北村さんちの遺跡めぐり
羽曳野市
古市古墳群は
大阪府の東南部、藤井寺市から羽曳野市にかけて東西4km、南北4kmの範囲に分布する。
4世紀後半、それまで大和で築造されていた大王墓は河内平野に造営されるようになる。
巨大な応神天皇陵古墳から、一辺10mにも満たない小型の方墳まで127基の古墳が6世紀中ごろまで連綿とつくられている。
古市古墳群配置図 (パンフレット)
島泉丸山古墳・島泉平塚古墳 雄略天皇陵(高鷲丸山古墳) |
大阪府羽曳野市島泉8丁目 (撮影日2013/4/22) |
陵南の森総合センターの駐車場に駐車できる。
島泉丸山古墳の図 (HP世界遺産暫定一覧表より) 雄略天皇陵(高鷲丸山古墳)は、 丸山と呼ばれる経75m・高さ8mの大円境と 平塚と呼ばれる一辺50m・高さ8mの方墳からなる。 丸山古墳は内部施設などは不明だが、 出土した埴輪から、5世紀後半の築造と推定されている。 江戸時代の絵図では、丸山古墳が雄略陵とされていた。 幕末に雄略陵の補修が地元庄屋を中心に行われた時、応神・仁徳陵の巨大な前方後円墳にくらべ、 雄略陵が円墳であまりにも小さいので、東南東にあった方墳の平塚古墳と一体にして 陵墓のように土を突いて積み上げたと言われている。 その結果、1885年(明治18)の整備工事では、丸山古墳にあった拝所も平塚古墳側に移した。 |
南から見た丸山古墳 周壕が立派な堂々とした円墳だ |
左奥の丸山古墳から 右に続く前方部 (平塚古墳) 南側から見る |
陵南の森総合センターの中には、資料室がある。
重要文化財「袈裟襷文銅鐸」
(陵南の森総合センター内展示)
高さ89.6cm、重量13.5kg
1978年 羽曳野市西浦小学校改築現場で、偶然発見された。
幅65cm・深さ35cm・長さ90cm以上の穴に、
ひれを約45°傾け、裾部をやや上げて鈕部を下げた状態で、埋められていた。
色は赤銅色〜金銅色で、一般に見る緑青におおわれた姿とは違っていた。
鋳上がりは良好で、
破損もほとんどなく文様が鮮明であることと、
出土状況が明確であることなどから、
1991年国の重要文化財に指定された。
誉田丸山古墳 応神天皇陵陪冢 |
羽曳野市誉田 (撮影日2013/4/22) |
大鳥塚古墳のすぐ南に、誉田御廟山古墳(応神陵)があるが、その誉田御廟山古墳の参道の東側にある。
誉田御廟山古墳(応神陵)御拝所入口から入ってすぐ
左の木立が、誉田丸山古墳
正面奥に誉田御廟山古墳がある。
入口から入って右奥には、「宮内庁書陵部 古市陵墓管区事務所」がある。
誉田丸山古墳は、径50mの円墳 誉田山古墳が築造されるときにはすでに存在していたらしく、 これを外堤に取り込む形で陵墓がつくられている。 1848年(嘉永元)に大量の副葬品が出土し、 誉田御廟山古墳の後円部のそばにある誉田八幡神社には保管されている。 この丸山古墳から出土したと伝えられている品が保管されている。 金銅透彫鞍金具(附 金銅轡鏡板・金銅花形辻金具・ 鹿角装刀残闕・馬具鋲及鎧等残闕・発掘関係書類)が 国宝に指定されている。 |
誉田丸山古墳 誉田御廟山古墳(応神陵)御拝所から見る |
もともと存在していた丸山古墳や二ツ塚古墳を取り込んで、誉田御廟山古墳がつくられたのか?
誉田御廟山古墳(応神天皇陵)と周辺の古墳
(HP世界遺産暫定一覧表より)
丸山古墳は
誉田御廟山古墳の前方部中央のこぶみたいに見える部分
誉田御廟山古墳の東側には、
二ツ塚古墳 (全長110mの前方後円墳 後円部径73m・高さ9.9m 前方部幅60m・高さ8.6m
4世紀末〜5世紀初頭の築造と推定されている。)
東馬塚古墳 (一辺30mの方墳)
栗塚古墳 (一辺43mの方墳)
西側には東山古墳 (一辺50mの方墳) があるが
誉田丸山古墳も含めて全て「応神陵陪冢」として宮内庁が管理している。
羽曳野市役所のそばにある全長225mの墓山古墳も、応神陵陪冢に治定されているそうで・・・・・・。
誉田御廟山古墳 応神天皇陵 |
羽曳野市誉田3・5・6丁目 (撮影日2013/4/22) |
応神天皇陵恵我伏岡陵として、宮内庁が管理している。
パノラマで見る 誉田御廟山古墳前方部 |
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誉田御廟山古墳は 前方部を北北西に向ける 墳丘前方部の西側が大きく崩れているのは、 |
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誉田御廟山古墳(応神陵) 御拝所への参道 左手前の木立は誉田丸山古墳 |
誉田御廟山古墳 前方部の北東角辺りから見る周濠 右奥が後円部だが大きすぎて良く見えない 左の建物は天理教の施設 |
墓山古墳 応神陵陪冢 |
大阪府羽曳野市白鳥3丁目 (撮影日2013/4/22) |
墳丘部は応神陵の陪冢(応神陵ほ号陪冢)として宮内庁が管理している。
こんなに大きいのに、陪塚ですか・・・・・?
墓山古墳は 前方部を西に向ける 墳丘長225mの前方後円墳 後円部径135m・高さ20.7m 前方部幅153m・高さ19.3m 古市古墳群中、5番目の大きさ 幅15mの周濠と幅37mの堤がめぐり、その外側にも浅い溝が掘られている。 3段築成 くびれ部の左右には造出がある。 墳丘頂やテラスには円筒埴輪列があり、家や盾、きぬがさなどの形象埴輪も見られる 明治時代には後円部頂に竪穴式石室の窪みがあったことや、 格子目を刻んだ竜山石製の石棺の蓋石が露出していること、 多量の滑石製勾玉や家、盾、きぬがさ、ゆぎ、短甲形埴輪が出土したことか知られている。 1976年(昭和51年)の堤南隅の発掘調査では、堤の内側斜面に葺石があることが分かった。 また円筒埴輪や人物・盾・きぬがさ形などの形象埴輪が出土した。 5世紀前半の築造と推定されている。 周辺にある4基の方墳(野中古墳、向墓山古墳、浄元寺山古墳、西墓山古墳)は墓山古墳の陪塚で、 野中古墳、西墓山古墳には、 甲や刀剣などの武器を中心に農工具などの鉄製品が多量に埋納されていた。 (説明板・羽曳野市HPから) |
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墓山古墳 後円部側 墓山古墳の堤や周壕の一部が 昔から墓地に利用されていたことが 名前の由来になっている |
墓山古墳 北東から見る 左手前後円部 右奥前方部 |
墓山古墳 南東から見る 左奥前方部 右手前後円部 |
墓山古墳 前方部前面 反対側を見ると、お墓と浄元寺山古墳がある。 |
市野山古墳と同形同大と考えられている。
幅の広い外堤は現在畑や墓地、市の駐車場となっている。
墓山古墳周辺図 (説明板から)
今回見学しなかったが
西馬塚古墳は、
調査により、1辺約45m、高さ10m余りの方墳と考えられている。
形象
市指定有形文化財「西林寺跡出土しび」
(羽曳野市役所内展示物)
「しび」とは、屋根の大棟両端に取り付けられる
鳥の羽をかたどった装飾品のこと。
高さ140cm・長さ90cm・最大幅80cm
7世紀代のものと推定されている。
向墓山古墳 応神陵陪冢 |
大阪府羽曳野市白鳥3丁目 (撮影日2013/4/22) |
墓山古墳後円部の東側にある。
応神陵の陪冢として、墳丘の大部分を宮内庁が管理している。
向墓山古墳の図 (説明板から) 向墓山古墳は 古市古墳群のほぼ中央にある 一辺68m・高さ10mの方墳 2段築成(斜面の途中に4mの平坦部がある) 墓山古墳の外側と接する西側と北側では、 浅い溝状の掘り込みがあり、 間をつなぐ土橋が2ヶ所に造られている。 内部の埋葬施設は不明だが、 周囲から埴輪が出土、 5世紀前半の築造と推定されている。 (説明板から) |
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向墓山古墳 北東から見る |
向墓山古墳 北西から見る |
白鳥神社古墳 |
大阪府羽曳野市古市1の1 |
後で調べたら白鳥神社は、古墳の上にあるという。
白鳥神社は後円部の上にある。
古墳と知っていれば、しっかり見学したのに・・・・・
昔、白鳥神社は峰塚古墳の上にあったそうだ。
白鳥神社古墳は 全長120mの前方後円墳 後円部径65m 前方部幅70m
墳丘の前方部は国道や近鉄南大阪線古市駅で削られている。
後円部には白鳥神社が建っている。
前方部の端と想定されるところから、円筒埴輪、盾・家・きぬがさなどの形象埴輪が出土したが
前方部が後円部より発達していることから
古墳時代後期(6世紀後半)の築造と推定されている。
しかし・・・・「古市古墳群分布図」には載せられていない。
インターネットで昔の地形図を見ると前方部の高まりが、古市駅の西側の国道のあたりまで残っている・・・・・。
前の山古墳 軽里大塚古墳 日本武尊白鳥陵古墳 |
大阪府羽羽曳野市軽里3丁目 |
「日本武尊白鳥陵」に治定されて、宮内庁が管理している。
羽曳野市のほぼ中央、羽曳野丘陵から東に延びる中位段丘上に築かれている。
前の山古墳(日本武尊白鳥陵)
小口山古墳のある山の中腹から見る
2012年10月撮影、この時はそばまで行かなかった…
前の山古墳実測図 (古墳大辞典から) 前の山古墳は 前方部を西に向ける 墳丘長200mの前方後円墳 後円部径106m・高さ20.5m 前方部幅165m・高さ23.3m 前方部の幅が後円部の直径の約1.5倍、 高さは前方部が3m高い。 くびれ部北側には造出しがある。 幅30〜50mの周濠が巡り、その外側に上面幅21mの堤をめぐる。 墳丘の規模の割に周濠の面積が大きい。 三段築成 羽曳野の語源は日本武尊の白鳥伝説に由来している。 白鳥三陵(伊勢・大和・河内)およびそれに付随する地方伝承があり、 「尊は三たび白鳥と化して西方めざし、埴生の岡の上を羽を曳きつつ飛び去り云々」 (日本武尊は遠征の帰り道、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなり 白鳥となって大和琴弾原(ことひきはら)を経由して古市に飛来し、 また埴生野の空に向かって羽を曳くように飛び去った」 という故事から、埴生の岡を羽曳野というようになったという。 1881年(明治14)に日本武尊の陵に指定されたが時代的にはかなり年代差がある。 1979年の羽曳野市教育委員会の発掘調査で、 外堤の幅を画する幅約4.5mの溝が発見され、幅21mの外堤があることが確認された。 1981年に宮内庁の墳丘裾崩壊箇所の発掘調査では、 後円部の円筒埴輪列が確認され、朝顔形埴輪や家、蓋などの形象埴輪が出土している。 円筒埴輪は市野山古墳(允恭陵)と同様な特徴があり、5世紀後半の築造と推定されている。 |
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前の山古墳 前方部角より 右は前方部先端 |
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前の山古墳 後円部脇より前方部を見る 右奥前方部 |
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前の山古墳 御拝所 |
前の山古墳 後円部側 |
濠が大きくて、見ごたえのある古墳だ!
高屋城(築)山古墳 安閑天皇陵古墳 |
大阪府羽曳野市古市5丁目 |
「安閑天皇 古市高屋丘陵」に治定されて、宮内庁が管理している。
高屋丘陵の北端に築かれている。
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高屋城山古墳 御拝所 |
高屋城山古墳 前方部の北西角 右手前が前方部先端 直角になっている。 |
高屋城山古墳 後円部側 |
高屋城山古墳 前方部角より見る 右が前方部先端 |
白髪山古墳 清寧天皇陵古墳 |
大阪府羽曳野市西浦6丁目 |
「清寧天皇 河内坂門原陵」として宮内庁が管理している。
古市古墳群の南西部に築かれた前方後円墳。
白髪山古墳
小口山古墳のある山の中腹から見る
2012年10月撮影、この時はそばまで行かなかった…
北東から見た白髪山古墳 手前後円部 右奥が前方部 |
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白髪山古墳実測図 (古墳大辞典から) 図の上の小さな古墳は、小白髪山古墳 下の大きな前方後円墳が、白髪山古墳 白髪山古墳は 墳丘長115mの前方後円墳 後円部は直径63m・高さ10.5m 前方部の幅128m・高さ11m 前方部幅が後円部直径の2倍あり、前方部が発達した、 前方後円墳の最終段階と考えられている。 前方部前面で幅17mほどの盾形周濠をもつ。 周濠は地形に制約されて、 前方部付近には水量調整用の土手が築かれている。 くびれ部の北側には造出しがある。 平成15年度の調査で 二重目の濠が存在することが判明した。 調査で出土した埴輪などから、 6世紀前半の築造と推定されている。 墳丘主軸の東延長線上にある小白髪山古墳は、宮内庁により陪冢に指定されている。 古墳の名称は、被葬者とされる清寧天皇が生まれながら白髪であり、 白髪大倭根子命(シラガノオオヤマトネコノミコト:古事記)と名づけられていたことに由来する。 前方部の幅が墳丘全長より長く、しかも極端に広がるという後期の前方後円墳の形をしているが、 幕末文久年間(1861〜64)の修理時に、 シャクシ形をバチ形に変形したという絵図が残っているそうだが・・・? |
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白髪山古墳 御拝所が前方部正面の濠の外にある |
前方部角からみる白髪山古墳後円部 左奥後円部 |
白髪山古墳の北東に大型店の駐車場があるので、しばらくの駐車は可能かも・・・・・
小白髪山古墳 |
大阪府羽曳野市西浦1丁目 |
清寧天皇陵の陪塚に治定されていて、宮内庁が管理している。
古市古墳群の南西部、羽曳野丘陵から東にのびる台地の上に造られた小型の前方後円墳。
西方の白髪山(清寧陵古墳)と一直線上に同じ向きで並んでいる。
小白髪山古墳
住宅と道路にはさまれて窮屈そう・・・。
小白髪山古墳は
全長46m・高さ4.5mの前方後円墳
幅10mほどの周濠がめぐる
墳丘には円筒埴輪が並べられていた。
白髪山古墳と同じころの、
6世紀前半頃の築造と推定されている。
木が無いので前方後円墳の形をはっきり確認することができる。
峯ヶ塚古墳 国史跡 |
羽曳野市軽里2丁目 |
峰塚公園は峯ヶ塚古墳を中心とした都市公園。
「郷土の森ゾーン」内には、終末期古墳の小口山古墳が保存されている。
峯ヶ塚古墳の北側に駐車場がある。
北側から見た峯ヶ塚古墳 左(東)・後円部 |
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駐車場そぱに峯ヶ塚古墳の説明板がある。 峰塚古墳実測図 (説明板から) 後円部側にある。 古墳の大きさが書かれていない説明板だ・・・ 2012年10月の訪問の時のページでは、 峯ヶ塚古墳は竪穴式石室と記したが、 説明板には、 古いタイプの横穴式石室と書かれている。 竪穴式石室か、横穴式石室か 断定出来ていないようだ。 1992年の歴史読本には 「上部に竪穴式石室、下部に横穴式石室をもつという 二重構造といわれているが、実際ははっきりしない」 というようなことが書かれている。 しかし、文化庁はこれ以上の発掘は許可しない方針だそうだ。 峯ヶ塚古墳は 全長96mの前方後円墳、後円部径56m・高さ9m 前方部幅74.4m・高さ10.5m 全てを盛土している。 (墳丘は現在見られるより一回り大きい。) 南側以外は二重濠があり、 内濠の幅約11m、内堤の幅約18m、外濠の幅約8mで、 墓域は東西168m×南北148mとなる。 二段築成 二段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほかは、表面に葺石はみられない。 後円部墳頂中央部に石室(4.3m×2.2m)があり、 赤色顔料の付いた石棺の破片(阿蘇産の熔結凝灰岩製)が見つかっている。 (刳抜き式の舟形石棺があったと考えられている。) 盗掘を受けていた(石材の多くが抜き取られていた)が、 銀や鹿角製などの装飾品を付けた大刀、武器や武具、馬具などや、 金銅製の冠帽や帯金具、魚佩、銀製の垂飾りや花形飾り、 ガラス玉や石製玉類など、3,500 点以上が出土した。 成人男性の骨や歯なども出土している。 6世紀初頃(古墳時代後期)の築造と推定されている。 |
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峯ヶ塚古墳西南から見る 右奥が後円部 |
峯ヶ塚古墳 手前が前方部前面 小口山古墳のある山の中腹から見る |
峯ヶ塚古墳は
古市古墳群の中では内部施設が発掘調査されている数少ない前方後円墳(?)。
古墳の復元整備に伴い、12回の発掘調査が行われたそうだ。
河内 |
小口山古墳 府史跡 |
羽曳野市軽里2丁目 |
峯ヶ塚古墳の西側の丘を登ったところにある。
案内図が見あたらなくて、「小口山古墳はどこだろう?」と言っていたら、
そばにいたおじさんが「その山の上だ」と教えてくれた。
小口山古墳は 峯ヶ塚古墳の西方約200mの羽曳野丘陵の東縁に位置する。 明治45年(1912)に開墾に際して発見され、 「河内軽里(かわちかるさと)の掘抜石棺」として紹介された。 以前は径30mの円墳とされていたが、公園整備に伴う発掘調査で墳丘周囲の掘割が見つかり、 径14mの円墳と変更された。 横幅1.6m・高さ1.6m・長さ2.7mの石材に、 長さ2.13m・幅0.87m・高さ0.63mの穴を掘り抜いた横口式石槨をもつ。 石槨の周囲には、切石が積み上げられ、上には天井石があり、 石槨を保護する石室状の特異な遺構があることが判明した。 内部から土器と骨片が出土している。 7世紀後半ごろの築造と推定されている。(すでに大きい古墳を造ることが禁止されていた時代) |
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小口山古墳 墳丘は低くなってしまっている。 |
小口山古墳 石槨開口部 |
小口山古墳石棺内部 よくもきれいに掘り込んだものだ!! 上に穴があいている。盗掘坑かな? 2004年に、 石棺が掘り出されて調査されたようだが、 現在は以前の状態のままに埋められている。 石棺をおおっていた天井石の1枚(長さ135cm・幅60cm・厚さ38cm)は、 石槨から10mほど離れた落ち葉の下から見つかった。 |
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小口山東古墳 小口山古墳のすぐ東側にある。 最近の調査でみつかった。 詳細は説明がなくてわからない。 |
塚穴古墳 来目皇子墓 |
羽曳野市はびきの3丁目 |
「用命天皇皇子・来目皇子埴生崗上墓(クメノミコハニュウノオカノウエノハカ)」に治定されて、宮内庁が管理している。
塚穴古墳 北から見た墳丘 |
塚穴古墳 東南角 右奥が北 |
塚穴古墳は 1辺54m・高さ10mの方墳 三段築成 平成17年度からの周辺部の発掘調査で、 堀の外側に築かれた大規模な土手が、墳丘を取り囲んでいることが判明した。 古墳の南側の土手は幅16m・高さ2.m、上下2段に築かれている。 古墳北側の土手は38m・高さ3mで、 塚穴古墳は土手を含めると130m四方におよぶ広大な範囲となる。 内部に切り石造りの横穴式石室がある 陵墓指定される以前(明治初年)には、 南に開口する切石積の横穴式石室の荒墓で、「塚穴」といわれていた。 江戸時代後期の記録によると、 石室の玄室の長さ4.5m・幅2.7m 羨道長4.5m・幅1.8m、 切石が使用され、中には石棺がある。 1898年(明治31)に大修理を実施し、空堀をもった方墳に整備した。 7世紀前半の築造と推定されている。 被葬者が推古天皇11(603)年に亡くなり、 後に河内の埴生の岡の上に葬られたという来目皇子と推定されている。 |
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塚穴古墳 御拝所 南側にある |
塚穴古墳 南側墳丘 |
現在、塚穴古墳は「あたらしい道」の施設に囲まれて、保存されている。
河内 |
古市古墳群 河内大塚山古墳 大塚陵墓参考地 |
松原市西大塚1丁目 |
堺市堺区の宿泊先に向かう途中に大きな古墳。
駐車場がないので道端に駐車しながら、撮影。
この古墳は古市古墳群に入るらしいけど、松原市に含まれる部分もあって、つい忘れられがち・・・・
全国で5番目に大きい前方後円墳だ。
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河内大塚山古墳は、 墳丘全長335mの前方後円墳 後円部直径185m・高さ20m 前方部幅230m・高さ4m 周囲に壕をめぐらせている。周濠を含めた全長は420m。 周濠の外には、周庭帯があったと考えられている。 前方部はほぼ北面している。 後円部頂は海抜45mで、松原市で最も標高が高い。 @前方部は平板低平で、やや不整形をとること A埴輪や葺石の存在がはっきりしないこと B後円部に「ごぼ石」とよぶ巨石が存在するうえ、 江戸時代後半の書物に「磨戸石」とよぶ巨石が18世紀後半の宝暦〜明和年間に見られたこと C古墳内にあった石室材・石棺材と思われる竜山石や花崗岩が 柴籠神社(松原市上田7丁目)などへ移されていること などから横穴式石室が後円部につくられていた可能性があり、 6世紀中葉〜後葉の築造と推定されている。 中世には丹下氏が古墳を利用して丹下城を築いた。 織田信長によって丹下城がこわされた後、江戸時代には前方部に大塚村が形成され、 後円部には氏神の天満宮が祀られた。 大正10年3月に国の史跡(昭和16年12月解除)となり、大正14年9月に陵墓参考地となったことから、 昭和3年までに数十戸の民家は濠外に立ち退いた。 現在宮内庁が管理する陵墓参考地である。 (説明板から) |
河内大塚山古墳 渡り堤の左側が前方部前面 右奥後円部。 |
河内大塚山古墳は、大きさからみると、
百舌鳥の大仙陵古墳(仁徳陵古墳)、古市の誉田山古墳(応神陵古墳)、
百舌鳥の上石津ミサンザイ古墳(履中陵古墳)、岡山県の備中造山古墳に次ぐわが国で5番目の巨大古墳。