北村さんちの遺跡めぐり
京都市山科区 京都市内の地図g
中臣群集墳(十三塚) |
京都市山科区勧修寺付近 |
山梨区の勧修寺町周辺にはかつて13基からなる中臣群集墳(十三塚)が存在した。
現存するのは、稲荷塚と宮道古墳の2基だけとなっているが、坂上田村麻呂墓も入れて紹介する。
坂上田村麻呂墓 |
京都市山科区勧修寺 |
勧修小学校の北隣りに、「坂上田村麻呂公園」という児童公園があり、
公園の半分くらいが坂上田村麻呂墓として整備されている。
坂上田村麻呂墓
墓の前に立つ石碑には
「征夷大将軍 正二位 坂上田村麻呂之墓」
と刻まれている。
この墓は明治20年平安遷都千百年祭に際し整備された。
見た目には小さな円墳。
平安時代初期の武将・坂上田村麻呂は、奈良時代の天平宝字2年(758)に、武将の坂上苅田麻呂の子として生まれた。
延暦20年(801年)、蝦夷地を平定するために征夷大将軍に任命され、遠く陸奥に出兵し、これをおさめて功績をあげた。
京にあっても弘仁元年(810年)の薬子の乱などに活躍し、官職は右近衛大将になった。
弘仁2年死去。54才。
この地で葬儀が行われ、嵯峨天皇の勅によって甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺に納められ、
平安京に向かって立ったまま葬られた。
田村麻呂は仏教の信仰も深く、清水寺を創建したことでも有名。
(説明板から)
坂上田村麻呂墓
斜め横から
近年、山科区にある「西野山古墓」が、坂上田村麻呂の真墓であることが判明したというニュースが伝えられた。
西野山岩ケ谷町にある「西野山古墓」は、大正8年(1919)に偶然墓穴が発見され、
木棺内部から純金で装飾された大刀や金銀の鏡、鉄鏃などの副葬品が出土した。
8世紀後期〜9世紀前期の築造と推定され、
清水寺に残る文書の内容と一致、
時代的にも坂上田村麻呂の時代と一致、
被葬者が高位の武人であることを推定させる豪華な副葬品からも、
坂上田村麻呂の墓と特定したということだ。
宮道古墳 中臣十三塚 |
京都市山科区勧修寺栗栖野町 |
勧修小学校の西150mの住宅街の中にある。
「宮道朝臣列子墓(みやじのあそんれっしのはか)」と伝えられている。
宮道古墳
径26mの円墳
主体部は不明、
「中臣十三塚」といわれる古墳の一つと考えられていて、
後期の古墳と推定されている。
宮道朝臣列子は、醍醐天皇の母方の祖母である。
宮道古墳 墳頂
新しい列子の供養塔は、平成19年(2007)、
大宅寺に奉安されている列子の両親と同サイズの塔を建立し奉安したものという。
宮道古墳 空堀が残る
折上稲荷神社 稲荷塚古墳 市史跡 |
京都市山科区西野山中臣町 |
伏見稲荷から稲荷山を通して一直線に拝める場所にあり、
古くから伏見稲荷の「奥の宮」として信仰されているという折上稲荷神社。
この境内に古墳がある。
折上稲荷神社
和銅4年(712)社殿を建立
山科稲荷、伏見稲荷奥の宮とも呼ばれる。
鳥居の左奥に見える林が稲荷塚古墳
折上稲荷神社の拝殿と、その奥の社殿。
稲荷信仰の主神である倉稲魂神ほか二柱を祭神とする。
長寿開運、商売繁盛の神として広く信仰を集めている
社名「折上」は「織上げ」に通じるところから
西陣の織物業者のふかい信仰をうけている。
折上稲荷神社は、「働く女性の稲荷さま」としても知られている。
稲荷塚古墳全景
径18m・高さ3mの円墳
稲荷塚古墳 墳頂
五社稲荷神社となっている。
稲荷塚古墳 後ろ側
古墳らしい形を見ることができる。