北村さんちの遺跡めぐり
更新日2013/5/20
河内の古墳探索・その10
市野山古墳周辺2013/4/22
近鉄古市駅10時56分の電車で、土師ノ里駅へ。11時には着いている。
土師ノ里駅を出たら、目の前にはげ山が・・・・。
整備がほぼ終わった鍋塚古墳だ。
後ろの森は仲津山古墳。
鍋塚古墳は次回紹介することにして、すぐ北にある長持山古墳石棺の見学へ・・・。
古市古墳群配置図 (パンフレット)
長持山古墳の石棺 |
大阪府藤井寺市沢田3丁目 |
道明寺小学校の入口の覆い屋の下に保存されている。
長持山古墳は、現在の道明寺小学校の北東にあった直径40m・高さ7mの円墳。
5世紀の築造と推定されている。
明治の初めごろ、日本に滞在していたイギリス人ウイリアム・ゴーランドさんが
長持山古墳の頂上にほぼ全形を露出している石棺を、写真入りで報告していた。
昭和21年(1946)の発掘調査で、墳丘上に露出していた石棺の北側から、新たに別の石棺を発見した。
長持山古墳そのものは消滅している。(いつ消滅したのか?)
長持山古墳1号石棺(左)と2号石棺 |
長持山古墳反対側から 左2号石棺 |
長持山古墳1号石棺 |
長持山古墳2号石棺 |
明治の初めごろ長持山古墳を訪れたイギリス人のウイリアム・ゴーランドさんが、 長持山古墳の頂上に露出した石棺を、写真入りで報告している。 ゴーランドさんが報告したのは2号石棺で、 戦後の発掘調査では、2号石棺の北側から1号石棺が見つかった。 1号石棺は河原石積みの石槨の中におさめられていて、盗掘は受けていたが、 装身具(ガラス小玉・金銅製帯金具)、武器(鉄刀・鉄矛・鉄鏃)、 武具(甲・挂甲)、農工具(鉄鎌・鉄鍬)、馬具(金銅製鞍金具・鐙・轡・杏葉)などが出土した。 現在アメリカ・ボストン美術館に保管されている画像鏡も長持山古墳出土といわれている。 2基の石棺はともに阿蘇の凝灰岩製のくりぬき式で 1号石棺は、傾斜の強い屋根形の蓋と舟形の身がぴったりと組み合わされている。 身と蓋の小口には一対の大きな縄掛け突起がつくり出されている。内部は赤い顔料が塗られている。 2号石棺は、1号石棺と比較して、蓋は高さがなく、縄掛け突起が長辺側に二対計4個つくり出されている。 身の方は箱形に近いものとなっている。 形からみると、1号石棺がまずおさめられ、後から2号石棺がつくられおさめられたと考えられている。 5世紀後半の築造と推定されている。 長持山古墳の東にある市野山古墳の陪塚的存在のものと考えられている。 |
市野山古墳 允恭天皇陵古墳 |
大阪府藤井寺市国府(こう)1丁目 |
「允恭天皇恵我長野北陵」に治定されて、宮内庁が管理している。
国府台地の北縁にある。
市野山古墳 前方部角からみる 左奥後円部 右前方部先端の直線部分 |
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市野山古墳は前方部を北に向けた 墳丘全長230mの前方後円墳 後円部径140m・高さ22.3m 前方部幅160m・高さ23.3m 3段築成 くびれ部の両側に造出がある。 幅25〜30mの盾形内濠と外堤、さらにその外側にも周壕をもつことが発掘調査で判明している。 外側の濠は後円部や前方部側では確認されていないため、全周しない可能性がある。 内部施設や副葬品については不明 外堤上で円筒埴輪列は確認されていないが、外側の溝から埴輪が出土している。 出土した埴輪は、円筒埴輪のほか家・盾・靱・蓋・人物等の形象埴輪がある。 埴輪の特徴から5世紀後半の築造と推定されている。 周囲には、前方後円墳の唐櫃山古墳や長持山古墳、宮の南塚古墳、衣縫塚古墳などがある。 (説明板から) 墓山古墳ときわめてよく似た規模と形とみられている。 |
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市野山古墳 後円部の丸み 周壕に水がなく、菜の花がきれいに咲いている。 |
市野山古墳 後円部脇から墳丘を見る 右奥前方部 |
市野山古墳と周辺の古墳分布図(説明板から) 市野山古墳の周りには、数基の小古墳があったが、 現在残っているのは、 衣縫塚古墳と宮の南塚古墳(共に允恭天皇陵陪冢)、 鍋塚古墳(仲津山古墳の陪塚) だけとなっている。 八王子塚古墳(允恭天皇陵い号陪冢)は、 現在小さな高まりが残っているが、 周辺の発掘調査から、 古墳ではない可能性が指摘されているという。 高塚山古墳は、説明板では円墳になっているが、 調査の結果、方墳と確認されたので、方墳に直して表示した。 |
前方部の北東角の外濠は最近まで「長池」と呼ばれて残っていたらしいが、保育園建設のため、埋め立てられた。
濠と堤は地形の高低差で今でも確認できるそうだ。
式内社 志貴縣主神社
市野山古墳のすぐ北にある。
古代この辺りは「志紀郡」といい、
地元に密着した神社と考えられている。
衣縫塚古墳 允恭天皇恵我長野北陵ろ号 |
大阪府藤井寺市国府1丁目4 |
允恭天皇恵我長野北陵ろ号に治定されて、宮内庁が管理している。
衣縫塚古墳配置図 (HP世界遺産暫定一覧表より) 衣縫塚古墳は 市野山古墳の前方部東にある 径約20mの円墳 古墳の北東側の調査で周壕が確認された。 また濠から 円筒埴輪や家形、人物、太刀形などの埴輪が多量に出土した。 平成18年の墳丘西側の調査では、円筒埴輪棺が2基検出された。 5世紀後半の築造と推定されている。 市野山古墳の周辺には衣縫塚のほか宮の南塚古墳、長持山古墳などの小円墳がある。 平成18年の調査で、後円部北西で新たに兎塚古墳、兎塚2号墳などが見つかった。 平安時代の初め衣縫塚古墳周辺にいた衣縫造金継という人の娘は、 たいそう親孝行で、両親が亡くなった後も嫁がずに墓守をしていたという。 現在、潮音寺にある衣縫孝女碑は、もともとこの墳頂部にあったといわれており、 そのため「衣縫塚」と呼ばれるようになったといわれている。 衣縫氏は在野の有力氏族と考えられている。 北側にあったという衣縫廃寺も衣縫氏が関与した可能性が考えられている。 (説明板から) |
衣縫塚古墳 現在は、元の円墳より 一回り小さい方形の地形になって残っている。 |
住宅に囲まれて、見つけにくいかも・・・・
宮の南塚古墳 允恭天皇恵我長野北陵は号 |
大阪府藤井寺市国府1丁目5 |
国府八幡神社のすぐ南にある。
允恭天皇恵我長野北陵は号に治定されて、宮内庁が管理している。
国府八幡神社 国府の氏神様 衣縫孝女の墓がある潮音寺は、 国府八幡神社に隣接している。 |
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宮の南塚古墳配置図 (HP世界遺産暫定一覧表より) 宮の南塚古墳は 径40mの円墳 現在の形は半円形に近い 円筒埴輪、きぬがさ形埴輪が出土している。 5世紀後半の築造と推定されている。 |
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宮の南塚古墳 北東から 古墳の北側3分の1ほどが神社と道路で削られている。 |
北西から見た宮の南塚古墳 |
消滅した唐櫃山古墳にも長持山古墳石棺と同じ様な石棺があったというが、その石棺はどこにあるのだろう・・・?
(oobutaさん情報・・・・市野山古墳の南にある民家の庭に、唐櫃山古墳の石棺が置かれている。)
午前11時40分 南下します・・・・。
鍋塚古墳につづく・・・・