北村さんちの遺跡めぐり
更新日2013/2/21 3/7

河内の古墳探索4・5
古市古墳群
2012/10/25

寝屋川市 東大阪市 八尾市を見学、・・・・ようやく古市古墳群に到着。
駐車ができそうなところを探しながら見学。

古市古墳群は
大阪府の東南部、藤井寺市から羽曳野市にかけて東西4km、南北4kmの範囲に分布する。
4世紀後半、それまで大和で築造されていた大王墓は河内平野に造営されるようになる。
巨大な応神天皇陵古墳から、
 一辺10mにも満たない小型の方墳まで127基の古墳が6世紀中ごろまで連綿とつくられている。

古市古墳群周辺の地図g 

 津堂城山古墳
国史跡
藤井寺陵墓参考地

大阪府藤井寺市津堂1丁目
 (撮影日2012/10/25)

午後3時に到着。北東側の外濠跡のあたりに駐車。
陵墓参考地になっているのは、後円部の中心部分、
国史跡になっているのは、墳丘と内濠の部分なので、その外側は割と自由にみんなで利用しているようだ。
ガイダンス施設もある。

津堂城山古墳 墳丘



津堂城山古墳は、古市古墳群の中で最初に築造された、最も北側にある古墳と考えられている。

津堂城山古墳 復元図 (ガイダンス展示から)
墳丘長208mの前方後円墳
後円部径128m・高さ16.9m 前方部幅117m・高さ12.7m
くびれ部に造出
周囲には二重の濠と堤がある。全長は440mになる。
内濠の前方部側には、両側にの方形の島状施設があり、
  北東側島状遺構は、一辺17m・高さ1.5m、
    斜面に葺き石を施し、南斜面から3体の水鳥形埴輪が出土。
  葺石あり 3段築成 内堤にも葺石がある。
後円部頂の
竪穴式石室から巨大な長持ち型石棺
  銅鏡や巴形銅器、短甲や鉄鏃、石製腕飾類や模造品などが出土
4世紀後半の築造と推定されている。

 室町時代中期以降に河内守護の畠山氏の執事、安見一族の小山城として、天正年間(1573〜92)まで利用されていたため、
墳丘の一部が大きく削られていて、盛土で古墳時代の遺構が埋め立てられていることが確認されている。

発掘された石棺  (現地パンフレットから)

石棺は埋め戻されたという。


1912年、神社合祀で廃社となった津堂八幡神社の記念碑をつくろうと、津堂城山の山頂部から石材を掘り出したところ、
  その下から立派な石棺が現れた。この石材は、竪穴式石槨の天井石だった。
それを機に調査され、竪穴式石槨から長持形石棺をはじめ、
鏡9面と硬玉製の勾玉と棗玉、碧玉製管玉、車輪石・剣形および刀子形の石製品、刀剣、
鉄鏃や大量の朱など、多くの副葬品が出土した。
  (石材は予定通り、八幡神社の記念碑になった)
 
その後、後円部頂だけが、宮内庁によって陵墓参考地に治定された。
  (石棺は埋め戻し、出土物は全て国が買い取った)
1980年の調査で、内堤と外濠を検出し、内堤にも葺石があるとわかった。衝立形埴輪が出土。
1983年の調査で、内濠、造出が確認され、円筒埴輪やキヌガサ形、盾形、衝立形、家形の埴輪が出土。
  内濠の中に島状遺構などを確認し、衣蓋形、水鳥形などの多数の埴輪が出土
2009年の調査で、葺石の様子やテラスの様子が明らかになってきた。


津堂城山古墳 東側のふもとから見た後円部




 津堂城山古墳 西側から見た後円部
  後円部西側にある八幡神社に続く道

津堂城山古墳 内濠の部分は、花園になっている。
左奥の平屋の建物がガイダンス棟「まほらしろやま

 
津堂城山古墳 くびれ部斜面から前方部を見る

 
津堂城山古墳 前方部脇斜面から後円部を見る

  
津堂城山古墳 後円部墳丘から前方部を見る
 

  
津堂城山古墳 前方部から後円部を見る
  柵の向こうが、陵墓参考地となる。


津堂城山古墳後円部の竪穴式石槨の天井石
        (竜山石製)

ガイダンス棟「まほらしろやま」の前に
 展示されている。

八幡神社の記念碑の痛みがひどくなってきたので、保存処理をして、
 石碑周辺にあった破片と、津堂地区の民家に保存されていた天井石などを
 合わせて展示している。
天井石はほかに、葛井寺の忠魂碑、専念寺の庭石、善光寺の敷石などに転用されている。
八幡神社には別の新しい石碑が立てられている。

ガイダンス棟「まほらしろやま」では、
衝立形埴輪の展示やパネル展示で、津堂城山古墳ほか古市古墳群の説明がなされている。

アイセルシュラホール(生涯学習センター・藤井寺3丁目)の2階には、
「歴史展示ゾーン」があり、いろいろな遺跡の資料が展示されている。

津堂城山古墳から出土した埴輪
    (アイセルシュラホール)

3体の水鳥形埴輪は、北東側島状遺構から出土し、
   2006(平成18)年、重要文化財に指定された。
大きいものは高さ1m以上
  モデルはコハクチョウと考えられている。





アイセルシュラホール外観

外観デザインは、舟形埴輪と修羅をモチーフに、
歴史を継承し未来へと出帆する船をイメージしているそうだ。


1978年三ツ塚古墳のそばで、大小二つの「修羅」が発見された。
この発見にちなんで名付けられたのが、このアイセルシュラホール!

岡ミサンザイ古墳
仲哀天皇陵

大阪府藤井寺市藤井寺4丁目
 (撮影日2012/10/25)

仲哀天皇陵「恵我長野西陵」として、宮内庁が管理している。

アイセルシュラホールの西側の墓地の向こうにある。墓地から塀越しに撮影。午後4時。

岡ミサンザイ古墳 北東方向から見る
仲哀天皇陵として宮内庁が管理している。
仲哀天皇との年代とは一致しない。



岡ミサンザイ古墳周辺図

岡ミサンザイ古墳
は  羽曳野丘陵の北東部外縁に築造された
墳丘長242mの前方後円墳
 後円部径148m高さ19.5m 前方部幅182m・高さ16m
 後円部の標高53.5m
古墳の大きさでは全国16位。
平成8年の宮内庁による発掘調査で、
 墳丘は中世に城郭として利用され大規模な改変を受けており、
 古墳本来の姿を大きく失っていることが判明した。
前方部を南南西に向ける。三段築成
くびれ部東側のみに造出しがある。
幅広の濠と 堤を周囲にめぐらせている。
墳丘には明瞭な葺石を施していない。
内部施設や副葬品については不明
外堤では円筒埴輪列が確認されている。
東側外堤上では、
 濠の掘削に伴う湧水を段丘崖に排水するため開削されたと推定される
        大規模な溝が検出されている。
墳丘と外堤から、円筒埴輪のほか盾等の形象埴輪が出土して いる。
墳丘に明瞭な葺石がないことと、出土埴輪の特徴から、5世紀後葉〜末の築造と推定されている。

仲哀天皇は 第14代天皇 (先代は成務天皇 次代は応神天皇)
 父親は日本武尊 母親は両道入姫命 皇后は神功皇后
 子どもは
 応神天皇・忍熊皇子・誉屋別皇子

峯ヶ塚古墳
国史跡

羽曳野市軽里2丁目峰塚公園内
 (撮影日2012/10/25)

峰塚公園は峯ヶ塚古墳を中心とした都市公園。
「郷土の森ゾーン」内には、終末期古墳の小口山古墳が保存されている。
峯ヶ塚古墳の北側に駐車場がある。午後4時半ころ。


北側から見た峯ヶ塚古墳

   左(東)・後円部 
峯ヶ塚古墳
 全長96mの前方後円墳、後円部径56m・高さ9m  前方部幅74.4m・高さ10.5m
 全てを盛土している。   (墳丘は現在見られるより一回り大きい。)
 南側以外は二重濠があり、
    内濠の幅約11m、内堤の幅約18m、外濠の幅約8mで、墓域は東西168m×南北148mとなる。
 二段築成で、二段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほかは、表面に葺石はみられない。
 後円部墳頂中央部に竪穴式石室(4.3m×2.2m)があり、
  赤色顔料の付いた石棺の破片(阿蘇産の熔結凝灰岩製)が見つかっている。
   (刳抜き式の舟形石棺があったと考えられている。)
 盗掘を受けていた(石材の多くが抜き取られていた)が、
  銀や鹿角製などの装飾品を付けた大刀、武器や武具、馬具などや、
  金銅製の冠帽や帯金具、魚佩、銀製の垂飾りや花形飾り、
    ガラス玉や石製玉類など、3,500 点以上が出土した。
  成人男性の骨や歯なども出土している。
 6世紀初頃(古墳時代後期)の築造と推定されている。

  峯ヶ塚古墳西南から見る
   右奥が後円部

  峯ヶ塚古墳 手前が前方部前面
   小口山古墳のある山の中腹から見る

峯ヶ塚古墳は
古市古墳群の中では内部施設が発掘調査されている数少ない前方後円墳。
古墳の復元整備に伴い、12回の発掘調査が行われたそうだ。

小口山古墳
府史跡

羽曳野市軽里2丁目 峰塚公園内
 (撮影日2012/10/25)

峯ヶ塚古墳の西側の丘を登ったところにある。
案内図が見あたらなくて、「小口山古墳はどこだろう?」と言っていたら、
そばにいたおじさんが「その山の上だ」と教えてくれた。

小口山古墳は 峯ヶ塚古墳の西方約200mの羽曳野丘陵の東縁に位置する。
 明治45年(1912)に開墾に際して発見され、「河内軽里(かわちかるさと)の掘抜石棺」として紹介された。
 以前は径30mの円墳とされていたが、公園整備に伴う発掘調査で墳丘周囲の掘割が見つかり、
  径14mの円墳と変更された。
 横幅1.6m・高さ1.6m・長さ2.7mの石材に、
     長さ2.13m・幅0.87m・高さ0.63mの穴を掘り抜いた横口式石槨をもつ。
 石槨の周囲には、切石が積み上げられ、上には天井石があり、
      石槨を保護する石室状の特異な遺構があることが判明した。
 内部から土器と骨片が出土している。
 7世紀後半ごろの築造と推定されている。(すでに大きい古墳を造ることが禁止されていた時代)

  小口山古墳 墳丘は低くなってしまっている。

  小口山古墳 石槨開口部

小口山古墳石棺内部
よくもきれいに掘り込んだものだ!!
上に穴があいている。盗掘坑かな?

2004年に、石棺が掘り出されて調査されたようだが、
現在は以前の状態のままに埋められている。
石棺をおおっていた天井石の1枚は
   (長さ135cm・幅60cm・厚さ38cm)は、
石槨から10mほど離れた落ち葉の下から見つかった。

小口山東古墳

小口山古墳のすぐ東側にある。
最近の調査でみつかった。

詳細は説明がなくてわからない。


午後5時近くなってしまったので、これで古市古墳群はあきらめなければならない・・・・・

前の山古墳(日本武尊白鳥陵)

小口山古墳のある山の中腹から見る




前の山古墳(日本武尊白鳥陵)は、大阪府羽曳野市軽里3丁目にある。
墳長200mの前方後円墳 後円部径200m・高さ20.5m 前方部幅165m・高さ23.3m
5世紀後半の築造と推定されている。
現在宮内庁によって日本武尊白鳥陵に治定(じじょう)されています。
前方部の幅が後円部の直径を上回り、高さは前方部が3m高い。
くびれ部北側には造出しがある。
周りには幅30から50mの周濠が巡る。

 日本書紀などによると、
 「日本武尊は遠征の帰り道、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなり、
  白鳥となって大和琴弾原(ことひきはら)を経由して古市に飛来し、
    また埴生野の空を向かって羽を曳くように飛び去った」
 と伝えられ、羽曳野市の名前の由来ともなっている古墳だ。




白髪山古墳(清寧天皇陵古墳)

小口山古墳のある山の中腹から見る


白髪山古墳(清寧天皇陵古墳)は、羽曳野市西浦6丁目にある
墳丘長115mの前方後円墳、後円部直径63m、前方部幅128m
前方部幅が後円部直径の2倍あり、前方後円墳としてはもっとも前方部が発達した形態。
周濠は地形に制約されて、前方部付近には水量調整用の土手が築かれている。
くびれ部の北側には造出しがある。
平成15年度の調査で二重目の濠が存在することがわかった。
出土した埴輪などから、6世紀前半の築造と推定されている。

河内大塚山古墳
大塚陵墓参考地

松原市西大塚1丁目
羽曳野市南恵我之荘

 (撮影日2012/10/27)

堺市堺区の宿泊先に向かう途中に大きな古墳。
駐車場がないので道端に駐車しながら、それも日暮れで薄暗い中撮影。午後5時15分ごろ到着。
この古墳は古市古墳群に入るらしいけど、松原市に含まれる部分もあって、つい忘れられがち・・・・
全国で5番目に大きい前方後円墳だ。


河内大塚山古墳
前方部の北西の渡り堤手前から見る
 右(南)が後円部


河内大塚山古墳実測図

河内大塚山古墳
は、
 墳丘全長335mの前方後円墳
  後円部直径185m・高さ20m 前方部幅230m・高さ4m
 周囲に壕をめぐらせている。周濠を含めた全長は420m。
 周濠の外には、周庭帯があったと考えられている。
 前方部はほぼ北面している。
 後円部頂は海抜45mで、松原市で最も標高が高い。

 @前方部は平板低平で、やや不整形をとる
 A埴輪や葺石の存在がはっきりしない
 B後円部に「ごぼ石」とよぶ巨石が存在するうえ、
    江戸時代後半の書物に「磨戸石」とよぶ巨石が18世紀後半の宝暦〜明和年間に見られた
 C古墳内にあった石室材・石棺材と思われる竜山石や花崗岩が
    柴籠神社(松原市上田7丁目)などへ移されている
 などから横穴式石室が後円部につくられていた可能性があり、
 6世紀中葉〜後葉の築造と推定されている。

 中世には丹下氏が古墳を利用して丹下城を築いた。
 織田信長によって丹下城がこわされた後、江戸時代には前方部に大塚村が形成され、
   後円部には氏神の天満宮が祀られた。
 大正10年3月に国の史跡(昭和16年12月解除)となり、大正14年9月に陵墓参考地となったことから、
 昭和3年までに数十戸の民家は濠外に立ち退いた。
 現在宮内庁が管理する陵墓参考地である。   (説明板から)

河内大塚山古墳

渡り堤の左側が前方部前面
右奥後円部。

河内大塚山古墳は、大きさからみると、
百舌鳥の大仙陵古墳(仁徳陵古墳)、古市の誉田山古墳(応神陵古墳)、
百舌鳥の上石津ミサンザイ古墳(履中陵古墳)、岡山県の備中造山古墳に次ぐわが国で5番目の巨大古墳。



このページのデータに関しては、藤井寺南小学校のHP、藤井寺市HPを大いに参考にさせていただきました。
ありがとうございました!

大阪市堺区のホテルに宿泊。大仙古墳へつづく

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