ヤリガンナ2・鉄鑿1が出土。 |
半壊した古墳
奈良県遺跡地図12B-0021の古墳
(南から)
この奥に三陵墓西古墳がある。
三陵墓西古墳のすぐ南隣に残る。
三陵墓東古墳
三陵墓古墳群
県史跡
三陵墓東古墳 前方部手前から |
三陵墓東古墳 後円部から前方部を見る |
三陵墓東古墳の形 (説明板から) |
墳丘実測図 (大和古代遺跡案内・吉川弘文館から引用) |
三陵墓東古墳は 墳丘長110mの前方後円墳 後円部径72m・前方部長39m・前方部幅50m 葺石あり 後円部3段築成 各段と墳頂部に埴輪が並べられていた。 大和高原において、最大級の古墳 前方部と後円部の高さの差が7.5mある。 埋葬部は未発掘だが、粘土槨と考えられている。 明治時代の盗掘で、 埋葬施設から、銅鏡2・玉類・鉄製武器・工具などが 多数出土したと伝えられている。 (遺物は行方不明) 5世紀後半の築造と推定されている。 |
三陵墓南古墳
三陵墓古墳群
三陵墓南古墳
小さな円墳だからこの山頂の部分だと思う。
直径16mの円墳
未調査の為、築造年代なども不明
現在は神社の社地で、墳頂に祠がある。
私有地なのか、説明板もない。
三陵墓とはいうがこの古墳はとても小さい。
暗くなっているので写真の色がおかしい・・・・。
その2おわり