北村さんちの遺跡めぐり
更新日2009/3/28

関西二泊三日の旅
その4 
(奈良市)木津川市・精華町・京田辺市
撮影日2008/11/26


関西の旅二日目、奈良の大きな古墳を見学していたら、午後2時半を回ってしまった。
前日と同じ宿泊地「アイリスイン城陽」に向かいながら北上開始!
暗くなるまであとどれだけ見学できるか。

PM 3:00 石のカラト古墳 着

京都府南部の地図g
      
石のカラト古墳
(カザハヒ古墳)
国史跡

奈良市神功1丁目緑地・
木津川市石のカラト古墳緑地

 (撮影日2008/11/26)

この古墳の真ん中を奈良県と京都府の境界線が通る。
奈良県側の名前が「石のカラト古墳」、京都府側の名前が「カザハヒ古墳」。
元は山の中だったのだろうが現在住宅街の中に公園として残っている。
住宅の中に埋もれていて、すぐには見つけられない。



石のカラト古墳遠景


石のカラト古墳は昭和56年に発掘調査された。
下段の表面には30cm大の葺石があったが、上段の葺石はほとんど失われていた。



石のカラト古墳
上円下方墳でお供え餅みたいに見える。
「カラト」の名は石室が唐櫃に似ていることから付けられたという。

石のカラト古墳は、  珍しい上円下方墳
 下方部一辺13.8m・上円部径9.2m・高さ2.9m
 全面川原石で覆う
 埋葬施設は横穴式石槨で高松塚・キトラなどと同じ
 7世紀末〜8世紀前半の終末期古墳と
推定されている
横穴式石槨
 間口1.15m・奥行2.6m・高さ1.2mで5枚の凝灰岩の切石でできている。
盗掘されていたが、朱塗りの棺があったらしく、漆の破片、金・銀の玉など豪華な副葬品の一部が出土した。

木津川市と精華町の境界あたりの国道22号線近くに吐師(ハゼ)七ッ塚古墳があるという。
このあたりかなーと思いながら通りすぎる。

丸山古墳

京都府精華町祝園
 (撮影日2008/11/26)

精華町役場の南に大きな墳丘。


丸山古墳全景

役場前から写す。

丸山古墳径100m・高さ12mの円墳
全長174mの前方後円墳だったという説もある。
前方部にあたる(かもしれない)部分は今幼稚園などがある。

丸山古墳裾部
取り囲むように駐車場がある。
能見宿禰の墓だという伝承があり、
古墳の中腹には能見宿禰塚という碑が
立っているそうだ。
発掘調査はされていない?
精華町役場はきれいで図書館もある建物。トイレを借り、次へ。

丸山古墳の北、精華町下狛地区の鞍岡神社の社殿は、鞍岡山古墳群4号墳の上に建つという。
鞍岡山古墳群3号墳は径40m・高さ6.5mの円墳だそうだ。
このあたりかなーと見ながら北上。

同志社大学の構内に古墳群がある。
同志社のHPには「自動車で来ないで下さい」ということが書かれていたので、
 ドキドキしながら、大学正門へ向かう。
受付で古墳見学という申請を出し、
 入構許可証を頂いて、古墳の場所を尋ね、正門前の駐車場に駐車。
教えられた場所に行ってみると、そこは「筒城宮伝承地」だった。

筒城宮伝承地

京都府京田辺市 
同志社大学校地

 (撮影日2008/11/26)

越前から迎えられ楠葉宮で即位した継体天皇が、
即位後5年から12年(511〜518)弟国宮に移るまでの7年間、宮が置かれたところ。



筒城宮伝承地の石碑



現在ここの地名が「都谷」であるところから筒城宮の伝承地とされているが、ここだと確認されたわけではない。
1961(昭和36)年、京田辺市郷土史会が同志社国際高校の敷地内に筒城宮址の石碑を立てた。
1986年、同志社大学構内の不動尊遺址碑の脇に再度建設され現在に至る。

古墳群を見に来たのだけれど、古墳群はどこだ?
同志社大学のHPの遺跡地図を再度見直しする。
ディビス記念館の南に古墳群があるので、もう一度車に乗り
  ディビス記念館のあたりで駐車。
記念館から斜面を少し降りたところに下司古墳群の石碑発見!

下司古墳群
ゲシコフングン

京都府京田辺市 
同志社大学校地

 (撮影日2008/11/26)

 下司古墳群配置図(説明板から)

下司古墳群
8基からなる群集墳で飛鳥時代に造営されたと推定されている。
1〜4号墳は1963年、5〜8号墳は1983年に調査
いずれの古墳も南に開口する横穴式石室を持ち、
背後に空堀をめぐらせ土砂を盛り上げて墳丘を築造している。



下司6号墳
群中最も小さな石室を持つ古墳
石室は南に開口
全長2.45m・幅0.85m・高さ0.7mの無袖形
石室の東側と西側に墳丘を区画した1mほどの浅い溝が確認されたことから、
径14mほどの円墳と推定される。
石室内から須恵器2と木棺に使用された鉄釘7が出土した。
7世紀前半〜中ごろの築造と推定されている。

下司2号墳
径14mの円墳
その周囲に幅4mの空堀をめぐらせている。
石室は全長7.4m
玄室は長さ2.75m・奥壁幅1.6m  羨道幅1.25m
石材は生駒山から切り出された斑れい岩
木棺の装飾に使われた鉄製品や鉄釘、須恵器・土師器が出土。
7世紀前葉に築造されたと推定されている。


下司1号墳
群中最大の規模を持つ。

下司1号墳は横穴式石室は南に開口
 全長8.55m
 玄室の長さ3.55m・奥壁幅2.05m・高さ2.1m
 羨道の幅1.8〜2.4mの巨石室
玄室には陶棺が、羨道には銅製の鋲を飾った木棺が納められていた。
数点の須恵器が出土(盗掘されていた)
7世紀前葉に最初の埋葬、7世紀後葉に追葬がなされたと推定されている。

6・2・1号墳には説明板があるがそのほかの古墳にはない。


その他の古墳1





その他の古墳2


下司古墳群の西の支尾根には、同時期に築かれた大御堂裏山古墳がある。
 墳丘はすべて失われ、石室も半壊状態だが下司2号墳と同じプランで構築されたと見られている。

同志社大学構内にはほかにも
 田辺天神山遺跡(弥生時代後期・2世紀ごろの集落跡)、
 マムシ谷窯跡(須恵器の窯跡)、
 都谷中世居館跡(15・16世紀の在地土豪の居館跡)
などの遺跡がある。

見学できないかもしれないと思っていた下司古墳群が見られて満足。
時刻は日暮れまじかの午後4時半。
ギリギリで飯岡古墳群が見学できそうだ。

飯岡古墳群
イノオカコフングン

京都府京田辺市飯岡
 (撮影日2008/11/26)

飯岡は同志社大学の東約2km、木津川の西にある独立丘陵。
この地には弥生時代の竪穴式住居跡や方形周溝墓なども確認されている。


飯岡古墳群配置図


車塚古墳
飯岡古墳群

飯岡丘陵の西端にある。
全長86mの前方後円墳   後円部径40m・高さ10m   前方部幅57m・高さ5.5m
葺石がある。周りは埴輪で囲まれている。
5世紀前半(古墳辞典)の築造と推定されている。(現地説明版には4世紀後半となっている。)

車塚古墳前方部側から
やっぱり夕暮れの雰囲気ですねー。
明治35(1902)年に後円部が発掘され、
竪穴式石室から
 勾玉・管玉・小玉・石釧・車輪石・鍬形石・石製小型つぼ・刀剣片などが出土。
銅鏡がなかったことからそれ以前に盗掘されていたと推定された。

車塚全景
 右奥後円部 左手前前方部

昭和51(1976)年にも発掘調査が行われて、埴輪の中に楕円筒埴輪があることが分かった。

薬師山古墳
飯岡古墳群

 径38mの円墳

薬師山古墳

継体天皇の皇子椀子王の子の桜井王の墳墓と伝える

薬師山古墳 方向を変えて

墳頂に江戸期の石仏を安置している。

ゴロゴロ山古墳
飯岡古墳群

茶臼山・釈迦山古墳ともいう。 丘陵の中央、頂上近くに位置している。
継体天皇の皇子椀子王の墳墓と伝えられている。
南山城地方最大の円墳で 径60m・高さ9mある。(前方後円墳という説もある)
葺石あり  北東部には濠の跡が残る。

ゴロゴロ山古墳
墳頂部は径20mの平坦地になっている。

遺物は何も残っていない。

トヅカ古墳
飯岡古墳群

丘陵の東側、咋岡神社の真向かいにある。キンリンサン古墳・十塚古墳ともいう。
径22m・高さ3mの円墳

トヅカ古墳  
 咋岡神社から見る

明治7(1874)に樹木伐採のときに発掘した。
竪穴式石室があり、幅0.8m・深さ1mで床には朱があった。
石室内から鏡2・馬具の金銅製品・鉄刀・鉄剣が出土した。

トヅカ古墳の墳丘


「神魂丘旧跡」の碑がある。
5世紀末〜6世紀初頭の築造と推定されている。

咋岡神社


弥陀山古墳
飯岡古墳群

石塚古墳・地蔵山古墳ともいう。
江戸期の石仏を安置し、その前に「朱大王墳」と刻んだ碑がある。
「飯岡の古墳群」の説明板に書かれている古墳名だが
    位置を特定できず確認できなかった。

東原古墳
飯岡古墳群

「飯岡車塚」の説明板に書かれている古墳名だが、名前以外には何も書かれていない。
位置を特定できず確認できなかった。

飯岡横穴1・2号墳
飯岡古墳群

丘陵の南の中腹に位置。
2基あったというが現在は1基しかない。1基は現在も開口している。
(確認して来なかった)

昭和57(1982)・昭和62(1985)の発掘調査で周辺から弥生時代の竪穴住居跡方形周溝墓も確認されているという。

京都府南部の地図g

午後5時を過ぎ、日は暮れてしまった。
PM 5:10 飯岡出発
北上し アルプラザ城陽でお土産などを買い食事を済ませ
PM 7:00 アイリスイン城陽で2泊目を迎える。
明日は、最終日。
まず、1年前に確認できなかった城陽市の芝ヶ原古墳を見に行こうかな。

関西の旅・城陽  につづく


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