北村さんちの遺跡めぐり
更新日2013/1/9・23 2/7
河内の古墳探索1・2・3
太秦古墳群から心合寺山古墳2012/10/25
午前5時45分、石川県の自宅出発
9時少し前に、寝屋川市に入る。
「石の宝殿古墳」の案内板を見つけたが、予定していなかったので、調査不足、
石の宝殿古墳にたどり着けなくて、あきらめたところに、小さな方墳とおぼしき遺跡を見つける。
太秦古墳群・尾支群 |
大阪府寝屋川市太秦高塚町 |
寝屋川市東部の太秦高塚町、国守町とその周辺の丘陵には、「〜塚」「〜山」の地名が残っていて、
1962年には太秦熱田神社の裏山から牡鹿の頭部と考えられる埴輪が出土
1965年には太秦高塚古墳の南約300メートルで木棺直葬と考えられる主体部が発見され、鉄鏃、直刀などが出土
これ以外にも三環鈴、金環、銅鏃、子持勾玉2、勾玉3、紡錘車2などが付近にあった古墳の出土遺物として知られている。
これらを総称して太秦古墳群と呼ばれている。
近年の住宅開発に伴う発掘調査で、数か所で古墳の周壕と思われる遺構も検出されていた。
第二京阪道路の建設に伴う2001年から2003年にかけての大阪府文化財センターの事前調査で、
25基の小型の古墳がみつかった。(太秦古墳群の尾支群と呼ばれることとなる)
多くの古墳は、一辺10m程度の方墳で、墳丘はすでに失われていて、埋葬施設は不明。
埴輪が見つかっているのは2基の古墳
お供え用とみられる土器が見つかったのは16基
土器や埴輪が出土しなかった古墳は7基
古墳時代中期(5世紀)の築造と推定されている。 (説明板から)
太秦古墳群・尾支群の発掘当時の様子
(説明板写真から)
太秦古墳群・尾支群の復元
第二京阪道のトンネルの上に保存されている。
調査地西側でみつかった18号墳(一辺9mの方墳)を復元して、
築かれた当時の状態を再現したそうである。
固められていて、復元というのには違和感があるが・・・。
説明板には、太秦高塚古墳についての記述があるので、太秦高塚古墳を探してみる。
太秦高塚古墳 太秦古墳群 |
大阪府寝屋川市太秦高塚町 |
高台にあり、整備復元されていたのですぐ見つかった。
太秦高塚古墳 全景
左側に造り出しがある。
秦・太秦の丘陵上に所在する太秦古墳群で、
唯一現存する古墳
太秦高塚古墳は、史跡整備のために2001年(平成13年)に発掘調査された。
太秦高塚古墳 墳丘復元図
(説明板から)
全長39m、円丘部の直径37m、高さ7mの造出付円墳
2段築成
1段目の平坦部(テラス)には、円筒埴輪列がめぐる。
古墳の周りには、幅約7.5m、深さ2mの濠がある。
北西側には、「造り出し」があり、
まつりを行った区画と考えられていて、
ここから人物・水鳥・鶏・家・盾・衣蓋などの形象埴輪や
土器が集中して出土。
古墳の頂上は盛土が大きく流出して大きく変化していたが、
東側で主体部の一部が残っており、
南側より短甲 ・鉄鏃・鉄斧・鐙(あぶみ)などの副葬品の鉄器がまとまって出土。
墳頂部の大きさから西側にも主体部があったと考えられている。
出土した埴輪や土器などから、太秦高塚古墳は5世紀の後半の築造と推定されている。
太秦高塚古墳 テラスには埴輪が並べられている。 |
太秦高塚古墳 小さな造出を横から見る |
太秦高塚古墳 埋葬部が示されている |
太秦高塚古墳 墳頂から見る造出 |
こんなところに整備された古墳があるのは、今まで知らなかった。
寝屋川市の古墳見学を終え、東大阪市の古墳めぐりへ。
まず、瓢箪山古墳! 午前10時半ころ到着。
瓢箪山古墳 山畑52号墳 |
大阪府東大阪市瓢箪山 |
瓢箪稲荷神社と古墳が一体化していて、神社後ろ(東側)に駐車場がある。
駐車場から(東側から)みた瓢箪山古墳
左(南側) 鬼塚 右北側 大塚
瓢箪山古墳は、鬼塚と大塚からなる双円墳
全長50m・高さ4m 南北両丘に横穴式石室がある。
北丘(大塚)の石室は片袖式で、南西に開口している。
玄室の長さ2.43m・幅2m・高さ1.1m以上 羨道の長さ4,95m・幅0.8m・高さ1.1m
出土品は不明
6世紀前半の築造と推定されている。
瓢箪の形に似ていることから、瓢箪山古墳と名付けられた。
これより東の山手に展開する山畑古墳群の西端に存在する。
瓢箪稲荷神社境内配置図 左側が北 (境内案内図から) |
瓢箪稲荷神社正面 西側から |
瓢箪山古墳 鬼塚の南斜面に露出した石は 横穴式石室の羨道入口の天井石 |
瓢箪山古墳 西側から見た鬼塚墳丘 |
本殿石段から 瓢箪山古墳大塚を見る 大塚の石室は以前神狐が住んでいて、 「狐塚」といわれ、お稲荷さんが祀られている。 |
「狐塚」拡大 ここが大塚の石室と思われる。 |
瓢箪山古墳 大塚の北側は 参道で削られている。 |
明治時代に描かれた絵図から、双円墳とされる事が多いが、
稲荷神社社殿が建てられていて不明な部分が多く、前方後円墳の可能性もある。
墳丘中央部にも横穴式石室があるといわれている。
東大阪市立郷土博物館周辺の 山畑古墳群 |
大阪府東大阪市上四条町 |
東大阪市立郷土博物館の周辺には、山畑古墳群が保存されていて、見学ができる。
しかし、この博物館はかなりの山にあり、交差ができないような道しかない。
午前11時着。
郷土博物館周辺の山畑古墳群配置図 (博物館で頂いたパンフから)
●は見学できる古墳
博物館の敷地内には山畑22号墳、
38〜41号墳が残っている。
山畑古墳群は、客坊谷の南側、高さ15mの瓢箪山神社付近から高さ140m前後の位置にあり、
6世紀中ごろから末ごろにかけての円墳・方墳・双円墳・上円下方墳などさまざまな形の70基からなる群集墳。
山畑22号墳 博物館の駐車場の北側にある。 | |
山畑22号墳の西円丘の石室実測図 (パンフから) 山畑22号墳は 東西に円丘をもつ双円墳 東側墳丘はすでに壊されていて、 径15m・高さ4.5mの西墳丘だけが残る。 西丘の片袖式横穴式石室は、全長9.8m 玄室幅1.5m・高さ1.7m 生駒山産の石を積み上げて壁をつくり、 床には石を敷き詰めている。 木棺に使用されたとみられる鉄釘、 須恵器・土師器などの土器、 直刀・耳環・子持ち勾玉などが出土した。 6世紀後半の築造と推定されていて、 木棺を使って、埋葬が2回行われたと考えられている。 |
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山畑22号墳西円丘 南から |
山畑22号墳西石室 入口から内部を見る |
山畑22号墳西円丘 東から 手前に東側の円丘があった(削られている) |
山畑22号墳西側玄室 奥壁幅1.6m |
山畑22号墳 西側円丘頂 天井石がみえている。 |
山畑22号墳西石室 内部から外を見る |
山畑38〜41号墳の4基は、22号墳の北側にあり、 径8〜11mの円墳で いずれも無袖式横穴式石室で、馬頭大の自然石を積み上げて構築されていて、 昭和46年の調査で、39・40号墳から金属製の耳飾りや鉄釘が出土した 7世紀初めごろの築造と推定されている 石が抜き取られている |
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41号墳 |
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40号墳 | 直径約11mの小型の円墳。 半壊の石室が残っている。石室の天井石は、残っていない。 横穴式石室は、長さ4.2m・幅1.1m。 石室内からは、須恵器や鉄釘が出土 |
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39号墳 | 小型の円墳。 半壊の石室が残っている。石室の天井石は、残っていない。 石室は長さ4.7m・幅1.1mの無袖形。床面に平らな石を敷き詰めている。昭和48年調査 |
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38号墳 | 石材はほとんどない。奥壁の石が一つ残っているようだ。 |
38号墳の東隣にある37号墳のあたりは藪となっている。
38号墳から37号墳の藪を越えた南に、21号墳がある。
山畑21号墳(市指定文化財)は、 博物館の東約50mのハイキングコースぞいにあり、道路からも石室の出入口がみえている。 山畑21号墳の石室実測図 (パンフから) 山畑21号墳は 径15mの円墳 長さ8.5mの石室から、 凝灰岩製の石棺片をはじめ、須恵器・鉄鏃などが出土 |
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山畑21号墳 北から見た墳丘 |
山畑21号墳 道路側(南)から見た墳丘 |
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山畑21号墳 石室入口 |
山畑21号墳 石室内部 |
山畑21号墳 室内部から外を見る |
20号墳は、21号墳の東にある。20号墳の石室は、物置になっている。
20号墳は、博物館の東約70mのハイキングコースぞいにあり、道路からも石室の出入口がみえている。 20号墳は、直径約10mの円墳。 片袖式横穴式石室は長さ3mで、石室から、鉄鉾が出土 |
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20号墳の石室入口 |
20号墳の石室内部 物置となっている・・・・・。 |
12号墳は、20号墳から道路をはさんで南にある。
藪をかきわけて行くと、南側に大きな石室が開口していた。
12号墳は、博物館の東約80mのハイキングコースぞいにある。 直径15mの円墳。 両袖式横穴式石室は、全長11.5m |
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山畑12号墳 墳丘に上る |
山畑12号墳 石室入口 手前に大きな石がある。 |
山畑12号墳石室内部 |
山畑12号墳 石室内部から外を見る |
博物館の南の小さな谷を隔てた尾根には、2号墳から6号墳がある。(見学はしていない)。
2号墳は 一辺28mの方形の盛土の上に径14mの円丘をのせた上円下方墳
古墳群の中で最も大規模な全長16.6mの片袖式横穴式石室
石室から水晶製の三輪玉と鞍金具が出土
2号墳のある尾根を西にくだってくると3〜5号墳がある。
3号墳は天井石が石室のなかに落ちかけている。
4・5号墳は古墳の形がよくわかる。石室は埋もれているので見られない。
6号墳は 全長10.5mの無袖式の横穴式石室がある。
石室から須恵器・土師器、耳飾や玉類が出土
東大阪市立郷土博物館の北側には客坊山古墳群がある。
博物館で客坊山古墳群のパンフをもらった。
客坊山古墳群配置図
(博物館で頂いたパンフから)
客坊山古墳群は、
現在19基が確認されている。
円墳11基
横穴式石室をもつのは 6基
1970年代に調査された。
今回の目的のひとつである心合寺古墳へ
その前に食事を済ませ、午後1時前にしおんじやま古墳学習館に到着。
心合寺山古墳とその周辺 | 八尾市 2012/10/25 |
八尾市のしおんじやま古墳学習館の有料駐車場に入り、
学習館でまず、「しおんじやま古墳周辺散策マップ」を頂いてから、徒歩で周辺を見学。
鏡塚古墳
府史跡大阪府八尾市大竹4、5丁目
(撮影日2012/10/25)
心合寺山古墳の西200m、民家の間の細い道を抜けたところにある。
鏡塚古墳入口 「鏡塚宝山神社」と刻まれた大きな石碑 「鏡塚古墳」の説明が刻まれた四角い石碑 「大阪府指定史跡 鏡塚古墳」と 刻まれた縦長の石碑 の3つが立っている。 説明板から、 「標高17m、俗に松山とか腹痛山という。 墳丘の上部には粘土槨が残り、火葬跡が2ヶ所発見され、石櫃の破片も出土している。 古墳時代中期末の環濠式前方後円墳で、数年前に採土され、その後に小祠をまつる。 入口のところに宝山神社の碑がある。」 説明板に「数年前に採土され」とあるが、はっきりと時期を書いてほしい・・・・・ |
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鏡塚古墳 墳丘 |
鏡塚古墳 南側の削平されたところにある小祠 |
ここの土を取ると腹痛が起こるといわれているので、腹痛山ともいわれているそうだ。
説明板には、はっきり前方後円墳と書かれているが、
直径28m・高さ5mの円墳とする説もある。
1958年に採土中に、粘土槨が検出されたと伝えられているが、詳細は不明。(古墳辞典)
心合寺山古墳
国史跡大阪府八尾市大竹4、5丁目
(撮影日2012/10/25)
史跡公園として整備され、墳丘の平坦部には円筒埴輪が並べて立てられている。
これまでの発掘調査で出土した副葬品等は、古墳の脇にあるしおんじやま古墳学習館に展示されている。
心合寺山古墳 北西角から見る
本来の墳丘がかなり削られて、
濠が大きくなってしまっている。
濠が大きいので、墳丘が小さく見える。
心合寺山は「シオンジヤマ」と読む。
古墳の西側に飛鳥時代後期に造営されたお寺に由来していると考えられている。
心合寺山古墳現在の復元図 (:現地案内図から)
点線は、元の墳丘の推定図
(現地パンフを元に加筆)
心合寺山古墳は 全長160mの前方後円墳
後円部の直径92m・高さ13m 前方部幅90m・高さ12m
前方部が南方、後円部が北方にある。
西側くびれ部に造出がある。
三段築成。
生駒山地の麓に等高線に沿うように築かれて、
周濠は南側と北側の2か所で堤を造って区切られているため、その東西で水位が異なる。
前方部の方形壇の下に、1つの木棺が見つかっている。
後円部には、東西7.5m・南北11mの隅丸方形の墓壙があり、
その中に東西に並んだ長さの違う3つの粘土槨がみつかっている。
(長さ7.7mの「中央槨」 長さ7.3mの「西槨」 長さ6mの「東槨」 )
西槨におさめられていた組合式木棺から、
短甲や冑、鏡、針、勾玉や管玉、竪櫛、三葉環頭太刀をはじめとする刀剣類が出土した。
墳頂には、家形やキヌガサ形などの形象埴輪の破片が出土していて、
本来は埋葬施設の上にいろいろな埴輪が並べられていたと考えられている。
造出からは、切妻造りの家」と「塀を表現した囲み形」と「導水施設」が一体となった埴輪が見つかっていて、
水の祭祀場を表したと考えられている。
5世紀初めの築造と推定されている。
周壕の南西角から見た心合寺山古墳 濠が大きいので前方部がちょっと見えるだけ |
心合寺山古墳 前方部前面 |
心合寺山古墳前方部の方形壇から後円部を見る この方形壇の下に木棺が埋まっていた。 |
心合寺山古墳 前方部中央あたりから後円部を見る |
心合寺山古墳後円部 3つの埋葬部が示されている |
心合寺山古墳 後円部から前方部を見る 右中央付近に造出も見える |
心合寺山古墳の造出部 造出部から、 家形・壺形・蓋形・鳥形などの形象埴輪が 出土した。 「水の祭祀場を表した埴輪」も出土した。 |
三重県の宝塚1号墳の造出からも「水の祭祀場を表した埴輪」が出土していたことを思い出した・・・・・・。
愛宕塚古墳
府史跡
高安古墳群大阪府八尾市神立4丁目
(撮影日2012/10/25)
わかりにくい狭い道を歩いて到着。しおんじやま学習館でもらったパンフがなければ着かないかも。
高安古墳群は、6世紀に築造され、横穴式石室をもつ古墳の集まり。
300基以上確認されている。
服部川・大窪・山畑、郡川地区には特に密集していて、「高安千塚」と呼ばれている。
その中で、愛宕塚古墳は群中最大規模の横穴式石室をもつ。
愛宕塚古墳は 径22.5m・高さ9mの円墳
南に開口した両袖式横穴式石室は全長15.78mで、府下最大級
玄室長さ7.2m・幅2.5〜3m・高さ3.9〜4.2m 羨道の長さ8.7m・幅1.95m〜2.15m・高さ2.2m
(数値は続古墳辞典から引用)
2種類の家形石棺片が、出土して、一つは二上山の白色凝灰岩、もう一つは播磨系の石材と確認されている。
鉄製品・馬具・金銅製装飾類・土器・玉類・ねじり環頭太刀の一部・須恵器など多数の副葬品が出土
(出土品は大阪府指定文化財 八尾市立歴史民俗資料館で保管)
6世紀後半の築造と推定されている。
愛宕塚古墳墳丘を、進入道から見る |
愛宕塚古墳石室入口 |
愛宕塚古墳 羨道入口からみる 長すぎて、懐中電灯の光しか見えない |
愛宕塚古墳玄室 大きい・・・・・! |
愛宕塚古墳 玄室から入口を見る |
愛宕塚古墳墳頂からの眺め |
石板の説明板を写真に撮ったが、読めない・・・・・
説明板の裏面には、愛宕塚古墳の進入路をつくるために百万円の寄付を受けたと刻まれている。
向山古墳
府史跡大阪府八尾市神立4丁目
(撮影日2012/10/25)
愛宕塚古墳の北方にある。現状は林。しおんじやま学習館でもらったパンフがなければ着かないかも。
向山古墳は独立丘陵を利用してつくられた西向きの全長55mの前方後円墳
後円径約30m・高さ約7m 前方部長さ28m・高さ5m
墳頂の標高約75m、周辺水田からの比高約25m
墳丘は早くから開墾されて、植木畑となり、後円部は一部が採土されたため、大きく変形している。
古墳時代前期の築造と推定されている。
後円部南側の池畔には、平安時代末期の瓦窯跡がある。
ここで焼かれた瓦は、宇治の平等院 京都の醍醐寺など近畿各地に運ばれた。 (説明板)
向山古墳 ため池の向こうにある。 渡り堤の途中に石板の説明板がある。 写真中央あたりが前方部か? |
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向山古墳 藪の中にあり、墳丘の確認は難しいが、 透けて見えているのは、前方部かな? |
しおんじやま古墳学習館の有料駐車場に戻る。
午後2時20分となる。
古市古墳群へつづく