北村さんちの遺跡めぐり
更新日2009/4/28

関西二泊三日の旅 
その5 京都府城陽市・宇治市 
撮影日2008/11/27


関西の旅三日目、最終日。
宿泊地「アイリスイン城陽」から石川県まで北上しながらの古墳見学。
まず、1年前に確認できなかった城陽市の芝ヶ原古墳を探す・・・・見つからない!(一年前の旅行記
通りがかりのおじさんにたずねて、教えてくれたのは、正道官衙遺跡だった。

京都府南部の地図g
   
正道官衙遺跡
ショウドウカンガイセキ
(国史跡)

京都府城陽市寺田
 (撮影日2008/11/25)

  
1965(昭和40)年、瓦片や土器片が見つかり、古代寺院があったと推定されて、「正道廃寺跡」と名づけられた。
1973(昭和48)年の発掘調査で、寺院というより奈良時代の郡(郡の役所)中心部分と推定される建物群が確認され、
1974年、名称が正道官衙遺跡改められた。
発掘調査後、埋め戻されて広場になっていたが、1992(平成4)年、史跡公園となった。


正道官衙遺跡



     


もう一度芝ヶ原古墳を探す・・・見つからない
通りがかりの高校生に尋ねたら、すぐそこだという。
・・・・見つからない。
(家に帰ってから確認したら、通りが1つか2つ違っていただけみたいだけれど分からなかった。)
住宅が建て込んでいるので、そばまで行っていたのに見れなかった。
昨年に続き、大失敗、ガックリ!
芝ヶ原古墳を見るために、近い将来もう一度この地に来ることになりそうだ。



気を取り直して・・・・コスモ石油南伏見SSでガソリン給油。

1年前に来たときに、宇治歴史資料館の職員の方に場所をきいておいた隼上り2号墳を探す。
はっきり場所をきいていたので、すぐ見つけることが出来た。
AM 9:30  隼上り2号墳到着   

隼上り2号墳石室
(兎道西隼上り古墳群)

京都府宇治市兎道
 (撮影日2008/11/27)


宇治東インターのすぐそばに石室が保存されている。
宇治市兎道西隼上り古墳群の1基

隼上り2号墳全景
石室だけが保存されている。


1984(昭和59)年、京滋バイパス建設に伴い発掘調査され、この場所に移築復元した。
調査時、墳丘はすでになかったが、直径30mの円墳と推定されている。


隼上り2号墳石室全景

石室は片袖式の横穴式石室で全長9.15m、
 玄室長さ3.65m・幅1.95m
 羨道長さ5.5m・幅1.6m。


玄室床面には拳大の丸石を敷き、3石を並べて羨道と区別している。
石室内から須恵器や鉄鏃・鉄刀・馬具などの鉄製品が出土した。
6世紀後半の築造と推定されている。

隼上り3号墳の石室は宇治歴史資料館の庭に移築保存されている。


 
1年前に行けなかった古墳をもう1つ。二子塚古墳へ。

京都府南部の地図g

1年前、宇治歴史資料館の職員の方に「宇治で見られる古墳はありますか」と尋ねたときに、
「宇治市で見れる古墳はあまりない。二子塚古墳は前方部しか残っていないし・・・」と言われたことが印象的だった。
 
二子塚古墳

京都府宇治市五ヶ庄
 (撮影日2008/11/27)

全長110mの前方後円墳で、宇治市内最大の古墳だが、前方部と一部周濠しか残っていない。
前方部の西南の周濠だけは形良く残っていてその周りが公園となる。


二子塚古墳

前方部周濠側から



二子塚古墳を東側から見る
右側(北)後円部

二子塚古墳実測図(説明板から)
前方部南西側の周濠だけが目立つ。

全長110mの前方後円墳
後円部径60m、前方部幅85m
三段築成
葺石あり 埴輪あり
二重の馬蹄形の周濠があった。


大正時代初めごろ、調査もされないまま、後円部が破壊された。
この時、巨石数個が残され、横穴式石室があったのではないかと思われていた。

1987(昭和62)年の後円部の調査から、横穴式石室があったことが確認された。
副葬品として金環とホ具のみが出土。
埴輪は円筒埴輪・朝顔形埴輪・動物・盾などの形象埴輪が出土した。
6世紀初頭の築造と推定されている。

京都府はここまで。
宇治東ICから京滋バイパスに入り、石山ICで下りる。
滋賀県に入る。

E 関西の旅・高島  につづく

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