北村さんちの遺跡めぐり
更新日 2018/1/5

関西・2017秋
その3  岸和田市・和泉市
2017/10/19〜21

貝塚市の地蔵堂丸山古墳を見学して北上・・・。岸和田市へ。

岸和田市・和泉市の地図g

久米田寺
久米田古墳群

大阪府岸和田市池尻町
   (撮影日2017/10/20))



久米田寺から見た久米田池

天気が悪くて、残念だ・・・

久米田池は
725(神亀2)年から738(天平10)年にかけて、
僧行基によって付近の住民を組織して作られたと伝えられている。

久米田池の西側に久米田寺がある。

 久米田寺
 僧行基が天平10年(738年)に開基したと伝えられている
 本尊は釈迦如来。
 永禄年間(1558〜1570)の三好氏と畠山氏の戦火で焼失した。
 現在の建物は、江戸時代中期に再建されたもの。
 久米田寺所蔵の文書の内「楠家文書」などが、国の重要文化財に指定されている。
 境内には、金堂・開山堂・講堂のほか五大院・多聞院など塔頭4院が立つ。
 当初は久米田池を管理するための施設であったと考えられている。
 これまでに平安時代末期から鎌倉時代にかけての瓦が出土しているが、
    創建時の遺構、遺物とも未だ確認できていない。

金堂
本尊・釈迦如来 脇待は普賢・文殊の両菩薩立像
明和七年(1770)の再建と伝えられている。

開山堂(行基堂)
文政5年(1822)の再建と伝えられている。
   

大師堂(御影堂)
文政7年(1824)の建立と伝えられていて、
弘法大師の像を安置している。

観音堂
行基菩薩作と伝えられている千手観世音を安置している。
享和三年(1803)の再建

多宝塔、左は聖天堂

楼門
宝永三年1(1706)の再建と伝えられている。
扁額は『龍臥山』

石造五輪塔

中央は聖武天皇、左端を光明皇后、
  右端を亀山天皇の墓と伝えられている。

その様式から鎌倉期のものと考えられている。

久米田寺では、いくつかお店(市)がでているが、売れるのかなぁ?

久米田古墳群

大阪府岸和田市池尻町
   (撮影日2017/10/20))

久米田古墳群は久米田寺の西にある。

 久米田古墳群
 池尻町付近の標高35〜40mの久米田山丘陵にある
 久米田山丘陵は、春木川右岸に形成された独立丘陵で、南北650m、東西500m。
 過去、10数基の古墳があったと考えられているが、現在は8基の古墳が確認されている
 そのうち、貝吹山古墳、風吹山古墳、無名塚古墳の3基は現在、
     一部整備され久米田公園の中に保存されている。


久米田古墳群 配置図
       (説明板の図に加筆)


久米田公園には、
貝吹山古墳・無名塚古墳・風吹山古墳が
保存されている。

 1930年に貝吹山古墳の前方部の発掘調査
 久米田公園再整備のため
  1992・94〜97年に貝吹山古墳の発掘調査
  1992〜94年に風吹山古墳・無名塚古墳持ノ木古墳の発掘調査

光明塚古墳は久米田寺の境内にある。

 光明塚古墳(コウミョウヅカコフン)      市指定史跡 久米田寺境内
 墳丘は古墳が造られた当時とは変形している。
 昭和46年の実測調査によると、直径約25〜30mの円墳であったと推定されている。

古い写真では、もう少し高い墳丘があるのに、
いつの間にやら、低くなってしまった・・・。

久米田寺の西にある久米田公園に、貝吹山古墳、無名塚古墳、持ノ木古墳、風吹山古墳があるが、持ノ木古墳の墳丘はない。

 貝吹山古墳 (カイブキヤマコフン)    市指定史跡   久米田公園内
 橘諸兄塚ともいわれる。

久米田貝吹山古墳 墳丘図  (古墳辞典から)

全長130mの前方後円墳 後円部径75m  
 周囲に鍵穴形の階段式周濠があり、その痕跡の一部が
  現在の山田池、ネンド池、ドジョウ池になっている。
 後円部は3段築成
 葺石がある。埴輪列がある。

 中世に盗掘を受け、破壊されていたが、後円部に竪穴式石槨があり、
   内部に香川県の火山石製の石棺(破片出土)があった。
    銅鏡2以上、碧玉製鍬形石1以上、車輪石3以上、碧玉製管玉約40、
    鉄刀剣、銅鏃13、鉄鏃・銅鏃、鉄製冑小札、鉄斧片などが出土。
 前方部には、粘土槨の中に礫床上の木棺があり、碧玉製管玉・鉄片・土器片が出土
 4世紀中ごろの築造と推定されている。 

山田池手前から見た貝吹山古墳後円部

後円部

後円部から前方部を見る

前方部から後円部を見る


 無名塚古墳 (ムメイヅカコフン)   市指定史跡 久米田公園内に復元保存
 直径約26mの円墳
 幅10m・深さ1.2mの周濠がある。
 葺石はない。
 2段築成で、中段テラスには円筒埴輪が並べられていた。
 隣接する風吹山古墳のものとほぼ同時期・5世紀初頭の築造と推定されている。


東から見る


久米田公園の整備にあたり、
つくられた当時の姿に復元された。

南から見る

西から見る

無名塚古墳の南東側に接するように持ノ木古墳があった。

 持ノ木古墳 (モチノキコフン)  久米田公園内
 一辺約12mの方墳
 墳丘の基底部と幅1.5〜2mの周濠が見つかっている。
 周濠から多くの埴輪片と須恵器が出土。
 出土した須恵器には、朝鮮半島の南部地方から出土している土器との類似点がある。
 5世紀初頭の築造と推定されている。
 
 平成4(1992)年の発掘調査によって新たに発見された。
 昭和初期の記録に無名塚の周辺に小さな古墳が存在したことが記述されているが、
   墳丘は削平されてしまっている。


持ノ木古墳跡地

奥は、無名塚古墳

説明板には
「持ノ木古墳は埋め戻されている」とあるので、
地中に墳丘の基底部があるのだろう。


 風吹山古墳 (カゼブキヤマコフン)    市指定史跡   久米田公園内に復元保存
 全長約71mの帆立貝形古墳、円丘部径59mに、南東側に方形の造出部をもつ。
 馬蹄形の周濠がある。
 葺石あり 墳丘には円筒埴輪が並ぶ
 墳頂部には2基の埋葬施設がある。
  南側が粘土槨に割竹形木棺で、胃や鉄製のよろい、鉄剣・鉄刀
  北側が組合式箱形直葬で、銅鏡(痕跡)、、鉄刀、鉄剣、多くの玉類や竪櫛などが出土。
 南槨が先に葬られていて、北槨は追葬
 5世紀初頭の築造と推定されている。
 最初は小型の造出部をもつ円墳として築かれたが、
  後に大型の造出部分をもつ帆立貝形に改築されたとみられている。
   墳墓の築造期間中に被葬者の地位が上昇したのではないかと考えられている。


造出部手前から見た
      風吹山古墳



久米田古墳群の説明板は、
この古墳の近くの、
久米田公園南側入口にある。

造出部から見た円丘部

円丘部から見た造出部

久米田公園の西の墓地と民家に囲まれて、志阿弥法師塚古墳がある。

 志阿弥法師塚古墳 (シアミホウシヅカコフン)   市指定史跡
 直径16mの円墳と推定されている。  
 墳丘は古墳が造られた当時とは変形している。
 かつて腕輪形の石製品が出土したと伝えられている。
 昭和46年に実測調査。
 この古墳の名称になっている志阿弥法師は奈良時代の僧である。

民家側から見た墳丘
小さくなってしまった墳丘

墓地側から見た墳丘

志阿弥法師塚古墳の南西の方向に長坂古墳があった。

 長坂古墳 (ナガサカコフン) 
 現在は住宅地になり、墳丘は残っていない。
 昭和40年後半の調査では墳丘の跡形があったようで、
    直径10m前後の円墳だったと推定されているが、詳細不明

岸和田市立久米田中学校の敷地内にあるのは、女郎塚古墳。

 女郎塚古墳 (ジョロウヅカコフン) 
 直径28mの円墳  
 周濠がある。
 発掘調査で、墳丘に円筒埴輪が並べてあるのが確認された。
 埴輪から、5世紀前半頃の築造と推定されている。

中学校北側の塀越しに撮影
昼休み中の生徒たちが何事かと思って寄ってくる。

生徒たちに了解を得て撮影。

 

摩湯山古墳
(マユヤマコフン)
国史跡

大阪府岸和田市摩湯町
   (撮影日2017/10/20))

久米田古墳群から東北東に約2km、大きな前方後円墳がある。
駐車場はない。
「摩湯山古墳(一般府道三林・岡山線歩道工事に伴う発掘調査)」の報告書(1998.3大阪府教育委員会)が
インターネット上で公開されているので、参考にさせていただいた


摩湯山古墳周辺の地図
(発掘調査報告書から引用)

摩湯山古墳は、摩湯町の集落の西南にあり
   東南方向から伸びてくる丘陵の西北端に位置している。
陪塚的なものとして、馬子塚とイナリ古墳のほかに
   狐塚と呼ばれるものもあったらしい。


摩湯山古墳のすぐ東にある淡路神社の辺りにも
   古墳があったと考えられている。(円筒埴輪出土)

 摩湯山古墳
 全長200mの前方後円墳  後円部径127m  前方部幅100m
 前方部を西北に向けている。
 前方部が長く、開きが大きくない形式(柄鏡形古墳)
 周濠がある。
 丘陵の先端につくられていて、丘の方向に従って東南から西北に主軸を置く
 両側のくびれ部には造出しがある。
 葺石(20cm前後の河原石)がある。 墳丘には円筒埴輪列がある。
 周濠外側にも円筒埴輪列があった。
 土器が出土
 4世紀後半の築造と推定されている。
 本格的な調査は行われていない。


摩湯山古墳 墳丘測量図

墳丘の周囲には
長池(ミササキ池)、惣願寺池、
   ニゴリ池、牛瀧池などがめぐっている。

後円部の背後は
   丘陵を切断して大規模な掘割を構築している。


南西から見た墳丘

左・前方部 右奥・後円部

右手前は馬子塚古墳
西角から見た墳丘

前方部

右奥・後円部

前方部前面

パノラマ写真
 北側中ほどに渡り堤がある。
 渡り堤に立派な石造りの説明板と休憩スペースがあり、奥に墳丘への扉がある。
 鍵が開いていた・・・。

渡り堤

渡り堤の右手に見える前方部

渡り堤から入った墳丘入口(くびれ部付近)に石柱
「史跡摩湯山古墳」と刻まれている

後円部を見上げる
右方向に前方部

後円部頂  八大竜王社の和泉砂岩製の祠

後円部から前方部を見る

前方部頂

前方部から後円部を見る

墳丘に入ることができて、ラッキーだった。

 馬子塚古墳(マゴヅカコフン) 摩湯山古墳の南側にある。
 一辺23mの方墳 高さ4m 摩湯山古墳の陪塚と考えられている。
 斜面に葺石のある上下2段の墳丘の周囲を、小さな葺石斜面を持つ段で囲っている。
 テラスや古墳周囲に円筒埴輪列がある。
 昭和33(1958)年に土取りで、埋葬施設主体部が露出し、青銅鏡と、碧玉製の管玉が出土。
 平成17(2005)年度より、発掘調査。

南西から望遠で見た
 馬子塚古墳

摩湯山古墳の北の集落の中にイナリ古墳がある。
小さな墳丘が残っているらしい。

信太狐塚古墳
シノダキツネヅカコフン
信太千塚古墳群

大阪府和泉市山荘町
   (撮影日2017/10/20)

信太狐塚古墳は、和泉市山荘町のバス停そばにある。駐車場はない。
以前はうっそうとした雑木林だったが、近接地の住宅整備にあわせ公園として整備された。

和泉市の地図g

 信太狐塚古墳(信太千塚43号墳)は  全長56mの前方後円墳
   後円部径30m・高さ4.5m、 前方部幅38m・高さ1.5m 
 前方部を北に向けているが、前方部は削平されている。後円部も小さくなっている。
 形象埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪列があったと考えられている。
 埋葬施設等の詳細は不明
 6世紀後半の築造と推定されている。
 群集墳として著名な信太千塚古墳群中、後期古墳としては唯一の前方後円墳であり、
     信太千塚古墳群の盟主墳とされる。

前方部から後円部を見る
前方部は削られている

南側から見た後円部 ずいぶん小さくなっている。 
手前は、古墳状高まりで、前方部は奥になる。



歩道の赤い線で
   元の墳丘の大きさを示している。

信太山丘陵には、100基ほどの古墳が確認されていて、信太千塚古墳群と呼ばれている。

 信太千塚古墳群
 和泉市小野町・伯太町一帯の丘陵上に分布する後期群集墳
 80基以上が確認されているが、現在では多くの古墳が破壊されて消滅している。
 前方後円墳は信太狐塚古墳1基で、大部分が円墳と考えられている。
 径10〜20mほどのものが最も多い。
 内部構造は、竪穴式石室・横穴式石室・木棺直葬・円筒埴輪棺・陶棺などさまざまである。

このあとの項で紹介する
 丸笠山古墳(4世紀末)、和泉黄金塚古墳(4世紀末)、信太貝吹山古墳(5世紀中)、
  信太玉塚古墳(5世紀後半)、信太王塚古墳(年代不明)は、
   古墳時代後期の古墳ではないので、信太千塚古墳群とは別のものと考えられる。
先祖が埋葬されている土地に、子孫が墓域をつくったのが、信太千塚古墳群なのだろう。

信太狐塚古墳の南約400mのところに、信太玉塚古墳がある。
自動車では、近づけないので、見学は断念。写真も撮れない・・・。

 信太玉塚古墳(62号墳)  和泉市阪本町
 径46mの円墳 高さ6m。信太山丘陵裾の平地にある。
 西側に造出しをもつ可能性がある。
 幅6〜11mの周堀がある。(現在は水田)
 2段築成
 埴輪列がある 葺石がある。
 埋葬施設は不明
 碧玉製の管玉が出土
 5世紀後半の築造と推定されている。

 

信太王塚古墳

大阪府和泉市伯太町
   (撮影日2017/10/20))

 信太狐塚古墳から北西に約1km、陸上自衛隊信太山駐屯地の敷地内にある。
 事前に申し込めば見学できるそうだが、塀越しに写真を撮るだけであきらめる。

 信太王塚古墳(66号墳)は  直径80mの円墳
 信太山と呼ばれる丘陵の緩斜面に立地。
 戦前は陸軍の兵営に、戦後も自衛隊駐屯地となっているため、詳細不明

自衛隊駐屯地の北側の道路から見る

望遠で拡大

 

丸笠山古墳
大阪府指定史跡

大阪府和泉市伯太町
   (撮影日2017/10/20))

信太王塚から北東に約500m、丸笠山古墳がある。

 丸笠山古墳(信太千塚61号墳)は 全長96mの前方後円墳。 後円部径66m・高さ8m
  後円部が平野側にある
  葺石がある。 段築がある。 埴輪がある。
  埋葬施設は不明
  4世紀末頃の築造と推定されている。
    和泉黄金塚古墳と前後してつくられたと考えられている。
 東南から北西へ延びる丘陵を利用してつくられている。
  三方にある溜池は、墳丘基底部との関係から、濠の名残りとは考えにくい。
 もと式内社丸笠神社の境内地で、前方部に拝所を設け、
    本殿を設けずに直接古墳を祀る、古代の祭祀形式をとっていたと考えられている。

南側の道路沿いの鳥居が古墳への入口

「丸笠山古墳」と刻まれた石柱と説明板がある。

鳥居をくぐって溜池を渡り、
    50mほど行くと墳丘がある。

一部削平されている前方部

前方部上の小祠

後円部の高まり

直径が大きいので、
低くなって見える。

 

信太貝吹山古墳
シノダカイブキヤマコフン
和泉市指定史跡

大阪府和泉市太町
   (撮影日2017/10/20))

主要道路・府道30号線の道路沿いに大きな墳丘!

 信太貝吹山古墳は、全長約60mの帆立貝式古墳  後円部径50m、同高さ7.7m
  北西側に造出しがある。
  周堀があり、その外には周堤帯がある。
  墳丘には段築あり 埴輪列あり 葺石あり
  埋葬施設は不明
  円筒埴輪、形象埴輪、滑石製槽等が出土。
  上代町の和泉黄金塚古墳に次いで、5世紀中頃の築造と推定されている。
 信太山丘陵北西麓の海岸線に向かって舌状に派生する低位段丘に立地している。
  江戸時代に和泉・大島郡内の一橋家領54ケ村の農民が蜂起した「千原騒動」の際、
   一揆に参加した農民たちが、法螺貝を合図にここに集まったことから
   「貝吹山」とよばれるようになったとも伝えられている。

大きな墳丘のまわりは
駐車場になっている。

柵があって
 墳丘には立ち入れない。

 

和泉黄金塚古墳
国史跡

大阪府岸和田市上代町
   (撮影日2017/10/20))

丸笠山古墳から北に約3km、堺泉北有料道路のすぐ北に大きな墳丘。
自動車では近づけないし、駐車場もないので、遠くから眺めるだけで我慢する。

 和泉黄金塚古墳は  全長94mの前方後円墳。信太丘陵の北端に位置している。
      後円部径57m・高さ6m  前方部の幅34m
  周堀がある。
  墳丘は前方部2段築成、後円部が3段築成
  葺石あり
  墳丘各所で円筒埴輪や朝顔形埴輪
  くびれ部付近で形象埴輪(家・靱・衣笠・甲冑など)が多く出土している。
  後円部墳頂には、巨大な木棺を粘土で覆った埋葬施設(粘土槨)が3基確認されている。
    銅鏡(画文帯四神四獣鏡、三角縁盤龍鏡など)や石釧、鍬形石などの腕輪形石製品、
     玉類、武器、武具、巴形銅器など多くの副葬品が出土
      (出土品は、一括して国の重要文化財に指定)
 4世紀末頃の築造と推定されている。
 中央棺から出土した鏡は「景初三(239)年」銘がある。
 東槨から出土した鏡は、椿井大塚山古墳出土の鏡と同范である。
1950・51年(昭和25・26年)に発掘調査 (森浩一氏らによる)
   黄金塚古墳 墳丘図

          (いずれも古墳辞典から)
  上・・・中央槨出土の車輪石
  下・・・東槨出土の鍬形石
 3基の粘土槨
   中央槨と東槨はほぼ同時期の造営と推定されている。
   西槨は、規模も小さく、構造も雑
中央槨 粘土槨は 長さ10m・幅2.2〜2.7m  木棺は全長8.7m・幅0.8mの割竹形木棺
出土物・・・鏡2、勾玉29、管玉85、棗玉多数、臼玉多数、ガラス製小玉若干、
  石釧1、車輪石1、水晶製筒形石製品、
  鉄刀9、鉄剣3、鉄短剣8、刀子1、鉄斧9、鉄鎌7、工具類若干
東槨 粘土槨は 棺床部の長さ8.5m・幅0.5m〜0.75m  木棺は 長さ4m・幅0.7mの箱形木棺
出土物・・・鏡3、勾玉4、棗玉2、管玉68、ガラス製小玉972、
  筒形石製品2鍬形石1、紡錘車1、水晶製切子玉1、五銖銭1、
  刀子5、武具甲・冑ほか)、鉄剣4、鉄刀2、鉄斧9、鉄鋸1、鉄鍬3、
  手鏡2、ヤリガンナ1、鉄製工具類5、長刀子1、革製盾2、巴形銅器3、鉄鉾1、鉄槍3、鉄鏃110、
西槨 長さ5.2m・幅0.8m 東槨と同規模の箱形木棺
出土物・・・鏡1、大形勾玉1、勾玉2、管玉88、棗玉3、鉄刀3、鉄剣4、、鉄鏃110、銅鏃1、武具
 中央槨出土の半円方格帯四神四獣鏡は、「景初三(239)年」銘。
 東槨出土の三角縁波文帯龍虎鏡は、椿井大塚山古墳出土の鏡と同范


後円部の北東の住宅街から見た
  和泉黄金塚古墳



出土物がすごい古墳だが、
墳丘は、デコボコしているらしい。

後円部北の道路から見た和泉黄金塚古墳

後円部には石碑が立っている。

徒歩なら墳頂まで登れそうなのだが、柵があって登れないとの情報もある。・・・。

信太山丘陵で見学できる古墳は、もう一つ「姫塚古墳」(王子町)がある。
 横穴式石室が信太の森鏡池史跡公園に移築されているそうだ。
 姫塚古墳は、径25mの円墳で、横穴式石室がある。
   昭和37年惣ヶ池南側浄水場建設工事の際に発見されて調査。
  調査時は横穴式石室の玄室の一部が残っていただけだったが、
     組合式石棺と木棺が置かれていて、
     耳飾り・管玉・琥珀玉などの装身具のほか、鉄刀や須恵器20点が出土。
  6世紀後半の築造と推定されている。

狩口台きつね塚古墳(兵庫県)につづく・・・・。

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