北村さんちの遺跡めぐり
長岡京市 京都府南部の地図g
| 長法寺七ツ塚 チョウホウジナナツヅカ |
京都府長岡京市長法寺 |
住宅街の中に残る。
7基の古墳が30m間隔に並んでいるというが、2基しか見当たらなかった。

6号墳
マンションの前に、
駐車スペースに押されながらかわいい墳丘がある。
未調査?

5号墳
調査された後、整備された。
一辺18mの方墳

4号墳実測図
(説明板から)
長法寺七ツ塚は古墳時代後期の群集墳で 家族墓と見られている。
3、4、5号墳を調査
3号墳 一辺15mの方墳 周溝 埋葬施設 木棺直葬直葬4基
4号墳 全長20m以上の帆立貝式古墳 埋葬施設 木棺直葬直葬3基
5号墳 一辺18mの方墳 周溝 埋葬施設 木棺直葬直葬1基
木棺は板材を箱形に組み合わせて作り内側は赤く染められていた
遺体は頭を北に向けて葬られたものが多く
なかには3人も合葬した非常に珍しい木棺もある。
副葬品は耳環や玉などの装身具、鉄製の武器、農具、工具・、馬具、石製の紡績具、須恵器などで種類が多彩で、数量も豊富。
2基しか分からなかったが、他にも残っているのか?
(oobutaさん情報・・・あと1号墳が畑の中に残っている。
丹波街道の長方寺に入るところの交差点付近にも石棺の石材がころがっている。)
| 井ノ内稲荷塚イノウチイナリヅカ 市史跡 (井ノ内古墳群) |
京都府長岡京市井ノ内小西 |
近くの光明寺で行事があるらしく、道には交通整理の人がやたらと多い。
(oobutaさん情報・・・光明寺にも石棺が一基ある。非公開の石棺蓋を使った石碑もある。)
この辺かなと思い、脇道に入ったところに説明板発見。
工場の敷地の後ろに墳丘がある。

井ノ内稲荷塚
後円部から前方部を見る

井ノ内稲荷塚
前方部から後円部を見る
お稲荷さんのかわいい社

井ノ内稲荷塚古墳実測図
(説明板から)
井ノ内稲荷塚は
全長46mの前方後円墳
全長46m後円部径29.5m前方部幅29.5m高さ4m
後円部にお稲荷さんを祭ってある。
葺石・埴輪はない。
後円部の横穴式石室は巨大な石材で造られ全長10.2mあった。
盗掘で破壊されていたが4基の木棺があったと推定され
鉄刀や鉄鏃、馬具、装身具、土器などが出土した。
前方部には木棺直葬1基が確認されている。
6世紀前葉(古墳時代後期)の築造と推定されている。
この古墳の周辺には2基の方墳(一辺10m余り・木棺直葬)が発見されている。
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恵解山古墳で会った職員の方の話では、
井ノ内稲荷塚の北東に井ノ内車塚(全長37mの前方後円墳)があり、説明板があるというが、
場所は確認してこなかった。
(墳丘が一部残っているらしい)
| 今里大塚古墳 イマサトオオツカ |
京都府長岡京市天神5丁目 |

今里大塚全景
乙訓地方の石舞台といわれるほど
大きな横穴式石室があるというが
埋め戻されていて全く分からない。
このあたりの古墳の石材は
長岡京造営の際、かなり抜き取られ損傷が激しいという。
(oobutaさん情報・・・今里大塚古墳の石室の石材はいまでも見える。たしか東側だったと思う。)

今里大塚の墳丘
乙訓地方の最後の大型古墳。
今里大塚古墳は
径45m高さ6.5mの円墳だが
盾形の周濠があることから、前方後円墳の可能性もある
南東部に開口する横穴式石室は巨石で造られ、排水溝も造られている。
構造は石舞台古墳と同じで乙訓地方の石舞台といわれている
玄室の大きさは長さ5.5m幅3m高さ3.6mで蛇塚・走ヶ岡1号墳に次ぐ最大級の古墳
組み合わせ式の家形石棺(奈良県二上山産の凝灰岩製)の一部が発見されている
長岡京造営の石材入手のために巨石や石棺の一部を持ち去ったことが発掘調査で分かった。
7世紀前半の築造と推定されている。
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近くに存在したという今里車塚は、調査時点ですでに墳丘が削平されていたが、
5世紀C前半の全長75mの前方後円墳で葺石あり・埴輪あり(木製埴輪もある)だった。
今は古墳の上に店舗や住宅が建つという。
| 走田9号墳 ハシリダ |
京都府長岡京市奥海印寺 |
走田9号墳(海印寺古墳)は、平成7年、寂照院本堂再建工事で発見された

寂照院山門
9世紀初頭に建てられた海印寺の十院の一つ。
海印寺は応仁・文明の乱で焼かれて衰退、寂照院を残すのみとなる。
寂照院には、1568(永禄11)年9月に織田信長が宿泊したという記録が残る。
走田9号墳は寂照院本堂の後ろに続く覆い屋の中に保存されている。

走田9号墳石室
石室の天井石や石棺の蓋石はすでになかった。

走田9号墳石室(方向を変えて)
長岡京期に盗掘を受け、副葬品や石材が持ち去られたとみられる。
(oobutaさん情報・・・走田古墳群の石棺が埋文センター前に置かれている。
建物の裏に石材が置いてある。
元々、寂照院前の小川に橋としておかれていたそうだ。)

石室内部
石棺の底だけ残っているのか?
走田9号墳は 円墳で、径12m・高さ3.5m
横穴式石室は全長5.3m以上で
兵庫県竜山石製の組み合わせ式家形石棺が安置されていた。
玄室は幅1.9m・長さ3.05m・高さ2.3m以上
羨道は幅1.5m長さ2.3m以上
7世紀初めの築造と推定されている。
走田神社周辺に分布する走田古墳群のなかの1基
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寂照院の墓地の向こうに見える
走田神社の鳥居
寂照院のすぐ北。
走田神社(早稲米の神様)にも古墳(明神山古墳)がある。
走田神社の北の一帯にも
長法寺南原古墳・八反林古墳・稲荷山古墳・大原古墳などがあるそうだが
林の中と山の上。そのあたりの道を一回りして南下。
長法寺南原古墳は
全長60mの前方後円墳、埴輪あり、
後円部の竪穴式石室から三角縁神獣鏡・銅鏡・勾玉・刀・鏃・石臼などが出土
前方部にも小さな竪穴式石室がある。
(oobutaさん情報・・・南原古墳は私有地にあり見れない。)
長岡京市と大山崎町の境界あたりに、
鳥居前古墳(全長70mの前方後円墳)があるそうだ。
鳥居前古墳は個人の所有地にある上に、林の中なのでもう確認はできないらしい。
| 恵解山古墳 イゲノヤマ |
長岡京市勝竜寺・久貝2丁目 |
今は整備されてきれいになっている。
JRの車窓から、並べられた埴輪が見えるが・・・・
見学した2008年当時は、形はかなり崩れている。
東は小学校のグランドとなっている。
![]() 恵解山古墳 右(南) 前方部 周濠も埋められている。 |
![]() 恵解山古墳造出し(西側くびれ部) 枯れたコスモスのところは周濠部分 後円部は墓地となる。 |
![]() 恵解山古墳 後円部から前方部をみる 墓地の途切れたところに鉄器出土施設がある。 |
![]() 鉄製武器類出土地 1981(S56)年墓地を広げようとして発見された。 前方部中央から少し後円部に寄ったところ。 長さ6.5m・幅0.9m・深さ0.2m |

発掘時の鉄製武器類の様子
(説明板から)
木板を箱形に組み合わせた構造で
上下2層になり
下層に直刀・長剣
上層に短剣・短刀・槍先・鏃
が約700点納められていた。

恵解山古墳実測図
(頂いた資料から)
恵解山古墳は
全長128mの前方後円墳
後円部径78m・前方部幅76m
2段築成
竪穴式石室を持つ
幅25mの浅い周濠がある。
葺石あり 埴輪あり
5世紀中ごろ(古墳時代中期)の築造と推定されている。
乙訓地域最大の規模をほこる。
恵解山古墳収蔵庫前に職員の方がいらっしゃったので、
収蔵庫前に駐車をお願いし、収蔵庫内の展示室を開けて見せてもらい、
現説のときの資料を頂いた。
展示室には、前方部の鉄器出土施設の実物大の写真が展示、
発見のときの感動が伝わってきた。
前方部西側の周濠跡にコスモスを植え、コスモスの盛りのときは古墳の形がよく分かるようにしている。
コスモスが枯れてしまった今はコスモスの種の整理をして来年に備えるという。
後円部が墓地になっているので発掘ができないことは残念だが
これからも発掘は続けて、いずれは史跡公園にすることが目標だそうだ。
展示室に周辺の遺跡の紹介のパネルがあったので、鳥居前古墳について尋ねたら
鳥居前古墳は個人の所有地にある上に、林の中なのでもう確認はできないだろうといわれた。
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