北村さんちの遺跡めぐり
更新日2024/2/6
2023三重県へ・その3
名張市2・伊賀市3撮影日2023/11/23〜26
2023/11/24 2日目です。
「HOTEL AZ」三重名張店の
朝食バイキングを済ませ、
7時半に出発。
大屋戸古墳群 | 名張市大屋戸 撮影日2023/11/24 7:40 |
名張市梅が丘団地への上り口に、杉谷神社があり、その境内に古墳がある。神社の駐車場がある。
杉谷神社 | |
杉谷神社鳥居 |
本殿は県有形文化財 |
中世名張の豪族大江氏の氏神とされている。 木造桧皮葺、三間社、入母屋造、軒唐破風など、華麗な桃山様式を象徴する造りとなっている。 慶長17年(1612)の棟札などから、、 桃山時代に建立された建物を宝永年間に改修したと考えられている。 |
4基の古墳が残存していて、社殿すぐ裏に1号墳石室が開口している。
大屋戸1号墳 全長5.4m、幅1.05mの小型の石室が完存している。 玄室部長さ約3m、幅約1.5m、高さ約2m。
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大きな陥没壙を挟み、すぐ上隣に2号墳石室がある。
大屋戸2号墳 直径約10mの円墳。 玄室部長さ3m、幅1m、高さ1.5m。 羨道は崩壊している。
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2号墳から尾根を北西へ登る。石材が2ヶ所程ある。
尾根はかなり高い所まで登ったが、3、4号墳は特定できない。
大屋戸3号墳・4号墳 石室は埋没し、羨道部の石材1個と天井石1個が露出しているというが?
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鹿高神社境内古墳 市史跡 |
名張市安部田 撮影日2023/11/24 8:45 |
大屋戸古墳群の南南西5kmにある鹿高神社境内には前方後円墳がある。
国道沿いに鳥居があり、石段が続いているので駐車できるか心配だったが、
脇道から入ると駐車場があった。
境内には鹿高神社のパンフレットが置いてあり、古墳のことも書かれている。
鹿高(カタカ)神社は、祭神鹿高神(カダカノカミ)・天児屋根命(アメノコヤネノミコト) 古記録には、706年・806年という記述があるので、 1300年ほど前から鎮座していることとなる。 壬申の乱(672)のときに、大海人皇子が通りかかった際に、川を渡れずに困っていると、 白鹿が現れ、皇子を乗せて川を渡ったという伝説から、 乱の後に白鹿を祀る神社を建てたのが始まりと言われている。
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鹿高神社境内古墳(市史跡)は 名張川の左岸に張り出した丘陵端部にある。 全長42mの前方後円墳 前方部を東に向ける。(古墳辞典では全長45m) 後円部径23m・高さ5m 前方部幅25m・高さ4.5m 後円部と前方部にそれぞれ横穴式石室が南西に開口している。 後円部の石室は全長10m、玄室長4.7m・幅2m・高さ2.5m、 羨道長5.8m・幅135mの両袖式で、巨石を使用。 前方部の石室は全長7.65m、玄室長4.55m・幅1.65m・高さ2m、 羨道長3.1m・幅1mの両袖式で、こちらは小型の石材を使用 墳丘や石室から、埴輪片や須恵器などが出土している。 6世紀中頃の築造と推定されている。 宮山古墳(後述)に先行すると思われる。 古墳の南に隣接して2基の円墳がある。 |
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横姿 (パノラマ写真) |
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後円部と石室 |
後円部石室開口部 |
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後円部石室内部 側壁の一部が落ちている 奥壁前にある石材は箱式石棺の板石 |
蝙蝠が住む後円部石室 玄室から羨道部・開口部を見る |
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前方部と石室 |
前方部石室開口部 入れない…… |
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前方部石室にカメラを突っ込んでみる |
もっと奥に突っ込んでみる |
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後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
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前方部裾から後円部を見る |
後円部裾から前方部を見る |
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円墳1 |
円墳2 |
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説明板から |
古墳見学の時には、他の人にはほとんど会わないのだが、
鹿高神社では 「蛾(ガ)」の研究者の方と出会った。
「ヒメヤママユ」という蛾
いろいろなところに採集に行っているそうだ。
鹿高神社古墳群とは名張川をはさんだ対岸にある赤目町には古墳がある。
インターネット上に赤目町の古墳探索のHPもあり、それを参考にいくつか見学した。
最近はインターネットで調べると、詳しく場所がわかるのでうれしい。
桃山古墳 | 名張市赤目町 撮影日2023/11/24 9:30 |
赤目町の山中の古墳。道の広めの所に駐車。
山裾の道に小さな案内板が出ていて、そこから細い山道に入ると、
要所要所に小さな案内板があるので、なんとか行き着いた。
案内板を見つけ、山道へ。 すぐ道がなくなり藪の中を進む。 |
ジャングルを抜けるとまた案内板 |
手前謎の大穴 奥に古墳 |
謎の大穴は井戸? 元は桃畑だったという。 |
桃山古墳は 横穴式石室が露出している。 墳丘と天井石を失っている。 石室全長11.1m、玄室長4.8m・幅2.7m・高さ2.6m、 羨道長6.3m・幅1.6m・高さ1.5mの両袖式 名張では赤井塚に次ぐ大型の石室で、次に見学するか? |
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羨道側から奥壁側を見る 玄門天井石が1個残っている。 |
奥壁 側壁に比べ貧弱な鏡石 |
玄室から羨道方向を見る |
墳頂部に後世の謎の石垣 |
墳頂の謎の石組み(お墓?) |
玄門天井石の上から玄室を見下ろす |
奥壁上から玄門方向 |
墳丘は殆ど削られている |
宮山古墳 市史跡 |
名張市赤目町 撮影日2023/11/24 10:07 |
桃山古墳の南東約300mほどの所にあるが、桃山古墳から一旦山裾に戻り、
東の山裾から、もう一度山に入る。
急斜面を尾根を目指してひたすら登り、頂上に古墳がある。なかなか着かない……。
宮山古墳は 全長34mの前方後円墳 (双円墳かもしれない) 北側尾根先端部を前方部とする。 南西に開口する2基の横穴式石室がある。 後円部石室は全長8.3m 玄室長4.4m・幅1.9m・高さ2.4m、羨道長3.9m・幅1.2mの両袖式 前方部石室は全長6m、 玄室長4.9m・幅2.6m・高さ2.5m、羨道長1.1m・幅1.4mの両袖式 |
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墳丘上に立つ「史跡 宮山古墳」の石碑 |
後円部の石室 |
後円部石室内部 |
後円部石室内から入口側を見る |
前方部の石室 |
前方部石室内部 |
前方部石室の奥壁から天井 |
前方部石室内から入口側を見る |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る。 |
横姿 (パノラマ写真) |
帰りは道らしきものを見つけ、その通り下りたが、ぐるーっと回っていて遠かった。
台ケ芝1号墳 | 名張市赤目町 撮影日2023/11/24 10:52 |
宮山古墳の東約500m、川を渡って、墓地へ行く道の途中の山中にある。
台ケ芝1号墳の 南に開口する横穴式石室は 全長5.8m、 玄室長3.6m・幅2m・高さ1.8mの右片袖式。 |
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墳形については、 データを見つけることができなかった |
開口部 |
石室内部 |
石室内部から入口側を見る |
この後、滝谷古墳を探そうとしたが、入る道が分からず、早々にあきらめて次!
琴平山古墳 (県指定史跡) 横山古墳群 |
名張市赤目町 撮影日2023/11/24 11:15 |
台ケ芝1号墳の北約1kmの道沿いに「琴平山古墳」の説明板がある。
向かい側にも古墳らしきものがあるが、これは横山1号墳。
琴平山古墳は横山古墳群の盟主墳と考えられている。
インターネット上に「琴平山古墳現地説明会資料」が公開されていたので参考にさせてもらった。
「続古墳辞典」にも「横山古墳群」として紹介されている。
琴平山古墳 | |||
名張市の南東部、高善山より派生した丘陵頂部に立地する。 全長70mの前方後円墳 後円径36m 3段築成 葺石あり 円筒埴輪がそれぞれの段にめぐる 前方部端の主軸線上に方形区画があり、人物埴輪を含む埴輪列が並ぶ くびれ部の南側には土器集積があり、 墓前祭に用いられた大量の須恵器の蓋坏や、器台、陶質土器などが出土。 3基の横穴式石室がある。 6世紀前葉の築造と推定されている。 前方部にある金比羅社が、名前の由来となっている。
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説明板の後ろを登ると前方後円墳がある。 |
登り道 葺石か |
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後円部石室跡 くぼみがある。石も残る |
後円部から前方部を見る |
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前方部墳頂には金比羅社がある。 前方部石室が埋まっているという。 |
前方部裾から前方部を見上げる |
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前方部から後円部を見る |
くびれ部石室跡 |
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くびれ部石室内部は埋まる |
くびれ部から前方部を見る。 手前左はくびれ部石室石材 |
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説明板から |
横山古墳群 | ||||
横山古墳群は、琴平山古墳を盟主墳とする全18基で構成されている。 11〜15号墳は琴平山古墳に先行する木棺直葬の円墳で、武器や玉類 13号墳では乳文鏡、14号墳では珠文鏡が出土 (続古墳辞典から) |
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横山1号墳 琴平山古墳南の道路沿いにある。道路の反対側に石室が開口。
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その他の墳丘
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横山古墳群のさらに谷を挟んだ東側に丸尾山古墳群(3基)、南側には石取場無古墳群(2基)がある。
開発のために琴平山古墳は調査されたというが、古墳だらけで開発が止まった?
現在はかなりの山あいの地域だが、大きな古墳があって驚きだった。
この西約10kmらは、奈良県の三陵墓古墳があるから、大和の文化が入ってきてたのかな……
上山古墳群 ウエヤマコフングン |
名張市夏見春日丘団地 春日丘4号公園 撮影日2023/11/24 12:01 |
琴平山古墳から、北東へ約5kmの上山古墳群へ。
芝出古墳群、奥寺古墳群などをすっ飛ばして、春日丘団地の上山古墳群まで来てしまった。
整備されている上山13号の見学。
団地内の春日丘4号公園内に13号墳が移築保存されている。
上山古墳群は 14基確認されている。13号墳が公園に移築保存されている。 上山13号墳は 直径12mの楕円墳 馬蹄形の周溝がある。 横穴式石室は全長6mの右片袖式。石室内には組合せ式箱型石棺も復元されている。 土師器、須恵器、銅芯金張の耳環、棒状かんざし・金銅製花形飾りなどが出土。 7世紀中ごろの築造と推定されている。 |
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13号墳道路から13号墳を見下ろす |
13号墳墳頂の石材は何? |
13号墳墳丘 |
13号墳石室入口 入れない |
13号墳石室内部 |
13号墳箱式石棺が2基!石棺の説明がない |
説明板から |
上山古墳群は他にもいくつか現状保存されているようだ。
吉野家165号線名張店(名張市夏見坊垣)にて昼食。
伊賀谷を抜ける前に、もう一つ見学。
伝・息速別命陵墓(西法花寺古墳) 陵墓参考地 |
伊賀市安保 撮影日2023/11/24 13:00 |
陵墓参考地となっている古墳見学。
美旗古墳群の東約3kmの前深瀬川東の段丘上にある古墳。
西法花寺古墳(ニシホッケジコフン)・伝息速別命(デンオキハヤワケノミコト)陵墓は 第11代垂仁天皇の皇子である息速別命の墓として宮内庁が管理している。 一辺35mほどの方墳で、横穴式石室をもつと考えられている。 周辺の田畑から埴輪片が出土。 5世紀末〜6世紀初頭の築造と推定されている。 息速別命は 第11代垂仁天皇と、 丹波道主命(タンバミチヌシノミコト)の娘の薊瓊入媛(アザミニイリヒメ)の間に生まれた皇子である。 『新撰姓氏録』によると、息速別命が幼少の時、 父天皇により伊賀国阿保村(現・三重県伊賀市阿保周辺)に命のための宮室が築かれ、 同村が封邑として息速別命に授けられたという。 (ネット検索) |
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墳丘 |
陵墓参考地にある御触書 |
すき間からのぞくと、墳丘が見える。 |
方向を変えて見た墳丘 |
築造推定年代からみて息速別命の墳墓ではない?!
そばを流れる前深瀬川は、いずれは淀川となる!
聖武天皇 阿保頓宮阯 アオトングウアト |
伊賀市阿保 撮影日2023/11/24 12:01 |
伝・息速別命陵墓の東の山を登ったところにある。
聖武天皇 阿保頓宮阯は 聖武天皇が行幸の際に豪雨に遭い一夜を明かしたという頓宮跡。
中世の頃には伊賀国阿保城となって、城跡として史跡となる。。 |
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道路沿いにある案内板 |
阿保頓宮阯 |
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「史跡 阿保頓宮址」 |
息速別命を祀る神祠 |
伝息速別命のすぐ北にある国道165号線で、津市へ向かう。