北村さんちの遺跡めぐり
更新日2023/10/19

滋賀県2023
息長古墳群ほか

2023/5/22

前回の続きです。
近江八幡の観光を終えて、竜王町の鏡神社周辺へ。

鏡神社周辺の地図g

かがみの里・鏡神社周辺 竜王町鏡
撮影日2023/5/22 11:22

鏡神社の東約300mに、古宮古墳がある。方墳かと思ったが、円墳だそうだ。

 古宮古墳 
 現状15mの方墳状
。 元は円墳と考えられている

説明板
  

階段がある
 

墳頂部

四角くなっている

道の駅竜王かがみの里は、月曜日は休業日。
お昼ご飯を食べようと思ったが、食べ損ねた……

鏡神社のそばにある案内板
 鏡神社
 祭神は 天日槍尊(アメノヒボコノミコト) 天津彦根命(アマツヒコネノミコト) 天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)
 境内社の八幡神社には応神天皇とともに源義経公を祀っている。)
 創立は、古代にさかのぼるとみられている。

鏡神社 入口

額の上に唐破風の屋根を持つ珍しい鳥居。
笠木は瓦葺だ

鏡神社 拝殿  
奥に本殿 本殿は重要文化財

鏡神社境内にある
左・御幸山  右・八幡神社

      

 源義経 元服の池

  

  
 源義経烏帽子掛の松

   

ローソン竜王西横関店にて昼食後、苗村神社へ。

東苗村古墳群
苗村神社(ナムラジンジャ)
蒲生郡竜王町綾戸
撮影日2023/5/22 12:42

道の駅鏡の里の東約2kmの、8号線東川町交差点で右折、南へ約4kmのところに苗村神社がある。
道路の西側と東側にそれぞれ社殿があり、西社殿・東社殿という。

駐車場にある「東苗村古墳群」の案内板
奥の森の中に古墳群がある。

東本殿と西本殿の間に車道があり
 車道沿いに駐車場がある。
古墳群があるのは、東社殿の境内


古墳群のある苗村神社東本殿から見学。

 東苗村古墳群 と 苗村神社東本殿
 東苗村古墳群  重要文化財苗村神社東本殿がある鎮守の森の中にあり、
  現在は8基の円墳が確認されている。

 周辺にも数多くの古墳が存在していたと考えられている。

 現存する古墳の大きさは、いずれも墳径約12m~18m、高さ約2m
 内部主体部について、詳細なことはわかっていない。
 古墳群周辺の発掘調査結果から、6世紀後半代の築造と推定されている。
          (竜王町教育委員会)
 配置図がないので、イラストを描いてみた。

古墳群配置図(イラスト)

番号は、見学した順で、
仮の番号。
①・②・④・⑤・⑥は確実に
古墳と思われるが
他は古墳ではないかもしれない

8基残っているらしいが……

東本殿への鳥居

参道

仮1号墳 参道左側

仮2号墳 参道右側  大神宮の小社がある。

仮3号墳  2号墳の東側
 (古墳ではないかもしれない)

仮4号墳  東本殿の前にある

仮4号墳の前に古墳群の説明板がある。
東本殿
 築造年代は不明だが、室町時代の様式である。
 前庭には永享4年(1432)在銘の石灯籠があり、本殿建立と関係があると考えられている。

東本殿

仮5号墳 左奥に仮6号墳

仮6号墳

仮7号墳 (古墳ではないかもしれない)

仮8号墳 (古墳ではないかもしれない)

西側の西本殿は国宝。

 西本殿
 御祭神は、那牟羅彦神 那牟羅姫神、國狹槌尊
 社伝によれば垂仁天皇の御代に当地方を開拓された御祖をお祀りしたのが創祀とされる。
 現在の西本殿は、社蔵されている当地方最古と言われる徳治3三年(1308)の棟札によると、
 建保5年(1217)に修造され、徳治3年に再建されたこと、などが明記されている。
 当時(鎌倉時代)の様式は今によく伝えられ、棟札と共に国宝に指定されている。。

西本殿の鳥居

参道
 重要文化財・楼門
 建立年代は不明だが、様式から応永(1394~1427)の造営と考えられている
 三間社一戸楼門入母屋造の茅葺
 この地方最大規模の遺構

楼門

子守りの像

神興庫

西本殿拝殿

拝殿の後ろに本殿がある。
 本殿  国宝
 社蔵される棟札から徳治3年(1308)に再建されたと考えられている
 三間社流造。 屋根は檜皮葺(ヒワダブキ)。

囲いの向こうに
左から八幡社本殿・西本殿・十禅師社本殿
 が並んで建つ。
囲い手前に並ぶ説明板は
左から
「境内社十禅師社本殿(重要文化財)」
「西本殿(国宝)」
「境内社八幡社本殿(重要文化財)」
 説明板  字が薄くなっているので、画像を加工してようやく読めるようになった。

   

米原市へ。

近江はにわ館
息長古墳群
について
米原市綾戸
撮影日2023/5/22 15:05

米原市には、近江はにわ館がある。
そばの塚の越古墳は見学したが、はにわ館は行ってないので見学。

近くの古墳から出土した埴輪が4点展示されている。

近江はにわ館周辺の地図g

 はにわ館展示の埴輪
(説明文は現地パンフレットから)

はにわ館の駐車場には、息長(オキナガ)古墳群の説明板がある。

息長古墳群 説明板


アミタビ古墳(6番)、日撫山古墳(7番)、
顔戸山砦1号墳(9番)、・後別当古墳(10番)
のある山

数字は配置図の番号

甲塚1・2号墳(5番) 定納古墳群(3・4番)
のある山


数字は配置図の番号
 息長古墳群の主要古墳  (説明板の図 拡大) 見やすいように加筆

息長古墳群は、旧村名「息長村」(昭和30年まで存在)の名称からつけられた
A  奥松戸遺跡  1  法勝寺SDX323 12  狐塚5号墳
B  法勝寺遺跡 2  西円寺第1号墓 13  埋塚古墳
C  長門寺遺跡 3  定納1号墳 14  亀塚古墳
D  埋塚遺跡 4  定納5号墳 15  笹塚古墳
F  西円寺遺跡 5  甲塚1号墳 16  鳴子塚古墳
6  アミタビ古墳 17  山津照神社古墳 
7  日撫山古墳 18  人塚山古墳
8  西円寺3号墳 19  奥深1号墳
9  願戸山砦1号墳  20  奥深5号墳
10  後別当古墳 21  黄牛塚古墳
11  塚の越古墳 22  寺倉古墳
 色の付いたものは、見学した古墳  
1  法勝寺SDX323  前方後方形周溝墓  3世紀前半 
2  西円寺第1号墓  円形低墳丘墓  3世紀後半
3  定納1号墳  尾根上の前方後方墳  4世紀
20  奥深5号墳  岩盤をくり抜いた墓壙がある  5世紀
12  狐塚5号墳  豊富な形象埴輪がある帆立貝形古墳  5世紀初頭
11  塚の越古墳  周濠を備えた前方後円墳  6世紀初頭
17  山津照神社古墳   横穴式石室があり豊富な副葬品を有する   6世紀前半

インターネット上に、
 「米原市遺跡リーフレット8・息長古墳群定納古墳群」
 「米原市遺跡リーフレット10・アミタビ古墳・日撫山古墳・顔戸山砦1号墳」
 が公開されているので参考にさせてもらった。

定納古墳群
(息長古墳群)
米原市日光寺
撮影日2023/5/22 15:33

定納古墳群を探して
 北陸自動車道の東の日光寺集落の西端の山裾の道を
  北へ約250m(比高差50m)登っていくと古墳群のある尾根へ出る。
急な坂道で落ち葉も積もっており滑りやすいが、脇に階段の残骸が残っているので何とか登れる。
そこには、説明板があった。

 定納古墳群は はにわ館(図書館)のすぐ北東、北陸自動車道沿いの丘陵尾根沿いに分布

定納古墳群 配置図
       (米原市遺跡リーフレットから)
北から
1号墳、6号墳、2号墳、3号墳、4号墳、5号墳、7号墳


定納古墳群は、横山丘陵の南端の尾根上に築かれている。
道路工事で失われた2基の古墳も含めて9基で構成され、
1号墳が前方後方墳のほかはいずれも方墳
東海・北陸と近畿を水陸の交通路で結ぶ要に位置する
発掘調査でみつかった埋葬施設は、
墓壙内に長大な刳り抜き式木棺を納めたもの。
棺内全体に赤色顔料が塗られていた。
全体に副葬品は少なく、1号墳から筒型銅器が出土。
古墳時代前期後半~中期前半 (4世紀) に
 連続して築造されたと推定
されている。
  定納1号墳

1号墳から出土した筒型銅器と青銅製舌
      (米原市遺跡リーフレットから)
 遺体の頭部付近と想定される位置でみつかって、青銅製舌を伴っている。
筒型銅器は国内で約70点、朝鮮半島南部でもほぼ同数が出土。
当時の日韓交流を物語る考古資料となっている。

1号墳の説明板  汚れていて、読みにくい

1号墳後方部側

1号墳 前方部から後方部を見る

1号墳 後方部から前方部を見る
 定納6号墳

北から見た6号墳

南から見た6号墳
 定納2号墳

北から見た2号墳

南から見た2号墳
 定納3号墳

北から見た3号墳

南から見た3号墳
 定納4号墳



南から見た4号墳
 定納5号墳  
 5号墳の埋葬施設は、墳頂部に設けられていて、
 楕円形の墓壙内から2基の刳り抜き式木棺の痕跡が見つかった
 西棺は東棺より長く幅広で深く、全長5.3m、中央幅1m、深さ25cmで副葬品はない。
 東棺は西棺より小さく、副葬品として、刀子が出土
 両棺のくぼみには、赤色顔料が全体に広がっていた。      (説明板から)

北から見た5号墳 説明板がある。

5号墳 墳頂部

方向を変えて見る     

5号墳 埋葬部を埋めた跡? 土嚢が見える

 定納7号墳

5号墳から見た7号墳

左 定納7号墳   右 定納5号墳

   今回の見学古墳 (配置図拡大)

今回見学した古墳は赤字で示した。

現在地」の場所は近江はにわ館
      

アミタビ古墳
日撫山古墳
顔戸山砦1号墳

(息長古墳群)
竜王町綾戸
撮影日2023/5/22 16:11

横山丘陵の南部を北東から南西にのびる尾根上にある3基の古墳
 アミタビ古墳・日撫山古墳・顔戸山砦1号墳は、日撫神社から登る。

顔戸集落から参道に入り、車で社殿下まで行ける。
日撫神社は、日撫山の南麓にある。


境内に日撫山の地図がある
     (一部加筆)

「現在地」の
日撫山遊歩道南登山口から山に登る
 この図では、日撫山古墳は十字路の右にあるはずだが、行ってみると…
  日撫山古墳の説明板は、十字路の左にある。

日撫山遊歩道南登山口 ここから登る

登り道途中にある案内板

 日撫神社の裏の日撫山遊歩道南登山口から獣除け柵の扉を開けて北西へ登ると尾根の鞍部へ出る。
十字路となっていて、左(南西)へ数十mのところに日撫山古墳の説明板がある。

日撫山古墳 説明板
この説明板のあたりは墳丘らしき高まりは
見られない。


 米原市教育委員会に問い合わせたところ
「日撫山古墳は、十字路の右側(東側)にある。
 日撫神社境内にある日撫山の地図に描かれた日撫山古墳の位置が正しい」
 というご返事をいただいた。
この説明板のところは、日撫山古墳ではないということになる。

日撫山古墳の説明板から西へ約80mで、アミタビ古墳がある。
標識はアミタビ遺跡となっている。古墳上には展望台がある。

 アミタビ古墳
 横山丘陵の最も南西端部に位置する。
 造り出し部がある直径30m規模の円墳
 アミタビとは、江戸時代の雨乞い神事に由来する小字名

アミタビ古墳 測量図
       (リーフレットから)

案内板は「アミタビ遺跡」

墳頂部

造り出し部から墳頂部

墳頂部から造り出しを見る

十字路へ戻ったら、右側の案内表示に気付いた。

十字路の案内表示

(日撫山西登山道と南登山道の合流点)


そのまま北東へ30mほど行くと墳丘らしき高まりがある。 これが、日撫山古墳。

 日撫山古墳
 長辺15m、短辺13m、高さ1mの平面長方形の古墳
 別名「朝妻古墳」とも呼ばれ、かつて円筒埴輪が表面採集されたと伝わっている。

測量図 (リーフレットから)

別の場所にある説明板

西側(アミタビ古墳側)から見た日撫山古墳

東側(夫婦岩側)から見た日撫山古墳

(2023年10月中旬に米原市教育委員会に問い合わせをして、すぐ返事をいただいたので、
  10月23日に訂正しました。)

日撫山古墳からさらに約70m進むと、ピークに夫婦岩のある広場に着く。
左に行くと天神岩。


夫婦岩


そのまま北東に少し下ってから更に約200m登っていくと、日撫山頂上に顔戸山砦1号墳がある。
標識は顔戸山砦遺跡となっている。

 顔戸山砦1号墳
 この尾根の最高所にある。
 葺石はないが、円筒埴輪が採集されている。
 中世の城郭として利用された遺跡で、中世陶磁器や茶臼などが表面採集されている。
 古墳は元の形を大きく改変されていると考えられていて、本来の規模は不明

顔戸山砦1号墳 測量図
(リーフレットから)

西南西から見た顔戸山砦1号墳

南から見た顔戸山砦1号墳

墳頂部

墳頂部から出っ張り(造り出し?)を見下ろす

登ってきた道に戻り 山を下りる。

日撫山の南麓に日撫神社がある。   

 日撫神社 ヒナデジンジャ
 御祭神は 少彦名命(スクナヒコナノミコト)  息長宿禰王  應神天皇
 日撫神社の「御由緒」によると、
  創始の時期は定かではない。
  日撫神社のある地は、仲哀天皇の皇后である神功皇后の祖先が
   代々住まわれた地であるという事から、
   神功皇后はこの地を深く慕われていて、祠を建立し、
   少彦名命と父である息長宿禰王を祀られたのが始まりと言われている。
  後に後鳥羽上皇が度々参詣され、応神天皇を合わせて祀られた。
 となっている。

二の鳥居 一の鳥居は参道手前(集落内にある。

社殿

    

塩津丸山古墳群
県指定史跡
長浜市塩津
 撮影日2023/5/22 18:13

最後に塩津丸山4号墳を確認に行く。
これまで、数回来て、ようやく1~4号墳の墳丘(の位置)をすべて確認することができた。

 塩津丸山古墳群4号墳は 径28m・高さ1.5m

北から見た4号墳

近づいて見る

西から見た4号墳

南から見た4号墳

フェンスがあって、中に入れないが、墳丘は残っているようだ。

塩津丸山古墳群のページ


帰ります。
国道8号線を北上、敦賀IC(18:38)から北陸自動車道。


尼御前SAにて夕食
      
       (19:50)


美川IC(20:34)、21時前に、帰宅。


2023年5月金ケ崎城址と荒神山古墳群の旅 完結!

滋賀県トップページ

トップページ