北村さんちの遺跡めぐり
更新日2025/1/30

2024年愛知県尾張国の遺跡めぐり
その1 一宮市
撮影日2024/11/23〜26

整備された志段味古墳群を見たいと出発!
2024/11/23 6:13 自宅 発
6:17徳光IC - 7:30(〜45)杉津PA - 8:21米原JCT - 8:49愛知県入り - 8:49一宮西IC

午前9時過ぎに真清田神社に到着。

一宮市の地図g

真清田神社 一宮市真清田1丁目2番1号
撮影日2024/11/23

尾張国一宮。一宮市の地名の元になっている神社。
東側から入ると、境内に駐車場があった。

 真清田神社(マスミダジンジャ)は、尾張国の一之宮として2600有余年の歴史を持つ神社。
 御祭神は天火明命(アメノホアカリノミコト)。
 建物は戦災で焼失しているので、戦後再建されている。 
 本殿・渡殿は平成18年に文化庁より国の登録有形文化財に指定された。
 
正面
 
楼門
 
社殿
 
社殿を横から見る
  服織(ハトリ)神社 (真清田神社摂社)
真清田神社の隣にある、
縁結びや恋愛成就にご利益のある神社。
真清田神社の主祭神「天火明命」の母神
 「萬幡豊秋津師比賣命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)」
  を祀る。
この神様は、七夕伝説の「織姫」と同一と
 考えられていて、縁結び・安産の神様として
 信仰を集めている。 
七夕まつりが行われている。

  

今伊勢車塚古墳
市史跡
一宮市今伊勢町本神戸目久井
撮影日2024/11/23

真清田神社の北約2km。今伊勢小学校の東にある。
前方後円墳だが、後円部のみが残されている。

 今伊勢車塚古墳は 推定全長70mの前方後円墳  後円部径34m・高さ4m
  木曽川の小支流、日光川の右岸標高8mの台地上にある。
 1800年(寛政12)松平定信の「集古十種」、
  1816年(文化13)津田正生の「尾張国地名考」などの文献に記載がある。
 発掘調査はされていないが、
  1789年(寛政元年)洪水のため古墳の一部が崩壊し中から遺物が出土した。 
 5世紀前半の築造と推定されている。
  前方部があったと思われる墳丘の東側は大きく削られて崖状になっている。
  江戸時代に洪水で墳丘が崩れ、銅鏡三面などの副葬品が出土し、
   現在一宮市の文化財となっている。       (古墳辞典ほかから)
 
北から見る 左側に前方部があった。
 
北西隅に登り口がある
 
後円部
 
後円部頂
 

後円部から登り口を見下ろす 
 説明板から
 車塚古墳出土品 (説明板から)
  捩文鏡1面(直径10.2cm)、 半円方形帯変形四獣鏡1面(直径13.7cm)、
  大勾玉2個(長さ4.7cm)、 管玉18個(長さ1.2cmほか)、 棗玉4個(長さ1.2cmほか)、
  鉄製品(鉄鉾16.5cm・鉄斧13cm)、 異形鉄製品15.5cm
 

   

上町屋古墳 一宮市今伊勢町馬寄上町屋
撮影日2024/11/23

今伊勢車塚古墳の北約300mにある。説明板は見当たらない。
道沿いに秋葉社という小さな神社があり、その北側奥に墳丘がある。

 上町屋古墳( カミマチヤコフン)は 径12m以上の円墳とされている。
 川原石積みの石室があった。1939年に調査。  
 
秋葉社の左奥に墳丘が見える。
 
墳丘は低くなっている。


墳丘上の白山社のお社

  (祭神は菊理姫命) 

横穴式石室の石材が露出しているらしいが、わからなかった。

西宮社古墳 一宮市今伊勢町馬寄西更屋敷
撮影日2024/11/23

上町屋古墳の東約200m。住宅街の中に墳丘が残る。
説明板は見当たらない。

 西宮(サグチ)社古墳は 現状で25×9mの大きさ
  明治41年の調査で須恵器が出土。
 7世紀の築造と推定されている。  
 
西から見る
 
南から見る
 
墳丘上に小祠 「西宮社」。祭神は大国主命
 
北から見る

 

石刀(石戸)古墳
石刀神社
一宮市今伊勢町馬寄石刀
撮影日2024/11/23

石刀神社(イワトジンジャ)本殿の下に古墳がある。
石刀神社には、
 市指定文化財工芸の「経筒」「懸仏」「釣燈籠」、有形民俗文化財の「石刀神社祭礼用山車」
 県指定文化財無形民俗文化財の「石刀祭」がある。

 石刀(石戸)古墳は  石刀神社本殿の下にある古墳
  直径20m以上の円墳と言われている
 本殿造営の際に頂部が破壊されていて、詳細不明。

御神橋からみた石刀神社境内 

鳥居 

動物画家 筧恒平さんの干支画

社殿  御祭神は「天手力男神(アメノタヂカラオノカミ」)

周りより一段高いところに社殿が建つ 

これが古墳の高まりか 

文化財の説明板は3枚あるが、古墳についての記述はない。

伊冨利部古墳
市史跡
一宮市木曽川町門間字北屋敷
撮影日2024/11/23

伊富利部神社(イブリベジンジャ)境内に古墳がある。
本殿の南東にあり、墳丘上には祠が祭られている。
伊富利部神社には、ホームページがある。

 伊富利部神社の御祭神は 若都保命(ワカツホノミコト) 
 応神天皇(おうじんてんのう)
 当地の豪族伊福部一族が祖神である若都保命を創祀したのが起源。
 当社には現在境内に八社、境内外に一社(若宮社)、計九社の末社がある。
 若宮社・貴船社・浅間社・天神社・春日社・厳島社・福徳龍神社・神明社・稲荷社

西側の鳥居 

社殿 

境内社
 福徳龍神社 左・諏訪社、右・厳島社 

 境内社
 神明社

 赤い鳥居のトンネルを抜けた先に、 境内社 稲荷社がある。

 

 伊冨利部古墳は 径20m・高さ4mの円墳
  古い絵図にも描かれているが、詳細不明
 古墳山頂に3社の境内社がある。浅間社・天神社・春日社

墳丘

登り口

頂部に摂社・浅間社

左下から 摂社、春日社・天神社・浅間社
説明板から

説明板の絵図には、古墳に「富士」と書かれているようなので、富士塚として信仰されていたのもしれない。

富塚古墳
市史跡
一宮市富塚郷中
撮影日2024/11/23

住宅地の中に墳丘が残る。

 富塚古墳は 径30m・高さ6.6mの円墳
  南側に3.6×14.2mの造り出しがつく。
 3段築成
 周囲に周溝がある
 墳頂に小さな祠があり、その土台が残る。

東から見る

南から見る

3段築成!?

頂部には小さな建物の土台が残る

墳頂から造り出しの方向南を見る

造り出し側から墳頂を見る
説明板から

  

浅井神社古墳 一宮市浅井町東浅井北屋舗裏
撮影日2024/11/23

社殿は古墳(浅井神社古墳)の上にあり、金環鉄鏃などが発掘されている。

 浅井神社古墳は 墳丘の規模や形は不明
  社殿が建つ石積基壇の東側は古墳の横穴式石室を破壊してつくられている
 石室は本来は全長7.3m・幅1.2mの複室構造、 3mほどの墓道が付く。
 昭和38年に玉垣改修の際に、須恵器、金環、鉄鏃等が出土
 調査の結果、7世紀中頃と後半の二回埋葬されたと考えられている。

旧浅井町の鎮守様なのか

基壇の東側にとび出ている石は石室側壁?
石室はこの下に埋没している!?

奥壁のような石が見える

ここが石室か……想像力を豊かにして

石積みからはみ出した石材は、
 墳丘裾の列石と考えられている


現在の石積み基壇は削平された上に
  新たに築かれたものだそうだ。
浅井神社古墳の説明は
  この石柱に刻まれている


「古来、この地に温故井の伝説あり
 昭和38年9月
 東浅井区民による玉垣改修の際石積みが現れ
 一宮市史編纂委が区民の協力で発掘す
 横穴式石室の古墳であり、
 須恵器、金環、鉄鏃等が出土す」

  

愛宕社古墳 一宮市浅井町西海戸形人
撮影日2024/11/23

浅井神社の北約500mの県道沿いにある。

 愛宕社古墳は 元は大型の円墳だったが、1955年頃に方形の石垣基壇に改変された。
 墳丘上に社殿が建つ。。詳細不明。



道路沿い南側に鳥居がある。

南から見る

東から見る

  

浅井古墳群 一宮市浅井町尾関
撮影日2024/11/23

愛宕社古墳の北約1.2km、浅井古墳群がある。

 浅井古墳群は 
  尾張平野の北部、木曽川の南岸に近接した位置にあって、
   かっては数十基の円墳や前方後円墳が遺存していたが、現存するのは13基。
   1、4、10、14、20号墳が県指定史跡となる。
 形が判明している古墳では
 1号墳(小塞神社古墳)・20号墳(愛宕塚)・21号墳の3基は前方後円墳で他は全て円墳
 昭和33年(1958)〜35年(1960)にかけて調査された8基の円墳は
  いずれも主体部は横穴式石室
で、
  7世紀後半〜末の築造と推定されている。

(毛無塚古墳の説明板から)

 名前   大きさ   
浅井1号墳 
小塞神社古墳
 前方後円墳 全長31m     県史跡
 浅井2号墳 円墳      
 浅井4号墳
桃塚古墳
円墳  径20m    県史跡
浅井 10号墳
毛無塚古墳
円墳  径38m    県史跡
 浅井14号墳
岩塚古墳
円墳 不明  横穴式石室は全長8.2m  県史跡
 浅井18号墳
人麿塚古墳
円墳  径8m  横穴式石室4.2m×2.1m  石碑のみ
 浅井20号墳
愛宕塚古墳
前方後円墳 不明    県史跡
 浅井21号墳 前方後円墳     現状は墓地
 浅井31号墳 円墳  径8m   
見学した古墳のリスト
ほかにも残っているようだ
説明板から (岩塚古墳そばの説明板)

 小塞神社の東側に、神社駐車場がある。

 小塞神社古墳(オゼキジンジャコフン)  (浅井1号墳) 県史跡
 全長31mの前方後円墳、後円部径14.5m・高さ2.5m  前方部幅17.4m・高さ1.3m
 現在は後円部上が削平され、社殿が建てられているが、
  墳形は良く残る。
小塞神社

後円部側

後円部

前方部から後円部を見る

後円部から前方部を見る

後円部脇から前方部を見る
 小塞神社境内には、2号墳もある。


浅井2号墳

1号墳の東隣りにある径13mの円墳
墳丘上に祠がある。


 その南には、24号墳がある。(わずかな高まりがある程度)

    

 桃塚古墳 (浅井4号墳) 県史跡
 径20mの円墳 高さ1.5m。
 石碑と説明板がある。
 原形をとどめていない。

南側道路から見る

西南から見る
説明板から

   

 毛無塚古墳 (浅井10号墳) 県史跡
 盟主墳で、径38mの大型円墳 浅井古墳群の中で最も大きい。
 周溝あり 葺石あり 埴輪あり。

北西から見る

墳丘上から北を見る

墳丘上から西を見る

東から見る
説明板から

介護施設前に保存されているのが、岩塚古墳

 岩塚古墳 (浅井14号墳) 県史跡
 墳丘の規模は削平されていて不明だが、横穴式石室基底部が残る
   石室は全長8.2m
 玄室に家形石棺がある。
 石棺の手前には木棺が置かれていたと考えられている (鉄釘が出土)
 家形石棺の実物は、一宮市立博物館にある。

全景

石棺の手前には木棺があった。

奥壁側から入口側を見る 現地の石棺はレプリカ

石室を横から見る
 説明板から
岩塚古墳の説明石碑
 「浅井古墳群は、もと50基あまりの古墳が群集している。
  岩塚古墳はなかでも、
   内容がわかる数少ない古墳の一つである。
  盛り土は開墾のため古くから破壊されて大きさは分からないが円形であろう
  なかは大きな岩石で組んだ矩形の墓室の前に立石を並べて通路にし
   墓室は床に平らな川石を敷き詰め
   中央に凝灰岩を刳りぬいてつくった家形石棺を安置している
  また前の通路にも木棺に入れた遺骸の葬られていたことが鉄釘の発見によってわかる
  そして石棺の前後に
   長頸壺、平瓶、□、坏、鉄鏃、刀子などの供献に用いた遺物がたくさん発見された
 墓室と通路の間にある巨石は石室を破壊したときに取り残した天井石の一つであろう」
   (□の中には という字が入る)

31号墳は、寿福寺の北隣りにあるが、寿福寺からは行けない。北の道路側から入る。

 浅井31号墳
 径8mの円墳  詳細不明

墳丘が残る

小さな円墳?  8mよりも大きく見える……

愛宕塚古墳は、寿福寺の北側の宅地の間の狭い通路から、古墳前に行く。

 愛宕塚古墳 (浅井20号墳) 県史跡
 元は前方後円墳で、現在は削られて石垣で固められていて、墳丘の一部が残る。

南側からの通路 徒歩で

窮屈そうな墳丘


北から見る
塀に阻まれてそばには行けない……


小さくなり、石で固められた墳丘

人麿塚古墳は、内容が分かっているが、墳丘は県道工事で消滅した。
河田公民館のそばに石碑が立っている。

 人麿塚古墳 (浅井18号墳) 
 古墳は50m東の県道工事で消滅。
 径8mの円墳
 主体部は4.2m×2.1mの横穴式石室に組合せ式石棺がある。

石碑が立つ
左奥は河田公民館

説明石碑がある
 説明石碑の内容
 「人麿塚古墳
  昭和8年、東側の県道建設工事のときに発見された。
  円墳と考えられ河原石積みの石室内に
   凝灰岩製の組み合わせ式家形石棺を安置する。
  石棺石棺内部から鉄鈴・玉類・馬具類が、
   石室と石棺の間から須恵器・土師器・金銅製雲珠が出土した。
  古来河田の四ツ塚と称するものの一つで葉栗臣人麿の墓と伝えられる
  当時の関係者の尽力により現在地に移転・保存された。
  出土品は散逸したものもあるが、一宮市博物館に展示、保存されている。
    平成4年3月 一宮市観光協会    」

 LOWSON浅井尾関店にて昼食。

船塚古墳 (愛知県丹羽郡扶桑町) へつづく

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