北村さんちの遺跡めぐり
更新日2025/2/20

2024年尾張国の遺跡めぐり
その2 扶桑町 犬山市 大口町 江南市
撮影日2024/11/23〜26

2024/11/23 午後
一宮市浅井古墳群の後、東の丹羽郡扶桑町へ。

付近の地図g

船塚古墳
町史跡
丹羽郡扶桑町高雄定松郷
撮影日2024/11/23

神社として祀られている。駐車場なし。

 船塚古墳は  前方後円墳で、前方部は削り取られ、後円部のみが残る。
 6、7世紀ごろの築造と推定されている。
 明治時代には前方後円墳の姿が見られ、墳上の弁財天社があった。
 古墳の管理ができていなかったが、
  船塚神社をこの地に遷座することで、古墳の管理保存をすることにした
  と船塚神社の由来に書かれている。

西から見る
鳥居の東横に後円部がある。

南から見る

前方部をスパっと削って、
道路が通っている


石垣の下に
 石室石材らしき石が埋もれているが
  写真にはうまく写ってない。
説明板から

航空写真で見ると丸い後円部が確認できる。

長泉塚古墳
県史跡
丹羽郡扶桑町高雄中屋敷
撮影日2024/11/23

舟塚古墳の東約500m、公園に保存されている。

 長泉塚古墳は  基底部29m×21.3mの円墳 高さ3.3m
 高さ1mほどの基段の上に、2.3mの幅を残し、
  さらに高さ3mほどの上段の墳丘を積み上げた2段築成
 溝の痕跡あり
 犬山扇状地の低台地につくられている

南西から見る

高さがある墳丘

東から見た墳丘
説明板から

段築のテラスが広いので、円墳の上に円墳を重ねた「上円下円墳」という呼び方をしている資料もある。

(五郎丸)神明社古墳群 犬山市五郎丸新田組
撮影日2024/11/23

五郎丸神明社境内にある。
東側の入口の両側に高まりがあるが、右側(北)の高まりは古墳ではない?
犬山市。

 神明社古墳群は 元6基、現存するのは2号墳だけ。
 東の入口南側に高まりがある。
 道路で少し削られている。

2号墳だけ現存
枯れ木の奥に高まりが残る

残った高まり

五郎丸神明社

境内社 八龍社

境内にある高まり 古墳跡か?

2号墳の北側の高まり
いかにも古墳だが?古墳ではないらしい……

 詳細不明……  

羽黒城(羽黒城屋敷)古墳 犬山市羽黒摺墨
撮影日2024/11/23

羽黒城は古墳の前方部を利用して築城されたという。
平地の独立丘陵に築かれている。 犬山市。

 羽黒城(羽黒城屋敷)は 
  1201年ごろ(鎌倉時代・建仁元年)梶原景親が築いたのが始まりといわれ、
 織田信長に仕えて羽黒300石の領主となった景義(景親から数えて17代目)の代まで、
   約380年間梶原氏の居城として栄えた。

 1582年、本能寺の変で景義が殉死し梶原家が断絶し、城も廃城となる。
 1584年、(天正12)の小牧・長久手の戦いの際には、
  前哨戦の羽黒合戦で、羽黒一帯は戦火で全てを焼失、
  その後城跡は羽柴秀吉によって砦として改修されたが、終戦とともに城も荒廃した。
 2012年(平成24)の発掘調査で堀跡、土塁跡が確認され、墨書土器などが出土した。
 古墳の痕跡を示す遺構は確認されていない。

 古代(奈良・平安)の瓦が出土したので、中世以前に瓦葺きの建物が存在した可能性がある。
      (現地 羽黒城の説明板から)

興禅寺の北側に羽黒城の土塁が残る

塀の中から見る
 羽黒城(羽黒城屋敷)古墳は 全長80mの前方後円墳と考えられている。
 葺石や埴輪などは発見されていない。
 羽黒城跡は、前方後円墳の前方部を利用したものと推定されている。

後円部側  右にあるのは羽黒城説明板

くびれ部脇から後円部を見る

後円部墳頂の石碑「羽黒城址 愛知県」

後円部から前方部を見る

くびれ部から前方部を見る

前方部から後円部を見る

前方部脇から後円部を見る

後円部脇から前方部を見る
説明板から

      

善光寺塚古墳
町史跡
丹羽郡大口町上小口1丁目
撮影日2024/11/23

北から行けるのかと思った。
周りから見えているが、墳丘に上がるには、南の民家の間の狭い隙間から行くしかない。
大口町。

 善光寺塚古墳は  直径27m・高さ3.5mの円墳
 3段築成か
  木曽川左岸の台地上に立地する後期の古墳と推定されている。

南から見る

墳頂

墳頂から北麓を見る 工場の駐車場がある。

墳頂から南の通路(上り口)を見る
説明板から

       

白山古墳群・仁所野遺跡
町史跡
丹羽郡大口町下小口1丁目
撮影日2024/11/23

白山神社から白山ふれあいの森にかけて、古墳と台状墓や周溝墓が確認されている。
東と西に公園の駐車場がある。

 仁所野遺跡
 弥生時代から古墳時代の墳墓群
 濃尾平野の北東部にあり、
  犬山扇状地という地形に立地している。
 西にある段差は、
  木曽川由来による河岸段丘の名残りで
 仁所野遺跡の墳墓群は、
  河岸段丘の縁に、南北に伸びている。
  西側は低湿地が広がっている。

 白山神社本殿が前方後方墳の1号墳。
 白山ふれあいの森の中に墳墓3基と
   円墳の5号墳・6号墳がある。
            (6号墳は消滅)

 墳丘墓は発掘調査されたが、古墳は未調査

 説明板は充実している。


 白山第1号墳
 全長70mの前方後方墳
  (現存長49m 後方部32.5m・幅25.3m・高さ4.1m 前方部16.5m・幅18m・高さ1.6m)
 南側(拝殿)が前方部、一段高い北側(本殿)が後方部とされている。
 発掘調査されてないので詳細不明。
 犬山扇状地で、一番古い古墳の可能性が高い。(説明板から)

白山神社1号墳 横から 右に後方部

前方部脇から後方部を見

前方部側

前方部から後方部を見る

後方部側

白山ふれあいの森の中の北のほうにあるのは、5号墳。  

 白山第5号墳
 円墳
 墳頂に、金毘羅権現
を祀っているお社がある。
 直径約20mの円墳 高さ2.5m
 発掘調査が行われていないので、詳細不明

墳頂の金毘羅権現

6号墳は消滅しているらしい。

 墳墓群は3基確認されている  方形周溝墓2基・方形台状墓1基
  1982年(昭和57)に発掘調査
 第1号方形台状墓 (旧2号墳) 径9m・高さ1m
 発掘調査で、周溝や周囲に土壙が確認された。  (説明板から)

第1号方形台状墓

墳丘中央に「山神」の石碑が祀られている。
 第1号方形周溝墓 (旧3号墳)
 現状では墳丘は確認しにくいが、発掘調査では、墳丘の盛り土と周溝の一部が確認された。
 当時の地表面から、弥生時代中期の土器が出土した。  (説明板から)
 第2号方形周溝墓 (旧4号墳)
 現状では墳丘が確認しにくいが、発掘調査によって墳丘の盛土と周溝の一部が確認された。
 周溝から多くの土器が出土し、墳丘をつなぐ陸橋と思われる箇所もあった (説明板から)
  

  
周溝から出土した土器は、
 弥生時代後期に濃尾平野を中心とした
 伊勢湾岸全域に分布する
 「パレススタイル土器」と呼ばれるもので、
 文様と赤彩が織りなす造形が特徴的
変わった形の土器や、
 底部に孔をあけた壺など
 実用的なものではない 
  (説明板から)

「パレススタイル」土器という言葉は、福井県鯖江市の王山古墳群で出てきたなぁ。  

大日塚古墳
町指定史跡
丹羽郡大口町大屋敷2丁目
撮影日2024/11/23

南側斜めの道路より入る 駐車できる。

 大日塚古墳は  東西径23m・南北径25m 高さ3mの円墳
 墳丘上部は削平され、東側の裾も崖状に削られているので、
   現状よりも規模が大きかったと考えられている。
 未調査なので、詳細不明
 古墳時代後期に属する円墳と考えられている。
 すぐそばにも別の墳丘があるが、前方後円墳か?

南から見る

東から見る

墳頂

墳頂の丹羽氏の由来の石碑
説明板から

大日塚古墳の西側の古墳らしい高まり

大日塚古墳から見る
前方後円墳のように見えるが……


 

しょうねん塚古墳
町指定史跡
丹羽郡大口町大屋敷3丁目
撮影日2024/11/23

 大日塚古墳は五条川の沿岸、このしょうねん塚と、次に見学する桜塚も五条川の沿岸にある古墳だ。

  しょうねん塚古墳は   東西約15m・南北約13m 高さ約2mの円墳
  かつては、南側の裾に石室に使用されたと思われる大きな川原石が露出しており、
   横穴式石室の一部と推定されている。

低くなった墳丘  
「正念塚」と刻まれた石碑がある

積石塚のように見える 
石室の石はどれかな?
説明板から

   

桜塚古墳
町指定史跡
丹羽郡大口町大屋敷3丁目
撮影日2024/11/23

古墳周辺が再開発なのか、そこらじゅう工事中で、徒歩じゃないと近づけなかった。
桜が咲くので、桜塚!

 桜塚古墳は   直径14m・高さ2.5mの円墳
 昭和初期に村の青年らによって発掘が行なわれたが、
  河原石が積まれていたのみで出土品は無かったとされる。
 河原石が石室の類であったのかは不明。
 奈良時代の終わり頃に訪れた行者が、杖に使っていた桜の枝をさしたところ、
  根づいて一重と八重の花を咲かせたという。(大口町史から)

2本の桜が咲くようだ

きれいな円墳

「おおぐち観鋭桜(カンエツザクラ)」

五条川堤のソメイヨシノの後継者として
 大口町茅内のエドヒガンの冬芽を
 クローン技術で培養した桜を植樹してある。
説明板から

  

富士塚古墳
市史跡
江南市南山町東 
撮影日2024/11/23

古墳よりも、古墳の上にある「富士塚の碑」が有名なようだ。

 富士塚古墳は  前方後円墳といわれている。現状は径30mほど、高さ6.5m
 東に前方部があった
 墳頂に「富士塚の碑」がある。
 未発掘だが、畑地化された前方形地帯から埴輪や須恵器、土師器などが出土した。
 5世紀末の築造と推定されている。

北から見る

西麓から階段がある。

後円部から前方部方向を見る

墳頂から南麓を見る
 「富士塚の碑」
 天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際には
  東軍の将・徳川家康が生駒屋敷(小折城)を訪れた時、
  織田信雄とともに富士塚に登って西軍・豊臣秀吉の陣形を見渡した場所。

 のち、この地に生駒家6代目の利勝(5代利豊の養子)が、
  初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、
  天和2年(1682)2月、林羅山の孫の信篤に碑詞を依頼し、
   六角の石碑に刻んで亀形の台石の上に立てた。

 別名「お亀塚」ともいわれている。            (説明板・江南市HPから)

富士塚の碑
 六角形の面に、生駒家の由緒や武勲が刻まれている
碑は高さ311cm

  

白木古墳 丹羽郡大口町豊田1丁目
撮影日2024/11/23

富士塚古墳の南東約400m。

 白木古墳は  東西の径12m・南北の径10mの円墳 高さ2m
 墳頂に数基の石塔があったが昭和45年頃一部が削平された。
 墳丘上に墓石あり。
 付近には弥生時代後期から古墳時代へかけての遺跡があり
   古墳への関連性が想像されている。       「大口町史」より

北から見る

南から見る



現代の墓地になっている。

   

神福神社古墳 丹羽郡大口町豊田2丁目
撮影日2024/11/23

白木古墳の東約500m。墳丘上に社殿がある。

 神福神社古墳は  全長54mの前方後円墳  前方部を西北に向ける
  後円部径約31.2m、前方部長さ約23m、幅約30m
  くびれ部の上面の幅9m、基底部で約16m、前方部の高さ3m
  後円部に近づくにつれてやや低く傾斜している。
 後円部は江戸時代に壊されたらしく、
  南北に約19m、東西に8mの幅で深さ約4mほどえぐられている。
    「大口町史」より 

前方部脇から後円部を見る (社殿裏か)ら

前方部から後円部を見る

後円部端残存部分

後円部の大穴

南から見る 左・前方部  右・後円部

円墳だというデータもあるが、どうなのでしょう……

曽本二子山古墳
市史跡
江南市曽本町二子
撮影日2024/11/23

神福神社古墳の南約700mにある。
江南市。

 曽本二子山古墳は  全長60mの前方後円墳  前方部が西北にある。
  後円部直径35m・高さ7m  前方部幅52m・高さ4m。
  標高15mの水田地帯にある。
  周溝があったと考えられている。

後円部を横から見る 左に前方部

後円部から前方部を見る

後円部墳頂 水準点だそうだ

前方部から後円部を見る

北西から見た墳丘 大きな説明板がある。
 説明板から
 犬山扇状地の末端、標高約15mの水田地帯にある。
 5世紀末の築造と推定されている。
 前方部が西北にある前方後円墳
 明治20年ごろ、考古学者の柴田常恵氏は
 「この古墳は二子塚または弁慶塚と呼び、周囲は水田に囲まれていて堀はないようだ。
  先年まで1個の円墳が二子塚の右35mにあったが今は破壊されてない。
 左にも円墳らしい畑が残りたぶん陪塚だろう」と報告している
 発掘は寛永2年(1849)と明治20年(1887)の2回にわたり、
  金環、玉類、刀、馬具(轡・鐙)、須恵器などが出土している。
 馬具は東京国立博物館に収蔵されているが、その他の出土品の所在は分かっていない。

墳丘実測図

出土した馬具 鏡板  鐙の一部

実は5時過ぎていて、暗い……

早目だが、吉野家一宮妙興寺店で夕食
ピアゴ妙興寺店で、明朝食を準備して、「ビジネスホテル サカイ」(一宮市妙興寺1丁目)にチェックイン

岩崎城古墳(日進市) へつづく

トップページ