北村さんちの遺跡めぐり
更新日2024/5/18

2023三重県へ
その8
鈴鹿市・亀山市
撮影日2023/11/23~26

2023/11/26日 三重県の旅4日目、最終日午後。
四日市市に入る。

志氐神社古墳
市史跡
四日市市大宮町
撮影日2023/11/26 13:02

四日市市の市街地に古墳がある。
神社の由緒書きにも、古墳について書かれている。
神社の宮司の方から、資料をいただいた。

 志氐神社
 祭神は 風の神の気吹戸主神(イブキドヌシノカミ)と イザナミとイザナギ
 延喜式内社。
 社記には、 垂仁天皇の時代の創建となっている。
 志氐「シデ」とは御幣の意味である。
 「シデ」(御幣)を垂らして禊祓いをされたことにより、
   この地に「志氐」の名が起こり社名となった。

志氐神社 正面

妻恋稲荷神社 志氐神社境内社
赤い鳥居がきれいだ
 志氐神社古墳は  社務所拡張の際に前方部は削平されているが、
 それ以前の1852年(嘉永5)に、
  前方部と後円部のくびれ部に小道を敷設したときに多くの遺物が出土
 後円部径30m・高さ6mで墳頂平坦部は径8m
 周濠幅4m 周堤6m
 碧玉製車輪石1、硬玉製勾玉1、硬玉製管玉2、
   ガラス製小玉4、内行花文鏡片(青銅製)5などが出土
 古墳の形や出土物から、4世紀末の築造と推定されている。


志氐神社古墳測量図
   (資料から)

後世の書物「北勢名勝志」には
「額田連(ヌカタノムラジ)の祖、意富伊我都命(オウイガツノミコト)」
  の墓と推定しているが真実は不明
   (四日市市HPから)
 古墳時代前期に築造された北勢随一の前方後円墳。
 四日市市内に残る唯一の前方後円墳として市指定記念物に、
   出土遺物は市指定有形文化財となっている。
 周辺には7基の古墳があったといわれているが、現在は東側に1基残すだけ。

後円部は祀られている

後円部は立入禁止

椎の古樹が前端部にあたるとされている

(元の)前方部から後円部を見る
志氐神社の東側には、民家に挟まれ、陪塚が残る

「志氐神社古墳」と刻まれた石碑が立つ

石室跡?!

   

糠塚古墳群 四日市市羽津戊
撮影日2023/11/26 13:26

志氐神社の北約2kmの糠塚山(額突山ヌカヅキヤマ)市民緑地に古墳があるという。
四日市北警察署の南に駐車場と説明板がある。
天智天皇ゆかりの土地といわれている。
説明板には
 かつて死人谷横穴古墳があって、太刀が出土したと書かれているが、詳細不明。
登ってみる。

 糠塚古墳群は 5基確認されている。 詳細不明。

案内図かある

古墳については書かれていない。

「3号古墳」と書かれた標識がある。

山頂。「1号古墳」と書かれた標識がある。
「天武天皇神宮御遥拝所」の石碑

山頂からの景色

1号古墳の奥は、ロープが張られていて行けないようになっていた。
市民の憩いの場にするなら、木を整理してもっと明るくしたらいいかもしれない。  

八幡古墳 四日市市平津町
撮影日2023/11/26 13:55

八幡神社境内にある。
南から長い参道を、古墳を探しながら社殿に向かうと、正装をした一団に出会う。
お祭りで今からお参りを始めるところだそうで、すぐ足元に石室の穴が開いていた。
参道の途中に東から登る階段があり、そこから上ればすぐだった。

 八幡古墳は 墳丘はほとんどなく、地下に埋め込まれるように石室が開口している。
 市内では唯一開口した複室構造の横穴式石室で、前室が埋まっている。
  玄室は長さ2.7m・幅1.2m。

道路脇に石室が開口している

本来の開口部はほぼ埋まっている



玄室奥壁側の天井部分が開いている

奥壁 側壁と同じくらいの大きさの
石で積み上げられている

前室と羨道は埋まっている
説明板から

石室横に鳥居
東側麓から上がると、
この鳥居をくぐることとなる。

境内にある別の墳丘?

  

広古墳群
A支群1、2号墳が県史跡
四日市市大鐘町
撮影日2023/11/26 14:32

麓には駐車場があるが、閉鎖されている。
説明板があるが見にくくなっている。
南の麓から、山を登る。
四日市市下野地区公式ホームページ」に詳しく掲載されているので、引用させてもらった。

 広古墳群は、この地方では、他にあまり見られない方墳を主とする特異なもので、
  歴史上極めて重要であるといわれている。
 これまでに発掘調査が行われたことがなく、埋葬者、築造年代などは明らかではない。
 広古墳群は、A支群とB支群とがある。
 A支群は、この地域ではもっとも南に張り出した台地先端頂部の標高約38m
  平地との比高差約17mの地点に造営され、方墳2基・円墳2基で構成されている。
 B支群は、A支群の西北約150m、
  標高約54m附近に築かれ、方墳2基・円墳1基が存在する。
 A支群は、昭和43年(1968)に土取りのため消滅の危機にさらされたが、
  四日市市の文化財行政の努力によって、
  昭和44年(1969) 3月28日付で三重県指定史跡となり、
  それをうけて四日市市は史跡指定地を買収して、
  約1,200㎡を公有化し、史跡保護につとめている。
 現在、伊坂ダムに近いため訪ねる人も多い。
 A支群
1号墳 方墳
下辺約16m・上辺約10m
 ・高さ4.5m
2号墳 方墳
下辺約12m・上辺約7m
 ・高さ2.3m
3号墳 円墳
径11.7m・高さ1.6m
4号墳 円墳
径約10m・高さ約1m


今回は、A支群のみ見学した
 B支群 
1号墳 前方後方墳
全長約31m・高さ]3.4m
墳丘頂部に長さ6.2m・幅2.6mの発掘坑がある。
南側が張り出した小形の前方後方墳
埴輪の出土も伝えられ比較的古式の古墳
2号墳 円墳
径21.8m・高さ2.5m
1号墳の約60m西にある
発掘坑などの痕跡はなく、ほぼ完存している
3号墳 方墳
下辺6.7m・高さ1.3m
2号墳に隣接して造営されている。
墳丘から須恵器片が採取されている

A支群が整備されて、見やすくなっている。

 A1号墳  方墳  下辺約16m・上辺約10m・高さ4.5m
  傾斜する地形上に造営されたため、東側では高さ1.3m 
  墳頂部はやや南に傾斜し、中央部に浅い凹みをもつ
 A2号墳  方墳  下辺約12m・上辺約7m・高さ2.3m
  A1号墳の北北東約38mに位置する。  ほぼ完全な形を残している
 A3号墳  円墳  径11.7m・高さ1.6m
  A1号墳の北北西約34mにある。 墳頂部に凹みがあり、一部盗掘を受けている。
 A4号墳  円墳  径約10m・高さ約1m
  他の古墳に比して墳丘の高さが低く、
   墳丘頂部も凹凸が激しく墳丘斜面も旧状より形を変えている

  

若宮古墳(殖栗連の墓) 四日市市小牧町
撮影日2023/11/26 14:45

「殖栗連(エグリノムラジ)」の三文字が刻まれた石が出土したという 若宮古墳へ。
四日市市小牧町に若宮古墳がある。「殖栗連の墓」とも称されている。
付近には史跡の案内板が設置されている。
「殖栗」というのは、用明天皇の第三皇子だという。母は穴穂部間人皇女。


案内図  下が北となる。

左の図拡大  若宮古墳が示されている
 若宮古墳(1号墳)「殖栗連の墓」
  十数基からなった若宮古墳群の一基。 昭和10年代には3基まで減っている。
  明治15年3月に発掘された。
  直径約八間(14.4m)
  横穴式石室は玄室が1.8m四方ほど、
   南に長さ1mほどの羨道を持つ古墳だったといわれている。
  玄室から、神体石(墓誌か?)、金環、鉄鏃、壺、須恵器などが出土
  金環1、須恵器壷・坏、鉄鏃10などが殖栗神社に宝物として保存されている。

案内石碑
  

若宮古墳(1号墳)「殖栗連の墓」
発掘当時より、墳丘は小さくなっているようだ。

若宮2号墳 「若宮古墳」と刻まれた石碑がある。

若宮3号墳
説明板から

墓誌らしきものが出土したというのが、すごい!
終末期の古墳だろうな。
近くにあるという殖栗神社の祭神は、「殖栗連」だ。

高塚山古墳 桑名市高塚町
撮影日2023/11/26 15:35

高塚町団地の西側の丘陵にある。
 本来は、高塚第三公園や笹山公園から古墳に至る遊歩道があるはず(?)
高塚町団地の西の隅に駐車。
住宅団地開発(?)が始まっていて、立入禁止のところも多く、なんとか登り道を見つけて上がってみる。
桑名市で一番大きい古墳だそうだ。
インターネット上に
 「高塚山古墳基礎調査報告書(平成18年)」が公開されているので参考にさせてもらった。

 高塚山古墳は  墳長56mの前方後円墳で 主軸を南東に向け、北西に後円部がある。
 後円部墳頂に標高88mの三角点がある。
 古墳全体は封土がかなり失われている。
 古墳の東側を南北に走る道路によって前方部の一部が破壊されている。
 内部主体や副葬品は発掘調査がなされていないため、不明。
 昭和26年(1951)この山が高塚と称されることに着目した桑名高校地理歴史部が踏査を行い
  円筒埴輪片を採集、古墳であることが確認された。
 昭和44年(1969)三重大学歴史研究会と桑名高校郷土研究部が測量調査。
 平成14~17年度の基礎調査・試掘調査で、埴輪片、土師器片が出土したが、
  葺石の有無は判断できなかった
  円筒埴輪・朝顔形埴輪、盾形埴輪・蓋形埴輪 笊型土器・土師器などが採集
 柄鏡式にまっすぐ伸びる前方部の形や、出土した埴輪片の様式から、
  4世紀末~5世紀初頭の築造と推定されている。 

後円部墳頂部

墳頂には三角点がある。標高88m

後円部から前方部を見る

前方部から後円部を見る
  報告書から

高塚山古墳周辺地形図
(桑名市教育委員会文化財遺跡包蔵地検索から)
古墳南側は開発が進んでいる。

復元A案平面図(報告書から)
墳丘長約52m
後円部径約32m・前方部幅約24m

復元B案というのもある。
報告書では、墳長56mの前方後円墳と確認されたが、
  形の詳細や葺石の有無については不確定となっている。

尾野山古墳 桑名市東方
撮影日2023/11/26 4:20

桑名市大成小学校の北にある森には古墳がある。
東の麓の尾野神社に、駐車できる。

 尾野神社は、崇神天皇の時代に創立されたと伝えられている。
 御祭神は天押帯日子命(アマオシタラシヒコノミコト)。
 天押帯日子命は天足彦国押人命(アマタラシヒコクニオシヒトノミコト)ともいい、
   第5代孝昭天皇の第一皇子とされている。

一の鳥居
  

二の鳥居
 

境内

高稲荷神社 尾野神社境内社 

境内の広場の西側奥から、山に入ってみる。
急な壊れかけた階段を登っていくと、2つのピークがあるのでどっちかわからない……

 尾野山古墳
 前方後円墳で、前方部は大成小学校となっている。残っているのは後円部だけ。
 戦国時代には、後円部に尾野山城、前方部には白山ヶ鼻(ハクサンガビ)城があり、
  改変されている。 (いずれの城も織田信長勢の手により滅亡した。)

(桑名市教育委員会文化財遺跡包蔵地検索から)
尾野山古墳 遺跡包蔵地

城が築かれていたこともあり、
 形はかなり崩れているようだ

全体が残っていれば
 高塚山古墳よりも大きい
  古墳だったのかもしれない

後円部

後円部頂部は石囲いがある

囲いの中に何があるのか?

後円部

詳細不明です。

宇賀神社古墳群 桑名市多度町大字柚井小字宇賀
撮影日2023/11/26 16:43

三重県最後の見学地は、宇賀神社古墳群。
すぐ横が 多度山ハイキングコースとなっていて、
  宇賀神社の北側にはそのための駐車場とトイレがある。


現地案内板


日没前後の写真となり暗い……

 宇賀神社古墳群
 宇賀神社境内に、3基の方墳が残る。 いずれも墳丘が確認できるが、詳細不明。


宇賀神社古墳群配置図


(桑名市教育委員会
   文化財遺跡包蔵地検索より)

宇賀神社 社殿

 宇賀神社1号墳

墳丘がえぐれている

方向を変えて見る
 宇賀神社2号墳
 宇賀神社3号墳

5時前だが、実は真っ暗……



宇賀神社から見るお月様


全ての予定を終える……


午後5時、帰路につく。
2017年に開通したという東海環状道養老ICから高速へ入り、すぐの養老SAでお土産をゲット!
ひたすら北上。


南条SAで
カレーライスの夕食

(19:13-42)

 美川IC(20:45)で高速を下りて  8時53分帰宅   今回の走行距離は 844km

       

三重県2023の旅  終わります!

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