北村さんちの遺跡めぐり
更新日2018/10/20
近江2018・その2
千僧供古墳群と野洲市の古墳
2018/4/29・30
雪野山の北にある千僧供古墳群と野洲市の古墳の見学。
まず、千僧供古墳群から。
付近の地図g
千僧供古墳群 | 近江八幡市千僧供町 (撮影日2018/4/29) |
千僧供古墳群は、2003年に住蓮坊古墳、2011年にトギス塚古墳・供養塔古墳を見学したが、
見残しているものがあった。
千僧供町のりっぱなホームページがあるので、参考にさせていただいた。近江八幡市となる。
千僧供古墳群は、 古墳時代中期から後期(5世紀~7世紀)にかけて平野部に連続して造られた古墳群。 元々は10基あったと伝えられているが、現在は4基が県指定史跡になっている。 県指定史跡・・・ 供養塚古墳 住蓮房古墳 トギス塚古墳 岩塚古墳 未調査の古墳 大将軍塚古墳 ラカン塚古墳 現存しない古墳 ジジババ古墳 高ノ瀬古墳 張近古墳 北出古墳 |
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千僧供古墳群配置図 右下の諏訪神社境内には 妙感寺古墳がある。 |
岩塚古墳のそばが、工事現場になっていて、古墳が肩身狭そうにしている。
岩塚古墳 県史跡 | 撮影日2018/4/29 |
径27.5mの円墳 明確な周濠は認められていない。 横穴式石室がある。 現在は墳丘土が流出し、石室の石材が完全に露出した状態。 石室は、玄室幅約2m、現存石室長さ約11mで、ほぼ真南に開口。 古墳時代後期(6世紀末頃)の築造と推定されている。 北方の住蓮房古墳、北西方の供養塚古墳に引き続いて築造されたものと見られ、 在地の首長墓の系譜を引くものとして貴重な古墳である。。 (説明板から) |
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石室付近だけが残る |
ブロックで囲まれて残る |
石組み |
左の写真の反対側 |
岩塚古墳の西の集落の中に2基の古墳が残っているという。
岩塚古墳の西約200m。
ラカン(羅漢)塚古墳 | 撮影日2018/4/29 |
小川街道の地蔵尊の傍にある小さな古墳。 未調査のため造築の時期・規模は不明。 現在、1mほどの盛り土が残っている。 説明板はない。 |
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北の道路から見る |
西側から見る |
ラカン塚古墳の20mほど北にあるのが大将軍塚古墳。
大将軍塚古墳 | 撮影日2018/4/29 |
小川街道のラカン塚古墳のすぐ近くにある。 未調査のため、造築の時期・規模は不明。 現在1mほどの盛り土が残っている。 説明板はない。 |
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奥の高まり。 南から見る。 |
西から見る。 ちゃんと墳丘が残っている?! |
供養が行われている祠 「毎年7月に 小川街道と北浦街道により 供養が営まれている。 」 ということだが、 小川街道と北浦街道というのは、 なんだろう? |
今回、見学しなかったが、県指定史跡となっているほかの3基も紹介。
住蓮坊古墳 県史跡 | 見学日2003/4/29 |
墳丘径53mの円墳 濠を含めるとその径が約93mとなり、県下でも屈指の大型円墳 周濠は墳丘に対し同心円状の形態をとらず、変則的な形をしている。。 段築がある。葺石なし 埴輪なし。 墳丘は比較的良好に残っているが、主体部などは調査事例がなく不明。 円濠内より古式の須恵器が2例出土しており、その形態の特徴から、 古墳時代中期(5世紀中頃)の築造と推定されている。 昭和57・58年度に県営圃場整備事業に先駆けて発掘調査。 |
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住蓮房古墳 千僧供古墳群の中では 一番立派な墳丘が残る。 |
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墳頂の墓 墳頂にある二基の墓は、 江戸時代に建てられたもの。 鎌倉時代当地で処刑されたと伝えられる法然の弟子住蓮と、 同じ時京都で処刑されたという安楽の二僧を弔う墓である。 名前の由来となっている。 |
トギス塚古墳 県史跡 | 撮影日2011/2/20 2018/4/29 |
墳丘径14mの円墳 周濠はない。 墳丘の大部分が消失しているが、一部石材が露出していることから、 幅1.5m、既存長さ5mの横穴式石室を内部主体とするものと見られている。 古墳時代後期(6世紀後半代)の築造と推定されている。 住蓮坊古墳、供養塚古墳・岩塚古墳に引き続き築造された在地の首長層の墳墓と考えられている。 |
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トギス塚古墳 撮影日2011/2/20 |
トギス塚古墳の露出した石材 撮影日2011/2/20 |
岩塚古墳から見たトギス塚古墳 (撮影日2018/4/29) |
供養塚古墳 県史跡 | 撮影日2011/2/20 |
供養塚古墳のイメージ図 (千僧供町ホームページから) 墳丘長50mの帆立貝形古墳 後円部は径37mで幅6.5mの造出しがある。 前方部幅22m 墳丘の周囲に馬蹄形の周濠がある。 濠を含めると全長70mとなる。 江戸時代・寛文二年に領主福富平左衛門が掘った時に、 古鏡、水晶、刀などが出土したが、これらは現存していない。 昭和8年2月に、馬淵小学校への通学路の造成時に土砂場とされ、 採土の途中に石室が発見され、 横矧鉄板鋲留短甲、直刀などが出土し、市指定文化財(昭和45年)となっている。 昭和57年の、県営圃場整備に伴う発掘調査の結果、帆立貝式古墳であることが判明。 後円部には、幅約4m、長さ約8mのほぼ長方形を呈する「造り出し」があると判明した。 周濠内からは、墳丘部および外堤より転落した多量の埴輪が出土した。 〈普通円筒埴輪や朝顔形埴輪を主体に、 家(八棟以上)、衣蓋、靱、人物、馬、鶏等の形象埴輪〉 これらの形象埴輪は、濠内でも「造り出し」に対峙する外堤側に集中的に認められ、 いわゆる外区の存在が推察されている。 出土した形象埴輪の内、142点が平成16年に新たに県指定の文化財に加えられた。 こうした古墳のあり方から、5世紀後半の築造と推定されている。 |
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供養塚古墳 シーソーがある。 削られて小さくなってしまっていて、どこに前方部や造出しがあるのかわからない・・・・ |
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後円部 |
後円部に露出した石 |
後円部から前方部を見る? |
どこの部分か? |
千僧供古墳群は、現存はこれで全部見学したこととなる。
野洲市に向かう。
銅鐸出土の地 | 野洲市小篠原 (撮影日2018/4/30) |
野洲市小篠原の日吉神社周辺にある桜生古墳群を見に行こうと、
野洲市歴史民俗博物館の西の道を通った時に発見!
この付近の地(大岩山)で、明治14年・昭和37年に銅鐸24個が発見された。 その中には、日本最大(高さ134.7cm)のものが含まれている。(説明板から) |
「銅鐸出土跡」の石碑と 説明板 |
桜生古墳群 | 野洲市小篠原 (撮影日2018/4/30) |
HP「大和國古墳墓取調室」様の情報をもとに、周辺の古墳群の見学に行く。
銅鐸出土跡から西へ約300m、林の中の道を行く。
日吉神社の説明板がある。
日吉神社 | |
日吉神社の歴史は明らかでないが、少なくとも鎌倉時代には造営されていたと考えられている。 祭神は大山咋(オオヤマクイ)神。 本殿は国の重要文化財となっている。 本殿は、鎌倉時代後期に建てられたもので、形式は一間社の流造。 小規模な本殿であるが、 室内は板扉で内陣(神を祀る部屋)と外陣に区画し、正面に格子戸を建てる。 簡素で一般的形式の本殿であるが、たたずまいの美しい優れた建築である。 |
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日吉神社 |
本殿は…よく見えない… |
日吉神社の周辺に古墳がある。
桜生古墳群は 大岩山南の日吉神社周辺に分布する古墳群で、 本来は甲山古墳などと一体の古墳群であったと考えられている。 20基以上の径10~20mの円墳からなり、主体部はすべて横穴式石室と考えられている。 |
日吉神社の東側の雑木林の中に2基の円墳がならんでおり、夫婦塚と呼ばれている。
桜生11号墳・12号墳とその周辺 | ||||
左(西側)11号墳 右12号墳 |
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桜生11号墳 径15mの円墳 南に横穴式石室が開口している。 全長4.4m、玄室長3.5m・幅2.1m・高さ1.5m 羨道長0.9m・幅1.2mの右片袖式 羨道はほとんどない。
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桜生12号墳 径15mほどの円墳 主体部は埋もれている。 11号墳の東隣りにある。 桜生12号墳 墳丘 |
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11号墳・12号墳近くの他の墳丘(跡)?
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日吉神社の背後の竹林中には、15号墳がある。
桜生15号墳とその周辺 | ||||||
桜生15号墳 径15mの円墳 横穴式石室は全長10m、 玄室長5m、幅2.2m、高さ2m、羨道長5m、幅1.5m、高さ1.2mの両袖式。
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その他の古墳(跡)
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越前塚古墳 コシマエヅカコフン 市指定史跡 |
野洲市小篠原 (撮影日2018/4/30) |
国道8号線のすぐそばなのだが、なかなか行き着けない。
行き方は、なかなか説明できないので、HP「古墳とかアレ」様をご覧ください。
越前塚古墳は 妙光寺山先端の小丘陵頂部にある。 全長52.5mの前方後円墳 後円部径30m・高さ4.7m 前方部先端幅25m・高さ3.5m 前方部を北東方向に向けている。 墳丘には葺石がある。 墳丘に埴輪が並んでいた(種類は不明) 後円部中央に北方向に開口する全長7.72mの右片袖型横穴式石室がある。 羨道の長さ2.4m・幅1.2~1.35m・高さ1.6m 玄室の長さ5.25m・幅3m・高さ2.3m 古墳時代後期・5世紀末~6世紀初頭の築造と推定されている。 |
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後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
後円部頂の石碑と埋められた石室 (白い所) |
後円部頂に露出している石 |
石室が開口していると聞いたが、埋められている!残念!!
向山古墳群 | 野洲市大篠原 (撮影日2018/4/30) |
野洲市大篠原の東海道新幹線南側にある3つの丘陵からなる向山尾根上に古墳がある。
線路沿いの道の脇には、「12号古墳」と書かれた説明板が見える。
向山北麓の「12号古墳」説明板
でも、どこに行けば見られるのかは記されていない
そこから藪をかきわけて登り、そのてっぺんまで行くと…あった!!12号古墳!
向山12号古墳 | |
帆立貝形古墳 詳細不明… | |
後円部 右に前方部 |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
前方部側 |
18号古墳は、石室が開口しているというが、どこにあるかよく分からないので断念。
向山の南麓には「夕日ヶ丘登山口」があり、「向山古墳群及び古窯跡」の説明板がある。
「向山古墳群及び古窯跡」説明板 |
向山の丘陵には多くの古墳があり、山麓には各所に須恵器窯跡がある。 古墳は確認されたもので12号から21号まで合計10基あり、 いずれも古墳時代後期のものと考えられている。 12号墳は、帆立貝式円墳で、その近くでは古墳時代後期の道路跡も発見されている。 18号墳は石室が開口している。 古窯跡は数ヶ所発見されていて、 5世紀末~7世紀にかけての須恵器窯跡で各種須恵器が出土した。 |
向山には、15世紀には夕日ヶ丘城(別名・向山城)があり、遺構が残っているそうだ。
木部天神前古墳 野洲市指定史跡 |
野洲市木部 (撮影日2018/4/30) |
向山から、西北西に約3.5km、県道32号線沿いの農地の中に古墳がある。旧中主町木部天神前。
説明板がある。
木部天神前古墳 | 野洲市指定史跡 |
明治31年(1898)開墾時に遺物が発見され、「野洲郡誌」には「中里村古墳」とある。 直径40mの円墳と推定されている。 南に開口する横穴式石室は 玄室は長さ4.3m・幅2.2mの片袖式 羨道は長さ6.2m・幅1.3m 床面には円礫を敷き詰める。内部が朱で彩色されている。 『近江蒲生郡誌』には、石棺の存在を示す記載があるが調査では確認できなかった。 副葬品には、獣形鏡、耳環、玉類(管玉・土玉・水晶玉) 鉄製武具(剣・刀、矛、鏃)、馬具(轡・鉄地金銅製鞍金具・鏡板、杏葉)、鉄斧、須恵器がある。 古墳時代後期(6世紀中葉)の築造と推定されている。 西方にある御明田(ゴミョウダ)古墳(5世紀末葉)とともに 野洲川下流右岸域を支配した有力首長墓と考えられている。 |
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低くなってしまった墳丘 |
墳丘上には石材が散乱している。 |
石室のあたりか? |
離れたところにも石がある |
石室が見たかった・・・。
音羽西古墳(日野町)につづく