北村さんちの遺跡めぐり
更新日2011/1/25

京都北部の旅・その1
山城国から丹波国へ 初めての兵庫県
2010/11/21〜23


2010/11/21
AM 6:10 出発
AM 6:50 山あいから日の出を見る  UFOのような光発見
AM 7:40 賤ヶ岳SA 休憩
AM 9:00 大津SA 休憩
 京都南ICから 鳥羽大橋をわたり天皇の杜古墳へ


京都府中西部の地図g

天皇の杜古墳 
国史跡

京都市西京区御陵塚ノ越町
 (撮影日2010/11/21)


AM 10:00 着

史跡公園になっている。
ちょうど、天皇の杜古墳を守る会の方たちの掃除の日で、にぎわっている。

天皇の杜古墳 後円部を斜め後ろから見る
周壕跡のような平坦部の中に墳丘がある。
保存整備の一環として墳丘部と周壕部の部分的な発掘調査の結果、
周壕部と理解されてきた平坦部は、
周壕としての掘り込みはなく、墳墓の区域として他の部分と区別した部分であると考えられている。

天皇の杜古墳 前方部斜め前から
くびれ部が見えている。

天皇の杜古墳
前方部から後円部を見る


葺石が見られる場所もある。

天皇の杜古墳
前方部側から後円部頂を見る。



天皇の杜古墳実測図
全長83mの前方後円墳 後円部径50.5m
2段築成  柄鏡式の形態
平坦面には円筒埴輪が樹立 斜面には葺石
主体部は未調査。
古墳時代前期の4世紀代の築造と推定されている。
この古墳はかつて  文徳天皇(平安時代)の御陵であるとされていたことが、古墳名の由来となる。

天皇の杜古墳から西へ
セブンイレブン京都桂坂店で昼食ゲット
西京区沓掛町、旧山陰道沿いの大枝神社境内に大枝神社古墳があるというので行ってみる。
駐車ができなくて早々に断念。
 

福西古墳群

京都市西京区大枝北福西町
 (撮影日2010/11/21)


京都市西京区大枝東長町、中山町、東新林町、北福西町にある古墳時代後期の群集墳で20数基が確認されている。
洛西ニュータウンの造成を機に11基を発掘調査、現在9基が保存され、うち3基が整備保存されている。
 
北福西町の福西遺跡公園には7、10号墳が現地保存。
大枝東長町のコープ洛西の敷地内には4号墳が保存。
そのほか、現状のまま数基が保存されているようだ。
4号墳の北方には雑木林が残っているから、そのあたりかな。

福西7号墳・10号墳
福西遺跡公園

AM 11:10 着。   駐車場がなく、交替で見学。

福西古墳群
左(西)・7号墳  右・10号墳

柵や植え込みがジャマ

福西古墳群7号墳   (奥は10号墳)

7号墳は 径15m・高さ1.6mの円墳
墳丘はかなり破壊されていた
主体部は木棺直葬で、
 東南と西北の隅に排水溝が設けられていた。
 石室内から須恵器が出土
6世紀末〜7世紀初めの築造
10号墳より先につくられていると推定されている。

福西古墳群10号墳
    (奥は7号墳)


10号墳は、径12mの円墳
横穴式石室の下半分が残存している。

福西古墳群10号墳の石室

全長6.2m、幅1.4mの無袖式
縄紋時代の遺物包含層に築かれている。
羨道部がない。
石材は自然石の砂岩で中から須恵器が出土 
7世紀初めの築造と推定されている。

福西4号墳

大枝東長町のコープ洛西の駐車場横に保存されている。

福西古墳群4号墳   古墳群中最大の大きさ

径23mの円墳
横穴式石室は(埋め戻し)
 全長10.2m・幅2m
 玄室長4.5m・幅2.1m・羨道長5.6m・幅1.1mの両袖式
 玄室床面には礫が敷かれていた。

福西古墳群4号墳
墳丘の真ん中がへこんでいる。
ここに石室があるのか?

石室から
須恵器、鉄刀、鉄釘、馬具の飾り金具などが出土






京都市西京区から北西へ、
老の坂峠は、山城地方と丹波地方の境となる。
山城から丹波の入り口亀岡市へ
京都縦貫道沓掛ICから大井ICへ行けば、すぐだ。

馬場ヶ崎古墳群

亀岡市大井町小金岐
 (撮影日2010/11/21)

AM 11:50 着。  墓地の中に墳丘。

馬場ヶ崎古墳群1号墳
一辺12mの方墳
裾が少し削られている。
未調査のため詳細は不明

右端奥の木立のあたりが2号墳?
北西100mに2号墳がある。(確認してこなかった)
2号墳一辺21mの方墳で、主体部は横穴式石室、、石材が一部露出している。
(確認してこなかった。)

保津車塚古墳
(案察使1号墳)
亀岡市保津町案察使
(撮影日2010/11/21)

AM 121:10 着。
農地にかなり削られた墳丘が残る。
以前は30mほどの円墳と考えられていたが、発掘調査の結果前方部が確認された。

保津車塚古墳
後円部は残るが前方部は削平されている。
1997・2001年発掘調査
全長34mの帆立貝形前方後円墳
後円部径26.6m・高さ2m 前方部幅20m・高0.5m
葺石あり 埴輪なし
木製埴輪が立てられていた。
周囲に二重周濠が巡り、東側には陸橋もあった。
周壕も含めると全長は52.7mとなる。
説明板はない。

保津車塚古墳
右側(南側) 前方部

土製埴輪は出土していないが、
石見形盾の木製品(木製埴輪)が出土している。


丹波国分寺跡附八幡神社跡
国史跡
亀岡市千歳町
(撮影日2010/11/21)

PM 0:40 着。 天気がいいので表門の石段に腰かけ食事。

農地の中に崩れかけたような国分寺がある。
そこにいくには砂利道しかない。
時代劇のロケに使われるというが、それがよくわかる景色だ。


史跡丹波国分寺跡
「延喜式」に記録があるが、詳細は不明
明智光秀の亀岡城築城の時に焼失したと伝えられている。

丹波国分寺跡の説明板は字が薄くなっていて理解するのは困難。

史跡丹波国分寺跡
表門の右(東)に土壇と17個の礎石が並ぶ
五重塔か七重塔跡とみられている。

西方の田んぼの中に同形の
土壇が残っていて
東塔と西塔があったと考えられている。
金堂・中門などの遺構も確認されている。
この丹波国分寺跡には「亀岡市の名木」といわれる木がある。
イヌマキ(樹高8m・幹周2.2m)
オハツキイチョウ(樹高22m・幹周4.3m)
カゴノキ(樹高13m・幹周3.3m)
ムクノキ(樹高25m・幹周6.36m)

国分古墳群 亀岡市千歳町国分
(撮影日2010/11/21)

史跡丹波国分寺跡から東の方を見ると、古墳らしき小さな高まりが見える。それが国分1号墳。

国分1号墳
小さな祠がある。
大事にされていたとわかる。

国分1号墳
墳丘が流出し、
天井石がずらりと露出している。

国分1号墳 
墳頂から見た石室石材
国分古墳群は、
史跡丹波国分寺跡の東400mに国分1号墳、その東側の山林内に22基が確認されている。
また、国営農地再編整備事業に伴う調査で、1号墳周辺の農地下から埋もれた古墳37基が発見された。
横穴式石室が中心で、八角形の墳丘(国分45号墳)を持つものもある。

1号墳そばから発見された61号墳は横穴式石室を持ち、須恵器や馬具、耳環が出土、
6世紀後半の築造で、7世紀前半まで追葬されていたと考えられている。
すぐそばの62号墳は小石室に棺台が残っていた。

千歳車塚古墳
国史跡
亀岡市千歳町千歳車塚
(撮影日2010/11/21)

 
PM 1:40 着
出雲大神宮の西600mの水田の中にある。

千歳車塚古墳

前方部角から
右奥 後円部
千歳車塚古墳は   全長80mの前方後円墳
 後円部径41m・高さ7.5m   前方部幅45.5m・高さ6m
 三段築成   くびれ部に造出しがある。
 周囲の農地に周濠の痕跡が残る。
 古墳の外形と出土した埴輪などから5世紀代の築造と推定されている。
2003年の調査で、
二重周濠の一部が確認され、埴輪、葺石も確認されたが、詳細は不明。

千歳車塚古墳
手前 後円部
右奥 前方部



周壕跡がきれいに残っている。  
   

出雲大神宮 亀亀岡市千歳町出雲
(撮影日2010/11/21)


亀岡市に出雲があるとは・・・・

出雲大神宮

紅葉がまぶしいくらいに美しい。
観光客がいっぱい。
石川県からの観光バスもみかける。
出雲大神宮は、丹波国総社一宮で、元出雲と称せられる。
大国主命と妃三穂津姫命を主祭神として祀る。
社伝によれば、709年の創祀という。
背後の御影山は神体山として古くから崇められている。
境内神社は上の社・黒太夫社・笑殿社・稲荷社・弁財天社・崇神天皇社・春日社。

正面の山は
出雲大神宮の神体山・御影山


左は
出雲大神宮本殿
ちょうど結婚式が執り行われている。
出雲大神宮の本殿裏の斜面に古墳があり、横穴式石室が開口している。
古墳のそばには、磐座もある

出雲大神宮 磐座

祀られている。

出雲2号墳墳丘

径11mの円墳

出雲2号墳石室内部

横穴式石室は、全長5m以上、
玄室は長さ4m・幅1.2m・高さ2mの無袖式
羨道は半壊

須恵器、土師器、鉄釘、刀子、木炭などが出土

京都府中西部の地図g
  

坊主塚古墳 亀岡市馬路町池尻
(撮影日2010/11/21)


PM 2:30 着。

坊主塚古墳全景
 南から


南の墳裾に石仏が並べられている。
左(西)奥の木立は天神塚古墳

古墳のそばに牛舎がある。
説明板の文字は薄くなって読みづらい。

坊主塚古墳 
南側の方形の造出し
説明板の右側部分


そう言われれば出っ張りがある感じ。
坊主塚古墳は  56、99年発掘調査
一辺34mの方墳  二段築成
南側に方形の造出しがある
周囲に二重の周溝が巡り、全体の規模は67m×65m
墳丘には葺石があり 円筒・象形埴輪が並び、外周溝の外には木製埴輪が並ぶ。
主体部は組合せ式木棺と考えられていて、
四神四獣鏡、甲冑、鉄製武器(刀、剣、鏃など)、埴輪(馬、鶏、きぬがさ)、須恵器が出土
5世紀後半の築造と推定されている。
背後の丘陵上には池尻古墳群が分布する。


天神塚古墳 亀岡市旭町市場
(撮影日2010/11/21)


坊主塚古墳のすぐ西にある。竹林となっている。

天神塚古墳

一辺30mの方墳
二段築成、葺石あり
未調査のため詳細は不明
坊主塚古墳との強い関係がありそう。
中期の築造と推定されている。

糠塚古墳 亀岡市旭町印地
(撮影日2010/11/21)

PM 3:00 着。

糠塚古墳全景
離れてみた方が古墳らしい。
糠塚古墳は全長65mの帆立貝形前方後円墳 
 後円部径45m 前方部幅25m
三俣川北岸の平地に築かれている。
5世紀の築造と推定されている。

くびれ部に糠塚稲荷神社がある
鳥居のそばに立ち入り禁止と書かれた立て札がある。
私有地なのかな?

鳥居の奥に小さな祠がある。
朽ち果てている鳥居もある。
   

坊田古墳群
ボウデンコフングン
府史跡
南丹市八木町柴山小字坊田
(撮影日2010/11/21)

PM 3:20 着。

京都府立丹波養護学校の敷地内に古墳が保存されている。
学校の手前にも案内板があるが、一回りしてもわからない。
休日のため、校内には人が見当たらず、たまたま学校に用事で訪れた男性に聞き、
ようやく場所が分かる。
正門正面にある建物の右隣に保存されていて、正門からは見えない。

坊田5号墳 道路側から

植栽の刈り込みが楽しい。

坊田5号墳 校舎側から

坊田5号墳は 径16mの円墳
学校建設に伴い発掘調査
墳丘裾部に積み石があり、馬具、鉄鏃、須恵器などが出土
7世紀前半の築造と推定されている。
2〜4号墳も同時期の築造と推定
1号墳はやや古い

坊田5号墳の石室石材
上の写真の中央墳裾に露出した石材
石室は埋め戻されているが、石材がひとつ露出している。
学校北側の山林内に1〜4号墳がある。 全て横穴式石室を持つ。

大きさ 石室規模 石室
1号墳 方墳 一辺18m・高さ4m 全長6.8m
玄室幅2.3m
羨道幅1.3m
両袖式石室
2号墳 円墳 直径8m・高さ2m 不明 天井石露出
3号墳 円墳 直径15m・高さ4m 全長7.7m
玄室幅1.7m
羨道幅1.1m
片袖式石室
4号墳 円墳 直径10m・高さ2m 玄室長3.6m以上
玄室幅1.2m以上
5号墳 円墳 直径16m・高さ4.5m 全長10.1m
玄室幅2.2m
羨道幅1.4m
両袖式石室

    

城崎神社
城崎塚古墳
垣内古墳
南丹市園部町上木崎町
(撮影日2010/11/21)

PM 4:00 着。
城崎神社境内に城崎塚古墳があるというので行ってみる。

城崎神社

本殿は覆い屋の中に保存されている。
古墳はどこか分からない
鳥居の左向こうに高まりがあるから、ここかな?

城崎神社の北西200mのところに中畷古墳があるというが確認してこなかった。

園部垣内古墳

南丹市園部町内林町
 (撮影日2010/11/21)

城崎神社の東、内林町の厄神社には垣内(カイチ)古墳があったが壊され道路になってしまった。

厄神社(八幡神社・内林の厄神さん)

右の石灯籠の左側に垣内古墳説明板。
石灯籠後ろに垣内古墳の記念碑がある。
説明板は、板に文字が書かれていて風情あるものだ。
神社が鎮座する丘は自然丘陵と思われていたが、大量の鉄滓が出土し、
     昭和47年に道路拡幅工事に伴う発掘調査が行われた。
その結果、鉄滓は中世のものとわかったが、
  周濠を含めると107mの前方後円墳であることが判明した。


園部垣内古墳跡記念碑



垣内古墳は  全長82mの前方後円墳。後円部径50m・前方部幅32m
周壕がある。
周壕の外側から内側にはり出した島状遺構が発見された。(2005年の発掘調査)
後円部の粘土槨に長さ6.4mの割竹形木棺がおさめられていた。
木棺に朱色が施されていた。
鏡6面(三角縁神獣鏡2面、三角縁仏獣鏡、中国製の盤竜鏡、彷製の四獣鏡、擬銘帯神獣画像鏡が角1面)
玉類129・車輪石(石釧)12・刀剣類96ほか、農工具など数多くの副葬品が出土した。
出土遺物は国の重要文化財に指定されている。
古墳時代前期のものとしては口丹波最大の大きさ。
4世紀前期の築造と推定されている。 

黒田古墳

南丹市園部町黒田
 (撮影日2010/11/21)

PM 4:25 着。
太陽機械工業園部工場の正門手前に大きな墳丘がある。
工場の門番のおじさんに了解をいただき、工場の敷地内から墳丘に上がらせてもらった。

黒田古墳を
太陽機械工業園部工場の駐車場から見る。


工場に入らずに墳丘に上れる道があるが、ややこしいらしい。
(野獣よけの柵があったりする。)
10月後半に墳丘の除草が済んで、
  墳丘をしっかり見ることができた。
  

黒田古墳

前方部から後円部を見る

    

黒田古墳

後円部に埋葬施設(第1主体部)が
  実物大の写真で示されている。

黒田古墳実測図
   (説明板から)
黒田古墳は、平成2年発掘調査
全長52mの前方後円墳  
後円部長径南北32m・短径東西22m  前方部幅14m・高さ1m

山の北方より延びる丘陵の先端(標高155m)につくられ、
園部川や田園を一望する位置にある
後円部は楕円形、前方部はバチ形
第1主体部南北10m・東西6mの内側にさらに南北7m・東西3.5m・深さ2.5mの墓壙は2段に穴を掘り
底に石を敷いて床面をつくり、その上に木棺を置く

第2主体部はこの北側で第一より後の時代につくられたものと考えられていて
中国の銅鏡1・管玉6・鉄鏃20以上・塗漆製品・土器類が出土

弥生時代末〜古墳時代初頭の築造と推定されている。
弥生時代の築造の可能性があるためか、古墳大辞典には「黒田墳丘墓」と紹介されている。

足をのばして、兵庫県へ    雲部車塚古墳(兵庫県)のページ

午後5時を過ぎたので、本日はここまで。
雲部から西へ篠山の中心地を通り過ぎてから、北上。
兵庫県春日町七日市の「道の駅丹波おばあちゃんの里」で休憩、
福知山署の向かいにある「福知山サンホテル」にて宿泊。
夕食の鶏肉の燻製はとても美味だった。

京都北部の旅・その2  につづく

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