北村さんちの遺跡めぐり
更新日2007/1/19
関西への旅・その3 2006/10/22
大阪で就職している長男の、引越しの手伝いに行ってきた。
結婚30周年記念として、ついでに大阪北部の古墳と滋賀県湖西の古墳を見てこようと決めた。
関西への旅・その3です。
第2日目、豊中市の大石塚・小石塚古墳、池田市の古墳を見て、
滋賀県に行こうと地図を見ていたら、地図の中に大きな前方後円墳を発見!
太田茶臼山古墳と今城塚古墳だ。
これを見ないで通りすぎるわけにはいかない。
太田茶臼山古墳付近の地図g
まず、太田茶臼山古墳に行こう!
高槻市内の名神高速道路は丘陵地と淀川の沖積地の間を通っている。
高速道路の開通で周辺は住宅地として開発されたが、多くの遺跡も消滅した。
このあたりの古墳は、地域の古い呼び名から「三島古墳群」と呼ばれている。
太田茶臼山古墳は「継体天皇陵」となっていて、宮内庁の管理のため、中に入ることはできない。
駐車場もなく、周辺をうろうろしていると、
古墳の南側に公民館のような建物の駐車場を見つけて、駐車させてもらう。
選挙の日らしく、投票所となっている建物では人の出入りが多い。
太田茶臼山古墳 (三島古墳群) |
大阪府茨木市太田3丁目 |
太田茶臼山古墳正面(南側)
天皇陵なので、礼拝所が設けられている。
立ち入り禁止の墳丘は鳥たちの楽園になっている。
とうとうと水を湛える周濠に感動!
古墳の周囲には幅約28〜33mの一重の濠がめぐっている。
北から南に延びる低い台地上に築かれた全長226mの前方後円墳
前方部幅147m・高さ19.8m、後円部径138m・高さ19.2m。
前方部と後円部の接するところに、両側に造り出しが設けられている。
S63年、古墳の西南部(前方部側)の外提で、数個の円筒埴輪が並んだ状態で発見された。
形式から5世紀の築造と推定されている。
この古墳は、「継体天皇三島藍野陵」とも呼ばれ、宮内庁による第26代継体天皇陵とされているが、
「日本書紀」によると、継体天皇の没年は531年(6世紀)とされ、古墳の築造年代とは異なる。
太田茶臼山古墳の大きさに感動。
太田茶臼山古墳の北、高速道路をくぐったところに番山古墳があるというので行ってみる。
途中、道が不自然に曲がっているところに二子山古墳がある。(現状は草むら)
番山古墳 (三島古墳群) |
大阪府茨木市上戸室 |
大きな古墳を見た後ではとても小さく見えてしまう番山古墳。
でも、直径56mもある古墳だ。
番山古墳全景
直径56m・高さ7mの円墳と思われていたが
濠跡などから、南西部に短い前方部を持つ
帆立貝式の前方後円墳だと訂正された。
外提には、円筒埴輪・家形埴輪などの埴輪列があった。
墳丘に並べられていた埴輪などから、5世紀中ごろのものと推定されている。
このあたり「土室」地区の丘陵地域から平野部にかけては、「塚原」といわれ、
5世紀の高槻を代表する古墳が集中して造られたところとして知られている。
あらゆるかたちの古墳がある、古墳の宝庫だった。
古墳群は、北から番山古墳、土保山古墳、石塚古墳、二子山古墳、高樋古墳などが分布。
昭和22年に調査が行われた土保山古墳は
長持形木棺を納めた竪穴式石室が発見され、副葬品として、弓や刀、盾、短甲など貴重な遺物が多数出土した。
現在は番山古墳と二子山古墳しか残っていない。
番山古墳の横の道路にある道しるべに「ハニワ工場公園」と「阿武山古墳」と書いてある。
この二つも見に行ってみよう。
ハニワ工場公園は住宅街の中の公園となっているが、全く駐車場が無く、車中から眺めて終わってしまった。
あとで調べたら、ここは太田茶臼山古墳と、このあと行った今城塚古墳に使われた埴輪が作られた場所だった。
写真だけでも撮って来れば良かった。
ハニワ工場公園 |
大阪府茨木市 |
正確には、新池埴輪製作遺跡という。
住宅地の開発に先立ち、発掘調査され、
5世紀から6世紀にかけて、断続的に埴輪の生産が続けられた場所だとわかった。
長さが10mもある窯が18基発見された。
太田茶臼山古墳の埴輪を作った5世紀中ごろの窯は半地下式に作られている。
今城塚古墳の埴輪を作った6世紀前半の窯は完全地下式に作られている。
半地下式の窯や埴輪づくり作業場が復元されている。
車を止めるところがなくて残念!
阿武山古墳はどうだろうか?
道に迷いながら、京都大学地震観測所の前まで行くが・・・・・。
「阿武山古墳はここから900m」という案内板がある。
車が入っていける道ではないし、駐車場所もない。
・・・・・・・あきらめよう。とても残念・・・・・・・・・。
阿武山古墳 (三島古墳群) |
大阪府茨木市 |
高槻市奈佐原と茨木市安威の境に位置する。京都大学阿武山地震観測所の構内にある。
昭和9年に観測所建設の際、発見。
堀を含むと東西84m・南北80mの円墳。
南側墳裾に2〜2.7mの周濠がある。
墳頂部は溝と段によって画された一辺18mの方形区画がある。
墳丘から7世紀前半の須恵器の蓋が出土した。
石棺式石室があり、南に羨道・墓道(排水口)がある。
玄室と羨道が扉石で分かれている。
玄室は長さ2.6m・幅1.1m・高さ1.1mで漆喰が塗られている。
漆喰で塗られた高さ25pの棺台が置かれ、きょうちょ棺が置かれていた。
棺の身の大きさは長さ1.97m・幅0.62m・高さ0.51m
棺の蓋の大きさは長さ2.03m・幅0.68m・高さ0.09m。
棺内には、南枕仰臥伸展葬の60歳代の男性の遺体があった。
その遺体は玉枕が置かれ、冠帽をかぶり、金糸や樹皮にくるまれていた。
昭和9年の発見のとき、高貴なお方の墓だとわかり、恐れ多くてそのまま埋め戻したが、
出土品の一部ときょうちょ棺のX線フィルムを保管した。
これらが行方不明になっていたが、1987年(昭和62年)に見つかった。
棺内の遺体を写した数枚のX線フィルムを画像解析した結果、
大織冠と思われる冠・玉枕、藤原鎌足の死因と考えられる落馬を思わせる骨格が浮かび上がった。
これにより、阿武山古墳に眠るのは「藤原鎌足」だと認識された。
大織冠・・・中臣鎌足が天智天皇から賜った最高の冠位。この後鎌足は藤原姓を名乗ることとなる。
近くに鎌足塚というのがあるが、これは藤原鎌足の亡くなる100年も前に築造されたもので正しくない。
さあ、本当の「継体天皇陵」といわれている今城塚古墳に行こう。
今城塚古墳は、太田茶臼山古墳の東1.5kmのところにある。
陵墓参考地ではないので、今城塚古墳の中で昼食を食べようと、コンビニで弁当を買い、
今城塚の前まで行くが・・・・。
今城塚古墳 (三島古墳群) |
大阪府高槻市郡家新町 |
なんと全域立ち入り禁止!!2007年3月までに史跡公園となり、公開されるという。
その整備のため、一歩も中に入れない。柵の外から、案内板を写真に撮る。
史跡公園完成予想図
(案内板より)
6世紀前半の前方後円墳。 墳丘長190m・後円部径100m・前方部幅140m
全長約350m、二重の濠(空濠か?)を持ち、淀川北岸では最大級の古墳
墳丘や堤に円筒埴輪や形象埴輪をめぐらしていた。
堤に並べられている円筒埴輪(復元途中)
東側の柵から写す
今城塚の名は戦国時代に三好長慶が出城を築いたことに由来する。
埴輪祭祀場の想像図
(案内板より)
平成13年の発掘調査で、
墳丘の外側の堤からたくさんの埴輪が出土した。
堤に60mにわたり舞台のような部分を付け足して
埴輪が並べられていたことがわかった。
その場所は「埴輪祭祀場」といわれているが、
それは宮殿の様子を表しているのか?
埴輪祭祀場から出土した埴輪 (案内板より)
出土した埴輪
家形埴輪18・柵形埴輪24・門形埴輪2
器台形埴輪5・蓋形埴輪1・太刀形埴輪15
盾形埴輪1・人物埴輪28・鶏形埴輪5
水鳥埴輪13・獣埴輪15・不明9など
計136点
平成16年の発掘調査では、後円部に排水口が発見された。
排水口があるところは、横穴式石室の入り口と考えられる。
1288年に盗掘を受けたという記述が残っていることなどから、石室は破壊されていると思われる。
レーダー探査では石室の存在は確認できなかった。
墳頂や斜面の調査で、石棺の一部やガラス玉・鉄鏃・小札・馬具・金銅板などの副葬品の断片が出土した。
石棺の石材と思われるものが3種類出土した。
@大阪府と奈良県境の二上山産の白色凝灰岩(二上山白石)。
A兵庫県播磨地方の流紋岩質凝灰岩(竜山石)
B熊本県宇土の阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇ピンク石)
継体天皇が葬られた石棺はどれなのか?
そしてほかの石棺には誰が埋葬されていたのか?
周辺には史跡嶋上郡衛跡附寺跡、史跡阿武山古墳をはじめ、
弁天山古墳群、郡家車塚古墳、前塚古墳、岡本山古墳群などがあるという。
熊本県宇土の阿蘇溶結凝灰岩の石棺といえば、
滋賀県の野洲にある大岩山古墳群の石棺もこの地方のものだった。
どうやって熊本県の岩を運んだのだろうか?
古代の技術は、現代より上なのかもしれない。
前塚古墳 (三島古墳群) |
大阪府高槻市郡家新町 |
今城塚古墳の陪墳だというが大きい古墳だ
前塚古墳
今城塚のすぐ北。
すし屋の駐車場の向こうに小山として残っている。
現状は径64m・高さ7mの円墳状だが、
前方部が削平された帆立貝形前方後円墳。
周濠があった。
番山古墳とほぼ同形・同規模。
家形埴輪などの埴輪がある。
凝灰岩製の長持形石棺が出土した。(大阪府の有形文化財となっている。)
蓋石と左右長側石の両端部に縄状突起・前後の短側石の中央やや上方に方形突起がある。
鏡・鉄刀・鉾などが出土した。
もうひとつ陪墳といわれているものとして
狐塚古墳というのが、前塚古墳の東のほうにあるらしいが、見てこなかった。
今城塚古墳が継体天皇陵にならなかった理由 幕末、幕府の力が低下したとき、尊王攘夷運動が盛り上がる中、うちすてられた天皇家の墓を探し出し整備し直そうという動きが盛り上がった。 宇都宮藩の蒲生君平(前方後円墳の名付け親)などがこの動きのきっかけを作った。 この動きを受けて、幕府が文化年間(1804〜1808)に、平安時代に記された「延喜式」にある継体天皇陵「三嶋藍野陵」の探査を摂津高槻藩に命じた。 ところが、今城塚古墳が領内にあるにもかかわらず、藍野陵に該当する古墳はないと報告してしまった。 なぜ、そう報告したかというと、 @ 今城塚はもともと大きく墳丘が崩れていたうえに、1596年の慶長伏見地震でさらに崩れていた。 A 中世、城が築かれ、当時はもう古墳という認識がなかった。 B 「藍野」という地名ではなかった。 などの理由が考えられている。 それで、1.5km西にある太田茶臼山古墳が「継体天皇陵」となってしまった。 |
空から見れば大きな前方後円墳とわかるけれども、地震で崩れ、田畑になってしまった地形の中で
古墳と認識するのは難しいのかもしれない。
今城塚古墳が継体天皇陵「三嶋藍野陵」と考えられるようになった理由 考古学会では現在、今城塚古墳が継体天皇陵とされている。 (今城塚古墳が真の継体天皇陵であるとしたのは歴史学者の故天坊幸彦氏だった) なぜ、そうなったのかというと @ 歴代天皇の中で摂津にあるとされる墓は「継体天皇陵」だけである。 継体天皇は531年(6世紀前半)になくなった。 築造年代から考えると、天皇陵にふさわしい大古墳は「今城塚古墳」だけである。 太田茶臼山古墳の築造年代は5世紀だから違う。 A 天皇陵築造当時は、今城塚のあたりも、藍野地区であった。 |
太田茶臼山古墳・今城塚古墳 形と大きさの比較
太田茶臼山・実測図 墳丘長226m・全長286m 後円部径138m・前方部幅147m 全幅217m 5世紀の大古墳(仁徳天皇陵・応仁天皇陵など)と形が似ている。 つくりが丁寧な円筒埴輪が出土 |
今城塚・推定復元図 墳丘長190m・全長350m 後円部径100m・前方部幅140m 全幅343m 6世紀の古墳(岩戸山古墳など)と形が似ている。 円筒埴輪のつくりには手抜きが見られる。 |
整備されたら、もう一度今城塚古墳に行ってみたい。
今城塚で食べるつもりだった弁当はまだそのまま持っている。
おなかがすいたけれども食べるところがない。(車を止めるところがない)
ようやく高槻市殿町の水辺公園の河原で昼食をとる。
食べ終わったのは、午後2時。
これから滋賀県に行くぞ。
高速にも乗りそこね、普通の道を行く。
京都の東寺・五重塔の横を通過する
車中から写す
(10/22 14:40)
ひたすら滋賀県へ・・・・・・
C 関西の旅・大津(滋賀県)につづく