北村さんちの遺跡めぐり
更新日2009/2/5

関西二泊三日の旅
その1
  向日市・長岡京市・八幡市      

2008年11月末、京都山城と奈良北部の古墳をめざして出発。

 AM 6:20  自宅出発
  美川ICから高速道路に入り、
  女形谷PA・南条PA・秦荘PA・大津PAで休憩 
 AM 9:40  京都南ICで一般道に入る。

京都府向日市の遺跡

  京都府南部の地図g

AM10:00  物集女車塚着

 物集女車塚古墳
モヅメクルマヅカ
(向日丘陵古墳群)

京都府向日市物集女町
 (撮影日2008/11/25)

向日市で一番有名な古墳

物集女車塚全景
大通り側から

右前方部
左後円部
後円部左端に石室入口がある。

江戸時代淳和天皇の陵墓候補となるが、その後淳和天皇の霊柩車を埋めた塚と言い伝えられるようになる。
1983年 保存・修景のための学術調査が行われた。


後円部より前方部を見る



造出し様の施設は見ただけでは確認できない。

前方部より後円部を見る




後円部にある石室入口

階段を上ったところに石室への扉があるが、
鍵がかかっている。
石室の下の石垣のところには排水溝がある。
石室は公開されることがある。
  oobutaさん情報・・・石室公開日は毎年5月末の週の月〜金曜日。
      事前に申し込み(電話するだけでok)
      向日市のHPにも近くなると掲載される。 

石室と排水溝の実測図
(排水溝部の説明板から)
石室内には入念に作られた排水溝がある。
排水溝の出口に大きな説明板がある。

物集女車塚実測図
(説明板から)


物集女車塚
長さ43〜48m・高さ7〜9mの前方後円墳
2段築成
下半分に葺石 
テラスには小型の円筒埴輪が並ぶ
北西側には溝がある。(周溝といえるほどではない)
南側のくびれ部に埴輪が並んでいたと推定される方形の造り出し様の施設がある。
埋葬施設は横穴式石室(全長11m・玄室長5.1m・幅2.8m・高さ3.1m)で
凝灰岩の板石の組み合わされた家形石棺
   (縄掛突起がある 内面にはベンガラが塗られている)が置かれ、
  3、4回の埋葬が認められる。
石棺内から、金銅製冠・銀製耳環・金銅製三輪玉・青銅製鈴・銀製空玉・ガラス製玉など
棺外から、鉄刀・環頭太刀・鉄鉾・鉄鏃・鉄製馬具などが出土した。
玄室の前壁外側に、長持ち型石棺の一部(古墳時代中期のもの)が
    転用材として使われていたことも注目されている。
6世紀前半(古墳時代後期中葉)の築造と推定されている。

10:33 淳和天皇火葬塚 着

 淳和天皇火葬塚
ジュンナテンノウカソウヅカ

京都府向日市物集女町
 (撮影日2008/11/25)

物集女車塚の北西にある。
住宅地の一角。
直線距離ではすぐなのだが、道がいりくんでいて分かりにくい。

淳和天皇火葬塚

桓武天皇の第3皇子の淳和天皇は、
  承和7年(840年)に55歳で死去、
遺言により火葬して京都市大原野の西山に散骨。
ここは、天皇を火葬した場所とされる。


案内板がない。

 寺戸大塚古墳
テラドオオツカ
(向日丘陵古墳群)

京都府向日市寺戸町芝山
 (撮影日2008/11/25)

全長98mの前方後円墳

寺戸大塚全景
 左奥前方部
 中央が後円部



寺戸大塚 前方部
現在前方部の大半が失われている。
近くには「竹林公園」というのもあるが、向日丘陵は竹だらけだ。

寺戸大塚 後円部頂の方形区画
礫が散乱
穴があいている!
中は空洞!


寺戸大塚古墳
全長98mの古墳時代前期の前方後円墳
  後円部径57m・高さ9.8m、前方部幅45m
葺石あり、円筒埴輪あり

前方部は戦前調査 
前方部中央の長さ5.2m・高さ1.3m幅0.9〜1mの竪穴式石室に割竹形木棺があったと推定されている。
和製銅鏡・銅鏃・紡錘車・琴柱形石製品などが出土

後円部は1967・68(S42・43)年調査
三段築成
墳頂には一辺8mの埴輪をめぐらした方形区画がある。
その下に竪穴式石室があり、長さ6.5m・幅0.85〜0.76m。
石室内から中国製三角縁神獣鏡・合子・勾玉・石釧・管玉・鎌・鉄斧・鉄剣・鉄刀などが出土
三角縁神獣鏡は椿井大塚山と同氾関係にある。
現在前方部の大半が失われている。
4世紀末〜5世紀初頭の築造と推定されている。

寺戸大塚古墳の南には全長100mの前方後円墳である妙見山古墳があったが、竹林として開発され消滅
(埴輪あり、後円部に竪穴式石室、前方部に粘土槨、三角縁神獣鏡も出土)
 妙見山古墳には二重構造の竪穴式石室があったそうだが、見たかった!

 五塚原古墳
イツカハラコフン
(向日丘陵古墳群)

京都府向日市寺戸町
 (撮影日2008/11/25)

はりこ池西側の山の頂上にある。地元の集会所の広場前に説明板。
集会所には人が集まっている。
広場奥から山に登る。といってもすぐ山頂。散歩している男性と共に登る。


五塚原古墳
前方部から後円部



典型的な古墳時代前期の形をしている。


後円部から前方部を望む




後円部頂のへこみ
盗掘坑か?



五塚原古墳実測図
(説明板から)

五塚原古墳
全長94mの前方後円墳(1977測量調査)
後円部径54m・高さ8.5m、
前方部幅36m・高さ4m、くびれ部の幅18m
葺石あり 裾部に埴輪
レーダー調査で、後円部・前方部共に埋葬施設があると推定されている。
向日丘陵では唯一完存の古墳で詳しい調査はなされていない。

駐車場がないのに困った。(無断駐車 申し訳ありませんでした!)

 元稲荷古墳
モトイナリコフン
(向日丘陵古墳群)

向日市向日町北山 
勝山公園内

 (撮影日2008/11/25)


向日神社本殿
本殿は1422(応永29)年の建築で国重文
延喜式内社で718(養老2)年の創祀と伝えられる。
向日神社の社殿の奥の勝山公園で古墳を探す。公園の一角に元稲荷古墳が保存されている。

元稲荷古墳全景

後方部は木に隠れてほとんど見えないが、
右側に長い前方部が見えている。


元稲荷古墳前方部





元稲荷古墳後方部

墳頂は丸い塀で囲まれた中に小屋がある。
何だろう?
oobutaさん情報・・・ただの水槽。)
元稲荷古墳
向日丘陵南側先端部の尾根上に築かれた
全長94mの前方後方墳
 後方部一辺52m・高さ7m 、前方部幅46m・高さ3m
(1960・1970に調査)
 二段築成
斜面にタイル状の葺石がある( 弥生終末の貼り石に近いもの)
前方部の墳丘中央に2m×4mの範囲で埴輪が樹立していた。円筒埴輪・壺形埴輪(古い形の埴輪)など
後方部中央に竪穴式石室がある。
大半が盗掘されていたが
 鉄製武器(銅鏃・刀・剣・鏃・槍・矛・石突)や鉄製工具(斧・錐)、土師器の壺が出土。
4世紀初頭の築造と推定され、乙訓地方で最も古い古墳とされている。

 (oobutaさん情報・・・元稲荷古墳の石室の天井石が資料館前に置かれている。 )      

寺戸大塚・五塚原などと大きさがほぼ同じでこの時代の古墳を築くのに何らかの規制や約束事があったと推定されている。

 長岡宮跡
(国史跡)

向日市鶏冠井(カイデ)町
 (撮影日2008/11/25)

大極殿公園となる。
長岡京は桓武天皇が784年(延暦3)に奈良・平城京から遷した都で約10年間政治・経済文化の中心となった。
792(延暦11)年の大洪水や桓武天皇の弟早良親王の死、その怨霊などで794(延暦13)年平安京へ都が遷された。
長岡京は東西4.3km南北5.3kmで現在の向日市・長岡京市・大山崎町・京都市にまたがる。


史跡長岡宮跡
(大極殿公園)
1959・61年の調査で大極殿が確認され史跡公園となる。


PM 1:00  長岡京市へ入る。
長岡京市野添1丁目の「にぎり長次郎」で昼食。 (1560円)

 京都府長岡京市の遺跡

  

 長法寺七ツ塚
チョウホウジナナツヅカ

京都府長岡京市長法寺
 (撮影日2008/11/25)

住宅街の中に残る。
7基の古墳が30m間隔に並んでいるというが、2基しか見当たらなかった。


6号墳
マンションの前に、
駐車スペースに押されながらかわいい墳丘がある。
未調査?


5号墳
調査された後、整備された。
一辺18mの方墳
 




4号墳実測図
(説明板から)


長法寺七ツ塚古墳時代後期の群集墳で 家族墓と見られている。
3、4、5号墳を調査
3号墳 一辺15mの方墳 周溝    埋葬施設 木棺直葬直葬4基
4号墳 全長20m以上の帆立貝式古墳    埋葬施設 木棺直葬直葬3基
5号墳 一辺18mの方墳 周溝    埋葬施設 木棺直葬直葬1基
木棺は板材を箱形に組み合わせて作り内側は赤く染められていた
遺体は頭を北に向けて葬られたものが多く
なかには3人も合葬した非常に珍しい木棺もある。
副葬品は耳環や玉などの装身具、鉄製の武器、農具、工具・、馬具、
    石製の紡績具、須恵器などで種類が多彩で、数量も豊富。

2基しか分からなかったが、他にも残っているのか?

 (oobutaさん情報・・・あと1号墳が畑の中に残っている。
   丹波街道の長法寺に入るところの交差点付近にも石棺の石材がころがっている。)  

 井ノ内稲荷塚
イノウチイナリヅカ
市史跡

(井ノ内古墳群)

京都府長岡京市井ノ内小西
 (撮影日2008/11/25)

近くの光明寺で行事があるらしく、道には交通整理の人がやたらと多い。
  (oobutaさん情報・・・光明寺にも石棺が一基ある。非公開の石棺蓋を使った石碑もある。)
この辺かなと思い、脇道に入ったところに説明板発見。
工場の敷地の後ろに墳丘がある。

井ノ内稲荷塚
後円部から前方部を見る




井ノ内稲荷塚
前方部から後円部を見る
お稲荷さんのかわいい社


井ノ内稲荷塚古墳実測図
(説明板から)


井ノ内稲荷塚
全長46mの前方後円墳
全長46m後円部径29.5m前方部幅29.5m高さ4m
後円部にお稲荷さんを祭ってある。
葺石・埴輪はない
後円部の横穴式石室は巨大な石材で造られ全長10.2mあった。
盗掘で破壊されていたが4基の木棺があったと推定され
鉄刀や鉄鏃、馬具、装身具、土器などが出土した。
前方部には木棺直葬1基が確認されている。
6世紀前葉(古墳時代後期)の築造と推定されている。
この古墳の周辺には2基の方墳(一辺10m余り・木棺直葬)が発見されている。

恵解山古墳で会った職員の方の話では、
井ノ内稲荷塚の北東に井ノ内車塚(全長37mの前方後円墳)があり、説明板があるというが、
場所は確認してこなかった。
(墳丘が一部残っているらしい)
  (oobutaさん情報・・・井ノ内車塚長岡京市の遺跡MAPで行くと
      稲荷塚から北上して一本目の交差点を左折、

      400mくらい進むと左側に産廃業者?(菊地組)があり、その反対側に車塚がある。

PM 2:22 今里大塚 着

今里大塚古墳
イマサトオオツカ

京都府長岡京市天神5丁目
 (撮影日2008/11/25)


今里大塚全景
乙訓地方の石舞台といわれるほど
大きな横穴式石室があるというが
埋め戻されていて全く分からない。
このあたりの古墳の石材は
長岡京造営の際、かなり抜き取られ損傷が激しいという。

  (oobutaさん情報・・・今里大塚古墳の石室の石材はいまでも見える。
           たしか東側だったと思う。


今里大塚の墳丘


乙訓地方の最後の大型古墳。
今里大塚古墳
径45m高さ6.5mの円墳だが
盾形の周濠があることから、前方後円墳の可能性もある
南東部に開口する横穴式石室は巨石で造られ、排水溝も造られている
構造は石舞台古墳と同じで乙訓地方の石舞台といわれている
玄室の大きさは長さ5.5m幅3m高さ3.6mで蛇塚・走ヶ岡1号墳に次ぐ最大級の古墳
組み合わせ式の家形石棺(奈良県二上山産の凝灰岩製)の一部が発見されている
長岡京造営の石材入手のために巨石や石棺の一部を持ち去ったことが発掘調査で分かった。
7世紀前半の築造と推定されている。

近くに存在したという今里車塚は、調査時点ですでに墳丘が削平されていたが、
5世紀C前半の全長75mの前方後円墳で葺石あり・埴輪あり(木製埴輪もある)だった。
今は古墳の上に店舗や住宅が建つという。

 走田9号墳
ハシリダ

京都府長岡京市奥海印寺
 (撮影日2008/11/25)

走田9号墳(海印寺古墳)は、平成7年、寂照院本堂再建工事で発見された

寂照院山門

9世紀初頭に建てられた海印寺の十院の一つ。
海印寺は応仁・文明の乱で焼かれて衰退、
  寂照院を残すのみとなる。
寂照院には、1568(永禄11)年9月に
  織田信長が宿泊したという記録が残る。
走田9号墳は寂照院本堂の後ろに続く覆い屋の中に保存されている。

走田9号墳石室




石室の天井石や石棺の蓋石はすでになかった。

走田9号墳石室(方向を変えて)

長岡京期に盗掘を受け、副葬品や石材が持ち去られたとみられる。
  (oobutaさん情報・・・走田古墳群の石棺が埋文センター前に置かれている。
 建物の裏に石材が置いてある。元々、寂照院前の小川に橋としておかれていたそうだ。


石室内部

石棺の底だけ残っているのか?


走田9号墳は  円墳で、径12m・高さ3.5m
横穴式石室は全長5.3m以上で
 兵庫県竜山石製の組み合わせ式家形石棺が安置されていた。
 玄室は幅1.9m・長さ3.05m・高さ2.3m以上
 羨道は幅1.5m長さ2.3m以上
7世紀初めの築造と推定されている。
走田神社周辺に分布する走田古墳群のなかの1基


寂照院の墓地の向こうに見える
走田神社の鳥居


寂照院のすぐ北。
走田神社(早稲米の神様)にも古墳(明神山古墳)がある。
走田神社の北の一帯にも
 長法寺南原古墳八反林古墳稲荷山古墳大原古墳などがあるそうだが
 林の中と山の上。そのあたりの道を一回りして南下。

京都府南部の地図g

  長法寺南原古墳は  全長60mの前方後円墳、埴輪あり、
  後円部の竪穴式石室から三角縁神獣鏡・銅鏡・勾玉・刀・鏃・石臼などが出土
  前方部にも小さな竪穴式石室がある。

  (oobutaさん情報・・・南原古墳は私有地にあり見れない。

長岡京市と大山崎町の境界あたりに
 鳥居前古墳
(全長70mの前方後円墳)があるそうなので、
 説明板かないかと気をつけて見ていたが、
  見つからず、そのまま恵解山古墳に向かう。

恵解山古墳
イゲノヤマ

長岡京市勝竜寺・久貝2丁目
 (撮影日2008/11/25)

形はかなり崩れている。
東は小学校のグランドとなっている。

恵解山古墳
右(南) 前方部



周濠も埋め立てられている。


恵解山古墳造出し(西側くびれ部)
枯れたコスモスのところは周濠部分
後円部は墓地となる。

恵解山古墳
後円部から前方部をみる
墓地の途切れたところに
鉄器出土施設がある。




鉄製武器類出土地
1981(S56)年墓地を広げようとして発見された。
前方部中央から少し後円部に寄ったところ。
長さ6.5m・幅0.9m・深さ0.2m


発掘時の鉄製武器類の様子
(説明板から)

木板を箱形に組み合わせた構造で
上下2層になり
下層に直刀・長剣
上層に短剣・短刀・槍先・鏃
が約700点納められていた。


恵解山古墳実測図
(頂いた資料から)
恵解山古墳は
全長128mの前方後円墳
後円部径78m・前方部幅76m
2段築成
竪穴式石室を持つ
幅25mの浅い周濠がある。
葺石あり 埴輪あり
5世紀中ごろ(古墳時代中期)の築造と推定されている。

乙訓地域最大の規模をほこる。


恵解山古墳収蔵庫前に職員の方がいらっしゃったので、
 収蔵庫前に駐車をお願いし、収蔵庫内の展示室を開けて見せてもらい、
 現説のときの資料を頂いた。
展示室には、前方部の鉄器出土施設の実物大の写真が展示、
 発見のときの感動が伝わってきた。
前方部西側の周濠跡にコスモスを植え、コスモスの盛りのときは古墳の形がよく分かるようにしている。
 コスモスが枯れてしまった今はコスモスの種の整理をして来年に備えるという。
後円部が墓地になっているので発掘ができないことは残念だが
 これからも発掘は続けて、いずれは史跡公園にすることが目標だそうだ。
展示室に周辺の遺跡の紹介のパネルがあったので、鳥居前古墳について尋ねたら
 鳥居前古墳は個人の所有地にある上に、林の中なのでもう確認はできないだろうといわれた。

PM 4:00  八幡市に入る。

 京都府八幡市の遺跡

京都府南部の地図g

八幡市に来たからには、石清水八幡宮に参拝をと思ったが、
 ケーブルカーに乗って男山山頂に行かなければならないと知り、時間もなくあきらめる。

PM 4:20  松花堂資料館前 着

松花堂と東車塚古墳
      ヒガシクルマヅカ
(国史跡)

京都府八幡市八幡
 (撮影日2008/11/25)

松花堂資料館や松花堂美術館があるが、月曜日は休館日で中には入れなかった。

松花堂は石清水八幡宮の僧・松花堂昭乗が江戸初期に建立したお堂で、
 石清水八幡宮のそばにあったが、明治初期に、現在地に移された。
西側に「車塚古墳」と書かれた石碑があったので写真を撮る。

「車塚古墳」と書かれた石碑
東車塚は前方後円墳
後円部は現在、松花堂庭園の築山に利用されているという。


「松花堂庭園」の説明板はあったが、古墳のことは書かれていない。
食いしん坊は「松花堂弁当」のほうがいいかな?

東車塚古墳は  全長94m(?)の前方後円墳
損傷が激しく詳細は不明。
円筒埴輪あり。葺石あり
1897年ごろ 後円部の粘土槨を発掘。
鏡3・勾玉・鉄刀・鉄剣・素環頭太刀・鉄鏃・甲冑・鉄斧などが出土した。
5世紀後半の築造と推定されている。

八角院と西車塚古墳
ハッカクイン ニシクルマヅカ

京都府八幡市八幡
 (撮影日2008/11/25)

松花堂の西に八角院がある。古墳の墳丘に八角院が建つ。

東側から見る西車塚後円部
住宅の間から高い墳丘と八角院の屋根の先端が見える。

階段を上り八角院に行く

八角院
鎌倉時代の健保年間(1213〜19)、
 石清水八幡宮そばに創建されたが、
 明治の神仏分離令で、
 現在地の西車塚古墳の後円部頂に移された。
「隅切り八角形」という形
古代中世にさかのぼる石清水八幡宮固有の
 特殊な伝統を具現した唯一の建物。



西車塚全景

西のさくら公園付近から見る。

八角院があるところが後円部
その左が前方部
西車塚古墳は  全長115mの前方後円墳
 後円部径70m・高さ5.5m 前方部幅32m
周堀跡が残る1902年土取りで石室露出。
竪穴式石室で、鏡5・車輪石10・石釧3・勾玉管玉などが出土。
5世紀前半の築造と推定されている。

京都府南部の地図g

西車塚・東車塚の北の石不動山の電波塔の下に、
 石不動古墳(全長70mの前方後円墳・2基の粘土槨)があるというが、
 電波塔を眺めて思い描くだけとする。
石不動古墳の南南西700mの丘陵には
 茶臼山古墳
(全長50mの前方後方墳・舟形石棺の竪穴式石室)があったというが、
 宅地開発で消滅したという。
東車塚の南東、国道1号線のあたりに、
 ヒル塚(一辺45mの方墳・2基の粘土槨・5C前半)があったが、
 今は上に建物が建つという。
さらに南東、南八幡高校の南に狐谷横穴群(府史跡)がある。
 調査された後埋め戻されたという。
その南、宝珠院の奥の竹林の中に、
 美濃山王塚古墳(径60mの円墳・埴輪あり・葺石あり・粘土槨)があるという。
狐谷横穴群・美濃山王塚古墳は見学したかったが、時間切れであきらめる。

午後5時になった。暗くなってしまった。
午後5時55分、今日の宿「アイリスイン城陽」に到着
アイリスイン城陽は、城陽市のサイクリングターミナルで、一泊朝食付きで一人4980円。
(部屋にトイレがないのが難)
夕食は頼んでなかったが、ここのレストランで定食を食べる。
手ごろな価格でおいしかった。
では、ゆっくり休みます・・・・。

たくさん見残した古墳があるが、
今回は、位置が特定できたものだけ、見学することにした。
もっと時間をたっぷりとって、じっくり探しながらの見学をしたいものだ。

oobutaさん いろいろな情報ありがとうございました!

関西の旅・椿井大塚山  につづく

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