北村さんちの遺跡めぐり
更新日2018/11/10

近江・2018
日野町・東近江市・甲良町・多賀町
2018/4/29・30

日野町から。  地図g

音羽西古墳 日野町音羽
 (撮影日2018/4/30)

日野町音羽の駐在所西100mの薬師堂の裏にある。
かなり破壊された石室が露出している。
市辺押磐皇子の墓だという伝説もあったらしいが、築造時期からするとありえない。

 音羽西古墳は、墳丘はかなり破壊されている。
  石室は、玄室長3m、幅1.5mほど。
  出土した須恵器から、6世紀末の築造と推定されている。

墳丘?

植栽の中に石室がある。

奥壁側が開口

石室内部

日野町内では数少ない現存する古墳だ。

近くにある太神宮灯篭

慶応4年(1868)に建てられたもの

伊勢神宮に奉献する常夜灯だそうだ。





   

佐久良古墳
佐久良城跡
日野町佐久良
 (撮影日2018/4/30)

佐久良城跡の登り口には、佐久良城跡の大きな説明板がある。
その城跡の中に、古墳石室が開口している。

佐久良城跡 登り口

手前は駐車スペースとなっている。




佐久良城跡見取り図
  (説明板から)


 八幡神社
 南北朝の頃から桜谷一帯の領主となった小倉氏が
  武の神を勧請して佐久良城の大手にあたる場所に社地を定めたものである。
 ゆえに古くは小倉八幡と称した。(説明板から)


八幡神社

八幡神社の横から、佐久良城跡に登る。

 佐久良古墳
 横穴式石室が開口している。
 7世紀の築造と推定されている。
 佐久良城の火薬庫になっていたという伝説がある。

墳丘

石室入口

石室内部

佐久良古墳も含めて佐久良城跡となる。

 佐久良城跡
 室町時代(1338~1573)にここ桜谷一帯を領していた小倉氏の本城を佐久良城といい、
  地元では「下の城山」と呼んでいる。

 すぐ東にある長寸山頂の長寸城を「上の城山」といい、
  鳥居平にある鳥居平城、奥師にある四つ谷城、川原に残る園城城など、
  五カ所の城を代々の小倉氏が築いた。
 特に文武両道の名将だった戦国の武将である小倉実澄が、
  この城で活躍したことは数々の文献にも残されており、
  周囲を堅牢な土塁で囲んだ本丸跡には庭園も設けるなど、
  典型的な中世城郭の遺構を完全な姿で今に残している。
 堀切という空堀の跡、大手と搦手門である虎口の跡、
  帯曲輪、お馬洗いという湧水の跡等々
、見るべき遺構が随所に数多くある。
 中世の城跡は全国に数多くあるが、そのほとんどが山城であることから、
  城跡への探訪に困難さが伴う中にあって、
   この佐久良城は数百年間の形状破壊がほとんどなく、
  しかも交通もまた至便な場所にあることは、まれに見る優れた中世の城郭址と言えよう。
 なお近くにある曹洞宗の神護寺仲明寺は、小倉氏中興の英傑だった小倉実澄の菩提寺である。

大手門跡

主郭四隅の土塁跡 櫓台?

望楼の跡

搦手門の跡

お馬洗いの池 
飲料水を確保する重要な湧水池

帯曲輪
(城を護るための戦闘要員を配備した場所)の跡

佐久良城跡は、かなり草や木が生えていて、見学しにくい状態だ。
一回りしたが、城の主郭に上がる道が見つからなかった…。

布施古墳群 東近江市布施町
 (撮影日2018/4/30)

布施古墳群は、東近江市布施町に分布する6基からなる古墳群。

1号墳は、近江鉄道大学前駅西の布施神社の境内にある。

 1号墳(布施社南古墳)
 径17m、高さ4.5mの円墳
 南側の道路で、一部削られている。
 横穴式石室が開口。

南の道路から、
横穴式石室の開口部が見えている。

開口部

内部はほとんど埋まっている。

神社境内から見た墳丘

布施神社本殿は、重要文化財!

 布施神社
 布施神社は天元2年(979)、慈忍阿闍梨(アジャリ)が玉緒山地福寺を建立し、
  春日明神四社と日吉大権現、十禅師大権現および八王子大権現の三社を合祀し、
  村の氏神としたと伝えられてる。
 重要文化財として
 「布施神社本殿(一間社流造杮葺 三棟) 附 棟札(延宝三年乙卯三月吉日の記がある)」

布施神社境内

拝殿奥に本殿

 重要文化財の本殿3棟が、覆い屋の中に保存されている。
  本殿は覆い屋のなかに三社が並列して建ち、
   向かって左から 十禅師社、日龍社、春日社の各社殿である。
 三社とも、規模、意匠がよく似ており鎌倉時代末期の作風を伝える。
 三社とも一間社流造、正面の柱間が約1.1mで、県内の一間社のなかでは最も小さい建物である。
        (説明板から)

HP「大和國古墳墓取調室」様の情報をもとに3号墳・4号墳を見学に行く。

1号墳の西800m、布施ため池の西側の道を南へ進むと、正面の山林の前に石仏があり、
 その後の山林に古墳がある。

道路沿いにある石仏

石室の石材を使った仏様

布施山の北峰の登山口となっている。
戦国時代、布施山には
  布施山城があったそうだ。
石仏の後ろから、林の中に入ったところに3号墳。

 布施3号墳(玉緒山1号墳)
 径10mの円墳
  幅1.9mの横穴式石室の側壁がわずかに残る。


3号墳の横穴式石室の側壁か?

山林内を進むと、すぐ右側に4号墳(玉緒山2号墳)。

 布施4号墳(玉緒山2号墳)
 径9mの円墳
 横穴式石室は、羨道は崩れているが、玄室は完存。
 玄室長3.3m・幅1.75m、小型の石材を丁寧に積み上げている。

墳丘と横穴式石室

開口部前にお供えがある。

きれいな石室内部
奥壁には大きな石は使われていない。

石室内部から入口を見る

布施山は、玉緒山ともいうので、名前が2つある。

磐坂市辺押磐皇子御墓
(古保志塚古墳群)
八日市市市辺
 (撮影日2018/4/30)

 市辺の若宮神社すぐ東の県道沿いに二基の古墳が並んでいる。

北の道路から見た
  磐坂市辺押磐皇子御墓


右側に見えるのが
  帳内佐伯部売輪の墓
   (西側の古墳)


左方向に
  市辺押磐皇子の墓がある。

 古保志塚古墳群
 東側の古墳は、直径15m・高さ3.5mの円墳
 西側の古墳は、直径6.5m・高さ1.9mの円墳でともに横穴式石室がある
 古墳時代後期の築造と推定されている。

東古墳その1

西古墳その1

東古墳 墳頂に石

西古墳その2 方向を変えて見る
 磐坂市辺押磐皇子御墓
 当地に所在する古墳2基は、明治8年(1875)、
  市辺押磐皇子イワサカノイチノベノオシハノミコノハカ(磐坂皇子)
    ・帳内佐伯部売輪トネリサエキベノウルワ(仲子)の墓に治定され、
     現在は宮内庁書陵部の管轄下にある。
 日本書紀によると、安康天皇3(455)年に、
  天皇が暗殺された後に有力皇子たちの抗争が続き、允恭天皇の子大泊瀬皇子は、
  履中天皇の子市辺押磐皇子を近江来田綿の蚊屋野に誘い出して殺害し即位する(雄略天皇)。
 市辺押磐皇子の2遺児億計(兄)、弘計(弟)は、雄略天皇の追求を逃れて播磨に潜伏するが、
   やがて都にのぼり顕宗(弟)、仁賢(兄)天皇となる。
 顕宗天皇のとき、狭々城山君倭フクの妹置目の記憶により
  市辺押磐皇子及び帳内佐伯部売輪の遺骨が発見され、
  この蚊屋野の地に二つの墓が築かれたという。
 これらの記事から、この2つの古墳が2人の墓と定められた。

  

北山古墳
瓦屋寺山古墳群
東近江市建部瓦屋寺町
 (撮影日2018/4/30)

箕作山(ミツクリヤマ)の東麓、八日市自動車車検場のすぐ南にある。

手作り感のある案内板

「郡」→「群」
 惜しい…
道路からすぐの所にあるので見学しやすい。

 北山古墳 (瓦屋寺山古墳群B支群42号墳)は  墳丘は不明瞭
  大型の横穴式石室は全長9.5m
   玄室長4.1m・幅2.2m・高さ3m  羨道長5.4m・幅1.4m・高さ1.8mの両袖式
  石室入口前の墓道が曲がっている。
  発掘調査では、排水溝が確認されている。
  昭和48年に土取り作業中に発見され、発掘調査後復元したもの
  7世紀の築造と推定されている。
 箕作山の東麓にある瓦屋寺山古墳群の1基。

北山古墳 

石室付近だけが残っている

入口前の墓道が曲がっていて、
右奥に石室がある。

石室入口

羨道部  奥が玄室

羨道から玄室を見る

玄室の奥壁

玄室から入口を見る

瓦屋寺山古墳群中、最大級の石室だ。

瓦屋寺山41号墳
瓦屋寺山古墳群
東近江市建部瓦屋寺町
 (撮影日2018/4/30)

北山古墳の西50mにある。南の道路から石室の穴が見える。崖の上!

 瓦屋寺山41号墳は 墳丘は流出していて、横穴式石室が開口している。
  羨道の前側は破壊され、かなり埋まっている。
  玄室長4m・幅1.6m・高さ2m以上の片袖式

道路から見えるが、
高台の畑の奥の崖の上にある

開口部  羨道部はかなり埋まっている

羨道部の天井は
玄室の天井より低くなっている

玄室  奥壁の石がおもしろい! 

玄室から入口を見る
下の穴が羨道部

瓦屋寺山古墳群については
東近江市のHP「東近江市の遺跡紹介」のリーフレット「箕作山東麓の遺跡」も参考にさせていただいた。

 瓦屋寺山古墳群
 東近江市(旧八日市市)建部瓦屋寺町の箕作山の山麓にあ.る。
 箕作山の山中や山裾には、
  6世紀後半(古墳時代後期)の築造と推定されている古墳が数多くある。
  主に円墳で、横穴式石室が残っている。
 箕作山では、東麓だけでも
  瓦屋寺山古墳群、延命寺山古墳群、北山古墳などの古墳が見つかっている。
 中でも瓦屋寺山古墳群は、山中に57基ほどが確認されている。

 発掘調査は行われていないので、詳細不明。

瓦屋寺山古墳群配置図

(リーフレットより)


北山古墳(42号墳)と41号墳は、道路の近くにあるので、見学しやすい。

瓦屋寺山28・29・30・39号墳
瓦屋禅寺参道周辺の古墳
瓦屋寺山古墳群
東近江市建部瓦屋寺町
 (撮影日2018/4/30)

北山古墳の南西200mに、瓦屋禅寺へと登っていく石段の参道がある。

瓦屋禅寺 登り口

瓦屋禅寺は
聖徳太子が四天王寺建立に際し、
山麓の土を採って瓦18万8千枚を焼かせてその用に供した後、
この地に寺を建立し瓦屋寺と号したのが始まりとされている。
参道中腹には聖徳太子の腰掛石がある。
その周辺にも、多くの古墳があるようだ。
参道の南の集落の民家裏の3基の古墳を見学した。
北から30号墳、28号墳、29号墳。
近くに住む男性に教えていただいた。

 28号墳    石室の前に倒木があるが、立派な石室が残っている。

石室付近

石室入口

石室内部

石室内部から外を見る

28号墳墳丘


 30号墳  群中最大の円墳

石室が見える

かなり上に石室がある。

石室入口

石室内部


 29号墳

左側に石が見える

石室か

埋まっている。

参道北側の南斜面に39号墳の石室が開口している。

 39号墳  麓近くの参道北側の南斜面に、石室が開口。

墳丘と開口部

奥壁

石室内部から入口を見る
片袖式石室だ

配置図には、ほかにも多数の古墳が書かれているが、はっきりと墳丘を確認できるものは少ない。

勝堂古墳群 東近江市勝堂町
 (撮影日2018/4/30)

勝堂古墳群は、古墳公園となっている赤塚古墳・弁天塚古墳を見学したが、
  集落の中にも古墳が残っているとのことなので、見学に行く。
東近江市のHP「東近江市の遺跡紹介」のリーフレット「勝堂古墳群」を参考にさせていただいた。

 東近江市勝堂町には、『淡海記などの江戸時代の文献に48基の古墳があったと記録されている。
 現在は、6基の古墳が残っている。
 愛知川中流域の右岸で 最 も規模の大きな古墳群。
 勝堂古墳群分布図

 赤塚古墳(県史跡) 直径32m・高さ5.2mの円墳 6世紀後半
 弁天塚古墳(県史跡) 直径20m・高さ4.3mの円墳 6世紀後半
 行者塚古墳(県史跡) 現在一辺23m・高さ5.3mの方墳状(円墳かも?) 6世紀末
 朝日塚古墳
 (出土物は市有形文化財)
直径20mの円墳(推定) 6世紀後半
 おから山古墳(県史跡) 直径30mの円墳(元は直径40m?) 7世紀前半
 骨塚古墳 直径20mの円墳(推定)
 正眼寺石棺(県史跡) 石棺石材(底石と蓋石)

集落の南端の公園に残された墳丘がおから山古墳。

 おから山古墳  県指定史跡
 径30mの円墳と推定されるが、裾部が削られており、
   築造当初は40m級の円墳であったと考えられている。
 主体部は両袖式横穴式石室で、『湖東町史』によると、
  玄室は、奥行き4.4m・幅2.06m・高さ2.76mで  羨道は、長さ3.9m・幅1.3m
  玄室は、天井石3枚、側壁4段、奥壁は 1 枚石。
  玄門部天井は羨道部天井より1段下がっている。
 これらの特徴から、行者塚古墳の後(7世紀前半頃)の築造と推定されている。


東から見るおから山古墳


公園になっている。

階段があるが、立ち入り禁止
左側斜面にあやしい穴が見えるような気がする

埋め戻されていたものが露出しているのかも?

立ち入りできないのが、非常に残念!

おから山古墳の北約200mの集落内にあるのが、行者塚古墳。

 行者塚古墳 ギョウジャヅカコフン  県指定史跡
 現在は一辺23m・高さ5.3mの方墳状だが、後世に道路などで削られているので、
   もとは30m以上の円墳の可能性もある。
 墳頂部に行者堂が建造されたことが、名前の由来となっている。
 片袖式横穴式石室があり、
  玄室は奥行き6m・幅2mで 天井石5枚、側壁4段、奥壁は 1 枚石
  玄門部の天井は羨道部の天井より1段下がっている。
 これらの特徴から、6世紀末の築造と推定されている。

横穴式石室 実測図
(リーフレットから)

現在石室は見ることができない。
 県内でも最大規模の横穴式石室をもつ古墳。

東から見た行者塚古墳

ここも階段があるが、
 縄がはられていて入れない…

中腹に石碑。土台は天井石?

北側の墳丘斜面には、ブルーシート…。

行者塚古墳の北約150mには、朝日塚古墳

 朝日塚(山上塚)古墳  アサヒヅカ(ヤマガミヅカ)コフン  出土物は市有形文化財
 直径20m級の円墳と推定されている。
 朱彩された横穴式石室があり、床面には礫が敷いてあったと考えられている。
 出土した土 器から、6世紀後半頃の築造と推定されている。

 昭和 29 年の道路建設時に土取りがされ、その時に土器が出土し、
   高杯や壺、ハソウなど、現在15点が伝わっていて、
   6世紀中ごろ以降の製作のものと考えられている。  

小公園になっている。

墳丘

集落の西にある天日神社の西側にあるのが、骨塚古墳。

 骨塚(北浦)古墳  コツヅカ(キタウラ)コフン
 径20mの円墳と推定されている。
 近くの天日(テンニチ)神社前に石棺材と思われる 凝灰岩の石材が置かれており、
   勝堂古墳群のなかで一番古い首長墓の可能性が高い。

北から見る
史跡指定されていないせいなのか、
ジャングルで中がどうなっているのか分からない。
 天日神社には、石棺石材が残っているそうだが、どれかはわからない

天日神社鳥居
左下にある石が石棺材?!
  

左の写真の石のあたり

天日神社境内

ほかにも、正眼寺と瑞正寺にも石棺石材が残るそうだ。
正眼寺の石棺石材は、県史跡になっている。

おから山古墳の東に古墳公園があり、赤塚古墳と弁天塚古墳が保存されている。
2003年に見学したが、もう一度紹介する。

古墳公園
赤塚古墳と弁天塚古墳の配置図

(リーフレットから)




石室が露出しているのが赤塚古墳

 赤塚古墳  県指定史跡
 直径32m・高さ5.2mの円墳
 両袖式横穴式石室があり、羨道の長さは 2.4m 以上・幅0.9m。
  玄室の長さは4m・幅2m・高さ1.6m以上。。
 墳丘の形状などから、6世紀後半頃の築造と推定されている。

横穴式石室 実測図
(リーフレットから)

北から見た赤塚古墳

南側に石室開口部がある。

石室内部は、 かなり埋まっている…

赤塚古墳の北西約40mには、弁天塚古墳。

 弁天塚古墳
 直径20m・高さ4.3mの円墳
 内部主体の構造は未調査のため不明。
 古墳の周囲には濠がめぐり、さらにその外周に堤がめぐる。
 墳丘の形状などから、6世紀後半頃の築造と推定されている。

弁天塚古墳

何といっても
外提がすばらしい!

弁天塚古墳の周溝内を歩く私


15年前の写真。

今、この古墳公園、変わりはないのだろうか…。

栗林古墳 犬上郡甲良町小川原
 (撮影日2018/4/30)

甲良町の小川原古墳公園に保存されている。
紀要『犬上郡甲良町小川原「栗林古墳」出土遺物について』という報告書が
    インターネット上で公開されているので、参考にさせていただいた。
平成元年の県営ほ場整備事業で確認された。

 栗林古墳は犬上川沿いに所在する小川原地区の中心部から南方350mの水田中にある。
  塚原古墳群の西約1km。

栗林古墳の現況

   (紀要から引用)

 現状は東西20m・南北17mの墳丘だが、本来は直径24mほどの円墳と推定されている。
  高さは現状で2m。
 周溝があった可能性が高い。
 横穴式石室があったと思われるが、詳細不明。
  須恵器が多数出土している。
 完形に近い物だけでも35点確認されている。
 6世紀末~7世紀初頭の築造と推定されている。

小川原古墳公園



埋め戻しが行われ、
   現状で保存された。

墳頂には、土器が飾られている

墳頂から、墳裾を見る
墳頂の土器は、
出土した須恵器を模したものだろうか?

何回か探してようやく見つかった古墳だ。     

北落古墳群 犬上郡甲良町北落
 (撮影日2018/4/30)

甲良町には、四ツ塚古墳群や金屋古墳群があるが、
   報告書に出てくる塚原古墳群や北落古墳群はどこにあるのか?
紀要『犬上郡甲良町小川原「栗林古墳」出土遺物について』という報告書に地図が載っているので、
  現在の地図と重ね合わせて見ると、
 塚原古墳群は工場地帯となっている。
北落古墳群は、北落広場(旧きらめき公園)にあるらしい。
北落広場(旧きらめき公園)には、金屋1号墳石室が移築保存されている

金屋南1号墳石室
(撮影日2011/2/20)
現在は、北落広場に保存されている。
元は 甲良養護学校の敷地内にあった。

北落広場を散策してみた。

 北落古墳群その1
  北落広場の東側の林の中に墳丘発見!
  北落古墳群の1基か?

墳丘

墳頂
 北落古墳群 その2
  北落広場の南にある工場敷地内に墳丘?

北から見る
金屋1号墳石室を見学したときも、見た墳丘だ。

東から見る
石祠や石灯篭や石碑がある。

塚原古墳群というのはどうなっているのでしょう?

敏満寺大塚古墳 犬上郡多賀町敏満寺
 (撮影日2018/4/30)

犬上大橋の北端の東南約250mの水田中に、石室が露出している古墳がある。

多賀町立文化財センターの「多賀町の遺跡」の中に入っているが、
  史跡指定になっているわけではないようだ。

 水田中に横穴式石室が完全に露出している。
 天井石は巨石。  詳細不明。

大塚古墳

石室辺りだけが残っている。

方向を変えて見る

天井石

これまで、何回か探してようやく見つかった古墳だ。

飯盛木 犬上郡多賀町大字多賀
 (撮影日2018/4/30)

大塚古墳の北東に大木が2本。

 多賀大社のケヤキ
 元正天皇(715~724)の病気平癒祈願にケヤキで杓子が謹製された。
 その残り枝を地に挿したものが大木になったと伝承されている。
 東の木が男飯盛木、西側の木が女飯盛木と呼ばれ、
   「お多賀杓子の飯盛木」の言伝えで親しまれている

男飯盛木

樹周6.32m 樹高15m 300年以上

女飯盛木

樹周9.75m 樹高15m 300年以上

樹齢は不明だが相当の古木で
   ケヤキとしては県下最大級  

  

3回にわたり、近江(滋賀県)の古墳・遺跡を紹介しました。
雪野山に孫たちと登ることをメインにした、一泊二日の旅でした。
近江2018 終了です。

近江八幡市に住む長男一家が、東近江市埋蔵文化財センターに行き、
  上日吉古墳群2号墳の写真を撮ってきてくれたので、紹介する。

 上日吉古墳群2号墳 東近江市山路町 埋蔵文化財センターに移築復元
撮影日2018/11/11
 建部日吉町から建部南町にかけて分布する、元は6基からなる古墳群。
 上日吉古墳群 2号墳は  1辺9mの方墳
  横穴式石室がある。
 建部北町に所在したが、
   現在は、石室だけが保存され、埋蔵文化財センターの前庭に移築復元されている。

案内板

移築復元された石室

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