北村さんちの遺跡めぐり
更新日2024/4/28
2023三重県へ
その7
鈴鹿市・亀山市撮影日2023/11/23~26
2023/11/26日 三重県の旅4日目、最終日です。
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王塚古墳(西ノ野1号墳) 国史跡 西ノ野古墳群 |
鈴鹿市国府町 撮影日2023/11/26 7:50 |
2010年にも、雨の中見学したが、雨と雑草でよくわからなかった。
王塚古墳(西ノ野1号墳) 国史跡 | |
鈴鹿川の東岸段丘上の縁辺部に位置する西ノ野古墳群中最大の 長さ63mの前方後円墳 後円部径38m・高さ6m 前方部幅4.8m・高さ6.5m 前方部の広がりが著しく、高さも後円部とほぼ同じで、東側くびれ部に造り出しがある。 古墳の周囲には盾形の周濠(空濠)があり、 さらにその外周に幅3m・高さ1mほどの外提がめぐる。 外提を含めると、全長90mほどになる。 盗掘されていて、副葬品などは不明だが、外形から、6世紀初頭の築造と推定されている。 王塚古墳 測量図 (古墳辞典から) 2号墳も書かれている。 |
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「王塚古墳」石碑と説明板 説明板の文字は、読めない |
後円部 |
横姿 右に後円部 |
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北東に隣接して陪塚の2号墳がある。径7mほどの円墳。 西ノ野2号墳 |
王塚古墳(西ノ野1号墳)の南100mの道路沿いに5~10号墳が保存されている。
5号墳の前に説明板があるが、はげて読めない部分がある。
西ノ野古墳群5~10号墳 | 市史跡 | ||||||
西ノ野5号墳 全長30.5mの前方後円墳 前方部幅15m・高さ1.8m 後円部径21m・高さ3.4m 前方部は後円部より幅が狭く、高さも低いことから、 王塚より古い5世紀中ごろの築造と推定されている。 後円部の中央付近から人物埴輪(女子の前頭部)や家形埴輪、くびれ部から円筒埴輪が出土 盾形の周濠に囲まれ、 外提部には、径10~15m前後の小円墳が衛星状に整然と配置されている。 5~1号墳配置図 (説明板から)
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5号墳陪塚 西ノ野5号墳の外堤にある直径10~15m前後の円墳5基。
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5号墳の東500mの竹林の中に11号墳(椀塚)がある。
西ノ野11号墳は 鈴鹿川右岸の段丘上に立地する全長約50mの前方後円墳。 後円部に盗掘坑がある。 通称「椀塚」といい、 寄合いの際、この古墳に願をかけるとお椀を貸してくれるという伝説から名付けられた。 6世紀代の築造か。 |
西ノ野11号墳 なかなか 墳丘には入れない…… 須恵器が出土して 椀貸し伝説になった といわれている。 |
井尻古墳 | 亀山市井尻町 撮影日2023/11/26 8:36 |
カメヤマドライバースクールの東、関西本線の南の農地にあるので目立つ。
説明板は見あたらない。
井尻古墳は、全長53.5mの前方後円墳 後円部径24.3m 鈴鹿川を見下ろす段丘上につくられている。 6世紀前半の築造と推定されている。 |
井尻古墳 西ノ野11号墳と 同じくらいの大きさ 見た目もよく似ている。 |
井尻古墳 後円部頂 |
井田川茶臼山古墳 | 亀山市井尻町 撮影日2023/11/26 8:55 |
井田川住宅団地の中のみどり町第4号公園に保存されている。
インターネット上に「井田川茶臼山古墳(1988)」が公開されているので参考にさせてもらった。
団地造成の際に発掘調査されたが、かなり破壊されていたようで、墳形は不明だ。
井田川茶臼山古墳は 径20mほどの円墳か 全長40mほどの前方後円墳の可能性もある。 石室は全長7.2m以上で、西向きに開口している。 玄室長さ5.5m幅最大2.5m・高さ2.1m 玄室内には組合式石棺が2基のほか、棺台もあるので、 少なくとも3体が埋葬されていたと想定されている。 羨道は調査以前に削平を受けていて基底部しか残っていない。 墳頂部から、須恵器・土師器が出土。 石室内からは、 画文帯神獣鏡2面 金環、玉類、直刀、刀子、鉄矛、鉄鏃、馬具類など 豊富な副葬品が出土した。 6世紀前半に築造され、6世紀半ばまで追葬されたと推定されている。 |
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井田川茶臼山古墳 |
方向を変えて見る |
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石室石材が埋められている |
元の石室に基づいて埋められているわけではない |
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説明板から
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発掘当時、保存の声が上がったが、発掘調査途中で石室は解体されてしまった。
資料によっては、「井田川茶臼山古墳跡」となっている……。
能褒野王塚古墳 陵墓参考地 |
亀山市田村町 撮影日2023/11/26 9:09 |
のぼのの森公園内に能褒野王塚古墳がある。南の駐車場に駐車。
陵墓参考地となっているので、公園や周辺の住宅街を陪塚を見学しながら御拝所を探した。
飛地〇号という標識があるが、
飛地と陪塚番号が一致するのかどうか分からないので、分かる範囲でそのまま掲載する。
「HP亀山市史考古編」を参考にさせてもらった。
能褒野古墳群 | |
能褒野王塚古墳の周囲には、 宮内庁が陪塚としているものも含め16基の円墳が確認されている。 これらの古墳群の周辺では、 6世紀後半から7世紀初頭の須恵器杯が採集されていることから、 ほとんどが後期古墳と考えられている。 |
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能褒野王塚古墳と能褒野古墳群平面図 (HP亀山市史考古編から引用) |
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能褒野墓 飛地ほ号(5号墳) |
能褒野1号墳 |
能褒野墓 ろ号陪塚 |
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能褒野神社 能褒野王塚古墳が、 「日本武尊能褒野墓」に治定されてから、 日本武尊の遺徳をしのぶために創建された。 主祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、 配祀神は建貝児王(タケカイコノミコ) 弟橘姫命(オトタチバナヒメノミコト) |
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能褒野墓 陪塚と号(9号墳) |
能褒野墓 陪塚ち号 |
能褒野墓 陪塚り号 |
能褒野墓 陪塚る号 (能褒野13号墳) |
能褒野14号墳 |
能褒野12号墳 |
能褒野墓 飛地い号 |
能褒野墓 飛地?号墳 |
王塚古墳は陵墓参考地で入れないので周りから見えるところを探す。
南側に御拝所を見つけた。前方部前面に御拝所がある。
能褒野王塚古墳 | 陵墓参考地 |
宮内庁 により「日本武尊能褒野墓」として 第12代 景行天皇 皇子の 日本武尊 の墓に治定されている。 御幣川と安楽川の合流点の段丘上に所在する北勢地域最大の前方後円墳 全長90mの前方後円墳 後円部径54m・後円部高さ9.5m 前方部幅44m前方部長さ40m 高さ6.5m 墳丘周辺に見られる周溝や外提は、陵墓としての体裁を整えるために明治13年に新設されたもので、 墳丘も後円部にあった盗掘穴の埋戻しと合わせて墳丘全体に修築が行われた可能性がある。 段築や葺石の有無は不明 陵墓となっているので、発掘調査はされていないが、 能褒野神社で保管されていた器材埴輪・朝顔形埴輪や 亀山市博物館が所蔵する17点の破片が報告されている。 出土した埴輪から4世紀末頃の築造と推定されている。 |
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拝所上り口階段 |
拝所上り口 その上の階段 |
拝所上り口 その上の上の階段 |
御拝所 |
後円部 右に前方部 |
前方部 左に後円部 |
後円部から前方部を見る 分からないなぁ…… |
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南から見た能褒野王塚古墳 後円部は左 |
能褒野王塚古墳の東400mの段丘端部が突出した部分に名越古墳がある。
名越古墳 | |
かつては延喜式内社 那久志里神社の鎮座地と伝えられ、 1972年(昭和47)には古墳と周知されているが、 この段階では直径30mの円墳と考えられていて、大きく墳丘が崩されていた。 1992年(平成4)に、崩されていたところで埴輪が出土して調査した結果、 墳長60mの前方後円墳 後円部径35m・高さ6mと確認された。 前方部は削平、後円部も大半が失われている。 出土した埴輪から 4世紀末ころの築造と推定されている。 (能褒野王塚古墳とほぼ同時期) (HP亀山市史考古編から) |
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名越古墳 後円部 墳丘は大きく削られて原型を留めていない |
後円部 |
倭建命之碑 と 水乃神の碑 名越古墳のそばにある |
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白鳥塚古墳 県史跡 |
鈴鹿市加佐登町 撮影日2023/11/26 10:05 |
加佐登神社境内にある。社殿の北東約100m。
南の一の鳥居からは離れているので、北東側道路から神社に入り駐車。
インターネット上に、「県史跡白鳥塚古墳(1号墳) 第2次発掘調査現地説明会資料(平成17年)」
が公開されていたので参考にさせてもらった。
2010年にも、雨の中ちょっと見学した。
白鳥塚古墳は 全長80mの帆立貝式古墳、 後円部径64m(基壇含77m) 高さ9m(基壇含11m) 前方部長さ15.5m・幅27m 墳丘は2段築成 最下部で基壇を設け その上に築かれている。 葺石あり 埴輪あり (円筒埴輪・朝顔形埴輪 形象埴輪) (図は、現説資料から) 出土した円筒埴輪から5世紀前半の築造と推定されている。 平成17年度(2005年)に調査 日本武尊(ヤマトタケル)の墓との伝承がある。 |
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白鳥塚古墳 参道入口 |
白鳥塚古墳 拝所 |
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墳丘 |
墳頂 |
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後円部から前方部方向を見る |
墳裾から墳丘を見上げる |
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説明板 現説資料 から
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加佐登神社 祭神は 日本武尊 天照大御神 日本武尊が亡くなる時に持っていた 形見の「笠」と「杖」をお祀りしたのが、 加佐登神社の始まりと伝えられている。 |
南町古墳 | 鈴鹿市石薬師町字南町 撮影日2023/11/26 10:41 |
石薬師町には、古墳が多くあったようだが、前方後円墳が2基、破壊されながらも残っている。
その一つ、南町古墳。
南町古墳は 。全長50mの前方後円墳 墳丘は、破壊されている 横穴式石室があったが、現在袖石と奥壁の石材がほぼ現位置と思われる状態で残る。 6世紀の築造と推定されている。 山ノ神社となる。 1914年に調査。出土品は東京国立博物館にある。 |
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パノラマ写真 真ん中に山ノ神社 左に石室跡がある。 |
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左の墳丘には、奥壁石材が残る |
手前には、袖石と見られる石が残る。 かなり大きな石室があったと考えられる。 |
手前の墳丘が前方部か? 石室跡が残る奥の墳丘が後円部か? |
説明板 |
道を聞いた女性から、みかんをいただいた。とてもおいしいみかんでした。ありがとうございました。
北町古墳 | 鈴鹿市石薬師町字北町 撮影日2023/11/26 11:02 |
石薬師町には、古墳が多くあったようだが、前方後円墳が2基、破壊されながらも残っている。
もう一つは、北町古墳。南町古墳の北約500m。
北町古墳は道路沿いにある推定全長20m以上の前方後円墳 後円部の一部だけが残る。 花崗岩の組合せ式箱式石棺が露出。内寸は2.3×0.5×0.4m。 6世紀頃の築造と推定されている。 |
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墳丘は、わずかに残るだけ。西から見る よく前方後円墳とわかったなー…… |
石棺があるところだけ残った |
石棺が露出 |
石棺内部 |
北から見た北町古墳 |
説明板 |
大谷古墳 | 鈴鹿市木田町 撮影日2023/11/26 11:14 |
北町古墳の東約400m、若宮八幡神社は古墳だ。
横に若宮公園がある。
大谷古墳は、全長43mの前方後円墳 若宮八幡神社の境内になっているが、社殿で大きく破壊されている。 横穴式石室があったが、現在社殿の裏に破壊された石室の石材がまとめて置かれている。 |
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墳丘を削って 若宮八幡神社がある。 古墳の面影はほとんどない |
境内の石造物は、石室石材で造られた? |
石材が無造作に置かれている |
祠の土台の石も石室石材かな |
伊勢国分寺跡 国史跡 |
鈴鹿市国分町 撮影日2023/11/26 11:24 |
大谷古墳の東約600mに、伊勢国分寺跡がある。
伊勢国分寺跡リーフレットなどを参考にさせてもらった。
国分寺は 天平13(741)年、 聖武天皇の詔により各国に建てられた官営の寺院で,僧寺と尼寺が置かれた。 鈴鹿川左岸の標高43m前後の高位段丘上に位置している。 大正11年に、国分町字堂跡一帯の37,180㎡が史跡伊勢国分寺跡として指定された。 奈良時代中期の伊勢国の役所である国府は,鈴鹿市広瀬町で見つかっているため, 約7kmと離れた位置関係にあり,国府は鈴鹿郡,国分寺は河曲郡と郡が分かれている。 現在整備途中である。 伊勢国分寺復元イラスト (伊勢国分寺跡リーフレットから) |
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敷地の中央には 「史跡伊勢国分寺跡」と刻まれた石碑2基と 説明板がある。 説明板は読みにくい。 |
北東院跡 院とは塀などで区画された施設のこと |
講堂跡 |
国分寺跡の南には鈴鹿市考古博物館がある。 |
富士山1号墳 | 鈴鹿市国分町 撮影日2023/11/26 11:37 |
伊勢国府跡の東500mに富士山1号墳がある。
富士山(フジヤマ)1号墳は 全長54mの帆立貝形古墳、前方部が短く平坦 後円部径36m、前方部幅20m 幅5mの周溝が巡り、周溝の外側には周堤が存在した 西側くびれ部に一辺5mほどの方形壇の造出しがある。 2段築成 葺石あり 埴輪あり (淡輪技法を施した円筒埴輪、朝顔形埴輪や須恵器片) 5世紀後半頃の築造と推定されている。 以前から「大鹿(おおか)の大塚」と呼ばれ、 地元は「古事記」「日本書紀」に記された古代豪族、大鹿氏の本拠地との説がある。 以前は竹薮に覆われていたが、2021年に地元自治会により竹が伐採されて 墳丘が露になった機会に基礎資料を得るための発掘調査が実施された。 13基からなる富士山古墳群のうち、現存するのは1号墳のみ |
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南から見た富士山1号墳 左奥に前方部 |
後円部から前方部を見る いまだに発掘中 |
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前方部から後円部を見る |
1号墳墳頂から東を見る 6号墳辺り発掘中? |
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富士山1号墳横姿 |
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説明板から |
寺田山1号墳 | 鈴鹿市高岡町国分町 撮影日2023/11/26 11:57 |
富士山1号墳の南西約800mに寺田山古墳群がある。
HP.「企画展 鈴鹿の古墳Ⅰ -ちいさなちいさな古墳たちー」の「寺田山古墳群」を参考にさせてもらった。
寺田山1号墳は 全長85mの前方後円墳 鈴鹿川流域第2位の規模 後円部の直径45m 前方部より3m高い。 前方部はくびれ部分の幅が約15m、先端の幅が20mとあまり開くことはなく、 柄鏡形に近い形状。 出土はないが、古墳の形状から4世紀末~5世紀初頭の築造と推定されている。 寺田山古墳群は鈴鹿川下流域左岸の段丘上に位置し、 前方後円墳を含む12基の古墳群と考えられていたが、 平成2・4年の道路建設に伴う調査で、新たに10基ほどの埋没古墳が見つかった。 鈴鹿川に向かってのびる舌状の台地の先端に、前方後円墳である1号墳があり、 1号墳に近接して2、3号墳があり、このほかの古墳はやや奥まったところに築かれている。 前期の大型前方後円墳を伝説的な祖先の墓とみなして, それに連なるように営まれたと考えられる初期の群集墳と考えられている。 |
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寺田山1号墳 後円部登り口の標柱 |
寺田山1号墳 後円部を見上げる |
寺田山1号墳 後円部墳頂 |
寺田山1号墳 後円部から前方部を見る |
寺田山1号墳 前方部から後円部を見る |
寺田山1号墳 くびれ部から後円部を見上げる |
寺田山遺跡 調査区位置図 (「企画展 鈴鹿の古墳Ⅰから) |
セブンイレブン四日市中央緑地前店にて昼食。